ほのかに染むる
夕方に降った通り雨の名残だろう。いつになく風が蒸れている。ジージーと虫の音が風に紛れて聞こえた。
今宵は暑い。月もなく、雲間に見える星も蒸れた空気のせいか瞬きが弱い。風はあるものの、背の高い樹木の先端が僅かに揺れるだけで、梢が擦れる音は僅かにしか聞こえなかった。
素肌に触れる空気が湿っぽい。若干の不快感はあったが、気だるくなるほどでもなかった。
首にはりつく亜麻色の髪を片手で払い、白皙の青年は藍色の空を眺めた。
「王子、これをどうぞ」
黒髪の少女が、青年の傍にやってきて、グラスを手渡した。ハーブ水らしい。グラスには、氷室からとってきた氷と薄緑色の葉っぱが一枚入っていた。
亜麻色の髪の青年はそれを受け取り、早速口に含んだ。清涼な香気が口内にひろがる。冷たい水が喉を下っていった。
「美味しいな」
青年がそう言うと、黒髪の少女は嬉しそうに笑う。青年に憩ってもらえるのが、少女にはなにより嬉しいことなのだ。
魔法薬作りの名人として知られ、「森の魔女」と呼称される黒髪の少女は、魔法薬だけではなく、ごくふつうの料理も得意だ。菓子でも、清涼飲料水でも、茶でも、工夫を凝らして作るのが楽しく、それを美味しいと言ってもらえるのが何よりも幸せなのだ。ことに、少女が「王子」と呼ぶ青年に微笑んでもらえるのが。青年の亜麻色の瞳が優しく甘く少女を見つめてくれるが、何よりのご褒美だ。
仕事を終え、老執事の許可を得てから、亜麻色の髪の青年セレンは、森の奥に住まう森の魔女の舘へ夕涼みに来ていた。むろん、夕涼みなど口実にすぎない。夏負けせぬようにと、薬草などをふんだんに盛り込んだ手料理をふるまってくれた森の魔女も、それは分かっている。
若き領主セレンは、森の魔女と呼ばれる恋人に会いに来たのだ。
涼むよりは、熱い一夜を所望した。
ところが、肝心の恋人である少女は、とても疎い。「会いにきてくれた」と、そこで思考が止まってしまう。その通りではあるのだが、その先を求めているのに、何故かしら気付かない。セレンの恋情をすでに身をもって知っているはずなのだが。。
もしかしてわざと焦らしているのかと、セレンは内心可笑しがりながらも疑ってしまう。その可能性はかなり低いが……。
「あのね、王子」
ふいに、少女の手がセレンの腕に触れた。すこし冷たい。氷に触れていたからかもしれない。少女の手の冷たさが心地よかった。
つぶらな黒い瞳がセレンを見つめる。ちょっと小首を傾げて。あどけない仕草だが、艶めかしくもある。
セレンは椅子に腰かけたまま、少女の長い黒髪に手を伸ばした。夜の空よりももっと黒く、黒曜石を溶かして染めた絹糸の柔らかさと滑らかさだ。セレンは、少女の髪に触れるのが好きだった。唇で触れるのも。
「なに、魔女殿?」
セレンは指に少女の髪をまきつけ、もてあそぶ。
「もしかして」
くすっと、セレンは悪戯っぽく笑う。
「もしかして、私を誘ってるのかな?」
「え?」
少女はきょとんと目を丸くする。何を言われたのかまるで分かっていない様子だ。セレンは苦笑を口元に滲ませた。こういう鈍感なところが少女の愛らしいところでもあるが、少しばかり残念でもある。が、どのみち行動で示すつもりでいるのだから、焦らされてみるのも悪くはない。
ところが少女は、けろりと言った。
「えっと、うん、誘ってます」
「…………」
まさかの返しに、セレンは言葉を失った。亜麻色の目を瞬かせ、少女を見やった。
少女はにこにこと笑っている。別段、何かを企んでいる風でも、からかう風でもない。
「今から、ちょっと外に出ませんか? 王子に見せたいものがあるんです」
魔法は、こういう時便利だ。しみじみとセレンは思った。
少女はろうそくの灯りではなく、魔法の灯りで道を照らした。光の玉が魔女の手の上に浮かんでいる。青白い、やわらかな光だ。周囲をまるで月明かりのように照らしている。明るすぎない明りだ。魔法の光は風にも揺れない。熱くもない。
虫除けの魔法も、魔女はセレンの身に施してくれた。足元に塗布しただけでなく、細かな粒子にし、魔法の力で全身に振りかけた。先ほど飲んだハーブ水とよく似た香りがする。
薬草を水に浸して作った虫除けの魔法薬は、町でも評判がよく、この季節は製作を依頼されることが多いという。
ふたりは木々の間を縫って歩いた。時折、夜鳴鳥の鳴き声が聞こえはしたが、風はほとんどなく、奇妙ほどの静けさが森の中を浸していた。異界に踏み込むようだ。セレンは辺りを見回した。空は、木々の枝と葉に遮られて、僅かにしか見えない。
少女の後ろ姿と、少女が持つ光の玉の明りだけを頼りに、セレンは慎重に歩いていく。
「どこまで行くのかな、魔女殿?」
セレンは少女のあとをついて歩いていた。問うと、少女は肩越しに振り返り、「もうすぐです」と応えた。
不思議な事に、草木は少女の行く路を作っているかのようだった。肌に草木が触れることは一度もなかった。草木の方から除けてくれているのが、歩いていくうちに見てとれた。
「森の魔女」の力を、セレンは目の当たりにしている。呪文一つ唱えないが、か細い少女の身体から魔力が放出されているのが、目にこそ見えないが、感じとれる。――そう、魔女自身が光って、あたりを仄かに明るくしているのだ。
魔女である少女を、恐ろしくは思わない。むしろ、神秘的な美しさに気を呑まれる思いだった。
セレンは口数少なく、少女に導かれるまま歩んだ。
館から出て、どの位経ったろうか。ずいぶんと森の奥まで入り込んだ気もするが、それほど遠く離れた所に来たという感覚は、不思議となかった。周りの景色があまり変わらないせいだろう。
目的地はまだだろうかと、セレンが心中を思ったのと同時に、少女は足を止めた。
「ここです」
そう言って、少女は前方を指差した。
泉がある。水たまりと、そこから伸びる小川が見てとれた。その周辺だけ高い木がなく、ぽっかりと開けた空間になっている。微かだが、水の湧く音がした。ちろちろと、まるで鈴を振るような涼しげな音だ。
ふいに、草いきれが強くにおった。
「見せたいものというのは、あの泉?」
「ううん、そうじゃなくて。あの泉も、昼間に見るとすごく綺麗なんですけど、今はそうじゃなくて」
そう言ってから、少女はおもむろに手の上に浮かせていた光の玉を消した。闇が、落ちる。しばらくすると、その闇にも目が慣れてきた。セレンはいつの間にか横に並んで立ち、腕を掴んでいる少女に目をやった。少女はセレンの視線に気づき、その視線を前方へと誘導した。
「あっちです。泉の周り」
「うん?」
少女は声をひそめる。
「今日みたいな日は、精霊界との境界が曖昧になって、精霊たちが降りてきやすいんです。もともとこの森は精霊界と近いから、――あ、ほら、王子!」
ひとつ、ふたつ、小さな光の粒が宙に現れた。ふわふわと浮遊している。やがて数が増え、泉の上でまるで円舞を舞うように、くるくる回っては沈み、沈んでは浮揚し、やわらかな光を放っている。大きさは様々だったが、さきほど少女が作った光の玉よりは小さい。虫かとも思ったが、そうではなさそうで、中には人の形に似た物もあった。光の色も、淡い緑色がほとんどだが、中には橙色や薄青色の光を放つものもあった。
光の乱舞だ。きらきらと、玲瓏とした音が辺りに響く。藍色の夜闇に自由に描かれる刹那の光跡。暗い水中を泳ぎまわる游魚のようでもあった。
この世ならぬ美しさだ。
美しさに、セレンは息を呑んだ。少女もまた眼前で繰り広げられる精霊たちの気ままな舞いに魅入られていた。
草いきれではなく、花の蜜とも樹液ともつかない、甘やかな香りが周囲に広がった。
甘露だ、とセレンは思った。
空気を蒸らす水気が、極上の美酒に変わったかのようだ。心地の良い酔夢を見ている気分だ。だが、夢ではない。
真横に居る少女が、さりげなく身を寄せ、セレンの腕に頭をもたれかけてきていた。うっとりとしたまなざしを前方に向けている。
セレンの視線が自分に向けられていることに気づき、少女は顔を上げ、セレンを見つめ返した。
「これを、王子に見せたかったんです。王子と一緒に見たくて。精霊たちをこうして間近に見られるのって滅多にないことなんだけど、今日は見られる予感があったんです。だから今日、王子が来てくれてよかった。精霊たちの光は心を和ませるチカラがあるから、王子の心が少しでも癒されたらなって」
セレンは少女の腕を解き、代わりに手を握った。
「ありがとう。目と心の保養になったよ。ほんとうに、綺麗だ」
セレンがそう言うと、少女ははにかみ、けれど幸せに満ちた笑顔を浮かべた。
少女の笑顔こそが、美しい光だった。
「……キラ」
と、セレンは少女の秘された名を囁く。精霊たちにさえ聞かせたくないといった、囁き声で。
声に出した瞬間に、煌めくような光が心に瞬き、セレンにたったひとつの行動をとらせた。それを、もしかしたら少女は誘っていたのかもしれないと、ひそかに思いながら。
唇を掠めるだけの、軽い接吻。
セレンはキラの頬を撫でやり、もう一度、同じようにキスをした。
キラの頬はきっと赤くなっているだろう。暗がりでそれは見えなかったが、手も頬も、温かい。
「一晩中ここにいるのも悪くはないけれど、そろそろ舘へ戻ろうか」
「うん」
キラは素直に頷いた。そしてセレンの手をぎゅっと強く握り返す。
「少し酔ってしまったみたいだ」
「え? あ、もしかして魔力にあたっちゃった?」
「そうかもしれないね。とてもいい気持ちだ。だが、もっと」
「なんですか?」
少女は小首を傾げる。
セレンは艶麗な微笑を美貌に浮かべた。酔余の戯れをキラに仕掛けるがごとく。
「もっと、酔いたい。キラ、君の中で溺れて」
「……っ」
――ふたりきりで、舞おう。
耳朶をくすぐるセレンの囁きに、少女は肩を竦める。
いかに鈍いキラでも、こうまで言われれば、セレンが何を求めているか分かろうというものだ。
鼓動が速くなって、体が熱りだしてくる。
精霊たちの光より強い光が、熱く、甘く、キラの心を照らし、露わにする。
「もっ、もうっ、セレンってばっ!」
恥じらって、セレンに文句をつけてはみても、キラは握った手を離さない。
誘ったのは自分だと、キラには少しばかりの自覚があった。
精霊たちの舞いは、睦みの舞いでもある。精霊たちの光は、睦み合う歓喜ゆえの光華だ。
セレンと、それを見たかった。心から愛する、唯一人の人。セレンとこそ、眺めたい光景だった。
セレンとわたしも、精霊たちのようにありたい。そう希求する想いがあった。セレンはそれを察してくれたのだろう。
「……疲れ過ぎない程度にしてください」
――せっかく、憩いに来てくれたのだから。疲れきっちゃったら、元も子もありません。
キラは俯いて、ぽつりとそう零す。
それを聞き逃すセレンではない。
「なるべく、そうしよう」
「……そうしてくださいっ」
くすりと笑って、セレンは誓いの代わりにと、キラの額に口づけた。