残月
秋、日は次第に短くなっていく。
ゆるゆると暮れてゆく空は、琥珀を清水に溶かしたような澄んだきらめきがあり、刻一刻と移り変わってゆく空の色は、詩的ですらある。
秋の暮色は美しい。
美しいが、やがて訪れる寂とした夜の深さを思うと、物悲しく、心安らかではいられなくなる。
切愛に揺れ惑う心を慰めてほしいと願わずにいられなくなるほどに。
その日、いや、いつでもそうなのだが、セレンは日暮れ時が近くなると、口数が少なくなる。秋が深まるにつれて、沈黙が増えていった。何やら思案にふけっている風で、柳眉をしかめることすらある。
セレンは窓の外に目をやり、鬱陶しげに亜麻色の髪をかきあげ、ため息をついた。
「…………」
落ち着かなげにセレンの挙措を見ていた黒髪の少女が、たまりかねて声をかけた。
「あの、王子……?」
少女はソファーに腰かけているセレンに近づき、心配そうに顔を覗き込んだ。
「具合でも悪いんですか? あ、そういえば最近寝付きがよくないって言ってましたよね? 大丈夫ですか? 頭痛とか寒気とかはしませんか?」
小首を傾げると、長い黒髪がさらりと肩から落ちて、流れる。秋の夜空より濃く深い、漆黒の色。
セレンは、少女の黒髪が好きだった。黒曜石を溶かしたような色も、しっとりとした質感も。
セレンは微かな笑みを少女に返した。
「大丈夫だよ、ありがとう」
「……なら、いいんですけど」
夜の帳がまだ落ちきっていないように、少女の挙動もまだ、セレンに対して落ち着かなげなものだった。どこかぎこちない。とまどい、照れているのだろう。
セレンはそんな少女を愛しく思っていたが、もどかしくも思っていた。
少女が今日セレンの住まう屋敷にやって来たのは、常備薬が切れていると聞かされたからだった。「森の魔女」である少女の作る魔法薬はよく効くと町での評判も高く、セレン自身もその効き目の確かさを知っている。だから、屋敷で働く者のために、風邪薬や胃腸薬等、幾つか常備しておくようにしていた。
少女がセレンの屋敷に来るのは、何がしかの用事がある時だけだ。セレンが招かねば、今日も来なかったかもしれない。
行動を起こすのは、常にセレンのほうだった。
少女なりに遠慮しているらしい。物怖じしない性格ではあるが、妙なところで気を遣うようになっていた。
セレンは領主という立場にあり、気軽に接せられる身分ではない。
少女がそれを意識し始めたのは、いつの頃だったろうか。
はっきりとした原因があったわけではない。セレンが思うに、今は亡き少女の師匠、先代の「森の魔女」が病床に伏すこと多くなった頃だろう。
少女は「森の魔女」を継承した。それを自覚したと同時に、セレンの立場と身分をも改めて認識したのかもしれない。
孤独感が少女を大人にした。
森の魔女としてひとり立ちした少女だが、やはりどこか子供っぽいところがある。
子供っぽいというより、鈍感というべきだろうか。ことに、恋愛面に関して少女は、セレンに困り顔をさせるほどに初で、鈍い。
むろん、そういう鈍さもセレンは慕わしく思っていた。少女の純朴さはセレンの心を和ませ、癒してくれる。少々のじれったさは、少女をからかうことで拭い取っている。
とはいえ、他人のことは言えない。セレンも子供っぽいところが多分にしてあるのだから。少女よりもずっと計算高い子供っぽさではあるが。
「最近町で風邪が流行ってるんです。急に冷え込んだかと思うと暑さがぶり返したりした日があったから、体調を崩す人が多いんです。王子も、気をつけてくださいね」
魔法薬作りを得意とする森の魔女は、まるで医者のような口ぶりでセレンに注意を促した。医者、というより母という方があっているかもしれない。
少女は母を知らない。だからこそ、母を求める心に敏感なのだろう。
セレンの表情には決して出さない一面に、少女は敏感だ。それは少女自身が心に秘している寂寥感だからなのだろう。
長い黒髪をさらさらと揺らしながら、少女は忙しなく立ち回っている。セレンの傍でゆったりと腰を落ち着けるということがない。
少女の腕をつかみ、引き寄せて、拘束してしまいたい衝動を、セレンは抑えている。静かな笑みを湛えて、じっと少女を見つめている。それがまた少女を落ち着かなくさせていると、セレンは気づいているのかいないのか。
セレンは少女を見つめながら、少女を引き止める言葉を探していた。
今夜、ここに……自分の傍にいてほしいと。森へ帰らないでほしいと。
暮れゆく空に焦り、セレンはどうすれば少女を引き止められるのかを、滑稽に思えるほど必死に考えていた。
少女はセレンの気持ちを察せられず、日が暮れてしまうまでにセレンの屋敷から辞そうと、帰り支度をし始めていた。
「あ、そうだ。王子に渡したいものがあったんだ」
セレンのこれみよがしな寂しげな顔を気にするでもなく、少女は手荷物の中から小さな包み袋を取り出した。
「これ、王子に」
と言って少女は小袋を差し出した。少女の手のひらに乗るほどの小袋だ。薄卵色の綿袋からはほのかに甘い香りがした。
「これは?」
「匂い袋です。花とハーブが入ってるんです。わたしも同じのを持ってるんですよ」
「魔女殿が作ったの?」
「うん。鎮静効果と安眠効果があるようにってハーブを調合したんです。ちょっと甘くなりすぎちゃったかもしれないんですけど……こういう香り、嫌じゃないですか?」
少女から手渡された匂い袋からかすかに漂ってくる香りは、ふんわりと甘く、それでいて清風のような爽やかさもあった。
「いい香りだ」
「気に入ってもらえました?」
「とても」
セレンの短い応えと微笑に、少女はぱっと表情を明るくした。淡い紅色の花が咲いたような、初々しい笑顔がセレンの亜麻色の瞳にまぶしく映った。
「よかった! わたし好みの香りにしちゃったんだけど、気に入ってもらえて嬉しいです。王子とお揃いの物を持てて、それも嬉しいなって」
「……君は」
セレンはゆっくりと腰を浮かせた。そしてさりげなく腕を伸ばし、立ち上がると同時に、少女をその腕で抱きしめた。
「あ、あのっ、王子……っ!?」
少女のほっそりとした華奢な身体から、匂い袋と同じ、優しく甘い香りがした。抱き寄せるとさらにその香りは甘みを増し、温かみを感じさせた。
「君は、私を喜ばせるのが上手だね」
「はっ、はいぃぃっ?」
「本当に良い香りだ。いつまでもこうしていたくなるような、そんな香りだね」
優艶な微笑を浮かべた唇で少女の額に接吻し、セレンはささやくように言った。
「――キラ」
「……っ」
ふいに名をささやかれ、少女は声を詰まらせてしまった。
まるで、媚薬のような甘やかで切なげな声。亜麻色の瞳は清艶な色を帯び、視線をはずさせない威力を持つ。
少女の秘された名は、セレンにとっても、少女にとっても、恋情を呼び起こす魔法だった。
「私の、キラ」
セレンは悠然とした微笑を浮かべてキラを見つめ、しっとりとした声音で言葉を継ぐ。
「今夜は、匂い袋ではなく、この香りをまとう君を抱いて眠りたいのだが?」
「……おっ、王子ってば、……あのっ……」
セレンの腕の中から逃げ出そうと、キラはもがいてみせる。嫌がってのことではないと、セレンも、そして当人も分かっている。それでもキラの黒い双眸は潤んでいた。
セレンは名残惜しげにキラを離した。
臆してしまった。キラの口から拒絶の言葉が出るのを怖れ、それゆえに強引にはなりきれなかった。
「あ、あの、王子……」
セレンの腕から解放されても、キラはまだ硬直していた。耳たぶまで真っ赤にして、所在なげに立ち竦んでいる。
「わたし、その、今日は帰らなくちゃ」
「どうしても?」
切なげな表情と声で、セレンは問う。
キラは「そんな顔をするのはずるいです」とでも言わんばかりの顔をし、セレンを見つめ返した。
「……で、でも!」
セレンの問いには答えず、キラは恥ずかしそうに言った。
「今夜、また夢で逢えますから」
夜がほのぼのと明ける頃、空に白い月を見つけた。薄藍色の空に透けて、今にも消えてしまいそうな残月は、セレンがついたため息のようだった。
一人寝の寂しさを、森の舘で眠る恋人も感じているだろうか。
夢の中で逢瀬を果たしたキラの笑顔を思いだし、セレンはまた物憂げなため息をついた。