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エッセイ・随筆集

刮目 佐藤春夫――苦いか鹽つぱいか

掲載日:2026/10/23

初出:カクヨム

https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/11054822664759142477

 家人がどこからか貰って来たちらしに「佐藤春夫展」と書かれたものが混じっていた。神奈川近代文学館の特別展に関するもので、十一月の末まで開かれているらしい。


 ところが僕は佐藤春夫をほとんど読んだことが無い。

 蓋し中学生の頃に『西班牙犬の家』と『李太白』を読んだきりである。


 特に前者は十代前半の僕にも頗る面白く印象に残っていた。しかし、これら以外の佐藤の作品は一つも思い出すことができない。

 改めて青空文庫で『西班牙犬の家』を読み返してみた。四十年ぶり以上になろう。そうして、再び好もしく感じたのだったが、このような奇譚については、僕はどうしても馴染である夏目漱石の『夢十夜』だの内田百間の『冥土』その他と比べてしまう。そうすると、矢張りどうも旧誼の先生方の手際が数等優れているように思われる。客観的、論理的な判断というより、依怙贔屓も最たるものだが仕方あるまい。

 則天居士や百鬼園先生に到底敵うものではない、当たり前の話だが――そう何度も頷いて、それぎりに数日間は佐藤を打ち捨てておいた。


 その当座、僕はちょうど芥川龍之介の『百艸』を読んでいた。「感想小品叢書」と銘打たれたシリーズの「Ⅷ」で、新潮社から大正十三年に出版され、芥川による随想や評論などが収められている。僕が読んでいたのは、大正時代の書籍そのものではなく、昭和五十二年に株式会社ほるぷが、当時の体裁もそのままに復刻した版である。

 おそらく、十年程前か二十年近くにもなるのか、神田の古書店の軒先で段ボールに並べられていたのを買ったのだった。この他にも、芥川や漱石に関連する復刻本を数冊求めたのだったが、すぐには読まずに随分と長い間放置していた。

 それを今頃になってようやく手に取っていたのだが、その篇目の一に「わが月評」と題されたものがあり、「一、大正八年六月の文壇」として当時雑誌等に発表された幾つかの作品への寸評が載せられていた。

 そこに、奇遇にも件の佐藤春夫が出て来たのである。

 『田園の憂鬱』の一部「或晩に」の評だったのだが、これが実に振るっている。

 「内界とも外界とも判然しない、神經の世界」「もし天下に氣味の惡い美しさと云ふものが存在するなら---(中略)---さう云ふ美しさが磅礴してゐる」「文明の狐につままれて、夜中蜃氣樓の臺所をうろついて歩いたやう」等々。

 芥川独特の修辞にまったく致されてしまった。

 そうして、「永當永當『或晩に』を御讀みなさい」とそそのかされるままに再び青空文庫を尋ね、『田園の憂鬱』における「或晩に」の部分のみを読んでみた。


 なるほどこれは立派なものである。芥川の評も全く以て的を射ている。数日前の軽侮と閑却については、素直に反省して、

春日大居士の魂魄に対し奉り大いに謝さねばなるまい。

 そこで早速、小学館から二〇一九年に出された『女誡扇綺談・田園の憂鬱』を図書館で借りてきて読んでいる。


 ところで、冒頭言及のちらしには、立派な書斎で書見をする中年の頃のものだろうか、佐藤のモノクロの肖像写真の上に白文字で、


  情《こころ》あらば

  伝へてよ


と書かれてある。何だか聞いたことがある文句だと思ったら、佐藤の詩の『秋刀魚の歌』に出て来る句であった。

 この詩は慥かに以前にも読んだことがある。何と言っても、


  さんま苦いか鹽つぱいか。


 という印象的な一行がしっかりと記憶に刻まれている。

 しかもこれは、僕の記憶のみならず、むしろ人口に膾炙した常套句というべきであって、昭和から平成においては、秋刀魚の季節になるとテレビや新聞その他で必ずやこの一節を耳にし目にするほどで、いささかマンネリズムじみた体さえあった。ただ、令和の御代でもその通念が継続しているかは少々心許ないが――

 しかし、なるほど、この詩も佐藤春夫だったとすれば、実に大したものである。僕は非常に迂闊であった。


 ただ、正直なところ、これほどの詩であっても、これ以外の部分は確たるものとしては僕の記憶に残っていない。世間の多くの人士も同様にこの触《さわ》りのところしかご存じなかろう。お互い俗物である証左かも知れない。


 今回この詩について調べた中で、これは後々細君譲渡事件に発展する谷崎潤一郎との葛藤を題材にしたものであることが僕の認識に植付けられた。

 細君譲渡事件はその強烈な語感と共に稀に見る珍事として僕の識閾下の抽斗にしまわれていたのだったが、当事者の一人が谷崎であることは十分に認識していたものの、もう一方については全く失念していた。ああ、あれは佐藤だったのか、この詩はその関連だったのかと、改めて念頭に蘇りつつ認識が新たになった。そうして、先程大居士に進呈した満腔の敬意と賛辞とを多少減殺せねばならぬようにも思った。

 一体、俗人的な倫理観からすれば、細君譲渡事件のような騒動は極めてネガティヴなイメージがある。調べるうちに佐藤の女性関係は世間的には、殊に当時の社会通念からしてみたら、何ともだらしなく不謹慎と眉を顰められる類が少なくない。女性との関係のみならず芥川賞にまつわる太宰治との確執も何とも混沌としている。まあ、太宰治については、僕はもともと何だか虫が好かないし、この確執も太宰の方にこそ大きな難がある印象ではあるのだが。

 そうしたエピソードの数々を、従前から僕は特に認識していなかったし記憶も意識もしていなかったけれど、かかる負の霊気は僕の俗物根性に隠然たる影響《エッフェクト》を及ぼし、畢竟長らく佐藤を遠ざけていたのかも知れぬ。




 とにかく僕は佐藤春夫を知らな過ぎる。




                         <続>





佐藤春夫に言及がある僕の随筆


『小冊子の文学』(佐藤春夫の作品を初めて読んだ頃を記したもの)

https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/16816927859861822238


『ChatGPTなどAIの“脅威”に創作者はいかに向き合うか』(佐藤春夫の『李太白』に言及)

https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/16817330655695752511








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