傍にいて 〈後〉
気がつくと、少女は王子に横抱きにされ、寝室に運ばれていた。いつもなら恥ずかしがってじたばたと暴れたことだろう。
少女の息遣いが、荒くなっていた。
全身を針で突かれているような痛みに、少女は無言で耐えていた。
少女をベッドに寝かしつけた王子は、体重をかけないよう、肘で体を支え、そのまま少女を腕の中に閉じ込めていた。
うっすらと目を開けた少女は、すぐ近くに王子の顔を見つけた。
「……苦しい?」
不安げに王子は訊く。少女は答えない。ただ、じっと王子を見つめている。
汗ばんだ額に、王子は手を置いた。
「…………」
少女の苦しげな様子に、王子は眉根を寄せた。
熱で潤んだ瞳には、まだ涙が残っている。額の汗を拭い取り、王子は体を離した。
「お…………じ……」
かすれ、ふるえる声が王子を呼び止めた。
「や……いっちゃ……や……だ」
少女は、泣いていた。
「や……さむ……いよ……――ひとりは……や……」
おそらく意識はない。
少女の泣き顔を見るのはこれが初めてではない。だが、これほど苦しそうな涙を、王子は知らない。
師匠が息をひきとった時、少女は気丈にもその悲しみに耐えていた。辛くないわけがない。淋しくないわけがないだろうに……。
少女は自分を守り育ててくれた師匠や、気遣って面倒を見てくれるリフレナスに心配をかけまいと振舞ってきた。それは、もちろん王子にもだ。無理をし続けていたというほどではないだろう。ただ、時折ふと淋しくなった時があっても、それを見せまいとしていた。
「……キラ」
長い黒髪を撫で、王子は耳元で少女の名を呼んだ。
他の誰にも明かしていない、秘密の名。
「大丈夫。私はここにいる。ここにいるから」
我慢強く、甘え下手な少女だということは、知っていた。だから、こうして甘え、頼ってほしかった。
「どこにも、……いかない?」
幼い子供に戻ったようだ。頼りなげな声で少女は問いかけてくる。
「みんな……おいてっちゃうの。……いなくなっちゃ、やだ……やだよ……」
「いかない」
王子は少女の額に口づけた。
「いかないよ、キラ。ずっと君の傍にいる」
君は、知らない。
私がどれほど君を想っているか……。
どれほど繰り返し告げても、少女は不思議そうな、くすぐったそうな顔をするだけだ。
けれど、こうして傍にいることで、想いの何分の一でも伝えられるのなら、いつまでも、傍にいよう。
君が、望むかぎり……
雪は夜半にはやんで、積もるにはいたらなかった。僅かに残った雪に朝日が反射し、白く光っている。
目を覚ました少女は、目の前の状況にのけぞった。こういう時、ベッドが広いのは助かる。驚きのあまりベッドから転落するようなことがない、という点で。
「うひゃぁ」
少女の第一声が、それだった。とても可愛らしい少女の声だとは、表現しがたいものだ。
熱は下がったが、別の意味でまた発熱しそうだ。
王子に抱かれて、眠っていたのだ。
初めてではないが、かといってそう簡単に慣れるものではない。
とはいえ、少し……いや、かなり嬉しかった。
王子の寝顔を見たのは、これが初めてだったのだ。
「……勝った」と、思わず呟いてしまう。
一度起こした体を、もう一度横たえて、少女はもぞもぞと王子に近寄った。
きれいな顔だなぁ。
惚れ惚れと、王子の寝顔を見つめる。
寝乱れた亜麻色の髪も、秀でた白い額も、長い睫も、通った鼻筋も。
「…………」
少女は、いつも王子が自分にするように、一房、髪を手に取った。
「…………セレン」
言ってから、また顔を赤くした。
セレンと、王子の名を口にするのは、久しぶりな気がした。
名で呼べと何度も言われているのについ「王子」と呼んでしまう。こればかりは長年の癖だからしかたない。でも、こうして王子の意識がない時なら、呼んでも恥ずかしくない気がしたのだ。実際は、やはり気恥ずかしいには違いなかったが。
「セレン」
名前まで、きれい。
王子は、自分のことを名前も含めて「きれい」だと言ってくれるけれど、やっぱり王子のほうがずっとずっときれいだ。
「セレン……好き。……大好き」
普段口にしないことを言う好機だと、少女はそれを言ったみた。
途端、耳まで赤くなる。
「うっひゃぁ~……っ」
あげくの、奇声だ。
うつ伏せて顔を枕にこすりつけてみたり、手足をばたつかせたり、子供のように落ち着きがない。
「……くっ」
我慢の限度をこえ、王子は笑い出した。最初はくすくすと小さく、やがて肩をふるわせ、愉快そうに笑う。
「って、やだっ、起きてたの、王子ってばっ!? ひどい~っ!」
「ごめんごめん」
「やだもうっ、王子ってば寝たふりしてるなんてずるいっ!」
「君があんまり気持ち良さそうに寝ていたからね。でも、寝たふりをしていた甲斐があったな」
艶やかに、王子は微笑む。少女は照れ隠しすら、上手くできないでいる。
「せっかく王子の寝顔見られたと思ったのにぃ」
「君が望むなら、寝顔くらいいつでも見せてあげられるけど? それよりも、私がこうして起きてしまうと、もう王子に戻ってしまうんだね」
「知りませんっ」
「いっそ眠ったままなら、君はもっと素直になってくれるのかな?」
「知りませんっ! そんな意地悪言わないで!」
膨れっ面になって、少女はそっぽを向く。拗ねている仕種が愛らしい。
「……ほら、こっち向いて」
王子は少女の額に手をのせた。頬は赤いが、どうやら熱はさがったようだ。
「気分はどう?」
「…………今、急に熱があがってきたかも」
「そうか。それなら今夜も泊まって……」
「もうっ、王子! 大丈夫です。下がりました! 元気ですっ!」
王子はやれやれと肩を落とした。
「昨夜は素直な君だったのにね」
「……あの、ですね」
少女は気難しげに眉をしかめ、王子を見やった。少し戸惑ったように、言葉を繋げた。
「実はあんまり憶えてないんですけど。お水をもらいに行って、王子に叱られて…………えっと、寝ちゃったんですよね、わたし?」
やはりね、と王子は独語した。予想していたことだったが、少しばかり残念だった。でもそれでよかったのかもしれないとも思う。
「怖い夢見ていたような気がして、でも王子がいてくれて、温かくなって、う~ん、よく憶えてないんですけど」
王子が今朝起きた時すぐ傍にいて驚いたけれど、自分が王子を呼んだ気がしていた。夢の中で、ずいぶんと王子に甘えていたような気がする。
それを王子に伝えると、晴れやかな、そして優しい笑みが返ってきた。
「夢の中だけではなく、今、ここでも私に甘えてくれると嬉しいのだけどね」
「…………」
ベッドに座ったまま、少女はすぐ横にいる王子を見やった。王子のこの照れのなさには、敵わない。
ふと、少女はささやかな「仕返し」を思いついた。
「じゃ、王子。わがまま言ってもいいですか?」
意気込んで、少女は言った。わがままを言うのに、意を決しなくてはならない性分が、少々もどかしい。
「ん? 何?」
失笑を堪えて、王子は応えた。
「えっとですね、王子。えっと…………セ、セレン」
つかえてしまったのが、口惜しい。しかし挫けずに、少女は顔を毅然と上げ、続けた。
「セレン、お早うのキスをおで……」
「…………」
言い終えないうちに、王子は少女の顎を指先に乗せ、そして軽く口づけた。 ―――唇に。
「……っ!!」
瞬間、少女は耳まで真っ赤になった。
「ちょっわわわわっ」
王子の指が、頬に移動する。思わず、「何すんですか~っ!」と叫んでしまう。
「お望みどおりにしたんだが? まだ、足りない?」
「いや、そうでなくて! おでこにって言おうと!」
「そうか。わかった」
「いや、もういいですってば! しなくていいですっ!」
恥ずかしさのあまり、卒倒しそうだ。
少女はみごとに「仕返し」に失敗した。
王子を少しでも照れさせてやろうという魂胆だったのだが、あっさりかわされたどころか、返り討ちにあってしまった。恥ずかしがって困り顔をする王子を見てみたかったのだが、この先も、どうやら見られる可能性は低そうだ。
お早うのキスごときで、王子が照れるはずがないんだ……
少女はがっくりとうな垂れた。
「キラ」
微笑んで、王子は少女の髪を指に絡ませる。
「な、なんですか、王子?」
名を呼ばれるのにまだ慣れない様子の少女は、居ずまいをただし、緊張した面持ちで王子を見やる。
「わがままをね、どんどん言ってほしいなと思って」
「言ってる気がしますけど」
王子は目をしばたかせた。意外な返答だった。
「わたしってば、王子にずいぶんと甘えちゃってますよね? いいのかなぁってくらいに」
「それは、気がつかなかった」
逆ではなくて? と聞き返してきた王子に、少女は屈託のない笑顔をみせ、答える。
「うん。きっともうずっと、王子には甘えっぱなしだった気がする。いなくなっちゃったらどうしようって思うもの」
抱きしめたいという衝動を、王子は抑えていた。少女の顔を見ていたかったのだ。
「それじゃぁ、私のほうからわがままを言ってもいいのかな?」
「うん。どんとこいです。あ、でも限度はありってことにしようかな。王子のわがままは、迷惑とかじゃないんだけど、いちいち気恥ずかしいんだもん」
言ってから、少女は神妙な顔つきになり、眉をしかめた。
「いつまでも私だけの君でいてほしいとか、もっと素直な君を見てみたいとか、あ、あと、今夜は眠らせないから覚悟をしておくんだよとか、そういうこと臆面もなく言うんだもの。……って、王子、何腹抱えて笑ってるんですか!」
たまらなくなって、王子は声を押し隠しもせず、抱腹絶倒していた。
「ちょっと、王子ってば、笑いすぎです!」
「いっ、いや、ごめん……っ」
涙目になって笑っている王子を、少女は膨れっ面をして睨みつける。
くるくると表情を変える少女は、いとも容易く王子の心を掴み、はなさない。無自覚な少女の魔力は絶大だ。
「もうっ、王子なんて知りませんっ!」
「いや、だって、ははっ、まいったな」
「まいってるのはわたしですってば! 王子に負けっぱなしで、すごく口惜しいのにっ!」
「そんなことはないよ」
王子は少女の腕を引っ張り、ほんの数分前までそうしていたように、少女を腕の中に押し込めた。
「ちょっ、ちょっと、王子ってば」
「負けっぱなしなのは、私のほうだ。まったく君には敵わないな」
「とかいって、押し倒してるこの状況は、勝ってるんじゃないですか?」
王子は目を細めて、笑む。
「押し倒さずにはいられない状況をつくったのは、君だよ? これでもかなり抑えているんだけどね」
「…………」
そういうところが、「臆面もなく」って言うんです。少女は口の中で呟いた。
口惜しさと照れくささと、あとはほんの少しの嬉しさをこめて、少女は王子を見つめる。陽に煌めく黒曜石のような瞳を向けられて、王子は、実は少し困っていた。愛しさがこみ上げてきて、胸を締めつけられる。
王子の葛藤を、少女はまだ読み取れない。
「君が代言してくれた私のわがままは一つずつ、これから消化していくとして」
「って、消化してくんですかっ」
「もちろん。ちゃんと、私の口から言ったほうが良いだろう?」
「言わなくてもいいですけどっ」
「言わせてもらいたいけれどね。それはともかく」
「ともかくじゃなくて!」
少女は王子の腕の中で、無駄な足掻きをしてみた。むろん、王子はびくともせず、少女を逃がさない。
「わがままをもう一つ、きいてもらいたいのだけど」
イヤとは言えないが、この上まだあるのかと呆れずにもいられなかった。
「君の傍にいる。これからもずっと」
昨夜の約束だ。少女は憶えてはいまい。だから、もう一度繰り返した。
いつまでも君の傍にいる、と。
「キラ」
少女は不覚にも、泣きだしてしまっていた。瞼を閉じると、大粒の涙が流れ落ちる。
昨夜のことを思いだしたわけではないが、嬉しさに心がふるえるのを感じていた。
王子はそっと、濡れた瞼に口づけた。
「だから、君も私の傍にいてほしい。……これからも、ずっと」
「うん……」
そう、だ。王子はいつでも傍にいてくれていた。そして、これからもずっと一緒にいてくれて、わたしを支え、守ってくれる……
「うん。約束する。わたし、ここにいる。王子の傍にいるね」
「もう一つ、わがまま」
「?」
「名前で」
「…………」
一瞬言いよどんだ少女は、けれどすぐに笑顔を取り戻し、続けた。
「セレン……の傍にいる」
泣きたい日や心細い夜は、またやってくるだろう。
でも二人、こうして一緒にいられるのなら、きっと越えてゆける。
傍にいる。
その温もりを、互いに感じて。