いつまでも
王都から隔たった辺境の領地は、今日も平穏そのものだった。
数日前まで、年頃の娘達の間で話題になっていたのは、領主であるセレン王子に恋人ができたらしいということだった。そして現在、語尾についていた「らしい」が取り除かれ、この最新の話題は娘達を大いに賑わせた。
落葉樹の紅く色づいた葉が、ひらひらと風に流される。その様子を綺麗だと眺める暇もなく、二日ぶりに町へやってきた森の魔女は、町へ入るやいなや、わらわらと集まって来た娘達に囲まれ、にっちもさっちもいかなくなっていた。
「魔女さん、聞いたわよぅっ!!」
森の魔女を取り囲む彼女らの目は、好奇と羨望とやっかみに、らんらんと輝いている。
「ねぇ、セレン王子と恋仲になったって、ほんとっ?!」
投げかけられたその問いに、森の魔女は頬を赤らめ、たじろいだ。
「意外なような、そうでもないようなって感じね!」
「ねぇねぇ告白はどっちから?」
「うまいことやったわねぇ、魔女さん。玉の輿よね!」
「王子って人当たりはいいけど、どこか近寄りがたいところもあったじゃない?」
「それはやっぱり血統でしょ?」
「けど魔女さんには打ち解けてたから、当然の成り行きかなぁ?」
「あらでも魔女さん、ちょっと前、シグに口説かれてなかった?」
「ヤツ、しつこくつきまとってたもんねぇ」
彼女らの矢継ぎ早の質問に、森の魔女たる黒髪の少女は、うろたえ、曖昧な返答しかできない。
娘達は次から次へと質問を浴びせる。顔を赤らめて戸惑っている少女をからかっている風でもあった。
町の娘達の憧憬の的だったセレン王子の恋の相手が、魔法薬作りの名人の森の魔女だということに驚きはしたが、得心がいった感もある。
「なんだかんだいっても、不思議に、違和感ないわよねぇ」
と、町の娘達は口々に言う。羨ましいと思う気持ちもあるが、娘達にとって領主であるセレン王子はやはり手の届かない「高嶺の花」で、恋愛の対象にするには遠すぎる相手だった。いずれセレン王子は身分にあった相手を屋敷に迎え入れるだろう。諦めつつ、それが当然だと思っていた。
ところがセレン王子は身分柄にとらわれない「娘」を選んだ。だが町の娘ではない、「ちょっと違った」娘。それはセレン王子らしい選択に思えたのだ。
一方で、セレン王子の恋人としてすっかり知れ渡ってしまった少女はというと、「意外な」という言葉に反応し、ほんの少しだけ、気を落としていた。
ため息をつく魔女の肩の上に金褐色の毛並みをもつネズミがいて、やはり同じようにため息をついた。騒々しい娘達に見つからないよう、魔女の眷属であるリフレナスは少女の長い黒髪の中に身を潜ませている。
二日前もこうして娘達に取り囲まれた。その時リフレナスは主の要望に応え、人間の姿をとっていた。青年の姿をしていたおかげで町の娘達の好奇の目に曝されたが、取り囲む娘達から、主である少女を連れ出すことは容易にできた。
だが本来の姿をとっている現在、主の手を引っ張って逃げ出すことはできない。
「いいかげん、とっとと抜け出せ」
ネズミの姿のリフレナスは主に耳打ちをした。
「そんなこと言ったって……」
少女は情けない声で応える。
適当にあしらって、さりげなく娘達の輪の中から離脱する。少女にはかなりの難題だ。到底できるものではない。王子ならきっと上手くかわすだろうに……と思ったが、今この場に王子がいたら、娘達はさらに騒ぎ立てるだろう。それに、王子は照れもせず、少女を恥らわせる台詞をさらりと言ってのけるに違いない。
「あら、噂をすれば」
想像をめぐらせていた少女の鼓動を跳ねさせる台詞を、娘の一人が口にした。
少女はぎょっとして娘の一人が視線を流した方へ、顔を向けた。
「これは、皆さんおそろいで」
大勢の娘達の視線と賑やかしい声に足を止め、穏やかな笑みを見せたのは「噂の当人」ではなく、初老の男だった。
初老の男は、名をハディスといい、領主の補佐を勤めている。先代から引継ぎ、現領主に仕えているのだが、目付け役といった方がしっくりくるだろう。有能な執事であることは間違いなく、現領主もそれは認めているのだが、物堅さに苦笑いを浮かべることもある。
現領主、つまりセレンがそうであるように、少女もまた、ハディスが少しばかり苦手だった。嫌いなわけではなく、慇懃なハディスに、どういった態度をとってよいのかわからないのだ。
「あの、ハディスさん、ありがとうございます」
少女は改めて礼を言った。
好奇心を満たそうとする町の娘達の中から、抜け出させてくれたのはハディスだった。少女がいかにも困った顔をしているのを見かね、助け舟を出してくれたのだ。
「いえ、お役に立てたのなら幸いです」
「は、はぁ」
ハディスの型どおりの返答を、少女はとまどいがちに受ける。
成り行きで、隣り合って歩いているのだが、少女は会話の糸口を見つけられず、眉根を寄せていた。それに気がついたハディスは、さりげなく少女へ水を向けた。
「本日は、当屋敷へはおいでにならないのですか?」
「え、えと……、でも、お仕事、忙しいんじゃないかなって」
行きたいと思っていた少女だったが、ハディスの手前、遠慮した。
二日前、王子の誕生日に王子を森の舘に招いたのだが、「無断外泊」をさせてしまったのだ。もしかして叱られたんじゃないかな、と気にしていた。「領主たる身分の者が連絡もよこさず無断で外泊をなさるとは、不謹慎でございますぞ」と窘められたのではないか。
「えっと、その……ハディスさんは……町へはお仕事の御用でいらっしゃったんですか?」
「ええ。セレン様に使いを頼まれまして」
「そうなんですか」
ハディスは馬の手綱を引いている。屋敷へは、ここから馬の並足で一時間近くはかかる。一方で少女は徒歩で町へやって来ていた。森の舘から町へは、時間はかかるが徒歩でも行ける。
「魔女殿」
「あ、はいっ」
いかにも緊張し、畏まっている少女を見やって、ハディスは軽く息をついた。呆れた風ではなく、少々困った風に。
「魔女殿、よろしければこれから屋敷へおいでになりませんか」
「え」
「セレン様もお待ちかねでいらっしゃいますよ」
「え、でも」
少女はためらい、返事に窮した。誘いは嬉しかったが、どうしても遠慮が先に立つ。
「それとも他に何かご予定でもございましたか?」
「あ、いえその、予定は特にないんですけど……」
「はっきりしないな、まったく」
苛立って、口を挟んだのは少女の髪の中に隠れていたリフレナスだった。
「この際だ。はっきり訊いてみたらいいだろう」
「ちょ、リプってばっ」
少女は慌ててリフレナスの口を塞ごうとした。が、リフレナスはひょいとそれをかわす。
「これは……魔女殿の眷属の……リフレナス殿、でしたな?」
ハディスは少女の肩にいる金褐色のネズミを、改めて見やる。初対面でこそなかったが、言葉を交わしたのはこれが初めてのことだった。
「訊いてみたら、とはもしや私に対してでしょうか、リフレナス殿?」
「ああ、そうだ」
リフレナスは長い尻尾を振り、なんとか黙らせようとする少女の指を払って、続けた。
「こいつはこいつなりに遠慮して、そして不安なのさ。王子に、自分は相応しくないんじゃないかってな」
あえて口にしなかったことをリフレナスに言われてしまい、少女は押し黙り、俯いた。
「ことに、あんたは最初、こいつと王子のことを、快く受け入れてなかったろ?」
そして、リフレナスは真正面からその問いをハディスに向け、投げつけた。
ともに歩んでいた二人、白髪まじりの初老の男と黒髪の少女は、見事なほどに紅葉している楓の木の下で、足を止めた。向かい合って立ち、僅かの間、沈黙が二人の上に掛かっていた。
リフレナスの問いを受け、ハディスは軽く息をついた。
「……そうですな」
その第一声に、少女は顔をあげた。やはり、という思いが少女の顔を曇らせる。
ハディスは穏やかに笑み、続けた。
「最初は、たしかにそう思っておりました。領主という身分に相応しい伴侶を選ぶべきだと、セレン様に何度か進言もいたしました」
少女はまじろぎもせず、じっとハディスを見つめている。何か言いたげなようだったが、軽く唇を噛み、それを堪えている。
「ましてやセレン様は王族に連なるご身分でいらっしゃいます。身分柄に釣り合った相手をお選びになるのがよろしいでしょうと」
「……そう……ですよね」
少女は、少女に似つかわしくない苦笑を浮かべた。
市井の娘どころか、得体の知れない魔女であり、今や両親もいない孤児なのだ。
王子の相手として、これほど釣り合わない娘は他にいないのではないかと、少女はみるみる気分を下降させていった。
「魔女殿」
気落ちし、うなだれた少女にハディスは優しく声をかけた。
「最初は、と申し上げたでしょう。今は、そのようなことは思っておりませんよ」
「…………」
少女は顔を上げた。しかしハディスの言葉を俄かには信じられず、とまどい顔のままだ。
ハディスは落胆を隠せないでいる少女を慰めるかのように、堅いままの口調ではあったが、語り始めた。
「セレン様が、仰られたのです。――魔女殿がいたからこそ、今の自分は在るのだと」
現国王の、妾腹とはいえ認知された「王子」であるセレンは、生まれてから数年は王都に住まいをあてがわれ、そこで母とともに慎ましやかに暮らしていた。
母にも、まだ当時健在だった母の両親にも野心はなかった。贅沢な暮らしを求めようとはせず、安寧な日々を享受してきたゆえに、それなりに幸福であったといえる。
ただ、自由だけがなかった。
「王都の屋敷にあって、私はいつも、「王子」でしかなかった。「王子」として、国王の汚点とならぬよう努め、それ相応に振舞うよう、立場を促され続けてきた。……さほど、苦痛ではなかったよ。私自身、そう心がけるべきだと思っていたから。母に恥をかかさぬように、とね。あるいは、苦痛を感じる心すら、なかったのかもしれない」
セレンはほろ苦い笑みを浮かべて言った。
「周囲の者は常に「王子」としてしか私を見ず、そのように扱ってきた。致し方のないことだと割り切っていたつもりだったが……虚無感は拭えなかった」
己の心を隠し、無私であることを見せ続けなければならなかった。
母のため、そして父である国王のために。
幼かったセレンは、体裁というもののために、がんじがらめになっていた。それを苦痛と感じる心すら、押し隠されて。
「王都から出、この辺境の地へ封ぜられても、それは同じだったよ。与えられたかに見えた自由は、責任へと転嫁させられたからね」
母の両親が相次いで亡くなり、後ろ盾をなくした母とセレンは、国王の計らいによって、今いるこの領地へ送られた。
セレンは次期領主の立場を与えられたのだ。そこには様々な思惑や事情があり、セレンにそれを断る選択の余地はなかった。
だが、そこでセレンは出逢ったのだ。
魔女見習いだという、あどけない少女に。
三つ年下の少女は、森の魔女の弟子だという。名前は、「師匠が、魔女の名前はトクベツだから、隠しておきなさいって」という理由で教えてはもらえなかった。
当時、少女は五歳。すでに両親とは死別し、そのため森の魔女の下に身を寄せているのだと聞かされた。
少女はいつも笑顔を絶やさず、人懐っこくセレンに近づき、気安く話しかけてきた。
「王子、見て見て! きれいでしょう?」
中庭で、少女はよくセレンの母の相手をしていた。お喋りをしたり、花を植えるのを手伝ったり、花冠の作り方を教えてもらったりもしていた。
そして仕上がったシロツメクサの花冠を、セレンの頭に乗せて笑う。
「王子ってば、お姫様みたい!」
褒め言葉だったのだろうが、素直には「ありがとう」と言えず、セレンは複雑そうな笑みを返した。
「ねぇ、魔女のお弟子さん?」
セレンは少女を呼ぶ時、名を知らぬゆえに、大抵は「君」で済ませていたが、何がしか頼みごとがある時は、もったいぶった呼び方をした。
「私のこと、名前で、どうして呼んでくれないのかな? 魔女のお弟子さんのように、隠してはいないのに?」
少女は不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「だって、王子は王子ですもん。みんな、そう呼んでるし」
「それは、そうだけど」
「もしかして、王子って呼ばれるの、イヤ? めいわく……?」
少女は困ったような、心配そうな顔をして、セレンの顔を覗き込む。
セレンは頷けなかった。首肯してしまえば、少女を困らせてしまうかもしれないと思ったのだ。
「わたしにそう呼ばれるの、イヤ?」
と訊かれてしまっては、「イヤではないけれど」と答えるしかない。
少女は花が咲きほころぶように笑い、そして王子の両手を握った。
「わたしね、王子って呼ぶの、好きです。きっとね、みんなもそうなんだと思うな。名前もきれいだけど、王子って、王子だもん」
少女はいつも思うことをそのまま、素直に口にする。飾らない無垢な少女の言葉と笑顔は、セレンの胸に温かく染み渡っていく。
少女の言葉は、魔法の呪文のようだった。
閉ざされていたセレンの心を和らげ、鮮やかに色づかせてゆく。
セレンは懐かしげに、今は弟子ではない森の魔女を語る。
「魔女殿と出逢って、私は初めて自分を見つけた気がした。魔女殿は、何のわだかまりも持たず、私をただの「セレン」として見てくれていた。皆と同じように、魔女殿も「王子」と私を呼ぶのにね」
セレンは肩をすくめ、小さく笑う。困ったものだね。そう言いながら、亜麻色の瞳は優しさに満ち溢れ、陽の光のように煌いていた。
「セレンとしての私の人生が、ようやく始まったんだよ、魔女殿に出逢ったことによって、ね」
それがどれほど衝撃的な歓びであったか、わかってもらえるだろうか。
セレンの問いに、ハディスは沈黙で応えた。
セレンが得た歓びのほどは理解できなくとも、セレンがいかに森の魔女である少女を愛し、かけがえのない存在に思っているかは、わかる。
森の魔女たる少女がいなければ、「セレン」という青年は存在しえなかったのかもしれない。
「魔女殿は多くのものを私に与えてくれた。私自身の心、それすらも」
魔女殿は、私の生命そのもの。私の人生の全てだ、と。
亜麻色の瞳がそれを語る。揺るぎなく、強く、激しく。
「王子という身分、あるいは領主という身分の者の伴侶を選ぶのなら、やはりそれ相応の娘でなければならないだろうね? だが、私はただの「セレン」でしかない。王子や領主である、それ以前にね。そして王子としてではなく、この私が生涯と心に決めているのは、ただ一人。……魔女殿だけだ」
黒い瞳をハディスに向けたまま、少女は口角をきつく結んで、必死で涙を堪えていた。
ハディスは静かに笑む。
「セレン様はこうも仰っておられましたよ。……魔女殿と出逢えて生きる意味を得、幸福を知ったのだと。魔女殿から教えられた優しさや安らぎを、この領地……領民達にも与えたいと思っている。そうすることがこの領地に私を封じた父の意に適うことになり、感謝の気持ちをも伝えられるだろう、と」
「…………」
「セレン様にそのような思いを与えられた魔女殿に、私は領民を代表して御礼申し上げたい」
「そっ、そんなっ」
驚きのあまり、声が裏返ってしまう。あまつさえ、ハディスに軽く頭を下げられ、少女は慌てふためいた。
「わ、わたし、そんなたいそうなことしてません! いつも、王子には何もしてあげられなくてって思っているくらいなのに」
「ただ傍にいてくれる。それがセレン様には何よりも嬉しいことなのでしょう」
「……わたし……でも」
「魔女殿も、そうではありませんか? それともセレン様に、何かして欲しいと願っておいでですか?」
「そんなこと、全然ないですっ」
「セレン様も同じですよ」
ハディスは穏やかに笑む。自身に関して多くを語らないハディスだが、少女はこの時、聞いた気がした。
セレン様のお傍に、どうかいつまでもいてあげてください。私もそれを望んでおります、と。
「…………はい」
少女は頷いた。
正直、とまどいは未だ完全には拭えない。しかし自分自身の想いに迷いはない。傍にいて欲しいと望む心が王子も同じなら、自分にできるたった一つのこととして、ずっと王子の傍にいよう。
―――それが許されるのなら、いつまでも……。
その後すぐ、ハディスが手配した馬車に乗り、促されるままに、少女はセレンの住む屋敷へやって来た。一足先に報せに戻ったハディスと、屋敷の主が少女を出迎える。
馬車から降りた少女は、ちらりとハディスを見やる。ハディスは雇った馭者に賃金を渡すと、セレンと少女に目礼をし、そのまま屋敷へと戻っていく。ふと見たハディスの表情はいつもよりやわらいでいて、口元には僅かな微笑が浮かんでいた。
「やあ、待っていたよ、魔女殿」
優美に笑んで、セレンは少女に手を差し伸べた。その手を取り、少女は眩しげに亜麻色の瞳を持つ青年を見つめ返した。
「リフレナスの姿が見えないね?」
「え、あの、リプは舘に帰っちゃって。……その、ゆっくりしてこいって」
「そう」
セレンの優しげな笑みを受け、少女は感極まってしまった。
抑えていた感情が溢れだす。
大粒の涙が少女の黒い瞳を濡らし、頬を伝って落ちる。
「魔女殿?」
眉間を寄せ、セレンは少女の顔を覗き込む。どうしたのかと問おうとしたのだが、少女に遮られた。ほっそりとした腕が、セレンの首に回された。
「……キラ?」
耳元で、セレンがささやく。秘された名を呼ばれ、少女はさらに胸を詰まらせる。
「王子……ありがとう」
言いたいことはたくさんあるのに、どれも言葉にならない。
いきなり泣きつかれて困っているだろうに、涙を止めることもできない。
「キラ」
セレンはふわりと包むようにして、少女を抱きしめた。頬に触れ、髪に口づけ、かすかに震える少女の身体を支えた。
「王子、わたし、わたし……」
喉が詰まり、言葉が途切れてしまう。だが、伝えたかった。
「王子のこと、大好きです」
肝心なことなのに、その一言をきちんと伝えてなかった気がした。
セレンは抱きしめる腕に、力をこめる。
「私も、君を想っているよ。もうずっと、キラ、……君だけを」
「……うん。うん」
何があったのか、それを少女に問うことはしない。セレンは黙って少女の想いを受け取った。いきなり見せられた涙に、悲しみに沈んだ色はない。温かく美しい、それは少女の想いの結晶だった。
どれくらいそうしていただろうか。
セレンはずっとそうしていても一向に構わなかったのだが、落ち着きを取り戻したキラは涙を拭い、セレンから身を離そうとする。
「す、すみません、王子、あの」
セレンの手は、依然腰にあてがわれたままだ。
離して下さい、とキラは困ったように言い、セレンは艶然とした笑みを返す。
「だめ」
「だ、だめって、あの、王子っ」
「無理」
「無理ってそんなっ」
キラはなんとかセレンの腕から逃れようともがいてみる。むろん、セレンは少女を逃さない。
「可愛らしいことを言う君がいけない」
「や、その、そんなこと言われてもっ」
セレンはいたずらっぽく笑い、涙で濡れたキラの前髪に軽く接吻した。
「その涙の原因は、私なのだろう?」
セレンのささやきに、キラは慌てて首を横に振った。違います、王子のせいじゃありません……そう言いかけたが、真摯な色を湛える亜麻色の瞳に止められてしまった。
「ならば、泣かせた責任を取らせてほしいな。……一生を懸けて、ね」
「王子ってば、もうっ」
キラは頬を赤らめ、また涙ぐんでしまった。セレンの胸元を軽く叩き、それを隠そうとするのだが、かえってセレンの笑みを誘ってしまう。
「キラ」
名を呼び、セレンはキラの長い黒髪を一房手に取った。キラの頬はさらに熟れた林檎のように色づく。
「来てくれて、ありがとう。――会いたかった」
改めて言い、そしてセレンは髪に口づけた。
甘やかな微笑を向けられてキラは卒倒寸前だったが、セレンに腰を抱かれていたおかげで、それは免れた。とはいえ、抱かれたままでいるその状態にも、困惑しているのだが。
「――さあ、いつまでもここに居たのでは冷えきってしまうね。屋敷へ戻ろう」
キラを促し、セレンは歩き出した。むろん、キラを身体に寄せたままだ。
キラは諦めたかのように肩の力を抜き、そしてセレンを見上げた。
「王子、わたしも、会えて嬉しかったです。え……と、……セレン、……ありがとう」
ためらいがちにキラはセレンの名を口にする。「セレン」、その名こそが、キラには魔法の呪文のようだった。
「こちらこそ、私の魔女殿。……今宵は、その礼も兼ねなければね」
「やっ、ちょっ、あのっ!」
キラは恥じらって慌てふためき、セレンは艶めいた微笑を浮かべている。
「もうっ、セ、セレンってばっ!」
キラはため息まじりに呟いた。
セレンの照れのなさには、一生敵わないんだろうな。甘やかな台詞や行為も。
きっと、いつまでも――……。