小夜のまどろみ
「ねぇ、魔女殿?」
古い魔法書を片手に、薬草作りに精を出している少女に、暇を持て余しているセレンは声をかけた。少女に淹れてもらった紅茶をすっかり飲み干してしまったため、おかわりをねだるような声になってしまった。
「なんですか?」
長い黒髪を後頭部で一つに束ねている小柄な少女は、何やら得体の知れない液体の入ったガラスの小瓶を持ったままセレンの方に向き直った。
「あ、お茶のおかわりですか?」
所は、森の舘の台所。そして少女は魔法薬を調合中だ。しかも大量に要るため、大きな銅の鍋でそれを作っている。
鍋は火にかけられ、ぐらぐらと煮え立っていた。そこから放たれる臭いは、甘く美味しそうなものではない。くさい、とまではいかなくとも、いかにも薬草を煮立てたといった苦味のある臭いで、食欲をかきたてる類の臭いではなかった。
当然なのだろうが、少女はそんな臭いにはもう慣れっこになっていて、顔をしかめるようなことはない。セレンだけは未だ慣れず、眉根を寄せてしまうこともしばしばだ。
「お茶、すぐに淹れますね。ちょっと待っててください」
少女は魔法書とガラスの小瓶をテーブルに置くと、棚に並べてある茶葉の缶を取ろうとさらに体の向きを変えた。セレンは立ち上がり、少女より先に缶を手に取った。
「いや、自分で淹れるからいいよ。魔女殿の分も、よかったら淹れようか?」
「いいんですか? じゃぁ、お願いしようかな」
少女はちょっと小首を傾げて、黒い瞳をやさしく和らげてあどけなく笑った。
少女は、魔法薬作りの名人だ。先代の森の魔女から秘伝を継ぎ、さらに自らもいろいろと研究し、様々な魔法薬を作り出してきた。
魔法薬といっても、大抵は解熱薬や胃痛薬、軟膏などで、頭に「魔法」をのせる必要もないようなものばかりだ。むろん、僅かではあるが魔術は施されている。薬の効き目がより良くなる程度の、いわば隠し味のようなものだが。
この日、セレンが森の魔女の住まう舘にやってきたのは、魔法薬を分けてもらうためだった。
初冬、町では風邪が流行っていた。性質の悪い流行の風邪であるらしく、高熱のため、幾日も枕も上がらない者もいる。今のところ死亡者は出ていないが、町では解熱の薬が不足しており、そのため領主であるセレン自ら魔女の元に出向き、解熱薬の依頼にやってきた、という次第だ。
領主の立場として森の魔女の元へやってきたセレンだが、むろんそれだけではない。
少女の顔を見たくて、少女に会いたくて、セレンは馬を駆らせてやってきたのだ。それを、恋人であるはずの少女は、はたして気づいているのかいないのか。
この地を治める領主であり、さらには国王の実子であるという、いわば高貴な身分であるはずのセレンだが、そのセレンは今、恋人のつれなさに苦笑しながら、いそいそと紅茶を淹れている。
昼過ぎになってから森の舘へ来たのだが、日はとうに暮れかかっている。つい先刻まで小窓から西日が差し込んでいたというのに、ふと見ると、もはや濃紺色の帳が空を覆い始めている。
冬の落日はあまりに早い。
刻一刻と暗くなり、それとともに空気も冷たくなってゆく。
「魔女殿、はい、お茶をどうぞ」
セレンは慣れた手つきで茶を淹れ、それを少女に差し出した。
少女は鍋の中身を長い棒でかき混ぜつつ、「ありがとうございます」と、カップを受け取った。少女はちょっと熱そうな顔をしつつ、ちびちびとセレンの淹れた茶を飲んだ。それからホッと息をつき、カップをテーブルに戻すと、再びセレンに背を向けて、魔法薬作りに没頭した。
セレンは少女が作業を再開したのを残念に思いながら、しかし諦めの体で暖炉の火を守ることにした。火を絶やさぬよう薪をくべ、火掻きで火の強さを調節し、灰を除ける。手馴れたものだ。森の舘は、セレンには来慣れた場所だ。この舘で夜を明かしたこともある。
セレンは少女の様子を何度となく窺った。時折、少女の手から光る粉のようなものが降り落ちている。どうやら「魔法」を行使しているようだ。少女の口からは、聞こえるか聞こえないかの声が発せられている。
セレンはさっきまでそうしていたように、少女から少し離れたところに腰をおろし、自分で淹れた茶を飲む。渇いているのは、喉だけではない。
声に出しかけて、何度も飲み込む「名」があった。呼びかけられず、喉の奥にその名が詰まっている。茶では流し落とせないようだ。
発せられないでいるのは、少女の「名」だ。
「森の魔女」という通り名でしか呼ばれない少女だが、セレンはその少女の実の名を知っている。
魔術を持つ者は、実の名を秘すのが通例であるらしい。よほど信頼している相手にしか名を明かすことはないと聞かされてきた。
そして今、セレンは少女の名を知っている。特別にと、その名を明かされた。
信頼の証でもあり、そしてなにより、少女の気持ちの証でもあった。
こうして二人きりでいる時、セレンは無性に少女の名を呼びたくなる。実際そうしているのだが、もったいぶって「魔女殿」と呼ぶことも多い。
一方で、少女はなかなかセレンの名を呼んでくれない。「王子」と呼ぶのが当たり前になっていて、長年の癖みたいなものだからなかなか改められないのだと、少女は言い訳がましいことを口にする。
だからこそ、ふいに「セレン」と名を呼ばれたときは胸が高鳴るほどに嬉しいのだが。
しかし、やっぱりつれないとも思うのだ。
恋人同士であるのに、よそよそしい気がする。
こうして二人きりでいる時にこそ、セレンは己の独占欲の強さを感じ、懊悩するのだ。
離れているのがもどかしい。
互いの熱を感じあいたい。抱きしめたいと、劣情に身を焦がしている。
セレンの亜麻色の瞳が恋情に揺らめいているのに、少女は気づかない。暖炉の炎よりも熱く、激しく、少女を求めているというのに。
「魔女殿」
「はい、なんですか、王子?」
声をかければ、少女は返事をする。が、振り返らない。
セレンは思わずため息をこぼした。少女の華奢な背中を見つめ、「ねぇ、魔女殿」と呼びかけた。
「君ととも過ごすために、君のベッドに行くには、いったいどうすればいいかな?」
悪戯なセレンの声が、少女を振り返らせた。けれど、少女は目を瞬かせただけで、慌てふためくようなことはなかった。ちょっと小首をかしげ、セレンの亜麻色の瞳を見つめ返した。
「どうって……。そんなの、聞くまでもないことだと思いますけど? 階段をあがって右に曲がって、すぐ左手にある部屋がわたしの寝室って知ってますよね、王子」
「……」
どうやら少女は魔法薬作りに没頭していたために、セレンの言葉をしっかりと聞き取っていなかったようだ。的外れな回答に、セレンは苦笑した。
そういう意味ではないよと、具体的に説明すれば、きっと少女は顔を赤くて文句を言うだろう。
セレンは亜麻色の髪を悩ましげにかきあげ、ため息をついた。
少女はセレンのため息をどう受け取ったものか、申し訳なさそうな顔をした。
「長く待たせちゃってごめんなさい、王子。もうちょっとで薬、できあがりますから。お疲れなら、客間を用意してあるから、そこで」
「いや、ここで待つよ。それとも、私がいては邪魔かな?」
「そ、そんなことないです! でも王子、退屈なんじゃないかなって……」
「魔女殿が傍にいて退屈だなどということはないよ」
「もうっ、王子ってばまたそういうこと……っ!」
「真実思っていることを口にしただけなのだが……」
「思ってても、口にしなくていいですっ」
少しからかってみると、少女は案の定、顔を真っ赤にして言い返してくる。その反応を可愛らしく思っているセレンだ。頬は自然と緩んでくる。
それに、セレンは気づいていた。
少女は、長く待たせてしまって申し訳ないと言いながら、「帰って」とは言わない。「待っててください」と、セレンの滞在を望む。
セレンは立ち上がり、少女の傍へと歩を進めた。
「そうだな、退屈ということはないけれど、たしかに少し手持ち無沙汰ではあるから、何か手伝えることはないかな、森の魔女殿?」
「……」
ちょっと拗ねたような顔をし、少女は改めてセレンの方に向き直った。上目遣いにセレンを見、ほんの少しの間何やら思案を巡らせていたようだが、諦めたように小さく笑った。
「分かりました。それじゃ遠慮なく手伝ってもらっちゃいますよ、王子?」
夜もふける頃になってようやく大量の解熱薬は出来上がった。あとは冷まして、仕上げの魔術を施せば完了であるらしい。
「明日の朝には持って帰れますよ、王子。必要としている人に配布して、それでも足りなかったら、またいつでも言ってください。他の薬が必要なようなら、それも新たに作ります。わたしも明日には町へ行きますから……」
言う間に、少女は疲労がどっと押し寄せてきたのか、くたくたと崩れ、椅子に座り込んだ。
セレンは少々慌てて、少女の前にかがんでその手を掴んだ。
「魔女殿」
「あ、すみません、大丈夫です。昨日からあまり寝てなくて、急に眠気が……すみ、ません……」
大丈夫です、と笑いつつ、しかし魔女殿は眠気に勝てず、瞼を閉じてしまった。
「魔女殿。眠くて耐えられないのは分かったけれど、ここではだめだよ」
「……え?」
少女は自分の身体がふわりと浮いたのに気づき、はっと目を開けた。
「あ、あの、王子っ」
セレンは少女を横抱きにし、歩き出した。向かうのは、少女の寝室である。
驚いたものの、身体の気だるさに負け、少女はセレンの腕におとなしく抱きかかえられていた。頬が紅潮している。瞼はいかにも重たげで、すぐにも落ちてしまいそうだ。
「……あの……ごめんなさい」
「いいよ、魔女殿。気にしないで」
「……うん」
眠ってしまう前に、と少女は思ったのだろう。どうにか腕をあげ、セレンの首にその細腕を巻きつけた。
「あり、がと……。セレン」
「……」
セレンは少女をベッドに横たえさせた。着替えさせてやりたかったが、靴を脱がせるだけにとどめた。
少女はもう夢の中だ。安らいだ寝息が、少し笑みの形を残している口から聞こえてくる。
「おやすみ、キラ」
セレンは少女の名を、まるで魔法の呪文であるかのようにささやき、そして額に口付けた。
翌朝、キラはすぐ傍にセレンの秀麗な顔を見つけるだろう。そしてセレンは何食わぬ顔して、キラの唇に接吻するに違いない。
そして二人の一日は甘やかに始まるのだ。