紡ぐ風と、育む光 1
魔女の眷属であるリフレナスは、元は風の精霊である。
森の魔女に召喚され、主従の契約を結んで「眷属」となった。その際にネズミの肉体を与えられた。
肉体を与えられるのは、精霊界とは異質の次元である人間界に姿を固定するためだ。そうして人間界に繋ぎとめられる。存在が人間界に固定され、馴染めば、後は与えられた肉体(リフレナスの場合はネズミ)以外の姿に変化することができる。それには主である魔女の魔力が必要となる。変化する姿は、主の意を介さない。眷属の望む姿に変化が可能だ。が、リフレナスは自らの意思で変化することは稀だった。主が望み、それに応える。
リフレナスは人間の青年に変化することができる。変化は、主である魔女の意向に添ったものだったが、青年の姿に変じよと言われたわけではなかった。リフレナスは魔女の心の奥底に大事にしまわれていた人間の姿を模した。魔女自身、忘れかけていた記憶の一部……いや、忘れられぬ記憶の断片とも言えたろう。主と眷属は、心が深く結びつけられている。魔法を媒体とした契約により、魂の共有を互いに認め合う。それが魔女と眷属の関係だ。
リフレナスが人間の姿に変じるよう求められるのは、大抵面倒事を頼まれる時だ。面倒事、というほどでもない。雑用を言いつけられるが正しいかもしれない。ともあれ、リフレナスは魔女の求めに逆らうことは一切せず、しかしいかにも面倒くさげな顔をして、不平をこぼす。もっとも、心底嫌がり、迷惑がっているわけではないことを、魔女は知っている。口ではあれこれと文句をつけながらも、リフレナスは手際よく几帳面に、頼まれ事を処理してくれるのだ。
そういう、面倒見のいい、お人好しの眷属なのだ。
リフレナスのその性分は、主からの影響ではなく、もともと持ち合わせていた性格なのだろう。
森の魔女が代替わりをして、二代目の森の魔女の眷属になっても、リフレナスは相変わらずのリフレナスだった。
* * *
さて、これは遠い日。初代の森の魔女が健在で、幼い弟子と慎ましやかな生活を過ごしていた日のこと。
「魔女は、一生独り身じゃないといけないって、ほんとですか!?」
おつかいに出かけていた町から森の舘に戻るや否や、魔女の弟子でもある黒髪の少女が唐突に質問を投げかけた。突然投げられた問いに、森の魔女は目を瞬かせた。息せき切って駆けてきた少女は、少々興奮気味のようだ。頬が赤く染まっている。
「やれやれ」
苦笑いを口元に浮かべ、森の魔女は嘆息した。
「慌ただしいねぇ。頼んでおいた練乳や乾酪は?」
「ちゃんと買ってきて、台所に置いてきました! えっと、それで、お師匠様に確認しなくちゃって!」
擂鉢に投入した薬草を擂り潰す作業をしていた魔女は、一旦その作業を止めて擂粉木を置き、弟子である少女の方に顔を向けた。
長い年月を刻んだ顔は、少女のそれと比べると黒く日に焼けている。灰色の細布で束ねたはしばみ色の髪にはすでに白いものが混じり、年ごとに増えていっているようだった。容貌だけは少女を引き取った時からあまり変わりはない。素朴で穏やかな老婦人といった容姿で、妖しげな魔法を使う魔女といった雰囲気はない。少女とは、遠い遠い血縁にあたるが、外見に似たところはあまりなかった。魔力の属性も違う。
「魔女って、結婚しちゃダメなんですか?」
「まったく、なんだい藪から棒に?」
「町の子達から聞いたんです。魔女は結婚しないものなんだって。ずっと独身でなくっちゃいけないんだって」
「まぁ、まずはそこにおかけ。それからこれをお飲み」
「はい」
師匠である森の魔女の言うなりに、少女は椅子に腰かけ、差し出されたグラスを受け取った。グラスの中身は薄荷水だ。少量口に含むだけで、爽やかな香りが口内いっぱいに広がる。もしかしたら少しだけ魔法が利かせてあるのかもしれない。一口、二口、飲んでいくと、体内に溜まった熱が冷やされ、心まで落ち着いてくる。
「それにしても極端な話だねぇ。魔女は結婚しちゃいけないなんて。まぁ、昔からそういう誤解はもたれてはいたがねぇ」
森の魔女は向き直り、再び薬草を擂りだした。ゴリゴリと、鈍い音が室内に響く。
薬草や木の実などを保管し、擂り潰すなどの作業を行う屋は、森の舘の北端にある。作業台と薬草等を保管する棚があるだけの狭い部屋だ。日光が直接当たらぬように小窓には薄い紗がかけられている。そのため室内は日中でも薄暗い。といっても、日中から火を灯すほどの暗さではない。
ふと、少女は視線を横に流した。
師匠がいるのとは別の作業台で、眷属のリフレナスが黙々と仕事をしていた。実の選定作業をしているようだ。金褐色のネズミは少女の視線に気づいても、そのまま黙って作業を続けた。普段から口数の少ないネズミ姿の眷属は作業に没頭している。その仕事ぶりは実に細やかだ。赤色黒色紫色橙色、様々な色の小さな実を色分けし、さらに実についているヘタを取る作業も並行して行っている。
ぴくぴくと鼻を鳴らして実のにおいを嗅いでいるその様子が、とても可愛い。そんなことをリフレナスに言おうものなら、リフレナスは途端に機嫌を損ね、そっぽを向いてしまうだろう。
リフレナスにも声をかけたかったが、それは後回しにして、少女は視線を戻した。
「えーっと、それでお師匠様、真相なんですけど。誤解ってことは、独り身でいなくちゃいけないってのは、ウソなんですか?」
誤解と師匠は言ったが、しかし現実に師匠は独り身ではないか。
町で仲良しになった女の子は言った。森の魔女は結婚しておらず、独り身だ。だから、魔女は生涯独身でなくちゃならないっていうのは、ホントのことだと。
もっとも、魔女の弟子である少女は「結婚」や「夫婦」というものを曖昧な形でしか理解していない。仲良しの女の子には両親がおり、女の子の父親と母親が「結婚」した「夫婦」であることは分かっている。その程度の知識だ。
魔女は結婚したらいけない。
それを聞いて少女はわけもなく驚き、焦り、ひどく不安になった。そして、ふっと脳裏に浮かんだ、幼馴染みの「領主見習い」の顔。その顔が浮かんだことにも、ちょっと驚き、困惑した。
「お弟子さんは、魔女になるんでしょ?」
そう仲良しの女の子に念を押されるよう尋ねられて、少女は窮してしまったのだ。
魔女になるべく魔法の勉強をしている自分も、やはり「結婚」できないのだろうか。「結婚」したら魔女にはなれないのだろうか。
「別に、結婚しようがしまいが、魔力にさほどの影響はないよ。魔女になれないなんてこともない」
少女の質問に、森の魔女はさらりと答えた。作業を続ける手は止めない。それはリフレナスも同様だった。ただ少しだけ、リフレナスの作業はゆっくりになっていた。リフレナスが無意識に聞き耳を立てているのに気付き、森の魔女は口元に微笑を滲ませた。
「たしかに生涯独身を貫いた魔女もいたけどね。だけど、結婚し、子を儲けた魔女もいたよ」
言い終えてから、森の魔女は手を止めた。擂鉢の中の薬草が良い塩梅になっている。程良い擂り加減だ。
「だから結婚したら魔女ではなくなるなんてこともないよ。ただ、独り身のままの魔女が多いから、そんな風に思われるんだろうね」
「そうなんですか……。そっか、魔女でも……結婚してもいいんだ……」
少女は胸を撫でおろした。それからちょっと小首を傾げた。
どうしてホッとしたんだろう……?
ホッとした自分に驚き、不思議がっている。そんな少女を、森の魔女は可笑しげに見やった。