ふたりしずか 3
結局その日も、魔女はセレンの屋敷に泊まることとなった。
実のところ、帰るつもりはなかった。口をきいてあげない、なんて憎まれ口もきいてしまったが、本心ではなかったし、撤回して謝ろうと思っている。王子も本気にはしていないだろうけれど。それでもこのまま帰ってしまうのは失礼なような気がしたし、後に顔を合わせにくくなってしまうかもしれない。
セレンとゆっくり話をしよう。自分の思っていることを話すだけじゃなく、セレンの心も聞きたい。
とはいえセレンは忙しい。二人きりになりたいと思っても、なかなか都合がつかない。二人きりになれたのは夕食後、夜も更けた頃だ。
湯あみを終えて寝室に戻ったセレンに、魔女は茶を用意した。とにかく自分から話しかけなくてはと、セレンの寝室で待ちかまえていた。
「王子、これ、疲れを和らげる香草茶です」
お仕事お疲れ様と、無難な言葉をかける。
「……ああ、ありがとう」
セレンはやわらかな笑みで応じ、茶を受け取った。
窓辺のソファーに座っているからか、それとも光線の加減か、少し顔色が悪いように見えた。湯あみの後だから茶は冷ましたものにしておいたが、温かい茶にするべきだったかもしれない。
セレンは、「私とは、口をきかないのではなかったのかな?」という戯言も口にしなかった。いつもなら、悪戯っぽく笑って、そうした戯言を口にしそうなものなのに。
セレンが茶を飲み、魔女はその様子をじっと窺う。目が合うとセレンは笑みを向けてくれるが、無理をさせている気がして、何やら申し訳ない気分になってしまう。
執務室にこもり、運ばれてくる書簡に目を通し、サインをするばかりがセレンの仕事ではない。領内の視察のため定期的に出かけ、また何事か問題が起これば、その現場に赴き、現地の民や役人の肉声を直に聴くようにしている。治めている領地の様子を己が目で確かめたい、実際的な性分であるらしい。
セレンは見た目の繊細さに似ず存外丈夫で、健やかだ。今まで大病に罹ったことはない。しかしセレンの母親は生来病弱で、若くして亡くなられた。
「王子、あまり無理しないでくださいね。たまった疲れがどっと押し寄せてくることもあるから。休める時に、ちゃんと休まないと」
「平気だよ、休憩もいれているからね」
「王子の平気って、時々全然平気じゃないような気がするんですけど」
「過信しているつもりはないが、これでも体力はある方だからね。そう……今夜も、君を愛せるほどには」
「もうっ、王子ってば! またそんなふざけたこと言って!」
「ふざけてなどいないんだが」
「王子、顔、笑ってますから!」
魔女は顔を真っ赤にして言い返す。
やっぱり王子は王子で、疲れていようがいまいがさらりと恥ずかしい台詞を言えてしまうのだ。心配して損した、と一瞬腹をたててむくれかけた魔女だが、やはりセレンの体調は気がかりだ。今はもう顔色は悪く見えないが、疲れていないはずはないのだ。
「森の魔女」は、セレンに対して魔法を使うことはほとんどない。健康促進のための薬草茶にも、魔法はほんのわずか加味するだけだ。もともと魔法の力に頼りきらぬ「森の魔女」だが、セレンにはとくに「魔女らしさ」を見せない。無意識のうちだろうか。意図してそうしているつもりはなかったが、あるいは意識しているのかもしれなかった。
いま、セレンの前にいる「森の魔女」は、不器用な少女でしかない。
「……あの、王子」
声を改め、魔女はセレンの横にちょこんと腰かけた。
何から話せばいいのか。言葉がすんなりと出てこず、魔女は口ごもってしまった。本来、言いたいことは躊躇せず口にしてしまう性質の魔女だが、ことセレンに関しては、戸惑うことが多い。
「ほんとに、疲れてませんか?」
「うん。疲れてないとはさすがに言えないけれど、不調を訴えるほどではないよ」
「そう……ですか。なら、いいですけど」
セレンの隣に腰を下ろしたものの、セレンとの間には少しの隙間がある。くっつきたいような、それをはにかんでいるような。微妙な距離感にセレンは首を傾げる。
セレンが茶器をテーブルに置いたのを見てから、魔女は逡巡の末、切り出した。
「王子は、あの……えっと、ですね……王子、こ、こどもって、欲しい、ですか?」
唐突過ぎるその問いに、セレンは思わず亜麻色の瞳を見開き、魔女を見やった。魔女は肩をすぼませて俯いている。長い黒髪が邪魔をして魔女の顔は見えないが、ひどく緊張しているのはありありと分かる。
「……ええっと、その、王子は、この土地の領主様で、その……後継ぎというか、そういうの、必要ですもんね……」
魔女はもごもごと不明瞭に語を継ぐ。セレンの方に顔を向けられないまま、身を縮こまらせて、消えいってしまいそうなほど心細げだ。
「魔女殿」
焦燥感からかもしれない。セレンは魔女の身体を抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
セレンの腕の中で、魔女は身体を硬くしている。抵抗はしない。ただ首を竦めて、セレンの腕の中に閉じ込められている。
「ハディスか……ベリンダあたりに、何か言われた?」
セレンの問いに魔女は首を横に振って答えた。
「べ、別に、何も言われてないです。ハディスさんにもベリンダさんにも」
「本当に?」
「……ほんとです。ハディスさんはいつも親切にしてくれるし、ベリンダさんには励ましてもらったくらいで……」
セレンの察しの良さに魔女はとまどい、口調がうろたえたものになってしまう。セレンに余計な気を回させてしまったと悔いた時には遅く、うまく言い繕えない。
「魔女殿」
魔女を抱きしめたまま、セレンは囁くように語りかけた。
「子どものことは、考えていないわけじゃないよ。君との子なら欲しいと、素直に思っている。けれど半面、まだ早いとも考えている。……矛盾していると、我ながら思うけれどね」
微苦笑をまじえてセレンは語る。魔女の黒髪を指に巻きつけたり撫ぜたり、そうすることで自身の気持ちを落ち着かせているようだった。
言葉は悪いかもしれないが、「覚悟」はしている。そうセレンは語を継ぐ。
欲するがままに魔女を抱き、その結果、子を成したとしても、それが後悔に繋がることは決してない。むしろ喜ばしい。それでも怖れる気持ちはある。「親」になる自分を未だ想像できない。
「王子、でも、わたしは……」
もしかしたら子を成せない体質かもしれない。
だとしたら、王子はどうするのだろう。
子ができることより、できないことの方が、魔女にとっては怖くて辛いのだ。
「わたしがもし……――」
もし「不生女」だったとしたら? それでも王子は、わたしを見捨てずにいてくれるのだろうか。
そんな不安が膨れ上がって、魔女の胸を締めつけてくる。
涙が溢れそうになる。魔女は息を詰め、必死に涙を堪えている。泣いて、セレンをこれ以上困らせたくなかった。けれど縋りついて泣いてしまいたかった。セレンの胸に顔を埋めているしかなかった。
「――キラ」
耳元で、セレンが囁いた。優しく、魔女の名を口にする。
キラはまだ顔をあげられない。名を囁かれて、もっと胸が苦しくなってしまった。
セレンの囁き声が甘くて優しいのがいけないのだ、こんなに胸が切なくなって、ときめくのは。
キラは、セレンの胸元をぎゅっと掴む。一見痩身のセレンの胸が存外逞しいことを、キラは知っている。
「キラ、私がどれほど長く深く君を愛してきたのか、まだ分からないのかな?」
「…………」
キラは頭を左右に振る。顔はまだあげられない。セレンの腕の中で縮こまっている。
「今も、こんなに君を愛しているのに? それも伝わっていないのかな?」
「そ、そんな、ことは……っ」
ようやく、魔女は顔を上げた。セレンの腕が緩められ、二人は顔を見合わせた。
キラの黒眸は潤んで、睫毛もわずかに濡れて滴をおいている。それでもセレンから目を逸らしはしなかった。セレンの気持ちをまっすぐに受け止めている。
ふわりと、セレンは目元をやわらげた。甘やかで艶めいた笑みに、キラはいつも眩暈を覚えてしまう。セレンの微笑にこそ、魔性がある気がしてならない。それはとても優しくて、悦びを伴う「魔性」だけれど。
セレンの瞳はランプの灯りに似ていると、キラは思う。見惚れてしまうのは、美しいだけではなく、思いもかけぬほどの熱さを芯に宿しているからかもしれない。その熱にあてられて、キラの頬に赤みがさす。
「王子の気持ちは、ちゃんと信じてますから」
「うん」
セレンは満足げに微笑み、キラの額に口づけた。キラの双眸にはまだ少しだけ不安げな色が残っている。
キラは、時々こんな風にセレンの気持ちを確かめる。セレンの気持ちを疑ってのことではない。キラ自身に対しての不安がそうさせるのだろう。
セレンは現国王の庶子であり、この地の領主という地位にある。
幼いころから親しんできた間柄とはいえ、キラはやはりセレンに対し、「身分違い」という引け目を感じている。ただの幼馴染みであった頃はさほど気にならなかった。が、恋心を自覚したのと同時に、キラはセレンの立場を改めて考えるようになった。それほど、キラはセレンに対して真剣なのだ。真剣だからこそ、不安もまた大きくなるのかもしれない。
セレンはキラの不安を、そのままに受け止める。そして抱きしめ、口づけ、想いを伝える。キラが安堵するまで、何度でも。
セレンはキラの長い黒髪を宥めるようにして撫ぜる。そして「大丈夫」と、微笑みかけた。大丈夫と、ただ一言だけ。
――君は不生女ではないよ。万が一そうだったとしても、私の気持ちは変わらない。……それを言葉にはしなかったが、セレンの亜麻色の瞳がそれを伝えてくれ、キラは表情を和らげた。
「あの……王子、急に……ごめんなさい。変なこと言いだしちゃって」
「変なことではないよ。私とのことを真剣に考えてくれたのだろう? 私との未来を。だから、キラの気持ちがとても嬉しいよ」
「…………」
改めてそう言われてしまうと、なんとも面映ゆい。
キラは赤くなった顔を隠すため、セレンの胸元におでこをくっつけた。セレンの腕の中はどきどきするけれど、落ち着きもする。もう少しこのまま甘えていよう。
そう思ってゆったりとセレンに体を預けていたのだが、ふと思いだしたように、セレンが尋ねてきた。
「何か他に、私に言いたいことがあったのではないかな、キラ?」
「え? あ、う……それは……」
そういえば、そうだった。
今まですっかり頭から抜け落ちてしまっていた。忘れきっていたわけではないけれど、今からそれを改めて口にするのは、どうにも恥ずかしい。キラはまた顔をあげられない。
言いにくそうにしているキラを気遣ってか、セレンは自分から水を向けた。
「今朝は、君の機嫌を損ねてしまったからね。昨夜、無理をさせすぎたこと、今もまだ怒ってる?」
「……怒ってたわけじゃないです」
少しは怒っていたけれど。体もきつかったし。でも、そういうことじゃなくて。まぁ、それもあるけれど。
頭の中でぐるぐると思いめぐらせ、キラは口ごもる。
昨夜の行為を思いだすと、顔から火が出そうなくらいだ。我ながらあられもないほど惑乱した。
しかしこのまま黙っているわけにもいかず、キラはようやく切り出した。
「……王子、起こしてくれないでしょう?」
「うん?」
キラは気恥ずかしさを抑えて顔をあげた。セレンはソファーの背もたれに寄りかかり、片腕でキラの肩を抱きなおす。
「朝、起きた時、わたしひとりで……。王子、さっさと起きて、いっちゃうんだもの。それが、すごく淋しいなって」
「…………」
セレンは思わず瞠目した。拗ねたように眉をひそめるキラの、なんと愛らしいことか。声を失い、キラを見つめ返す。
「起きた時にね、王子が……セレンがいないの淋しくて、……怖くて。黙って出ていかれるの、嫌なんです。起きた時横にセレンがいなくて、なんだか……突然いなくなっちゃったみたいな感じて……。ベッドも部屋も広いから、余計に淋しさが増すみたいで」
か細い声でキラは語を継ぐ。
「セレンと何もかもを一緒に行動したいっていうんじゃなくて、せめて、おはようって言って、見送りたい。……子どもっぽいこと言ってるのは、分かってるけど……」
置いていかないで。一人にしないで。
初めから一人寝であれば、そんな淋しさを感じたりはしない。共寝だからこその淋しさなのだ。
キラ自身、とまどっている。
こんな淋しさを、今まで感じたりはしなかった。セレンへの想いが募れば募るほど、ひとりの淋しさを知るようになった。いまだ慣れきらぬ甘美な想いに怯えてすらいる。
「キラ」
セレンは声をひそめる。そしてキラの長い黒髪を指で梳き、掬い取って口元に寄せた。草花の香がほのかに香った。
「思い至らずに、淋しい思いをさせてしまっていたんだね」
すまないと謝罪するセレンに、キラは首を左右に振る。
責めたわけじゃない。セレンが悪いのじゃない。ただ、勝手に淋しがっているだけだ。
キラは慌てて言い訳をするが、声が詰まってしまう。
「えぇっと、その、ごめんなさい。なんかすごく我儘言ってるって、自覚はしてるんです。……呆れた……?」
「いや」
セレンは目を細め、艶然と微笑む。薔薇の香でも匂ってきそうな笑みだ。
「嬉しいよ、とても。……ただ少し困ってはいるかな。君の我儘は、愛らしすぎるから」
「……っ」
またしても不意をつかれて、キラは絶句してしまう。
どうしてこう、こちらが恥ずかしくなってしまう台詞を、さらりと言ってしまえるのだろう。セレンの口から発せられる台詞の甘さには、とても太刀打ちできない。
「君が望むなら、黙って部屋を出ていくのはやめよう。一言声をかける。それでいいかな?」
「うん。そうしてくれると嬉しい」
「キラの寝顔を存分に堪能できないのは、いささか残念だが」
「ってことは、寝顔、じっくり見てたの?」
「むろん」
「もうっ! セレンばっかりずるい!」
「起こしてしまうのは惜しいほど可愛らしいのに。けれど、寝惚け眼の君も愛らしいから、これからはそちらを堪能することにしよう」
「もうっ! そういう恥ずかしいことさらっと言わないでくださいってば!」
「恥ずかしくなどないけれどね?」
「わたしが恥ずかしいんですってば!」
羞恥に頬染めて文句をつけるキラが愛らしく、セレンの目尻は自然と下がってしまう。
「君を起こすのは良いとして、体が辛いようなら、無理に起きることはないよ、キラ?」
「……原因はセレンなんですけど」
むぅっとむくれるキラにセレンは笑みを返す。何を言っても甘やかな笑みでやんわりと受け止められてしまい、キラは少しだけ歯がゆい気分だ。でも、心地好くもある。
「それでですね……起こしてくれた後、わたしが二度寝しちゃっても、それは放っておいていいです。それで文句を言ったりはしません」
たぶん、とこっそりつけ足す。
「分かった。きっと、そうなるだろうしね?」
「ううっ、できればそれは避けたいんだけど……。あんまり寝過ごしちゃうのも問題だから、その時は、誰かに声をかけてもらうようにしてもらえたら助かる……かも。寝過ごさないようにするつもりだけど……セレン以外に起こしてもらうの、恥ずかしいし……」
セレンはくすくすと忍び笑っている。事細かに念を押してくるキラが可愛くてしようがない。
「他に何かご要望は? 私の魔女殿?」
「…………」
キラは再びむぅっと口をとがらせる。からかわれたと思ったらしい。ちょっと険しい顔をして見せ、セレンを上目遣いに睨めつける。
その仕草や表情はいかにも幼げな少女らしく、けれどそれがかえって艶おびて見え、セレンを誘っているかのようだ。むろん、当人がそのつもりかは、分からない。無自覚の「誘惑」なのだ。
セレンは笑みを深める。
「もっと君の我儘を聞きたい。きいてあげたい。……これは、私の我儘だけどね? 私の我儘も聞き届けてもらえるかな?」
――そういうの、我儘って言わない。
けれど、セレンらしい「我儘」という気もする。
キラは微苦笑して、小さくため息をついた。
言いたいことはたくさんある。聞いてほしい我儘も。でも、たった一つだけのような気もする。
「それじゃぁ……――」
キラはセレンに抱きついて、思いきり甘えてみせた。
――これからもずっと一緒にいて。
そして、……――
今夜も、うんと甘くして。
セレンは微笑んで、キラを抱きしめ返した。