連理
魔女だからといって、万能なわけじゃない。
と、当の魔女である少女は、ちょっと怒った風に、あるいは少しばかり悲しげに眉目を曇らせて、ため息まじりにこぼす。
超常的な特殊能力を持っている者、そしてそれを生業にしている者は、魔女だの魔法使いだのと呼ばれ、忌避されたり、歓迎されたりしてきた。魔力を持つ者の在り様は、時代によって大きく変わる。為政者次第ともいえるだろう。
森の魔女と呼ばれる黒髪の少女は、幸運にも、魔女蔑視の憂き目にあったことはなかった。先代の森の魔女ともども、町人に親しまれ、魔法薬作りの名人として、信頼されてもいる。
ただ、誤解されることはある。
つまり、魔法を使ってなんでも叶えられるのではないか、できないことはないのではないか、と。
それに関して、少女はちょっとムキになって否定する。
牛をヒキガエルに変身させることなんてできないし、太陽を西から昇らせることもできない。ましてや、不老不死の妙薬を精製するなど、不可能だ。
例外的に、幻術という魔法を使って、牛をヒキガエルだと思い込ませたり、太陽が西から昇っているような錯覚を見せたりすることはできる。
「でもそんなのは全部まぼろしで、実際にそうなるような魔法なんて、ないんです」
生真面目な性格の少女は、魔力という特殊能力を、物堅くとらえているらしい。人智を超えた能力は、制御して使わねばならないと、心に留めていた。それは先代の魔女からの教えでもあった。
その一方で、少女は少女らしい……いや、恋をする乙女らしい悩みを抱え、愚にもつかぬことを考えてしまうこともある。
(心が、読めたらいいのに……)
読心術を使えたらいいのに、と。
少女の魔力属性は「光」である。この「光」という魔力属性についての詳細を、少女は知らない。精神に作用する類の属性であることは、師匠であった先代の森の魔女から聞いた。稀少な魔力であることも。
稀少で強力な「光」の魔力を身の内に有していたとしても、だからといって、少女は万能な魔女ではない。
少女は、読心の術を会得していない。その術を希求することは、普段であれば、ないことだ。
ただふと、「読めたらいいのに」と思ってしまうことがある。それはただ一人の人に対してのみ、思い煩うことだ。
温顔を崩すことなく、穏やかで美しい笑みをたたえている、その人。
その人は、少女にとっては大切な幼馴染みであり、恋人でもある。名をセレンといい、現国王の庶子であり、少女の住まう土地を治める領主でもある。
類稀な美貌と典雅な雰囲気を天稟として持っているセレンは、心意を容易く悟らせないところがある。
寡黙というわけではない。かといって、多言を好む性質でもない。話をはぐらかしたりごまかしたりするのは得意なようだが、嘘偽りを言うようなことはない。誠実な人柄のセレンは、それゆえに領民達から信頼され、親近感ももたれている。ことに、若い娘達からは絶大な人気がある。「美麗な高嶺の花」と。
その「高嶺の花」の恋人が自分であるという事実に、少女はいまだ慣れず、戸惑っている。
気に病んで、セレンの傍にいられなくなる、というほどのことはないが、少々不安に思っていることがある。杞憂に過ぎぬことだと頭の隅では分かっていつつも、不安を拭い去ることはできなかった。
しかし、思ったことは素直に口にする性質の少女だ。
少女は少しためらった後、不安に思うそのことを心を読みたいと思っている相手に尋ねた。
「あのぅ、王子、ちょっと訊きたいんですけど……」
遠慮がちに、少女はセレンの顔を覗き込む。
ほんのつい先刻まで執務中だったセレンは、少女が淹れた甘い香気の茶を飲んでいる。
場所は執務室で、セレンの前にはまだ片付けられていない書簡が積まれていた。それらを気にしつつ、少女はセレンの傍に所在なげに立っている。
「王子は、わたしのどこが……好き、なんですか?」
唐突すぎる質問だった。
それに、少女がそうしたことを訊いてくること自体、珍しいことでもあった。
セレンは亜麻色の瞳を大きく開いて、驚いたように黒髪の少女を見つめた。が、瞳の色はすぐにやわらいだものに変わる。
少女は頬を赤らめていた。羞恥に染まった顔で、まっすぐにセレンを見つめている。
「いきなりだね」
そう言ってセレンが微笑むと、少女は顔を俯かせ、「いきなりだけど、いきなりじゃないです」と、拗ねるような口調で呟いた。
半分だけ開かれた窓から、爽やかな風が入り込んで、少女の黒髪をさらさらと揺らした。
春爛漫、競い合うようにして咲いている花々の馥郁とした蜜の香が、午後の風に含まれている。
長い黒髪を風に撫ぜられている少女は、まるで咲き始めた薄紅色の小花のように、初々しい。
セレンは瞬きすらも惜しいといったように目を細め、愛しげに少女を見つめ返している。そして、さらりとこともなげに答えた。
「君の全てが好きだよ」
「答えになってません」
間髪いれずに、少女は言い返した。黒曜石の瞳が、まっすぐにセレンをとらえている。
「全てって言われても、全然分からないです。そんなの……曖昧です」
思いもかけぬ少女の反応に、セレンは驚き顔をした。恥ずかしがって、文句をつけてくるものとばかり思っていたのだ。
セレンは微苦笑を口元に浮かばせた。そして、椅子に腰かけたまま、そっと手を差し伸べた。
「――こちらへ、来て」
少女は素直に応じた。いつもなら恥ずかしがって、警戒の声をあげるというのに。
おずおずと、少女は差し伸べられた手を取った。セレンの手は少し冷たい。その手が、少女の細い指を優しく握っている。
「わたし、その……えっと、王子の気持ちを疑ってるんじゃないんです」
「うん?」
少女は真摯な口調で語りだす。頬にさした赤みは薄れることなく、そこに生まれた熱が全身に広まっているようだった。
「だけどわたし、王子みたいにキレイじゃないし、魅力なんて全然ないし。魔女としてだってまだまだ未熟で、できること、少なくて」
「…………」
「わたしってば、王子に頼ってばかりですよね? 昔からずっと」
春先、領主であるセレンは何かと忙しい。
朝から晩まで働き詰めということすらある。こうして執務室に籠もる日もあれば、領地の見回りに出ることもある。
何か手伝えることがあればいいのにと少女はいつも思うのだが、しかし行政に明るくない少女は、何をどう手伝っていいのかが、まず分からない。第一、セレンには有能な補佐役がいるのだ。少女がしゃしゃり出たところで、かえって邪魔になるだけだろう。
「今もこうしてお茶を淹れることくらいしかできなくて……」
「お茶を淹れることくらい、と言うけれど、それがどれほど私の心を癒してくれているか、君は分かっていないのだね」
「え……」
少女は小首を傾げた。
「――キラ」
少女の頬にセレンは手を添えた。そして、少女の秘された名を呼ぶ。まるで睦言でもささやくように。
「キラ、私を見て」
「…………」
言われるまま、キラはセレンの亜麻色の双眸を見つめる。
淹れた茶よりも淡い色の瞳は、匂いたつような甘さがあり、キラの胸をときめかせるには十分すぎるほどに、熱かった。
「今、君は誰を見つめてる? この地の領主であるセレン? それとも、国王陛下の庶子であるセレン? 君が好いてくれる私は、いったいどのセレン?」
「そんな、の……!」
キラの潤みを帯びた瞳に力強い光が宿る。
「王子は……セ、セレンは、王子なのも領主なのも、ひっくるめて全部がセレンで! わたしが今見つめてるのも、す、好きな、のも、そういうセレンの、全部です!」
「うん」
にこりと、セレンは穏やかに笑った。
「そう、私もだよ、キラ。魔女である君も、魔女ではない時の君も、全てをひっくるめて、君という存在が愛しくてたまらない」
「……っ」
セレンの甘いささやきは、魔法の呪文のようだった。キラの身体を一瞬にして硬直させる。そしてその隙を狙って、セレンは言葉を詰まらせ噤んでいるキラの唇に、口づけるのだ。小鳥の羽が触れるかのように、軽く。
「な、なっ、王子ってば!!」
顔中真っ赤にして、キラは思わずのけぞった。
「そうやってすぐに恥ずかしがるところも、好きだよ、キラ。ああそうだ、せっかくだから、他もひとつずつ挙げていこうか? たとえば君の……」
「いっ、いいですっ! もう、分かりましたからっ!」
「曖昧なのは、嫌じゃないのかな?」
「曖昧だけど、……けど、分からないわけじゃないから、もういいんです!」
「キラが望むのならば、好きな気持ちを具体的に示してもいいのだが」
「だから、もういいんですってば!」
セレンの言葉を遮ると、キラはさっと足を引き、体を離した。
キラが強引に止めなければ、セレンは具体的な行動に出ただろう。嫌だというわけではないが、恥ずかしくて居たたまれないのだ。“それ”を望んでいたのはキラ自身だというのに、いざ実行されると照れくさくなってしまう。
セレンはクスクス含み笑っている。
それがまたキラの羞恥を煽るのだ。
「わ、わたし、今日はもう帰りますから!」
「……怒ったのかな? 魔女殿の機嫌を損ねてしまったのなら、侘びをせねばなるまいね?」
「違います、怒ってなんかいません!」
「本当に?」
「ほんとです! ただ、もうあんまり長居しちゃいけないかなって思っただけです」
「…………」
セレンは立ち上がることもせず、ただため息をついた。
引き止めたいのは山々だったが、強くは出られなかった。机上に積まれている書簡の山が、セレンを引き止めた、ともいえよう。
「これ以上お仕事の邪魔をしちゃいけないし。だから、えぇっと、その、王子……、ヘンなこと言っちゃってごめんなさい。お仕事で疲れてるのに」
「気にしていないよ。むしろ嬉しかったよ」
「え?」
キラはきょとんと目を丸くし、まじまじとセレンを見つめ返した。
「私の気持ちを確かめてくれたことも、私の全てを好きと言ってくれたことも」
「…………」
キラの頬が、鮮やかな紅色に染まる。キラの表情は、含羞と溢れんばかりの恋慕の色に美しく彩られていた。
「あ、あの、王子」
「ん?」
セレンは小首を傾げた。亜麻色の髪が、光を帯び、さらさらと肩に流れる。
「あの、明日もまた、来ていいですか?」
「もちろん」
セレンはやわらかな微笑をたたえている。キラはほっと胸を撫で下ろし、喜色を浮かべた。
「それじゃぁ明日は、王子の好きな焼き菓子を作って、持ってきますね!」
それからすぐに帰り支度を整えたキラは一人、見送りも遠慮してセレンの住まう屋敷から出た。仔馬よりはやや大きい程度の飼い馬にまたがってから、キラは首を伸ばし、深く嘆息した。
吹いてくる風はしっとりとした花の香りを含んでいて、素肌にも髪にも優しい。
空は満々と青く、雲はのんびりと流れている。木々の隙間からは、鳥のさえずりが聴こえてくる。もしかしたら、求愛の歌かもしれない。甲高く空に響き、長く、途切れない。
おぼろげで、のんびりと和やかな春の午後は、キラの心に不安という淡い霞をかけ、そうかと思えば花蜜のように甘い気分にもさせる。
春は、とまどいがちな季節だ。
魔女は万能じゃない。できることもあれば、できないこともたくさんある。
好きな人の心すら読むことができない。そのせいで不安になったりもしてしまう。
(――でも、それでいいんだ……)
キラの口元には、穏やかな微笑が浮かんでいた。
不安は心の隅に残っているけれど、それを無理に掻き消そうとする必要はない。
想う人の心を知りたいのなら、物怖じせず、訊けばいい。伝えたい想いがあるのなら、素直な気持ちになって、言えばいい。
それらは、魔法なんかに頼らなくてもできること。むしろ魔法の力に頼ってはいけないことなのだろうと、キラは真摯に思う。
セレンの心をこっそりと読む必要など、ないのだ。
だけど、と、キラはちょっとだけ眉根を寄せて、微苦笑した。
――王子ってば、ズルイ。
わたしの気持ち全部を見透かしちゃってるのに違いないもの。
実は読心の術を会得したりしてるんじゃないかな?
王子には、本当に敵わない。敵わなすぎるよ……。
非万能な森の魔女は、甘んじて、非凡な王子の虜になっている。
そして、安堵している。