君のいない日は色がなくなり、空虚で何をする気も起きない。君が私の全てだ。
朱色、緋色、紅の色。
鴇色、呉藍色、蘇芳の色。
橙色、柑子色、杏色。
深黄色、山吹色、金の色。
空色、水色、群青色。
萌葱色、若草色、翠色―――
少女は両腕いっぱいに、多種類の花を抱えていた。自分で育て花もあれば、森で摘んできた花もある。
「王子!」
駆け寄ってくる少女の顔は、半分以上が花で埋もれてしまっている。
亜麻色の髪と瞳を持つ青年は、前方不注意で躓き、あやうく転びそうになった少女をうまく抱きとめた。
「あ、ありがと、王子」
花束の中からすぽっと顔を出し、少女は照れくさそうな笑顔を向ける。
王子と呼ばれた青年は笑みを返し、腕をはなした。いつもならそのまま少女を抱きしめていただろうが、花を押し潰してしまうことを懸念したためだ。
「慌てなくても置いていったりはしないのに」
「でも、急いだ方がいいかなって」
少女は先ほどから待機している馬車に目をやる。そして、馭者台に座っている老年の執事、ハディスに軽く会釈をして挨拶を済ませた。
どうやら少女は、少しばかり緊張しているようだ。
王子と馬車に乗ることにではなく、二人揃ってでかけることに。
行き先は、王子の母親の墓所。
今まで何度も足を運んでいたが、王子と一緒に出かけるのは、この日が初めてだった。
町外れ、小高い丘の上に墓苑はある。
領民達との共同の墓苑であるため、敷地は広い。この墓苑は、領主たるセレン王子が定期的に人を遣って整備をし、管理している。
「好いお天気ですね」
魔法薬作りを専門とする、「二代目の森の魔女」は空を仰ぎ、深呼吸をする。
魔力に関わるからと言われ伸ばし続けている髪は、黒絹の光沢をもつ。
少女の髪に触れるのが、セレンは好きだった。
いや、髪だけではなく、少女の全てに触れたいと思い、おおよそ実行しているのだが。
墓苑の入り口で馬車とハディスを待たせ、二人は目当ての場所、セレンの母の墓所へと歩みを進めた。
セレンの母が夭折し、六年が経つ。当時、セレンは十五歳。領主の座を継いだばかりのことだった。
母が亡くなってからすぐに、早駆けの使者がセレンを訪れた。王都から……つまり父である国王陛下からの使者だった。セレンの母を王墓へ埋葬するか否かを、問われたのだ。
むろん、返事は決まっていた。
断ることをあらかじめ予測していたらしい国王は、銀の小箱を使者に託していた。それを「ともに埋葬してほしい」と。
弔辞と小箱を、セレンは素直な気持ちで受け取った。
小箱の中身は見ないままだった。見るなと言われたわけではない。
だが、見るべきではない気がしたのだ。
中に入っていたのは、母との想い出の品、そして父の誠心だったろう。
――それで、十分だ。
母の墓前に立ち、セレンは黙していた。
感傷的になっている風でもない。ただ、じっと立ち尽くしている。
用意してきた花束を墓前に供えることも忘れ、少女はセレンの横顔を見つめていた。セレンの心緒を気遣い、静かに添っていた。
伏しがちに視線を落としていたセレンだったが、やおら顔を上げ、傍で佇んでいる少女に微笑を向けた。
少女も、小さく笑む。
「ありがとう、……キラ」
極上の笑みと、秘された己の名が、少女の頬を瞬く間に赤くさせる。
「え、え? ありがとうって、あの?」
「花を、いつもたくさん手向けてくれて」
「それは、王子のお母様、花がお好きでいらっしゃったから」
「それに、キラのことも、とても好いていたからね。こうして一緒に来てくれて、母も喜んでいると思う」
「そ……かな」
少女キラは照れくさそうに笑うと、少し俯いた。
薄青色の小花がキラの頬に当たり、細い茎を緩やかに曲げていた。
セレンはそっとキラの頬に手を伸ばした。そして腰をかがめ、キラの顔を覗き込む。
「キラ、下ばかり向いてないで、私のことを見てくれないかな?」
「な、なんだか王子の顔まぶしくて、まともに見られないんですっ」
素直すぎるキラの反応に、セレンは思わず口元をほころばせる。
「君という光を反射しているせいだよ、それは」
「そっ……っ、そ、そん」
「そういう気障台詞を何気なく言わないでください、かな?」
セレンはいたずらっぽく笑って、キラが詰まらせた言葉を代言した。
「やっ、ちょっ、もう、王子……セレンってばっ!!」
恥じらいに顔を茹だらせているキラは、頬に添えられているセレンの手から逃れようと、少し身体を捩らせた。
あっさり手を引いたセレンだったが、キラを逃すつもりはない。
小柄な黒髪の魔女は、たやすくセレンに捕らえられてしまう。
「気障ついでにもう一言。……君を想っているよ、キラ。誰よりも、いつまでも」
そして深紅のはなびらとともに、優しく口づけた。
「……っ! ちょっ、セ、セレンてば、こんなとこでっ」
これ以上はないくらいに赤面しているキラの頬に、セレンは再び接吻した。
「私達がいかに愛し合って、幸せでいるか、母に報告をしなくてはと思って」
「……っ」
優艶と微笑むセレンに、もはやキラは何も言い返せない。
心の中で、キラもセレンの母にそれを告げていたのだから。
真っ赤になっているキラから強引に寄越された花束を墓前に手向けようとしたその時。突風が吹きぬけ、いくつかの花が風に散らされ、舞い上がった。
青空に吹き上がっていった、色とりどりの花びら。
鳴き交わしている鳥のさえずりが風を誘い、花びらを躍らせているようだった。
「きれいだ」
「うん、ほんとにきれい」
まぶしそうに空を眺め呟いたセレンに、キラは笑顔で頷く。
潤みをおびた黒曜石の瞳、白珠の肌に浮き上がる、ほんのりと紅潮したバラ色の頬、さくらんぼのような甘酸っぱい唇…………。
多様な形、多彩な色を持つ花のように、少女は甘い香りを含ませ、鮮やかな光を放ち、セレンを照らす。
君が居るこの世界は、なんと美しい光彩と音色に満ちているのだろう。
花の色が多彩で鮮麗だということ、そして甘美なものだということを、君と出逢えてこそ知りえたのだよ、私のキラ――……。
「……君が居てくれて、本当によかった」
キラの手を取り、セレンは想いを告げる。
手を握り返してくれたものの、キラは大仰に照れまくり、「またそういうことをっ」と可愛らしく文句をつけ、顔を火照らせる。
そうしてセレンは満足げに笑む。
「好きだよ、キラ」
言い忘れようのない、その一言をさらりと告げて、セレンはかけがえのない唯一の光、煌めく花をその腕に抱きしめる。