温かく優しく包み込む、私だけの『光(キラ)』
ゆるやかな風が、蜜とハーブの香りを絡ませ、少女の鼻先をくすぐった。
中庭の木陰に敷いた綿の敷布に座って、淹れたてのハーブティーを堪能する。のどかな、春の午後。
少女の長い黒髪を何気なく指に絡めているのは、王子という身分であり、また領主という立場にある、亜麻色の髪の青年だ。名を、セレンという。しかしその名を、少女はめったに口にしない。出逢ってからずっと「王子」と呼び続けていたせいもあり、本人曰く、「長年の癖」なのだという。
その少女の名は、魔女だからという理由で、秘されている。
名は、「呪文」の一種なのだという。ゆえに、魔術を生業にしている者の多くは、「本名」を隠している。それもまた少女に言わせれば、「長年の癖みたいなもの」らしい。悪意を持った魔術師や敵意を持った同業者がいるわけでもなく、まして人語を理解できる魔物の出現もめっきり減った現在、平穏そのものの辺境の領地で「本名」を明かしても、困ることなどないだろう。
「けれど」
セレンは亜麻色の瞳を細めて、微笑した。
「やはり、今さら明かしてほしくはないな。私だけがと、思っていたいからね」
少女の名を、セレンは知っている。セレンだけではない。森の舘で留守を任されている少女の眷属は、当然「主」である少女の名を知っている。
眷属リフレナスは、いわば少女の身内だ。
だから、まだ身内ではない自分が少女の名を知っているのは、セレンにとって、特別なことだった。
少女は仄かに頬を色づかせ、
「明かしません。王子にだけ特別公開って、言ったはずです」
と、少し拗ねたように、返した。
半ば唐突に、セレンは「お願いがあるのだけど」と少女に向き直って、言った。
顔には、綽々とした微笑が湛えられている。
「な、なんですか」
少女は反射的に身構えてしまう。セレンの「お願い」は、迷惑ではないのだが、照れさせる「お願い」ばかりなのだ。
「近頃仕事が多くてね」
セレンはやや伸びすぎた感のある前髪を、梳きあげた。白い手を額でとめ、その隙間から少女を覗き見る。瞳の奥に、悪戯な色がある。
「夜も遅くなりがちで、朝も早くから起き出さなくてはならなくてね」
「…………」
少女は黙っている。心配そうな顔をし、小首を傾げた。
「睡眠不足なんだよ、このところずっとね。――だから、膝を」
言うが早いか、セレンは身体を傾けた。
「えっ?」と戸惑う少女の膝に頭を乗せ、横たわった。
「このまま少し、眠らせて」
「おっ、王子ってば、ちょっ……」
あまりに唐突だった。少女は困惑し、華奢な身体を硬直させた。
セレンは腹部あたりで両手を組み、片足だけ軽く膝を立て、そのまま何も言わず瞼を閉じてしまった。
「王子ってば……っ」
「…………」
「もうっ」
本当に、いつも突然にドキドキさせるんだから、王子ってば!
文句は、口に出さなかった。
寝入ってしまったかもしれない王子を気遣ってのことだ。
耳まで真っ赤になっている少女は観念し、ため息をつくと同時に、肩から力を抜いた。
鼓動は、徐々に落ち着いていった。気恥ずかしさは残っていたが、胸を鳴らすときめきは心地好い温みを少女に与える。
少女はセレンの白皙を見つめる。
髪と同じ色をした長い睫が、曲線を描いている。セレンの亜麻色の優しい双眸は今、薄闇に閉ざされている。
目元に不自然な力みはなく、寝息も安らいでいる。だが、たしかに少しばかり顔色は優れないようだ。睡眠不足だというのは、本当だろう。
領主であるセレンは、山積みにされる書類を片付けていくその合間に、自ら出向いて領民達から農作物の出来具合などを見聞して回った。そうして製作した報告書を、王都へ――つまり国を統治する王へ、届けねばならない。領主自ら、あるいは代行者が赴き、言上する。
領主の義務を怠るわけにはいかない。
一年の総括をまとめねばならない春、セレンは仕事に忙殺され、疲れを溜め込んでしまっていた。
少女は、そっと、手のひらをセレンの額に当てた。
乾いた絹のような手触りで、自分の手が温かいせいだろうか、ひやりと冷たかった。
「…………」
少女は、魔法薬作りの名人だ。先代から秘伝を受け、自分でも新たな魔法薬作りに励んでいる。
森の舘に戻れば、疲労回復の薬はある。滋養の薬も。
(――持ってくればよかったな……)
セレンに膝を貸し、身動きのとれない状態でいる少女の口から、ため息が零れでた。
疲労を一気に回復させる魔法が使えたらいいのに、と。
しかし、少女にその魔法の知識はない。自分の魔力が精神に及ぼす種類のものだと先代の森の魔女である師匠から聞かされてはいたが、その魔力をどう扱っていいのか、未だ把握しきれていないのだ。
敷布の上に、少女の長い黒髪が、魔方陣のように流れている。前髪が、風に揺れた。
少女は顎をあげて深呼吸をした。体内に、清涼な空気を取り込む。
春の陽射しは暖かく、撫ぜてくる風も仄かに甘い。
顎を引き、少女は目を閉じた。セレンの額に、軽く手を乗せたまま。――そして。
魔術が、少女の体内に満ち満ちてゆく。
ほとんど無意識のうちに、少女は『光』の魔術を施行していた。音に変換されない呪文が、光を呼集する。
温かなその光を、少女はセレンに伝える。手のひらから、ゆっくりと流し入れていった。
――少しでも癒されますように。
少女の祈りは、煌めきを放ってセレンの心身を抱擁する。
どれほどの時間、そうしていただろうか。さほど長い時間ではない。日は西に傾きつつあったが、陽射しに黄昏の色はない。
ほんのひと時の、午睡。
セレンは目覚め、片手をついて上半身を起こした。
少女はまだ目を瞑っている。眠っているかのように、呼吸も静かだった。
セレンは身体を支えていない方の片手を少女の頬にあてがい、当然のことのように、口づけた。そっと触れるだけのつもりの接吻だったが、少女の柔らかな口唇に触れた瞬間に、セレンの唇に情熱が宿った。
「――っ!」
少女は目を見開き、肩をびくりと上げた。
いきなりの口づけに驚いた少女だったが、セレンの身体を突き飛ばして拒むようなことはしない。あまりにも突然で、身体が硬直しているせいもあったが。
やがて、セレンは唇を離した。名残惜しそうに、親指の腹で少女の唇をなぞった後、もう一度、軽く口づけてから、言った。
「――キラ」
沁みいるような微笑を湛え、セレンは少女の名を呼ぶ。
少女の名、それは美しい『光』をしめす。セレンにとってかけがえのない『光』、それがキラであり、最愛の存在だった。
疲れきっていた心身を快癒させた『光』を、セレンは見ずとも感じ取っていた。それがキラの『想い』であることも。
耳たぶまで真っ赤に染めているキラは、どうやら『光』の魔術を施していたことを自覚していないようだった。キラの体内に『光』が収縮してゆく。
尊いものを眺めるように、セレンはその様を見つめていた。そして声に出して言えたのは、たったの一言。
「ありがとう、キラ」
他に、言葉が浮かばない。想いを伝えるのに言葉は不完全すぎる。
だから――
抱きしめて、再び口づけようとしたのだが、今度は逃げられてしまった。
「お、王子ってば、起きてくださいっ!」
寝惚けていると思ったのか、あるいは照れ隠しなのか、キラは大仰に慌てふためいて身体をのけぞらせた。
セレンは小さく笑い、姿勢を直した。
「起きているよ、キラ」
それから、悪戯な少年のような表情をして、付け足した。
「けれど、疲れはまだ残ってるみたいだから、今宵、また」
私に、君という『愛』をと、請う。