ずっと傍にいたい。君さえいればあとは何もいらないくらいに、君を愛している。
耳元で、くすぐるようにしてささやく。
――君に溺れて、息もつけないよ。
そう言って、甘い吐息を吹きつける。
抗えない少女の優しさに、――……つけこんで。
午後のお茶の時間。屋敷の中庭、トネリコの木の下で、亜麻色の髪の青年と黒髪の少女はゆったりと寛いでいる。
春の最中、庭には色とりどりの花が競い合うようにして咲き、空に向かい放射状に伸びている若枝を小鳥達が揺らす。時折吹く風は蜜を運び、白い布を敷いてそこに並んで座している二人を甘く撫ぜる。
屋敷の主である若き領主、亜麻色の髪の青年セレンは、淹れたてのハーブティーの香りの向こうにいる、黒髪の少女に微笑みかけた。
「君がこうして傍にいてくれるだけで、幸せだ」
亜麻色の双眸を僅かに細め、セレンはひそめた声で黒髪の少女にささやいた。
「いきなりなんですか、王子ってば!」
少女は頬を紅色に染め、たじろぎ、恥じらう。
嬉しいはずの言葉なのだが、つい「なんなんですか、もうっ」と言い返してしまう。
セレンは動ずる様子もなく、穏やかに笑んだままだ。
「いきなりではないよ。いつもそう思っているからね」
「や、そうじゃなくて! いきなり何を言い出すのかって言いたいんですけどっ」
「いきなりじゃなければいいのかな? ああ、けれど、ふと口をついて出てしまうことだから、予告のしようがないな」
「そういうことじゃなくて! というか、予告もしなくていいですっ」
子供っぽくむくれてみせる少女は、「森の魔女」という少しばかり非凡な少女だった。
魔法薬作りの魔女として名高いが、「惚れ薬」の精製はできないという。
しかし、少女の愛らしい唇には媚薬が塗られているのではないか。セレンは恋い慕う少女を改めて見つめ、苦笑する。
唇だけではない。
夜露に濡れたような黒曜石の双眸も、熟した果実の甘さを浮かせた薄紅の頬も、滑らかな白珠の肌も、そして優しく素直で、純な心根も。
――まったく、魔女殿には勝てる気がしないね。
もともと勝とうという気がないのだが、時にはやはり、負かせてみたくなるのが人情というものか。
そうした気持ちが、セレンにいたずら心を呼び起こさせる。
まっすぐに見つめ、微笑とともに愛を告げる。
その行為に少女は未だ慣れず、顔を赤くして大仰に恥じらうのだ。
「可愛らしいね、魔女殿は」
くすくす笑い、セレンは紅潮している少女の頬に触れる。
「ま、なっ、またそんなっ!」
もしかしたら少女は気付いているのかもしれない。セレンは、自分の反応を見、楽しんでいると。だが気付いていたところで、照れくさいことにはかわりはない。うまくあしらうなど、できようもなかった。
「君がこうして傍にいてくれるだけでいい。――他には、何も要らない」
ややもすれば、それはあまりにも閉塞的で束縛的な告白となりかねなかった。言い終えてすぐ、セレンは自戒するように眉をしかめた。
そんなセレンをどう受け取ったものか、少女はいつもと違った反応を見せた。
「王子ってば、要らないなんて、そんなのだめです!」
毅然と顔を上げ、少女はセレンを窘める。
時として、少女はセレンに自覚を促すようなことを言う。
説諭癖とでも言うのだろうか。それはどうやら、先代の森の魔女の影響らしかった。
「王子って、昔からそうでしたけど、あまり物を欲しがったりしませんよね? でも王子はもっと欲張りになったっていいと思うんです」
亜麻色の瞳を見つめ、少女は続ける。
「王子のこと必要としてる人はたくさんいるんですよ? 領地に住む人達も、屋敷にいる人達も、みんな、みんな、そう思ってます。だから王子にも、みんなが必要なんです。王子のことを思ってくれる人達を、もっと必要としていいんです」
「…………」
「王子ってば、本当はちゃんとそれをわかっているのに、時々、忘れちゃうんですね」
頬を赤らめたままの少女は、忘れてしまう当人よりもどかしそうな顔をしている。
普段から、セレンは物事に動じず、感情を顕わにしない。昔からそうだった。常に感情を抑制し、平静を保っていた。
抑えこまれた心は、だからといって狭いわけでも冷たいわけでもない。その心の広さと温かさを、少女は知っている。
「忘れても、君がこうして思いださせてくれるからね」
少し困った風に目を細めていたセレンだったが、微笑で応えた。
少女はこともなげに、王子という身分、領主という立場を越え、セレンの心の琴線を掻き鳴らす。そして、無意識的に抑制している感情を引き出してくれるのだ。
セレンは軽く瞳を伏せた。
いったい私は、どれほど君に甘え、依存していることか。
促された自覚に、セレンはため息をつく。
「……王子?」
生意気なことを言ってしまったかなと、少女は不安げにセレンの顔を覗き込んだ。
「あの、王子?」
「君には、いつまでたっても勝てそうにないな。……ありがとう、聡い魔女殿」
亜麻色の瞳が再び開けられ、優麗な微笑みがその白皙に浮かぶ。
少女はぼんっと音が出そうな勢いで、真っ赤になった。見慣れたはずの美貌だが、不意に向けられる甘やかなまなざしには、いつまでたっても慣れそうもない。
セレンは可笑しそうに笑っている。
こんな時、少女は思うのだ。
「やっぱり王子ってば、わざとでしょっ?」
少女には敵わないと、またしても自覚させられたセレンは、やれやれと肩を下げ、微苦笑している。
一方で、またしても王子にからかわれたと思い込んでいる少女は、何か仕返しをしてやりたいと考えを巡らせているようだった。
大人びたことを言うようになった少女だが、拗ねたりムキになったりするところは、昔からちっとも変わらず、子供っぽく可愛らしい。
――そんな君が、とても好きだよ。
それを言えば、きっと君はまた、恥ずかしがって文句を言うのだろうね。
セレンのまなざしを無下に受けていた少女は、唐突に何か思いついたらしく、くるりと勢いづけて向き直った。そして緩やかに流れる亜麻色の髪を一房その手に掴み、「セレン」と、恋人の名を口にした。
「…………」
さすがに意表をつかれ、セレンは少々たじろぎ、目を瞬かせた。
意表ついたまではよかったのだが、少女はうっかり王子と目を合わせてしまった。
「……う」
少女は絶句し、そのまま硬直した。優しげな亜麻色の瞳に縛られて。
「…………」
暫時、沈黙が二人の間に落ちたが、それを吹き飛ばしたのは少女の方だった。
「やっ、やっぱりできない、無理! 無理だよ、こんなのっ!」
少女はぶんぶんと頭を振り、情けない声を上げた。その手に、まだセレンの髪を掴んだままで。
実のところ、セレンは固まっていた少女を抱き寄せる算段でいたのだが、その機をはずされてしまい、肩を落としている。
「王子ってば、よくできますねっ? 恥ずかしくて顔から火が出そうですけどっ」
何が、と訊くまでもなかった。
少女はどうやら、セレンの髪に口づけようとしたらしい。いつも、セレンが少女にするように。
堪えきれず、セレンは笑い出した。
ふくれっ面になり、少女はセレンを憎らしげに見つめている。それでも髪は掴んだままだ。
ひとしきり笑った後に、セレンは少女の黒絹のような長い髪を、そっと指に絡ませた。
「お手本をみせようか、魔女殿?」
そう言って、セレンは艶然と微笑む。
「やっ、いいですってばっ、王子っ! いいです、だめです、恥ずかしいんですっ!」
少女は慌てふためき、「だめ」と繰り返す。
「簡単なことなのにね?」
だめですと言われて、素直にやめるわけもない。セレンは手を寄せ、「髪にキス」を実践してのけた。さりげなく、そして爽やかかつ甘やかに。
「も、もう、王子ってばっ! どうしてそう躊躇なくできるんですかっ」
「どうしてと言われても。つい、無意識にしてしまうことだから」
「つ、ついって!」
「君といると、つい、ね。想いを、伝えずにはいられなくなってしまうんだよ」
「……っ」
もはや、少女は声も出ない。
いつの間にか抱き寄せられていたのだが、それに驚く余裕すらなくなっていた。
「……キラ」
耳朶に、熱い吐息がかかる。
全身粟立ち、少女はぎゅぅっと目を閉じた。
キラという名をささやかれるだけで、身体が火照りだす。
身を竦ませ、固まっている少女キラの髪に、セレンは再び口づけた。
「ありがとう、キラ。君がこうして傍にいてくれるおかげで、大切なことを忘れないでいられる」
「王子」
とまどいがちに、キラは瞼をあげてセレンを見つめ返した。
「だから、これからも君には傍にいてもらいたい。……いつまでも、ずっと」
「…………」
少女はこくりと小さく頷き、それに応えた。
「そして私も、こうしてずっと、君の傍にいさせて欲しい。……構わないかな、キラ?」
「……もちろんです、けど」
「けど?」
「……そろそろ、身体、離してください」
放置されっぱなしのハーブティーからもはや湯気はたたず、ほのかな香りを辿ってきた蝶が、カップの端にとまる。
――そんな、うららかな春の午後。
セレンは蜜のように甘くとろけている少女を、まだ抱きしめている。
「君を、愛してる」
そして忘れず、ささやく。
つい、いつものように、無意識に。