曙をまちわびて
時が止まったかのような静けさに、ふと、何事かを感じて少女は目を覚ました。
寝台から見える窓の外はまだ暗い。月も星もここから出は見えないが、黒曜石を溶かしこんだような暁闇がそこにあり、少女の双眸にも同じ色があった。
じきに東の空に光が射すだろう。旭光の囁きが少女を呼び起こしたのかもしれない。
体に感じる痛みは情熱の名残だ。気だるさが心地好くもある。
長い黒髪を枕辺に流している少女は、一度目を瞑り、それからゆっくりと瞼を持ちあげた。少女は夜目が利く。二、三度瞬きをして、部屋の様子を窺った。そうしてすぐに自分の顔のすぐ近くにある、自分のものではない手に視線を落とした。
背後から少女を包み込むようにして抱いている青年を起こさぬよう、息をひそめた。青年の安らかな寝息を感じて、ホッとする。振り返らず、腕枕をしてくれているその腕と手とを見つめ、少女はくすぐったい気持ちになる。心がほんのりと温かくなって、初秋の空気の冷たさが心地好く感じられた。
天蓋つきのひろい寝台で、少女と青年は、一糸まとわぬ姿で横たわっている。寝乱れたシーツが昨夜の行為の激しさを象っているようだった。思いだして、少女は頬を熱くする。けれど、その気恥ずかしささえ、少女に安心感をもたらしてくれた。
(あったかいな……)
上質の掛け布団のおかげももちろんある。けれど、青年の肌のぬくもりが直に伝わってくる悦びが少女を温める。頭の芯がくらくらしてしまうほどの、熱だ。
森の魔女と呼びならわされている少女は、ふだんは人の訪れも少ない森の奥の舘でひっそりと過ごしている。養い親でもあり、魔法の師匠でもあった先代の「森の魔女」から譲られた森の舘には、やはり先代から引き継いだ眷属がいる。ネズミの姿をした魔女の眷族が、今では少女の唯一の「身内」だ。
ひとりぼっちになってしまったと、寂しく思っていたこともあった。
が、今は違う。
眷族のリフレナスがいてくれて、「ひとりぼっち」では決してなかったけれど、それでも心の奥底に自分ではどうしようもない人恋しさがあったのだと、恋を自覚して、心の内に巣食っていた寂寥感を悟った。
それを拭ってくれたのが、いま、自分を抱きしめてくれている青年なのだ。
抱きしめてくれる腕の温かさと、強さ。
少女はそうっと腕を伸ばして、亜麻色の髪の青年の手に触れた。
白くて細い、綺麗な手だ。男性らしい骨っぽさはあるし、少女の手よりもずっと大きい。
亜麻色の髪の青年は、少女の黒髪をひどく愛して、その手に絡め取っては口づける。
「君の何もかもが愛しいよ」などと、聞いているこちらが赤面してしまう台詞をさらりと言って。
「王子ってば、どこでそんな台詞を憶えてきたんですか」
などと、拗ねたことを言っても、
「心に思うことを正直に言葉にしているだけなのだけどね?」
と、艶麗な微笑で返されて、少女はさらに赤面してしまうのだ。
青年の父は、相当な艶福家であるらしい。その血を色濃く受け継いでいるんですね、とはさすが少女も口にできない。そのような皮肉はあまりに不敬すぎるし、それが青年を傷つけてしまいかねないことも、弁えている。
青年の父は、国王なのだ。
現国王の実子であり、現在は少女の住まう地の領主の立場にある美貌の青年セレンは、幼い頃から変わらず、穏やかで優しい。そしてひどくさびしがり屋だ。
生い立ちがそういう性格にさせたのだろう。
セレンは、感情的になるということがほとんどない。そのように性格を矯抑されてきた。現国王の庶子という出生が、つねにセレンの枷となり、縛ってきた。
それでもセレンは苦々しい顔をしない。穏やかな笑みの奥に憂いを隠してきたのだ。
セレンの左腕を枕にしている少女は、少しだけ体を動かして、頭を腕からずらした。腕枕をされているのは嫌いではないけれど、セレンの腕が痺れてしまうのではないかと、心配になる。
セレンはまだ目覚めないようだ。規則的な寝息に乱れはなく、少女はホッと胸を撫でおろした。
少女はそっと手を伸ばして、セレンの指に触れる。
左の薬指。撫でてみてもセレンは目覚めない。
華美な装飾品を好まないセレンは、宝飾品で身を飾ることがほとんどない。衣服は上等なものを用意させているが、ごてごてと着飾るのは好きではないらしい。指輪も腕輪も、持ってはいるかもしれないが、身につけているところを見たことがない。
銀や金、緑玉も紅玉も似合いそうなのになぁ。と少女は思い、いざ着飾るセレンを思い描いてみようとするのだが、いざ想像してみると、妙な違和感があり、しっくりとこない。
そもそもセレン自身の煌々しい美貌が宝玉そのものなのだから、無駄に飾り付ける必要はないだろう。
白皙の面貌に亜麻色の瞳と髪、やわらかな声音と典雅な雰囲気、セレンは天稟に恵まれている。美しいのは容姿だけではない。セレンの穏便さと聡明さは領民たちにもあまねく愛され、信頼されている。
(王子は、わたしだけの王子じゃない)
少女はそんなことを時折思い、少しだけ淋しさを感じたりもする。
以前は知らなかった感情だ。
婚姻の証に指輪を贈る風習があることを、少女はふと思いだした。
少女の住まう土地ではまだ馴染まぬ風習ではあるが、王都ではそういった「流行り」があるらしい。
それにどんな意味があるのか、少女はあれこれと想像を巡らせる。なんとなく魔術めいたにおいを感じていた。やはり少女は「魔女」なのだ。「まじない」としての指輪には、はたしてどんな魔術がかけられ、どんな想いがそこに込められるのだう。
おそろしくもある。
けれど、「いいな」と思ってしまう自分がいた。
それはきっと、セレンを一人占めしたいと思う気持ちから起こる感情なのだろう。
恥ずかしくて怖くて、だけどとても幸せで。
ふわふわと温かな想いが少女を包む。
指輪を贈りたい。
その想いが我ながら怖くもあるけれど。見えない鎖でセレンを縛りたいなどと。
「…………」
少女はセレンの手を引き寄せて、薬指にそっとキスをした。たくさんの想いをキスにのせて。
これくらいならいいかな。
セレンには内緒の魔法。惚れ薬は作れないけれど、……ね?
そして少女は瞳を閉じる。
まだ外は暗く、夜明けには早い。
そういえば、昨夜は言えなかったなと思い、その言えなかった言葉を心で囁く。
「おやすみなさい、セレン」
他愛無い言葉だけれど、幸せな一言。何よりそれは、……――
愛してる。
その言葉の代わり。
ふわりと、空気が揺れる。
再び眠りについた少女を抱き寄せ、艶やかな黒髪を指に絡ませてセレンは囁く。
少女の心の声を聞き取ったかのように、甘く。
「愛してるよ、キラ」
――おやすみ。
キスは、目覚めの時に。




