キラキラ scene.2
翌日も、翌々日も王子は森へやってきた。
「惚れ薬の調合は進んでいるか」と尋ねてくるが、急かすような口ぶりには聞こえなかった。
王子はいつも単身で森に入ってくるのだが、今日は珍しく供を一人連れていた。初老の男で、王子の身の回りの世話や政務の補佐をしている人物だったから、少女も何度か面識があった。名は、ハディスという。
「お久しゅうございます、お弟子殿」
「あ、はぁ。……どうも、お久しぶりです」
丁寧な挨拶とは裏腹に、なにやら探るような視線を感じて少女はいぶかしんだ。不愉快な視線ではないが、品定めをされているような居心地の悪さを覚え、必要以上に委縮してしまった。
それを見て取った王子は少女を庇うようにして割って入った。「ハディス、先に帰っていてくれ。もう用は済んだろう」
「左様ですな。では、私はこれで」
一礼した後、ハディスはあっさりと引き下がり、再び馬上の人となった。
用とはなんのことだろうと少女は首を捻る。ほんの一言二言話しただけだというのに? それとも用とは自分とは関わりのないことなのだろうか?
居心地悪そうに身を縮こまらせている少女にもハディスは慇懃に会釈をした。
「本日はなるべくお早く戻られますように」
「わかっている。時間までには、必ず戻る」
王子は嘆息して応えた。珍しく声の調子も低く、冷たい。
ハディスは「約定をたがえませぬよう」と念を押してから、手綱をひき、馬を駆らせて去って行った。
ややあってから、少女は王子の顔を覗き込んで訊いた。
「どうしたんですか、王子? らしくないですね?」
「らしくない、とは?」
もう王子の顔にはいつもの美妙な笑顔が戻っていて、鋭さも冷たさも感じられない。ただどこか、疲れている風ではあった。
「なんか今日は、ちょっと違うっていうか。何か嫌なことでもあったんですか?」
王子は微苦笑して応えた。
「嫌なことというより、面倒なことがあるのだよ。それで少々憂鬱な気分になっている、といったところかな」
「へえ? あ、はい。お茶をどうぞ」
少女が淹れるハーブティーは、いつも王子の心を安らげる。淹れている当人の顔を見ることも大切な要素だ。たとえそれが、笑顔でなくとも。
「最近、縁談が多いんだよ。仕方のないことだけれどね」
「それじゃぁ、今日は見合いがあるとか?」
「まあ、そうだね。晩餐に招かれているんだよ。面倒だけどね」
「それで惚れ薬なんですか?」
「それで、とはどこにかかる言葉なのかな? いきなり惚れ薬とは、意味が分からないね」
「縁談なんでしょう? だったら面倒を減らすために惚れ薬を使いたいのかなぁって」
王子は失望したような顔で深々とため息をついた。
「君は勘が鋭いのか鈍いのか、まったく読めないね。困ったな」
「王子こそ! 意味不明で、意味深で、読めなくて、困ってるのはわたしの方こそですから!」
「君は、まったく……」
わざとかい? そう問うと、少女は目をぱちくりさせてから、少し怒ったように聞き返してきた。
「王子ってば最近ちょっと性質悪くなってません? わざわざ森の奥までわたしをからかいに来てるんですか?」
「そんなことはないよ。……それより。ね、以前から言っているけれど、“王子”と呼ぶのは、そろそろやめてもらえないかな?」
「どうしてですか? だって、王子は王子だし」
「王に認知された子供だから、王子には違いないけど、そう呼ばれて嬉しいものでもないんだよ」
「そうなんですか? でも、ずっとそう呼び慣れてきちゃったからなぁ。ねぇ、リプ?」
同意を、いつの間にかテーブルの上に現れていた眷属に求めた。
リフレナスは王子に軽く会釈をし、挨拶を済ませた。
「俺も、できればきちんとした名前で呼ばれたいね」
リフレナスのそっけない応えに、少女は不満そうな顔をつくった。
王子は典雅な笑みを浮かべ、頬杖をつく。
「まさか名前を忘れているなんてことはないだろうね? 君なら有り得るが」
「どういう意味です。憶えてます、失礼な。いいじゃないですか、王子で。今さら急に変えられません」
「……頑固だね、君は」
「魔女ですから」
膨れっ面になって、少女はそっぽを向いた。
こういう時の王子は、苦手だ。
何か言いたそうな顔をして、じっとこちらを見ている王子の視線が、横面にチクチク刺さる。
最近になって、だ。どことなく切なげな顔をして黙り込んでしまうことが、ままある。
王子の言動は不可解なことだらけだ。
風が、梢を揺らした。葉がこすれあい、涼やかな香りを運んでくる。しじまが少女と王子の間に落ちた。
少女の長い黒髪が風を受けて、さらさらと揺れる。黒絹のような豊かな髪は、座っていると地につくほど長い。
以前少女から聞いたことだったが、髪は多少なりとも魔力に影響を及ぼすらしい。だからできれば長く伸ばしなさいと師匠に言われたらしい。師匠の言いつけを守って少女は髪を伸ばし続けている。
板みたいにまっすぐな髪なんて、ちっとも可愛くないと少女はよく愚痴をこぼしていた。少女は、陽光を受けて光るさざ波のような王子の亜麻色の髪に憧れていた。
黒絹のように艶やかで、とても美しいよ。
王子がそう言っても、少女は本気には受け取らなかった。かえって拗ねてしまうことすらあった。
おそらくは、照れているのだろう。
王子の名前を呼ばないのも照れからだろうと考えていたが、どうやら違うらしい。
王子は落胆したが、さほどには落ち込んでいない。
「私を名前で呼んでもらえないのも残念だが」
少女の大きくて黒い硝子玉のような瞳が、王子を映す。
頑固なのも相変わらずだが、まじろぎもせず見据えるその双眸も、相変わらずだった。
「いつになったら君の名を教えてもらえるのかな?」
十二年もの間、王子は少女の名を知らずにいた。幾度となく尋ねたのだが、教えてはもらえなかった。魔女だから、という理由で。
「師匠が、特別な人以外には教えるなって言ったんです。魔女にとって名前は重要だからって。だから、今生きていてわたしの名前を知っているのは、リプだけです」
「特別、ね」
苦味を含んだ笑みが、王子の顔を僅かに曇らせた。
「呼ぶ名前がないというのは、不便なように思えるが?」
「そんなことはありません。町のみんなは、お弟子さんとか二代目さんとか魔女さんとかで呼ぶし。王子だって今まで名前なしでも普通にわたしと会話していたじゃないですか」
「教えたくない、ということかな?」
「別にそういうわけじゃありません。飛躍しすぎです。ただ、なんか今さらってだけで」
「……」
王子はため息をついた後、立ち上がった。
「そろそろ帰るよ。明日には惚れ薬はできそうかな?」
「作ってませんから」
「困ったね。……仕方がないな。別の魔女に依頼したほうがよいかな。隣国に、たしか優秀な魔女がいるという噂を聞いたし」
あてつけにそう言っているだけだ。そう分かっていても、少なからず気にかかった。
そうまでして惚れ薬がほしいと思う、王子の心情が。
「王子。惚れ薬なんて、よくないです」
少女は真剣なまなざしを王子に向ける。
「惚れ薬は、作れたとしてもそれは一種の毒薬です。薬物や魔法の力で相手の心を強制的に自分の思い通りに変えようとするなんて、良いやり方ではありません」
「……」
「王子はそういうことができる人じゃ、ないはずです」
「それほどでもないが……ありがとう」
王子の声は、少女の耳に届かないほど、小さかった。少女が「なんですか?」と聞き返しても、王子はただ笑ってごまかすだけだった。
「また、ね。魔女殿」
王子は優美な身のこなしで馬にまたがると、そのまま振り返りもせず去ってしまった。
「……なんなの、もうっ」
少女は苛立って、目についた小石を軽く蹴飛ばした。
町へ出るのは、五日ぶりだ。
少女は軽く息をついてから、久しぶりに出向いた町の様子を窺った。
心地いい秋風が、少女の黒髪をさらさらとなびかせる。
少女はこれといって変わりばえのない、平穏そのものの町を、暢気に歩む。
調合した薬の販売と食料の買出しがおよその目的だが、気晴らしに出かけることもある。
といっても田舎町のことだから、せいぜい食べ歩きをしたり、衣服屋を覗いたり、井戸端に集まっている主婦達から噂話を仕入れることくらいしか楽しみはない。今日得た最新の噂話は、王子の結婚話だった。なんでも近々結婚をするらしいという噂が、まことしやかに語られていた。
意外なようでもあり、真実味のある「噂話」だ。惚れ薬の件もあるから、聞きかじったその噂をでまかせと言い切ることはできない。
もやもやとした気分のまま、二代目の森の魔女が足を向けた店は、衣服屋だった。
「あらあら、いらっしゃい、魔女さん」
恰幅のよい体型の店主は、上機嫌で少女を迎えた。先代の魔女にずいぶん世話になったということで、二代目にも愛想がいい。
「こんにちは。少し見てまわってもいいですか」
「もちろんよ。まあ、そんな地味な服ばかり手にとってないで。こっちのドレスなんて、どう? あなたによく似合うと思うわ」
「でも、着る用途がないから。じき寒くなるから、上着をさがしているのだけど」
「あら、そうねぇ、それならよい毛皮が入ったのよ」
実は、少女はこの店主が少しだけ苦手だ。どう考えても必要のなさそうな豪奢なドレスばかりを選んでくるのだ。商売っ気が前面に出すぎているというか、もしかしたらただ純粋に着てみてほしいと思っているだけかもしれないが、正直、疎ましい。
「これは、久しいね、森の魔女さん」
店の奥から、普段着にしては派手な格好をした男が姿を現した。
王子と同じ年頃の青年だ。黙っていればそれなりに調った造作の美男子といえたが、薄い唇が動いて発せられる声に誠実さは感じられず、濃灰色の視線がひどく粘っこい。
しまった、居たのかと少女は、心底げんなりした。
「お母さん、彼女の服はぼくが選びますから」
「ああ、そうかい? そうだね、頼むよ」
いかにも下心のありそうな息子と、その母だ。
少女は後ずさり、出入り口のドアへさりげなく移動した。
「森の魔女さん」
男は壁に手をつき、少女が立ち去ろうとするのを遮った。
「……今日は、すみません、帰ります」
「逃げることはないと思うなぁ」
少女は顔を背けた。次に男が言う台詞は、わかっていた。
「この前の返事を聞かせてもらいたいんだけどな」
「…………」
ついてない。
今日は、しょっぱなからついていない。
気を晴らそうと思って町にやってきたのに、いきなりこれはあんまりだ。
少女はこれ見よがしに大きなため息をついてみせた。
「焦らされるのも悪くはないけど、そろそろはっきり返事をもらってもいいと思うんだ」
この男…シグから求婚されたのは、一ヶ月前のことだ。
その時にはっきり断ったはずなのだが、シグはそれを聞き流していたようだ。おそらくは、故意に。
「焦らすも焦らさないもありません! はっきりお断りしたはずです」
男の手を払いのけて、少女は店を出た。当然のごとくシグは追ってきた。
「なぜ?」
少女の手を掴むと、乱暴に引き寄せる。
「なぜって、え、と、シグさん、手、痛いです。はなしてください」
「なぜ断るのかな? 理由がわからないな」
どうして、はっきり断っているのに、それを納得しないのか。
少女はあからさまに不快な顔をしたが、衣服屋の跡取り息子のシグは、気がつかなかった。というより、無視をした。
わざとらしく大きなため息をついて、少女はもう一度手をはなすよう頼んだ。シグはそれに応じたが、逃げ出されないよう、壁側に少女を押し込めた。
強引にも、いろいろ種類があるものだ。
シグと王子は強引という点で、その押しの強い性格が似ていないと言えないこともない。王子の方がやんわりとして巧みではあるが。
しかし王子とシグでは、雲泥の差があるように思われる。比較することすら王子に申し訳ないと思う。
「シグさん、あのですね」
男なら引き際はきれいにするものです、と教訓をたれようとしたその時だった。
シグの肩越しに、通りを歩く王子の姿を見つけた。
今しがた脳裏に浮かんだ顔だっただけに、我ながら驚くほどの敏感さで、王子の姿をとらえた。
衣服屋の店舗前は大きな通りで、人通りも多い。道の向こう側にも様々な店が軒を連ねて並んでいる。
今日は天気も良いせいか、とくに人通りが多いのだが、その中に王子の姿を見つけたのだ。しかも、一人ではない。褐色の髪の、美しい妙齢の女性を伴っていた。
「…………」
つま先立ってみたのだが、結局すぐに見失ってしまった。
王子を見間違うわけがない。けれど、あの女性には見憶えがない。……いったい、何者なんだろう。
「……――っ!」
右手首に痛みを感じて、少女は自分の前にまだシグがいたことを思いだした。再び手首を掴まれ、そのうえシグの顔が近づいてきていた。とっさに身を捩じらせたのだが、そのせいで壁に背中をぶつけ、さらに痛い思いをするはめになってしまった。
「やっ、はなしてくださ…っ」
「良い返事を、君の口からちゃんと聞きたいんだけどな」
王子に気をとられている間にも、シグはなんやかんやと喋り続けていたようだった。
「シグさん、はなしてください。返事はしました。お断りしますって。もうこれ以上言うことはありません!」
きっぱり、はっきり、少女はシグの求婚をはねつけた。丁寧な口調を崩さずにいられたのは、奇跡的といえよう。
「素直じゃないなぁ」
「もう、とっても素直になってます。こんなに素直になることは、めったにないくらいですっ」
自由な方の左手で、なんとかシグの手をはなそうとし、ところがうっかり左手まで掴まれてしまったのは、大失態だった。
「ちょっ、ちょっと! いいかげんに……っ」
「森の魔女なんてもったいぶった呼び方にも飽きてきたし、名前を教えてもらってもいい頃だと思うんだけど?」
「だからっ、もぉっ!」
なんであなたなんかに名前を明かさなきゃならないのっ!
そう叫びそうになったのだが、寸前でとまった。
シグの体が、突然後ろに引っ張られるようにして離れたからだ。
「魔女殿の名前は、君ごときが訊くべきものではないよ。身の程をわきまえたほうがいいね」
いつの間に現れたのか、王子が、シグの襟首を掴んで少女から引き離した。
少女は目を見開いて、驚き顔を王子に向けた。同様に、シグもまた突然のことに驚き、言葉を詰まらせていた。
「脅しつけて言うことを無理にきかそうとするのを、なんと言うか知っているかな?」
王子は穏やかに微笑んでいる。それがかえって、口調の冷淡さを際立たせた。
「脅迫は、女性を口説くのに用いるには無粋なものだと思うが?」
「…………」
王子は、少女の求婚者を非暴力的な手段で、撃退した。もう二度と少女の傍に寄り付くことができなくなるほどのことを、王子は言ったようだった。シグにだけ聞こえるよう耳打ちしたのだが、見る間に青ざめたシグに、思わず「王子に何を言われたのよ」と聞きそうになってしまった。
つまり、王子もシグを「脅迫」したのである。
「あ、ありがとうございます、王子。助かりました」
殊勝な態度で、少女は礼を述べた。心底助かったが、少しばかり居心地の悪いが、少女の目を王子に向けさせなかった。
そわそわと、少女は落ち着かなげに俯いている。
「手首」
「え?」
反射的に少女は顔を上げ、亜麻色の視線とぶつかった。
鼓動が、跳ねた。
「赤いね。痛い?」
王子は少女の両手首を取り、そっと優しくその手に乗せた。
「だ、大丈夫です、どってことないです」
「本当に?」
「あ、王子、そういえばさっきどなたかと一緒じゃありませんでしたか?」
触れた王子の手の温かさが急に気恥ずかしくなり、少女は唐突に話題を変えた。とはいえ、変えた話題もあまり気の利いたものではなく、かえって照れくさくなってしまったくらいだ。
――いったい、何を気にして、何を戸惑っているんだろう。
「ちらっと見かけて。どなたかと一緒なら、わたしのことはもういいですから、その人のところへ戻ったほうが」
「それは、もしかして……」
「は? え? 何?」
「いや。同行していた人とは、もうそこで別れたから、今は私一人だよ」
「そ、そうですか」
同行していた人って、どんな関係の人? それを問おうとしてやめたのは、なんとなく、その女性は、もしかして王子の見合い相手なのかもしれないと勘ぐったからだ。
「えっと、じゃ、わたしはまだ買い物があるから」
「そう。それなら、せっかくだし、付き合おうかな」
「え? や? せっかくって?」
「君を訪ねてきたんだよ。今から森の舘に行っても、君は留守ということだよね? ならば買い物に付き合って、一緒に舘に行くのが良いかと思って」
意味がわかりません。と呟いたものの、王子の耳には届かなかった。
少女の心にかかるもやもやがさらに濃くなっていったことを知ってか知らずか、その日、王子は一言も「惚れ薬」について触れなかった。
買い物に付き合い、舘でお茶を飲み、そして何事もなく、王子は帰っていった。
「あさって、私の屋敷に来てほしい」
帰り際、有無を言わさない口調で、そう言って。