綺羅
緑に薫る風に誘われ、小鳥のさえずりを道連れに、森の奥へと入っていく。
木漏れ日がまぶしく、梢は手招きをするように揺れている。木々の隙間からのぞく空は、漫々と湛えられた水の色だ。
亜麻色の髪の青年は、愛馬の手綱を引き、細い森の小道を行く。
本来、気軽に出歩いてよい身分ではないはずだが、自分の治めている領地の治安の良さを自負している青年は、仕事を手早く片付け、頻々と森へ通っていた。
森に住む魔女に会うために。
魔法薬作りの名人の年若い魔女は、二年前、ともに暮らしていた師匠を亡くして以来、たった一人きり……いや、たった一人と一匹だけで、森の舘にいる。
「防壁の結界がはってあるから、大丈夫です」
と言って、心配だから私の屋敷においでと誘っても、少女は一向に頷かない。もちろん、嫌だというのではなく、遠慮をしているということもあるのだろうが。
公認の仲になったというのに。
青年は苦笑した。
「私と一緒に暮らしたくないということかな?」
意地悪も言いたくなるというものだ。
「ちっ、違います、王子! そんなんじゃありません!」
「少しは私の身にもなってほしいものだが」
そう言って、青年はわざとらしいため息をついてみせる。
「まあ、これは私の我儘だからね。無理強いはしないよ」
「我儘だなんて、そんな風には思ってません」
「……」
独占欲という我儘なのだよ、これは。
君を目の届くところに置いておきたいなどと、言えはしない。
亜麻色の髪の青年は、やれやれと肩を落とした。ふと、少女の眷属であるネズミのリフレナスのことを思いだした。リフレナスの台詞を、だ。
「いつになったらちゃんとした名前で呼ぶんだ、おまえは」
憮然とした口調で、リフレナスはぼやく。主である魔女は「リプ」の愛称で、リフレナスを呼ぶ。「正式な」名で呼ばれたいものだと、ほとんど諦めてはいるようだが、日々文句をこぼしている。
その気持ちが、しみじみとわかる。
青年の名は、セレンという。
だが、少女はいつも「王子」と呼ぶ。時折は名を言ってくれることもあるのだが、気恥ずかしいらしく、めったに名前では呼んではくれないのだ。
少女曰く、「長年の癖」なのだから、仕方がないという。
気長に待っていられるのも、もしかしたら「長年の癖」のようなものかもしれないな。
セレンは嘆息とともに笑みをこぼした。
三日間、公務が忙しく、少女とは会えなかった。
仕事はまだ残っているが、どうにか時間を作り、セレンは屋敷を抜け出してきた。
少しは……私と同じように寂しく思っているのだろうか。
ふと吐いたため息のすぐあとに、自嘲的な笑みがこぼれる。
まったく情けない程に、恋焦がれ……溺れている。
まだあどけなさの残る、森の魔女に。
その魔女は、
「薬草集めに出ている。森の南の泉だ」
ということらしい。眷属のリフレナスからその伝言を受け、セレンは教えられた場所へ向かっているという次第だ。
いそいそと少女に会いに出かけている自分を、滑稽に思う。だが別段、嫌というわけでもない。少しばかりもどかしく思うだけだ。
……とりあえず、急ごう。
日はまだ高いが、魔女殿と過ごす時間はあまりに早く過ぎる。
セレンは愛馬の首筋を撫で、鐙を踏む足にわずかに力をいれた。
亜麻色の髪と瞳を持つ美貌の青年を悩ませている魔女は、森の奥深くの泉の辺にいた。
目当ての薬草を摘み終え、小休止がてら、日の当たる場所に腰かけ、何やら呪文を唱えていた。
呪文に呼応するように、時折泉の水が渦を巻いている。飛沫が陽光を受けて水晶のように煌く。
「……う~ん、なかなかうまくいかないなぁ」
そうつぶやいて、大きなため息をこぼす。
水の性質を変化させて操る魔術の鍛錬中なのだが、自在に操るまでには至らなかった。
少女は魔法薬作りの名人ではあるが、物質に直接働きかける魔法は苦手だった。まったくできないわけではないのだが、それをする機会がないこともあり、たまにこうして、師匠から習った魔術を復習している。
少女の魔力の属性は、光だ。光属性の魔力の持ち主は、きわめて稀なのだと、師匠から聞いていた。ゆえに、光属性の魔術に関しての知識はほぼ無きに等しい。
「光の魔術は、物質ではなく精神に働きかけるもののようだね。闇属性の魔力とそれは同様のようだ。闇の魔力は安静と癒しを与え、光は道標を示す」
とは、師匠の言だ。
「水と光よ、わがもとに集え」
両腕をまっすぐ前に伸ばし、手のひらを上に向けて、魔女は唱える。歌うように、朗々と。
風にそよぐ梢のざわめきのように、鳴き交わす小鳥のように、湧き出でる泉の水音のように、少女の唱える古い詞の呪文は、空間を巡り、溶けてゆく。
長い黒髪が風に誘われ、ふわりと浮く。
空を見つめる黒曜石の瞳は夢見るようにうっとりとし、頬はわずかに紅潮している。
光の精霊かと、思うほどだった。
泉にたどり着いたセレンは、息を呑み、黒髪の魔女を見つめている。
迂闊に声をかけられなかった。近づけば、消えてしまうのではないかとすら思い、心が震えた。不安に、慄いた。
宝石のように煌く光が黒髪の魔女を取り巻いているその様は、あまりに美しすぎた。
精霊界へと連れ去られてしまうのではないか。あるいは天空へ還ってしまうのではないか……
黒髪の魔女が、踏みとどまっているセレンを見つけたのは、魔術を解いた直後。
誰もいないと思っていただけにびっくりはしたようだが、慌てるようなことはなく、暢気顔を向ける。
「あ、王子、来てたんですか?」
「…………」
「? どうかしたんですか、王子?」
不思議そうに小首を傾げ、それからようやく立ち上がった。そして軽い足取りで、セレンに近寄る。
「王子?」
「……キラ」
「―……わっ」
駆け寄ってきた魔女を、セレンは衝動的に抱きしめた。
小柄な魔女の身体を押し包むようにして抱き、長い黒髪に顔をうずめる。
「おっ、王子っ?」
「キラ」
キラ。それは秘められた、魔女の名。
その名をもって、魔女の心を縛るように、自分の腕の中から、消えてしまわないように、繰り返し囁く。
「王子? どうかしたんですか? 大丈夫ですか? ね、王子?」
いつもと違う様子のセレンに、さすがにキラも困惑した。
抱きすくめられたまま、キラは心配そうに訊く。
いつもなら抱きしめるついでに、甘い台詞の一つや二つ、必ず口にするのに。
「王子?」
「…………」
ようやく、セレンは腕の力を抜いた。けれど、キラは離れなかった。端正な青年の顔をまじまじと見つめ、どうかしたのかと不安げに、繰り返し訊く。
「何もないよ……と言いたいところだけど」
セレンは微笑み、キラの髪を手に取った。
「まいったな。この想いは、どう言えばいいのかな」
「……言わなくても、いいですけど」
きっと、甘台詞を言うに違いない。慌てて、キラは身体をセレンから離した。
「キラ」
甘くて気障な台詞を何度言われても言われ慣れないキラは、反射的に身構えていた。
「……いいよ、なんでもない」
小さく笑って、セレンは言いかけていた言葉を呑み込んだ。
「なんでもないって顔じゃないですけど」
「言ってほしい?」
「……いっ、いいです」
拗ねている顔がとても愛らしいよ。そんなことを言ったら、キラはきっと怒り出すのだろう。
目を細めて笑んでいるセレンを見、キラはようやく安堵した。
どうやらいつもの王子に戻ったようだ。
「王子、三日ぶりですね。会いたかったです、とても」
「…………」
「……なんですか、王子? その意外そうな顔は?」
「いや……君の口からそんな言葉が聞けるとは」
素直な心根のキラだが、気恥ずかしさから本心を面と向かっては言ってくれない。だから「会いたかった」などとは、思っていても口にはださないだろうと思っていた。
戸惑いを見せるセレンに、キラは満面の笑みを見せ、言った。
「先手必勝です!」
王子にはいつも負けっぱなしで口惜しいんだもの! たまにはわたしだって王子を照れさせてみたい。
なかなか上手くはいかないのだけど。キラは肩をすくめて笑う。
セレンも肩をすくめ、そして苦笑を浮かべる。
照れた顔を見せるようなことはないが、内心ではいつも困り、焦っている。
無邪気に笑む魔女は、それに気づかない。
「あ、そうだ」
ふと、何かを思いついたらしいキラは、セレンの手を掴んだ。
「王子、ちょっとこっちへ来てください」
セレンの手を引き、キラはさっきまで居た場所に戻ると、手ごろな大きさの岩にセレンを座らせた。
「なんだい?」
「そこにいてください。……したいことがあったんです」
キラは、両腕を前に伸ばした。空に向けられた手のひらから、風が起こる。色とりどりの花びらが舞い上がり、泉の水飛沫が光に反射し、煌く。
地面に白く輝く魔方陣が現れる。描かれている文字や記号は、セレンにはなじみのないものばかりだ。キラが唱える詞もそうだった。
緩やかな音律の魔法の詞は、天空を翔け、上昇していく。
身の内から輝きを発する魔女の美しさは、喩えようもなかった。
「世界を照らし、映し出す光の精霊達。我が名は、キラ。この名をもって標を示す」
キラの詞に呼応し、光の粒子がキラとセレンとを取り巻き、螺旋を描いて上昇していく。
「光に乗りて、天上の国へ届け」
キラは軽やかに身を翻した。薄藍色のスカートの裾が、花のようにふくらみ、ひろがる。
キラは片手を伸ばすと、細い指で包むようにセレンの手を握り、そしてそっと、ためらいもなく接吻した。
セレンの唇に落ちたそれは、精霊の羽根に撫ぜられたような優しいものだった。
「……セレン」
キラはセレンの手を握ったまま、首を伸ばし、空を仰ぐ。
「この名を伝えて。わたしの幸せ、そして……大切な光の標、セレンと」
多彩に煌く光の渦が一瞬の光芒を放った。ガラスの鈴を振り鳴らしたかのような響きが、風に乗って森を渡る。
セレンは半ば恍惚と、キラが放った魔術の終着……蒼穹を見つめていた。
ふと気がつくと、キラはへなへなとその場にしゃがみこんでいて、セレンを焦らせた。
「キラ」
「あ、……うん、大丈夫。ちょっと、疲れただけだから」
そう言ってキラは笑うが、座り込んだまま、立ち上がれないようだった。息も少し乱れている。握られたままのキラの手は、熱を帯びている。
「……今のは、なんの魔法?」
セレンの問いに、キラははにかんだ笑みを向けて答えた。
「伝えたかったの。空にいる師匠と、……両親に。わたし、幸せだよって」
幼くして両親を亡くしたキラは、その面影すら憶えていない。どんな人となりだったのか、人づてに聞くこともあまりなかった。
「ほら、鏡をごらん。両親の面影も愛情も、ここに残っている。幸せにおなり。それが空にいる両親への、何よりの孝行だよ」
二年前に亡くなった森の魔女は、説教めかしてそう言ったものだった。
だから、「幸せになる」そのことが、きっと師匠への孝行にもなるだろう。
「王……セレンが一緒にいるから、幸せだって。だから心配しないでって。……それに、セレンに……も、ありがとって……言わなくちゃっ……て……」
キラが意識を手放してしまわなければ、セレンはきつく抱きしめ、激しく接吻しただろう。
座ったまま、キラはセレンの膝に頭を傾け、寝入ってしまった。
魔力を消費しすぎたようだ。魔術に疎いセレンにも、それは解かった。
苦しげな様子はない。安らかな寝息をたて、無防備な寝顔をしている。
「キラ」
「…………」
名を耳元でささやいても、目覚めない。
眠るキラの額に、セレンはそっと口づけた。
――今日は、先を越されてばかりだね。
「私こそ、幸せだよ、誰よりも」
キラに、その一言をまだ伝えてなかったのだ。
先を越されてしまったが、そのことが嬉しくて、心が震えるほどだった。
セレンは空を仰いだ。
日の光に満ち溢れ、空は青く輝いている。涼やかな緑風が渡り、爽やかな芳香が森を包む。
澄んだ泉にこんこんと湧き出る水は鈴を振るように響き、不思議な静けさが辺りを浸していく。
視線を落とすと、そこにはセレンにもたれかかって安らいで眠る可憐な「光の精霊」がいる。
まるで別天地にいるような心地だった。
「改めて誓うよ。君と、君の師匠殿と、そしてご両親に。……誰よりも君を幸せにすると」
地に流れる黒絹のような髪をそっと手に取り、口づけを落とす。
目覚めたら、改めて言おう。
きっと君は、大仰に恥ずかしがるだろうけどね。
セレンは微笑を浮かべた。
心を照らす、温かな光。
――綺羅。
「愛しているよ、私の……キラ」