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キラキラ  作者: るうあ
キラキラ 本編以後の小話
29/54

薔薇の抱擁

 明るい陽の光が降り注ぎ、森の緑がいっそう鮮やかに映える。

 春は夭々《ようよう》とけ、梢を渡る風の香は甘く、閑雲の下を忙しくなく飛び交う渡り鳥達の囀りもやたらに色めきたって、聴く者の心を躍らせ、逸らせる。

 大気にほのぼのとにこやかな恋歌が満ち溢れる、花もたけなわの頃である。





 金の縁取りがある白い磁器カップから甘い香りが立ち上り、セレンの鼻腔を優しくくすぐった。

 深みのある紅色の香茶は、「森の魔女」特製の茶だ。口に含むと口内に甘いバラの香りがひろがる。香りは甘いが清涼感のある口あたりで、するりと喉を伝って胃の腑に落ちる。

「とてもよいバラが手に入ったんです。観賞するのもいいなって思ったんですけど、食用としても良い質のバラだったから、胃腸の働きを良くする薬草と配合して、バラ茶を作ってみたんです」

 黒髪の少女は自慢げに微笑み、茶を飲むセレンの様子を窺った。

「とても美味しいよ」というセレンの言葉を待っていた少女は、それを聞き、安堵したようだった。

「配合した薬草のいくつかは、神経の緊張を緩める効能のあるものなんです。それと、ほんのちょっぴりですけど、疲労回復の魔法もかけてありますから」

 簡略な説明をした後、森の魔女は嬉しげな様子で語を継いだ。

「それにほら、バラの香りって、独特で甘くて優しくて、王子っぽいでしょう? だから、どうしても王子に飲んでもらいたくて」

「私っぽい?」

 セレンは目を細めて、小さく笑った。

 カップから甘く漂ってくる香気そのもののような微笑だ。セレンの温雅な微笑みを向けられて、少女はわけもなく頬を染めた。……いや、わけはないでもない。セレンの微笑が美麗すぎるからいけないのだ。

 白磁の肌の三方を囲むやわらかな亜麻色の髪と、花の蜜のような甘さを湛える双眸がことに印象深い。セレンの美貌は年齢を重ねる毎、艶めきを増していっているようだ。

 幼馴染であり、さらに恋人でもあるはずの少女だが、セレンの一挙一動に、少女はいつだって焦ったり慌てたり戸惑ったりして、心を擾々《じょうじょう》とさせてしまう。けれどもそれは温かく、時には熱くなるほどのときめきだ。セレンは少女の心に温もりと安寧を与えてくれる。――バラの花茶のように。




 セレンはゆったりとした姿勢で長椅子に腰かけ、ふと懐かしげに部屋を見回した。

 森の魔女の住まいは木の香りと薬草の匂いが混じって、まるで樹木の虚に身を置いているような心地になる。舘自体も蔦の這っている部分が多く、調度品もほとんどが木製ということもあるのかもしれない。小さくはあるが、採光窓がいくつもあり、そのために薄暗さは感じない。

「この舘はとても落ち着くよ。広すぎず狭すぎず、明るさも程良いからかな。時を忘れて、いつまでも寛いでいたくなるような」

「そうですか? そう言ってもらえるのはなんだか嬉しいです。今日は思う存分、まったりと休んでいってくださいね!」

「ありがとう。魔女殿の好意に甘えさせてもらうよ。存分にね」

 セレンのやわらかな微笑を受け、少女も明朗な笑顔を見せた。

 近頃では、少女の方が森を出てセレンの住まう屋敷へ行くことの方が多いのだが、今日は珍しくセレンの方が森の舘へとやってきた。

 以前は逆だった。領主として多忙の日々を過ごしているはずのセレンは、暇を強引に作っては、足繁く「森の魔女」の住み家へ通って来ていた。先代の森の魔女が亡くなってから、ずっとだ。

 気を遣わせてばかりいたと、今思い返しても申し訳なく、恐縮してしまう。

 セレンは物質的な援助ばかりでなく、精神的にも少女を支え続けてきた。

 その恩返しをという理由をつけて、最近では少女の方からセレンのもとへ赴き、滋養のある食事を用意したり、セレンの母との思い出のある中庭の手入れなどをしたりして、セレンの身近で日を過ごすようにしていた。

「もっとゆっくり寛いでいってくれて構わないのに」

 微苦笑してそう言うセレンに、少女は「いいえっ」と意気込んで応える。

「王子が頑張って働いてるのに、わたしだけ一人のんびり休んでなんかいられません」

 と言うが、じっとしていられないのは少女の性分だ。それに少しでもセレンの役に立てるのが、少女には嬉しかった。もっと正直にいえば、セレンの身近にいられるのが嬉しく、幸せなのだ。

 その本心を明かしてしまうのがどうにも恥ずかしく、世話焼きらしいことを言ってごまかすのだが、セレンにはお見通しだろう。

 そんなセレンの敏さに頼り、甘えきっている自分が情けなくもある少女だった。


 自分の頼り甲斐の無さに落ち込んだりもする少女だが、自信を持って言えることもある。たとえば先代の森の魔女から受け継いだ魔法薬の調合や、手料理等がそうだ。

「お茶の他に、バラの焼き菓子も作ってみたんです。バラの芳香が消えないように焼くのがけっこう難しくて、苦労したんです。それでもあれこれ工夫した甲斐があって、我ながらうまくできたんです。王子の口に合うといいけど……どうですか?」

 包みの紐を解くと、ふわりとバラの香りが立つ。セレンがそれを口に運び、咀嚼して嚥下する様を、少女は期待と不安の入り混じったまなざしで見守っていた。やがて、先ほどと同じように「美味しいよ」という感想を得、少女はほっと息をつき、安堵した。

「上品で、とても良い香りのバラだね。きつすぎはしないが、体中からバラと砂糖の香りが匂ってきそうだ。甘い気分になるね」

「ほら、その甘さが王子っぽいでしょう?」

「そうかな」

「そうですよ!」

 少し困ったように眉を下げて微笑むセレンを見やり、少女はしたり顔でそう言った。

「王子ってバラみたいに華麗で甘くて、存在感があるもの!」

「…………」

 ありがとうと礼を言ってよいものやら、セレンは返答に迷い、苦っぽい笑みを浮かべた。

 バラに譬えられるのに抵抗があるわけではないが、やはり心中は少々複雑だ。男としての矜持もある。

 だが、無邪気に喜んでいる少女に水を掛けるような気にはなれない。セレンは応える代わりに茶のお代わりを求めた。

「お茶もお菓子も、王子の口に合ってよかったです」

 少女は顔をほころばせて、セレンの所望に応えた。



 素直な心根の少女は、大抵の場合、思うことは思うままに表現する。気恥ずかしさが勝って、愛情表現をごまかしてしまうこともままあるのだが、それもまた素直な感情表現といえよう。

 しかし一方で、無意識的に抑えて言葉にしない思いもあった。しないのではなく、できないといった方がよいのか。少女の我慢強さと遠慮深さが言葉より先に立ち、少女の思考と発声を停止させることが稀にある。

 ただ、言葉には出ずとも、顔色には表われる。セレンがそれを見逃すはずもない。

 少女の心はふとした拍子に移ろい、様々な色を顕露させる。


 ――俄かに、日が陰った。

 窓辺に射しこんでいた陽射しが色彩を落とし、少女の顔にも蒼白い陰がさした。ほんのついさっきまでほころんでいた少女の顔から、明るい笑みが消えた。

 少女の黒眸は窓の外に向けられ、風に揺れる常盤色の梢をぼんやりと眺めていた。

 たわわに咲き誇っている白い小花が、ちらほらと風に流されている。

(……雪みたい)

 少女はぼうっとした頭の隅で、そんなことを想った。

 空気が少し冷たくなったように感じた。

 沈黙が落ちかかっている。小花が風に散らされるように、静々と。

 その沈黙の中にともに在り、心配げな目を向けているセレンにも、少女は気付かない。

 時々こんな風に、少女は忽然と沈黙を呼びこんでしまう。

 具体的な何事かに思い悩んだり、悲歎に暮れたりするわけではない。少女自身無自覚に、鬱然とした虚無感に心を明け渡してしまうのだ。その間思考は停止し、周囲に気が回らなくなる。

 だが、それはごく僅かの時間だ。すぐ我に返り、ぼうっとしていたこと自体を忘れてしまう……いや、忘れようとするからか、突然訪れる虚無感の正体を明らかにしようとしない。あるいは、分かっていて気付かぬふりをしているだけなのかもしれない。ともあれ、何事もなかったかのような顔をする。

 他人の心の機微に関してはわりに敏感な性質の少女だが、自分自身の思惟、そして自分に向けられる情意には疎いところがあると、セレンは見ていた。

 セレンは徐に立ち上がり、ぼんやりと佇立している少女の細い体を背後から抱きしめた。少女の長い黒髪から仄かに甘い花の香りがした。

 突然のことに驚いて、少女は「わっ」と声を上げて身を捩ったが、セレンは僅かに腕の力を緩めただけで、少女を離しはしない。

「おっ、王子ってば、いきなり何を……っ」

「うん?」

「だからですねっ、その…っ、いきなり何をするのかって!」

「何、というと、今こうして君を抱きしめていることをいうのかな?」

「そ、そうですけど……王子ってば、もうっ! そういう更に恥ずかしくなるようなこと言わないでください!」

 振り返り見ると、そこにはセレンの優麗な微笑があり、亜麻色の双眸が少女を映していた。

「……っ」

 少女は思わず息を呑む。卓逸した麗容を間近に見て、しかも艶美な微笑を向けられてはとても平常心ではいられない。そのうえ耳元で甘く囁かれては。

「君が」

 セレンは声をひそめた。睦言の葉を少女の耳に落としていく。

「君が、抱きしめるのを待っているように見えたんだよ。私の腕の中に収まりたがっているように見えたから、そうしたのだけど」

「そっ、そんなの、王子の見まちがいで、思い過ごしですからっ」

「そう?」

「そうです!」

「本当に?」

「…………」

 言葉に詰まり、少女はきゅっと唇を噛んでセレンから目を逸らした。

 違うと断じ切れなかった。

 少女はセレンの温もりをいつだって求めている。表に出すか出さないかというだけで、それは騙れない本心だ。

 眉毛を読まれてしまったようで少し口惜しかったが、恥ずかしさの方が勝った。何か言い返そうにも二の句が継げない。

 鼓動が烈しくなり、顔中が熱りだしてくる。上気した頬を隠そうにも、こうも密着していては隠しようもないだろう。

 セレンは腕の中で身を縮こまらせている恋人の内心を察し、頬を緩ませた。

 少女の素直な反応が愛しくてたまらない。

「正直なところをいえばね」

 セレンは少女の黒髪を指に絡みとる。そして、ふと小さく息を吐く。

 初な反応を見せてくれる恋人をからかうのは楽しいが、機嫌を損ねられては元も子もない。そのあたりのさじ加減をセレンは心得ている。稀に、さじ加減を誤ってしまうこともあるのだが。

「単に、私がこうしたかった」

「…………」

「キラ」

 セレンの甘やかな声音が少女の名を呼ぶ。内緒話をするような囁き声を耳朶に落とされて、少女の頬がさらに熱を帯びた。

 キラは戸惑いがちに顎をあげ、上目遣いにセレンを見やった。キラの黒い双眸は含羞にたゆたっている。

 セレンは典雅な仕草で小首を傾げ、優しく微笑んだ。

「こうして君に触れていると、心身ともに休まって、癒されるからね。もちろん、君が作ってくれたお茶とお菓子の効果によるところも大きいよ。さすがに森の魔女殿のご自慢の茶菓は、美味しいだけではなく、治癒の利き目も抜群だ」

「もう、王子ってば……」

 セレンのさり気ない優しさが胸に沁み入ってくる。

 鼻の先がツンと痛み、目頭が熱くなって、泣きそうになってしまった。それをごまかすために、キラは笑って冗談口を叩いた。

「王子のバラっぽさがうんと増しちゃいましたね。なんだかバラの香りに当てられちゃったみたい。だから、……――」

 そう言ってからキラはくるりと身を半回転させ、セレンの背に細い二の腕を回した。「わたしも休ませてください」と、セレンの胸に頬を摺り寄せる。

 ――心の空洞を、セレンの温もりで満たして。

「キラが望むのなら、溢れ、こぼれるほどに」

 セレンは愛しげに微笑み、指に絡ませた黒髪を口吻に触れさせた。




 豊潤な香りと柔靱じゅうじんな棘に囚われ、繋がれて、キラはバラの抱擁に甘い痛みを知る。

 うなじに散らされる口づけの痕に。


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