傍にいて 〈前〉
雪が降り始めていた。
午前中までは雲の隙間に青空が見えていたが、木枯らしが強くなるにつれ、灰色の雲が空を覆いつくし、気温を瞬く間に下げていった。
「とうとう降り出しちゃいましたね」
出窓から外の様子を眺めていた黒髪の少女が、振り返った。
淹れたてのお茶を片手に、ソファーに深くもたれかかっている亜麻色の髪の青年が、「ああ」と短く応じる。
「どうりで寒いと思った。積もるかなぁ?」
「一晩降り続ければ、あるいは積もるかもしれないね」
「……うん」
温暖な地域だから、降雪は珍しいことだった。
少女は肩をすくませ、窓から少し離れた。そしてふっと息をついた。
「リプ、冬眠しちゃったらどうしよ」
少女は魔法薬作りを得意とする、魔女だ。そして「リプ」というのは、少女に付き従っている眷属の愛称だ。正式な名はリフレナスという。リフレナスは、今日は少女の供はせず、森の奥の舘で留守番をしている。
リフレナスはネズミの姿をしている。
今まで冬眠などはしたことがなかったが、今年の冬は格段に寒い。巣穴をつくって、「春になったらまた会おう」と手紙を残して冬眠してしまったら、……どうしよう。
少女は再び窓の外に視線を流した。
たまりかねて、青年が声をかける。
「心ここにあらずといった感じだね。私といてもつまらない?」
少々意地悪なその問いに、少女ははじかれたように振り返り、慌てて否定した。
「ごっ、ごめんなさいってば、王子! そんないかにも淋しそうな顔しないでくださいっ」
亜麻色の髪の青年は、微笑をこぼす。
カップをテーブルに戻し、ソファーの肘掛にゆったりとした姿勢で肘をおき、頬杖をついて少女を見つめる。光をはじく亜麻色の瞳に、少女はいつもドキマギする。恋人同士のはずだが、二人はどこかまだぎこちない。とくに、少女の方が、未だ状況に慣れていないといった具合だ。
「冬って、嫌いじゃないけど、寒いのはちょっと苦手だなぁって、なんか、そういうことちょっと考えていただけです」
「君が生まれたのは冬なのにね?」
「…………」
少女は少し哀しげな顔をして微笑んだ。
今年の冬はとくに寒さが厳しい。先日も霙が降った。
森の魔女は、魔法薬作りの名人として名高く、そのためここ数日は風邪薬などの処方依頼がひっきりなしにあり、大忙しだった。解熱、腹痛などの薬は常に作り置きしてあるのだが、すぐに品切れになるほどの忙しさだ。どうやら風邪が蔓延しているらしい。
依頼された薬を携え町にやって来た少女は、薬を全て薬屋に卸した後、偶然、王子と出会った。
「今日は私の屋敷へおいで」と誘われ、一瞬迷った後、少女は承諾した。
王子、と呼んでいるが、むしろ「領主」と呼ぶほうが正しいだろう。しかし、町民のほとんどが「王子」と呼ぶ。国王の、複数いる認知された子のうちの一人で、王位継承の立場からは離れたが、辺境の地域の領主という地位を与えられた。気安い人柄で、政治力も申し分ない。そのため町民の信頼と人気を得ている。
まだ若い領主の恋人は、やはりまだ若い森の魔女。
この事実の流布は、早かった。若い娘達からのやっかみは当然あったが、おおむね二人の仲は好意的に認められた。
当事者の森の魔女だけが、先走る状況に戸惑い、追いつけないでいるようだった。
寒いのは、苦手だ。
少女はため息をついた。
時々……ほんとうにごく稀にだが、こんな寒い日は、「冬眠」してしまいたくなる。
「ため息、十回目」
「え? は?」
「さっきから数えて、ちょうど十回目」
王子は悪戯っぽく笑う。けれど、亜麻色の瞳だけは、やや厳しそうな色合いを浮かべていた。
「って、王子、数えてたんですかっ」
「あまりに多いから。もっと前から数えていたら、二十は軽く突破していそうだね」
王子は手を差し伸べ、ソファーに座ったまま、出窓の側にいる少女を促した。
「おいで」
王子の顔から、微笑が消えていた。
「こちらへおいで」
「…………」
少女は思わず身構えたが、おそるおそる近づいた。イヤだなどと言える訳がないし、また別にイヤな訳でもない。ただ……――
「頬が赤い」
少女の手を取り、王子は気遣わしげに少女の顔を見やる。
「え、や? そう、ですか? あ、でも寒いから、かな?」
「寒い?」
「……うん、少し。あ、でも大丈夫です」
「…………」
少女の「大丈夫」は、あてにならない。
王子は眉をひそめる。
無自覚な恋人が心配で、反面少々物足りないような残念なような、そして悲しくもある。
「今日はとくに冷えるから。……あの、王子?」
「…………」
王子は黙ったままだった。その沈黙に、少女は困窮した。怒っているような気がしたのだ。
「あの、王子。えっと、わたし」
一歩、王子から退いた。だが、手は握られたままだ。
「そろそろ帰らないと。雪がひどくならないうちに……」
「……帰りたいの?」
「え、いや、えっと、ですね……」
やっぱり怒っている。不機嫌な王子の顔を見るなど、めったにないことだ。
少女は狼狽し、言葉が続かない。
「帰りたいの?」
王子は繰り返した。だが、口にしたかった言葉ではない。
少女の手を、王子は両手で包んだ。ため息をつき、そしていつになく口数の少ない少女を、改めて見上げた。
「手が熱い。…でも、寒い?」
「え?」
「頬は赤いけれど、あまり顔色は良くないね」
「そう……かな。疲れが出たのかも。薬作りでここしばらく忙しかったから」
「君は相変わらず無頓着だね、自分のことには。……おいで」
「わっ! たったっ……っ!」
強引に手を引っ張られたと思ったら、次の瞬間には、少女は王子の腕の中にいた。しかも、膝の上に座らされて。
王子は少女の長い黒髪に、顔をうずめた。少女のうなじは熱をおび、熱い。
「おっ、王子っ」
「……帰りたいなんて、言わないでくれ」
王子は情けない自分の口調に舌打ちしたい気分だった。
だが、少女のことが心配で、不安で、胸のふるえがおさまらない。
「えっ、えとっ、王子っ」
王子の息がかかるうなじから、次第に体中が熱くほてりだしてきた。
寒いのに、……熱い……。
「熱があるんだよ。気づかないのは君らしいが」
ようやく、王子は顔を離した。
言われてみれば、と少女はようやく体調の悪さに思い当たった。
今朝、森の舘を出た時から、頭が重かったし、体もだるかった。単に疲れているだけだろうからと、さして気にもとめていなかった。まさか、発熱してしまったとは。
「ここで休んでいきなさい。帰るのは、延期。いいね?」
「…………」
頷くしかなく、少女は唇を軽く噛んで、王子の言に従った。
王子の寝室、王子の寝台、そして王子の夜着……それらに包まれて、少女は半ば強引に寝付かされていた。
「……王子」
「何?」
「あのぅ、わたし、大丈夫ですから」
横たわったまま、少女は傍らに座っている王子をすまなそうな顔をして、見上げる。
「仕事、あるんですよね、まだ。それ、片付けてきちゃってください。おとなしく、寝てますから」
「…………」
王子は少女の頬にそっと手を置いた。
「私が傍にいない方がいい?」
そう言いそうになった。でも、そう言ったところで、少女は「そんなことはない」と言うだけだろう。
「わかった、そうしよう」
王子は目を細め、切なげに少女を見る。そしてゆっくりと少女の頬から、その手を離した。
「……っ」
少女は、自分で自分の行動に驚いた。
とっさに、王子の袖口を掴んで、引き止めたのだ。言葉は出ない。すぐにその手を離したのだが、立ち上がり、踵を返しかけていた王子は向き直り、腰を屈ませ、少女の額に手をのせた。そして、名残惜しそうに、少女の長い黒髪を指先で梳く。
発熱のためではなく、ぞくりと鳥肌が立つ。少女の頬に、赤みがさした。
「ごっ、ごめんなさ……」
喉元が痛み、声がかすれた。
王子は優しく笑む。
「ゆっくりお休み。今は何も考えずに」
「……」
少女は素直に頷き、王子が部屋を出て行くのを見送った。
顔半分まで布団をかぶって、そして目を閉じた。
泣いてしまいそうだ。突如降りかかってきた不安を払い除けるのに、少女は失敗した。
眠ってしまうにかぎる。王子の言うように「今は何も考えずに」。
少女はかたく目を瞑って、思考を止めた。
夢から、少女は逃げ出すように、目を覚ました。思わず、安堵の吐息がこぼれる。
上半身を起こし、周囲を見回した。
真夜中という感覚はない。おそらく寝入っていた時間はほんの短時間だったのだろう。窓の外は暗いが、まだ夜の帳は降りたばかりのように感じられた。雪はまだ降っていて、窓辺にうっすらと綿雪が降り積んでいた。
(喉が、渇いたな……)
ベッドから降りようとしたのだが、これはなかなか苦労だった。
二、三人は寝られそうな大きなベッドから、軽くて柔らかいが呆れるほど大きい羽根布団を退けて、何とか着地に成功した。だが、部屋から出るのにも苦労がかかった。
ベッドがある地点から出入り口の扉まで、少女の歩幅ではおよそ十歩強は歩かねばならない。
森の舘の自室なら、ベッドから扉まではたった三歩だ。
無駄に広い部屋は、一人でいるにはあまりに寒すぎる。大きな暖炉がどれほど室温を上げてくれていても。
おぼつかない足取りで王子の寝室を出た少女は、一階の厨房へ足を向けた。
王子はおそらく執務室か書斎にいるのだろう。声をかけていこうかと一瞬迷ったが、両部屋は寝室から離れている。厨房へ行き水をもらって、すぐに寝室に戻ったほうが、要らぬ心配をかけずにすむだろう。
全身に力が入らないため、壁に手をついて階段を下りた。二階に比べて、一階は人気が多い。そのため、厨房まで行かずにすんだ。屋敷の女中に声をかけられ、水を汲んできてもらえたのだ。
時間を尋ねると、夕食時だと知らされた。
少女の母親くらいの年齢であろう女中は、丁寧な口調は崩さなかったが、心配そうな顔で少女の顔を覗き込む。
「お食事はいかがいたしましょうか? よろしければお部屋へお持ちいたしますが?」
「ありがとう。でも、いいです、今は。……あの、王子は?」
「執務室で簡単な食事をお召し上がりになりました。魔女様のお食事は別に用意するよう仰せつかっておりましたので」
「そっか。じゃ、せっかくだからいただかないと、もったいないですよね」
こういうところが、少女は奇妙に律儀だった。
「あとでいただきます。もう少し休んでから」
「承知いたしました。……お部屋まで、お送りいたしましょうか?」
少女の足元がふらついているのを見かねて、彼女は手を差し伸べた。
「大丈夫、一人で戻れます。お水、ありがとう」
あまり大丈夫じゃないかも。と思いつつ、つい片意地をはって親切を断ってしまった。
短時間とはいえ、深く眠ったのに、疲れはとれず、しかも熱が上がってしまったようだ。
こういう時に限って、いつもは常備している解熱の薬が切れてしまっている。
「ふぅぅぅ……」
階段を上りきったところで、深く息をついた。
ちょうどそこにあった出窓から、外が見える。
針葉樹の枝先が白く光っていて、きれいだ。
寒いのは苦手だけど、雪は嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、……雪は思い出も運んでくるから、少し、悲しくなる。
師匠が亡くなった時も、両親の死の報せが届いた時も、雪が降っていた。
もう一度深く深呼吸をし、寝室へ戻ろうと歩みだした。
寝室まで、あと数歩。そう思ったところで、突然、寝室の扉が内側から開いた。
「……っ!」
血相をかえ、飛び出してきたのは、王子だった。
少女はその勢いに驚き、足元をふらつかせ、よろめいた。
そして――
「……何をしてるんだ、君は!」
怒鳴られて、少女は思わず身をすぼめた。
「おとなしくしているといったのに、ふらふら出歩いて!」
「……あ、あの、ごめんなさい」
王子が声を荒げるところを見たのは、初めてだ。
窘められることは今まで数知れずあったが、怒鳴られたことはなかった。
「喉が渇いたんで、お水をもらいにいっ……」
「君は、まったく少しは自分を労わってやるべきだ。そんな……まともに立ってもいられない状態で」
「……ごめ……」
あれ、と少女は目をこすった。
急に視界がぼやけ、王子の姿がかすんだ。
「や……だ」
自分が泣いていることに、少女はすぐに気がついた。涙がとめどなくあふれて、幾粒も床に落ちる。
みっともない。叱られて泣き出すなんて、まるで子供だ。
そう思えば思うほど、涙は流れて、全身が震えるほどだった。
「やっ、やだな、どうし」
「…………すまない」
王子が、ふわりと包み込むようにして、少女を抱いた。
「すまない、怒鳴ったりして」
「ち、がいます。王子のせいじゃなくて……」
少女は王子の胸元を軽く掴んだ。熱のせいで、手に力が入らない。でも、温かな王子の腕の中から離れたくなかった。
「なんだか……ほっとしちゃったというか……よかったって」
「……よかった?」
「王子が、いてくれて」
「…………」
「寒くて、一人で……」
「心細い思いをさせてしまったね。すまない、本当に」
「ううん……」
全身の力が抜け、頭の芯がぼうっとする。
少女は目を閉じた。