花浴
芳しい匂いを含んだ風が素肌に心地よい、春が麗しく闌たけた頃のこと。
日中は汗ばむほどの陽気だが、夜になるとぐんと気温が下がり、思いがけず肌寒くなる日が、数日続いた。温暖な気候の土地だが、例年になく寒かった冬の名残がまだあるようだ。
それでも穏和な性格の領主が治める領地は、安穏な春を迎えられた。争い事の少ない、泰平な領地なのである。
時に、穏やかならざる声が領主の住まう屋敷の一角で響く事もあったりするのだが、それもまた平和の現れといえなくもない。
ともあれ、今日も平穏に一日が終わろうとしている。
きゃぁぁぁぁっ! と、突然、女の悲鳴が領主の屋敷内に響いた。
悲鳴の主は、若き領主の幼馴染みである。場所は浴場からであった。
「どっ、どーして勝手に入ってくるんですか、王子!」
先に浴場に入っていた領主の幼馴染みである黒髪の少女は、目を白黒させて浴場の扉を開けた青年を見やる。
声高に文句をつけられたのは、屋敷の主である。浴場の扉を開けたとたんに悲鳴を上げられ、一瞬戸惑って青年は足を止めたが、しかし構わず歩を進め、浴場へ入った。
わぁわぁと慌てふためきながら、黒髪の少女は床を蹴って駆け出し、ドボンッと大きな音をたてて湯船に身を沈めた。肩まで湯に浸かり、そこから突然浴場に入ってきた闖入者を睨めつけ、声高に非難した。
「なんで、どうして入ってくるんですか! わたしが入ってるって分かってましたよね、王子!?」
「君が入っているから、入ってきたんだが」
浴場に入ってきた亜麻色の髪の青年は、悪戯っぽい笑みをその美貌に湛えている。当然、引き返そうとはしない。湯船に深々と身を沈めている少女の元へ近づいてく。
亜麻色の髪と瞳が殊に印象的な美貌の青年は、名をセレンという。
現国王の庶子であるセレンは、様々な理由から王都から隔たった、辺境といっていい小さな領地を与えられ、領主の地位に就けられた。
そして湯船に身を沈めて、頬を赤らめている黒髪の少女は、セレンの幼馴染みであり、最愛の恋人でもある。
森の奥に居所を構えている少女だが、今宵はセレンの屋敷に泊っていくことを予め約束していた。セレンのたっての願いだった。セレンに乞われれば、否とは言えない。
そうして、夜。
セレンに勧められるに従って浴場へ入った少女だが、続いてすぐにセレンが入ってくるとは思わなかった。
今まで何度も、セレンに無理押しされるかたちで、湯あみをともにしてきたというのに。……うっかりしていた。
といっても浴場の扉に鍵はなく、セレンの侵入を阻むのは、どのみち無理なことなのだが。
領主であるセレンが住まう屋敷は華美な装飾は少ない。先代の領主がそうであったように、セレンも過飾を好まなかった。しかし領主の屋敷としての体裁は整え、場所によっては贅を尽くした装飾が施してある。客室や浴場がそうである。
浴場は、淡い緑色と象牙色のタイルで明るくやわらかな色調に整えられた。採光窓と換気窓の色ガラスには花の模様が表されている。鏡や椅子といった調度品も高価な材質で作らせた。むろん、広さも十分にある。楕円形の浴槽も、十人ほどが余裕で入れる大きさだ。
加えて、今宵は特別に、白薔薇をふんだんに浴槽に散らしてある。見た目にも美しいが、薔薇の芳香には心身の疲れを癒す効果がある。
ほんのついさっきまで浴場を独り占めしていた少女だが、平常、質素な暮らしをしているせいで、実のところ少々居たたまれない気持ちになっていた。独り占めをしているのが申し訳ないような気分で、落ち着かなかった。ところが、いざ屋敷の主である青年が闖入してくると、驚き、慌てふためくあまり「どうして入ってくるの!」と、非難の声を投げてしまう。
領民達に「森の魔女」と呼ばれている黒髪の少女は、しかし魔女というにはいささか幼げな顔立ちと体躯で、妖しく暗い雰囲気は微塵もない。魔女というより、童女の姿をした可憐な精霊のようだと、セレンは思っている。それを臆面もなく口にして、少女を照れさせることもしばしばある。
ともあれ、魔女であっても精霊であっても、黒髪の少女はセレンにとって誰よりも愛しく恋しい存在であるには変わりない。
その魔女らしからぬ「森の魔女」は、顔を真っ赤にし、上擦った声をあげる。広い浴場に少女の声が響いた。
「どっ、どうしていきなり、入ってくるんですか、王子ってば!」
「君が一人で難儀しているのではないかと思って」
「いま、すっごく困ってますっ!」
「そう? それならば早速手助けしようか」
「だから! 王子のせいで困ってるんですってば!」
まったくもって埒が明かない。
少女は憤然と怒りの声をあげるのだが、セレンには少しも怯まず、それどころか少女の反応を見て愉しんですらいる。からかいまじりの笑みを亜麻色の双眸に含ませて、セレンはゆったりとした足取りで浴槽へと歩み寄る。
「だっ、だめ! こっち来ないで、王子!」
周章し、湯を大きく波立たせて少女は後退りをする。立ち上がれば胸元が露わになってしまう深さだから、屈んだまま後退するはめとなった。いっそこのまま頭まで湯に沈めてしまおうかと思うくらいに、少女は焦りまくっていた。
目のやり場に困るんです!
そう言いたくてしようがない。
何しろ、当然ではあるのだが、セレンは少女同様に素裸なのだ。薄物一枚、身につけていない。初めて見るのではないにしても、真正面から直視するのは、さすがに恥ずかしい。
それならば、目を瞑るか逸らすかして見なければよいのだが、どうしてかそっぽを向けず、セレンから目を離せなかった。
まるで、美の女神の寵愛を得た月神が夜霧を纏って地上に降り立ったようだ。
セレンの容姿は、頭の頂辺から足の爪先まで、一点の非の打ちどころもなく美しい。立居振舞も春風のようにやわらかく、花のように優麗だ。
少女は半ば陶然とし、セレンに目を奪われている。むろん凝視はできず、落ち着かなげに視線を泳がせてはいるのだが。
少女がおたおたしている間に、セレンはさっさと浴槽に身を入れた。その拍子に湯気のかたまりが高い天井にのぼっていく。セレンはうろたえる少女の腕を掴んで引き寄せた。浮力がセレンの味方をし、少女はあっさりと捕らえられた。
「捕まえた」
小さく笑いながら、セレンは少女を抱きしめる。背後から包むようにして抱き、セレンは段になっている所に腰を下ろした。浴槽はさほど深くない。セレンは浴槽の縁に背を預け、胸元から下を湯に浸からせている状態だ。
「ちょっ、あのっ、王子ってば、もうっ」
セレンに体を拘束され、少女もその場に腰を落とした。セレンの両腕と両脚に囲われて、これではもう逃げようがない。軽く抵抗しながら、しかし少女は内心ホッとしていた。背中から抱きしめられているおかげで、目のやり場に困るような事態はどうにか避けられた。
大きく揺れ、波立っていた湯の表面が次第に凪いでいった。
少女の長い黒髪が湯の表面に広がる。セレンは水面で揺れる少女の黒髪を一房掬い取り、それと同時に浴槽に散らされている白い薔薇を手に取った。掬い取った薔薇を黒髪に乗せる。ふわりと甘い香りが鼻腔をかすめる。浴場を満たしている香りだ。
「この薔薇は、ずいぶんと沢山あるが、魔女殿が用意してくれたものかな?」
「あ、はい、そうです、けど……」
「甘くて優しい、好い香りだ」
セレンは白薔薇と黒髪を名残惜しげにその手から離した。髪と白薔薇が湯の上を滑るように流れていく。少女の体は離さない。
抵抗も無駄だと悟り、肩を竦ませて大人しく座っている少女だが、どうにも背後が気にかかって落ち着かない。なにしろぴったりと体をくっつけられているのだ。触れる肌が熱く感じるのは、湯のせいではないだろう。
少女は僅かに身を捩らせる。そして小声で訴えた。
「あ、あのですね、王子っ。あのっ、さっきから、そのっ、うしろ、王子のが、そのっ、……あ、当たってるんです、けど!」
しどろもどろに言う少女に、セレンは空惚けて訊き返した。
「うん? 当たってるって、私の、何が?」
「そっ、それは、だからっ、えっと……っ」
艶めいた声と忍び笑った息が少女の耳朶に触れる。
何がなんて言えるわけないじゃない、分かってるくせに!
そう喚き返してやりたいところだったが、少女は口を噤み、顔を赤らめて俯いた。迂闊な事を言ってしまったと、後悔もしていた。
「だいじょうぶ。……ここではしないよ」
「……っ」
セレンの悪戯っぽい声が、さらに少女の羞恥を煽る。
何を「しない」のか、何がどう「だいじょうぶ」なのか、そう訊き返すのは、藪をつついて蛇を出すようなものだ。少女は口の端をきゅっと結んで、さらに首を竦めた。このまま頭までどっぷりと湯に浸かってしまいたかったが、セレンに捕まえられていて、それもかなわない。
居たたまれない。恥ずかしさで蒸発してしまいそうだ。
少女は身を縮こまらせて、セレンの腕の中にいる。
(それにしても……。いつまでこうしているんだろう?)
嫌悪感などむろん微塵もない。ただ、いつまでこうしてじっとしていなくちゃならないのかと、そわそわした気分になってしまう。
そんな少女の気持ちを察したのか、ふいに、少女の左肩にセレンの頭が乗せられた。
深いため息がセレンの口からこぼれ、それが少女の素肌にかかる。
「……王子?」
「…………」
返事はない。少し間を置いてから、少女は再び声をかけた。
「あの、王子? もしかして湯あたりしたんじゃ……。大丈夫ですか?」
「大丈夫。……もう少し、このままで」
呟くような声が返ってきた。ひどく弱々しい声音だった。セレンは黙りこみ、少女を抱きしめている。
「…………」
少女は問いを重ねず、代わりにセレンの腕を軽くさすった。
途端に無口になったセレンに、よっぽど疲れているんだと、気付かされる。
そういえば、セレンは現在、とある農場の土地の所有権争いの調停に奔走しているらしいと小耳に挟んだ。有能な老執事のハディスや、隠居生活を送っている先代領主の援助や口添えがあって、なんとか互譲を得られるところまでは事を進められた。しかし円満解決まで、まだ時はかかりそうだという。
それらの詳細を、少女は知らない。
職務に関することを、セレンは不用意に喋ったりはしないし、少女もまた無遠慮に首を突っ込んだりはしない。
領主の仕事に関して、セレンは愚痴めいたこと、一切と言っていいほど零さない。その分疲労を内に溜めこんでいるはずだ。
セレンは疲労しきっている自分を、少女には見せてくれる。言葉にしなくとも、態度に表し、少女にだけは素のままの自分をさらけ出し、甘えてくる。
「…………」
ふと思いつき、少女は右手の人差指で、湯の表面をなぞった。くるくると、円を描く。それと同時に小さな声で呪文を唱えた。
サァッと音をたて、少女とセレンの頭上を掠めるように、微風が吹いた。湯気が揺らぎ、甘い香気と白い花弁が湯船から舞い上がった。やがて香りが光となる。小さな光の粒が宙に踊る。キラキラとやわらかな音が浴場に響き、甘い香気と白い花弁と光の粒が少女とセレンの周りを囲み、包んだ。
セレンは顔を上げ、目を瞬かせてその様子を眺めた。
少女が発動させた魔法だ。「光」属性の魔力を有する魔女の、おそらくは治癒魔法であろう。
光の粒がセレンの身に降り注ぎ、素肌に触れると香りが弾け、ふわっと溶ける。
内に溜めこんでいた疲労感が薄らぎ、体が軽くなっていくようだった。
不思議で、美しい光景だ。
少女はセレンの腕を軽く掴み、肩越しにセレンを振り返った。黒い双眸がまっすぐにセレンを見つめる。
「王子、疲れた時は、ちゃんと言ってください。わたしでできることがあれば、なんでもしますから。少しでも王子の援けになりたいんです」
「魔女殿……」
「ちょっと疲れを癒すくらいの些細な魔法だけど、王子の役に立てたらいいなって思うから。あの……少しは楽になりましたか? 疲労を解く術なんですけど……」
「…………」
セレンは亜麻色の瞳を細めて、少女を見つめ返した。
少女へのいとおしさに、胸が満ちる。
セレンは再び少女の肩に額を乗せた。ふ、と息をつく。そしてまた顔を上げ、今度は少女の耳元に唇を寄せた。
「――キラ」
少女の名を口にする。睦言のようなセレンの囁き声に、少女……キラは肩をびくりと跳ねあげさせた。
「ありがとう、キラ」
「……疲れ、とれました?」
キラの問いに、セレンは笑んで応えた。
それなら良かったと、キラは安堵して肩の力を抜いた。
「キラ」
「はい、なんですか、王子?」
キラは小首を傾げ、セレンを見やる。あまりにも無防備なキラの表情だ。セレンは内心可笑しくもあり、半ば呆れてもいる。男の恋心に、キラは少々鈍感過ぎる。
「キラ、……前言撤回してもいいかな?」
「はい?」
何のことだとばかりに、キラはきょとんと目を丸くする。
セレンはにこりと微笑った。
白薔薇が花弁をひろげ、香りを放って咲き誇るようなセレンの美麗な笑みを間近に見、キラは頬を紅潮させた。
「魔法もよく利いたけれど、キラ自身に、癒してもらいたい。だから前言撤回させて」
「えっ、前言撤回って……あっ、ちょっ、あのっ、こっ、ここ……こんなとこで、だめっ! だめってば! 王子、セッ、セレンってば、待って!」
さすがに何のことだかを察し、キラは慌てふためいて飛沫をあげる。しかしセレンの腕からは逃げられない。一応の抗いを見せ、もがくキラだが、本気の拒絶ではないと、セレンは知っている。
「待てない。それに、だめと言われても、やめない」
「……っ」
さらにきつく抱きしめ、セレンはキラのうなじに唇を押し当てる。
薔薇の香気のような接吻に、キラは眩暈をおぼえ、堪らずきゅっと目を閉じる。
「観念して、キラ」
――それが、合図だった。
明くる日、すっかりむくれて拗ねてしまったキラの機嫌を直すため、少々骨を折ったセレンだが、それに疲労を感じたりはせず、むしろ愉しみと安らぎを覚えていた。
「もうっ、王子のばか!」
キラの、そんな憎まれ口もいとおしく、笑みがほろほろと零れてしまうくらいに。
――そんな安閑で平和な、春の終日ひもすがら。




