暁月夜
暁星が瞬いている。
愛しい少女の瞳のようなきらめきを放ち、浅い夢から覚めたセレンの目を引いた。
体を起こすのも億劫で、セレンは横たわったまま寝乱れた髪を物憂げにかきあげた。亜麻色の髪にはごく僅かに湿り気が残っている。寝汗ではなく、熱情の名残だ。
初夏の夜は、寝苦しくさせるほどにはまだ暑くない。
外はまだ暗い。しかし朝影が窓辺に射しこんでいるようだった。爽やいだ空気が室内を浸し始めている。
じきに、夜は明けるだろう。
セレンは暫時小窓から見える星を眺めやっていた。
美しいが、寥々とした星の瞬きに、セレンは目を眇めた。そして、ふと小さく息をついて、瞼を閉じる。
再び眠ろうにも妙に頭が冴えて、夢の世界には戻れなさそうだった。
セレンは再び瞼を上げると、今度は、真横で眠っている黒髪の少女に視線を向けた。
少女の安らいだ寝息を傍らに聞きながら、セレンは静かに嘆息した。少女の長い髪を指にくるくると巻きつけてみたり、口元に寄せて接吻してみたり、そうして少女の目覚めをさり気なく促しているのだが、瞼は閉じられたままだった。
少女は窮屈そうに身を縮こまらせている。窮屈にさせているのはセレンだ。少女の肩を抱いて体を拘束している。セレンの腕に束縛され、寝返りも打てずにいる少女だが、別段苦しそうな様子はなく、むしろ安堵しきったようにすやすやと穏やかな寝息をたてていた。
二人が横たわっているベッドはひろい。「降りるのに苦労しますよね、これだけ大きいと」と、少女は呆れたように言ったことがある。ベッドから降りるのに苦労がかかるのは、何もベッドがひろすぎるからだけではなく、大抵はセレンが原因だ。眠りから覚めても、セレンは少女の体をその腕から容易には解放しない。寝ぼけたふりを装って、さらにきつく抱きしめることすらある。
少女は顔を真っ赤にしながらセレンの下でじたばたともがき、それがまたセレンの悪戯心を誘ってしまうのだ。
「王子っ、もうっ、朝から悪ふざけがすぎますってば!」
「朝餉にはまだ早い。もう少しの時間、昨夜の続きをしても……」
つれない恋人は、そのままセレンの提案に、なし崩し的に流されてはくれない。
少女はセレンの胸に両手を当てて、「だめですってば!」と押し返してくる。
「朝から恥ずかしいこと言わないでくださいっ!」
「恥ずかしいことではないと思うが?」
「王子は恥ずかしくなくてもわたしが恥ずかしいんです!」
「朝も夜も、魔女殿は恥ずかしがってばかりだね。そういう君も愛しく思うけれど、拒まれてばかりなのは、少々、…堪えるな」
セレンの亜麻色の瞳が細められ、切なげな微笑がため息とともにこぼれる。
逸らされた亜麻色の双眸は、あからさまに仕掛けられた罠だ。
拒んだりなんかしません。
少女からその言質をとるための他愛無い誘導だ。容易く…いや、少女は知っていて、それでも罠にかかるのだろう。優しい少女は、そうしてセレンを許してしまう。けれども、いかにもわざとらしく落胆してみせるセレンを怒るくらいにはしっかりしているといっていい。容易くほだされてしまうように見せて、そうそう簡単には流されない頑固さも少女にはある。
「そういう、いかにもなしょんぼり顔しないでください。その手にはのりませんからね!」
「それは残念」
セレンはため息をつき、微苦笑する。
結局、観念させられるのは、いつでもセレンの方だった。
抱き合って一つのベッドで眠り、二人揃って朝を迎えた日、少女は困り顔をしてしまうことが多い。
セレンのからかいに、少女は怒気を含ませた反応を示す。怒っているというより、拗ねてしまうといったほうが正確だろうか。「王子のいじわる」とむくれて、唇を尖らせる。
困惑させられるのは、セレンの寝起き顔があまりに艶めかしすぎるせいでもある。と、少女は述懐する。
目覚めた初っ端からセレンの麗容を目の当たりにし、しかも艶美な微笑を向けられて、どうして平常心でいられようか。
心臓が早鐘を打ち、暑気あたりになったように頬が熱くなる。
少女はおそらく、セレンの哀婉な亜麻色のまなざしを受けて思いだすのだろう。セレンの甘い囁きや熱い抱擁を。
それはセレンも同様だ。少女の意識を奪うまで愛し尽くし、自分もまた尽き果てて眠るのだが、時には焔を燻ぶらせたまま已む無く目を閉じることもある。
無理強いはできない。
少女の細い体は、セレンの情熱の全てを受け止めるにはまだがんぜない。少女はもう幼い子供ではないが、性格的にも体格的にも、成熟しきっていない部分がある。それがセレンを躊躇わせた。それでも恋情は抑え難く、少女のすべてを求め、半ば強引に己の腕の中に閉じ込めてしまう。征服欲といっていいその激しい欲情を、セレンは幼い頃から培われてきた自制心で、どうにか抑え込んでいる。
少女の拒絶を怖れるあまりに、無理押ししきれないという側面もないではない。
少女は浅緑色のシーツを抱き込み、セレンの腕の中におさまっている。
セレンは少女の滑らかな艶のある黒髪の触り心地を堪能し、しかしそれでは物足りなくなって、頬に触れた。指先で頬を軽く撫ぜる。涙の跡はもうない。頬は少しだけ冷たかった。
「……キラ」
セレンは小声で、少女の秘された名を囁いた。魔力の源とすらいえる、少女の名だ。
少女の名はセレンにとって特別な意味を持つ。それは少女にとっても同じだ。
「キラ」
その名を繰り返し囁いても、少女キラは目覚めない。僅かに身じろいだが、キラは夢の世界から戻ってくる気配を見せなかった。相変わらず穏やかな寝息をたて、安気な様子で寝入っている。
セレンはふと目線を上げ、先ほども見上げた小窓の向こうの空を見た。
夜明けが近い。藍色の空に曙光が射し、次第に明るくなってゆく。藍色の下に薄桃色が広がり、濃い色の朱色がそこに重なっている。明けの空は不思議な色を湛えていた。その空に、消え入りそうな白い月が名残惜しげに張り付いている。しかし朝日に追い立てられるようにして、上弦の月はやがて夜の闇とともに隠れ去ってしまうだろう。
夏の夜は短い。
こうしてキラの身を拘束しておける時間も、あと僅かだ。
――起こしてしまおうか。
セレンは逡巡した。
――まだ治まりきらない夜の熱情を、再びキラに伝えようか。
セレンは小さく笑い、そしてキラの手を掴み、そっと口元に寄せた。
熟睡しているキラは一向に目覚めない。「うぅん…」と小声を漏らしたが、瞼が持ち上がることはなさそうだった。
それも致し方なかろう。セレンのせいなのだ、昏睡させたのは。
それを自認しているから、夢寐にあるキラを起こすのは忍びなかった。
まだ部屋は薄暗い。明かりは乏しいが、少女の安らいだ寝顔はセレンの目にはよく見えた。キラの白い肌は、…そう、暁月のように美しく儚げだ。
だが、キラは消えていなくなったりはしない。セレンの腕から逃れもしない。
セレンはそれを知っている。願っているといってもいい。
目覚めれば、キラははにかんだ笑顔を見せてくれるだろう。
「……キラ」
愛しているよと囁き、セレンはキラの手の甲に軽く口づけた。
朝、「おはよう」の挨拶を交わし合ったその後に、セレンは律儀にも同じ台詞を囁く。そしてまたキラに怒られてしまうのだ。
「王子ってば、もうっ、朝っぱらから何を言ってるんですか!」
しかし懲りないセレンはにこりと微笑むと、したり顔で言ってのける。キラの反応を楽しみつつ。
「夜のうちに伝えたかったのだけれど、君は、早々に寝入ってしまったからね」
「そ…っ、それは、誰のせいだと!」
「私のせいだね。だけど、そうさせたのはキラのせいでもあるけれど?」
「……っ」
そしてセレンは、絶句するキラの唇に、ちゃっかりとキスをする。
予定調和とでもいうのだろうか。
そんな風にして、二人の朝は甘やかに始まるのだ。
暁月夜「あかときづくよ」と読みます。