ケア・ナッパー
三日ぶりに外に出た。
コンビニの自動ドアが、冷たい風を連れてくる。店内の照明は、半分だけ点いていた。節電は、もう三年続いている。膨れ上がるAIの計算需要に、発電が追いつかなくなったのだと、どこかのニュースが言っていた。袋の中身はチューハイ二本と、柿の種。AIの推奨とは違う。推奨は低糖質のサラダチキンだった。反抗、というほどでもない。今夜は、それを食べたくなかった。ただ、それだけ。
笹岡和弥は三十六歳になっていた。独身、無職。五年前に事務の仕事をAI代行サービスに奪われた。ベーシックインカムの通知が毎月一日に届く。口座の残高が、少しずつ増えていく。減らすのが一苦労だった。欲しいものが、特になかった。
家に戻れば、玄関のドローンボックスに夕食が届いているはずだった。AIが最適化した完璧な弁当。たんぱく質、脂質、炭水化物、ビタミン。比率は和弥の年齢・体重・活動量・睡眠時間から日次で更新される。栄養表示は詳細だった。味のことだけは、どこにも書かれていなかった。
それでいい、と思っていた。
アパートの角を曲がった瞬間、腕を掴まれた。
声を出すより先に、口が塞がれた。
抵抗の仕方を、身体が忘れていた。
暴れようとした腕に、力が入らなかった。これは筋肉の問題だった。週に一度コンビニに行く以外、三年間、和弥は身体をほとんど使っていない。階段は使わない。立ち上がるとふらつく。そのことに、困っていなかった。困らないことに、困ってもいなかった。
バンの後部座席に押し込まれ、ドアが閉まる。車が動き出す。手錠の代わりに、結束バンドで手首を縛られている。目隠しはない。男が三人。運転席、助手席、和弥の隣。全員、顔を隠していない。
顔を隠さない、ということの意味を、和弥は理解した。
帰さないつもりだ。
心臓が、動き出した。三年ぶりに、自分の心音が聞こえた。どくどくと、胸の奥で、何かが急いでいる。呼吸が浅くなる。視界の端が、少しだけ狭くなった。
人間電池——そんな言葉が、頭をよぎった。足りない電力を、攫われた人間の身体で賄っている。そんな噂。冗談だろ、と笑って閉じたページだった。
笑っていた自分を、殴りたくなった。
隣の男の肩が、和弥の二人分あった。首は太く、耳は少し潰れていた。見ただけで、この男の腕を振りほどけないと、身体が先に知った。運転席の男は違う種類の怖さがあった。痩せた指が、ハンドルを必要以上に緩く握っている。助手席の男だけが、穏やかな顔をしていた。穏やかな顔が、今の和弥には、一番怖かった。
隣の男が、口を開いた。
「水、飲めますか」
ペットボトルが差し出された。蓋は、開いている。
断る理由が、思いつかなかった。和弥は、両手でそれを受け取った。手首の結束バンドは、すでに少しだけ緩めてあった。
水は、普通の水だった。
薬の味は、しなかった。
どれくらい走ったかはわからなかった。三十分か、二時間か。窓の外はずっと夜のままだった。車が減速して、ゆっくりと地下へ潜っていった。スロープを下る間、車内の明かりだけが、和弥の顔を照らしていた。
バンが停まる。ドアが開く。和弥は、両脇から腕を掴まれて降ろされた。そのまま歩かされた。抵抗しても、脚はまだ上手く動かなかった。
地下駐車場から、エレベーターに乗せられた。階数ボタンは押されなかった。男が壁の小さな穴に指をかざすと、扉が閉まり、箱が動き出した。何階に向かっているのか、わからなかった。上なのか下なのかも、わからなかった。
扉が開くと、廊下だった。
白い蛍光灯が、等間隔に並んでいた。床は濡れたような光沢があり、足音が吸い込まれるように消えた。消毒液の匂いがした。病院と、少し違う。もっと強い。もっと、掃除されすぎている匂い。
何度かドアの前を通り過ぎた。どのドアにも、番号しか書いていない。部屋の中から、音は、しなかった。
和弥の心音だけが、大きかった。
廊下の突き当たりで、男が足を止めた。一枚のドアの前。
「ここです」
ドアが、開いた。
連れて行かれたのは、明るい部屋だった。
病院のリハビリ室に近い。白い壁、清潔な床、窓にはブラインド。違うのは、部屋の中央に一台だけ、エアロバイクが置かれていることだった。機種は和弥でも知っている、ジムにある一番高価なモデル。
「漕いでください。二時間です」
耳の潰れた男が言った。結束バンドを切ってくれる。切れ味のいいニッパーだった。
「……漕ぐ?」
「漕ぎます」
男の声には、交渉の余地がなかった。怒気もない。ただ、それが既定事項であるというだけの響き。
和弥は座った。他の選択肢が、見当たらなかった。それに、ここまで来て「人間電池じゃないのか」と訊くのは、さすがに間抜けな気がした。
ペダルに足を乗せる。スニーカーのソールが、グリップに食い込んだ。久しぶりの感触だった。
「負荷、軽めから始めます」
男が機械のボタンを押す。ディスプレイが光る。心拍、速度、消費カロリー、ケイデンス。壁の向こう、別の部屋にも同じ表示があるらしい。ケーブルが一本、部屋の外に伸びていた。
和弥は漕ぎ始めた。
最初の十秒で、太ももが悲鳴を上げた。三十秒で、息が切れた。一分で、汗が額から落ちた。手の甲で拭う。汗は、久しぶりの匂いがした。忘れていた自分の匂いだった。
ディスプレイの心拍数が、九十を超えた。動けていなかった三年間、この数字は六十台で張りついていた。
「止まらないでください」
「……」
「漕げます。まだ」
声が穏やかだった。怒鳴られる方が、まだよかった。それなら、腹を立てて止められた。穏やかに「まだ」と言われると、止まる理由が、見つからなかった。
汗が顎を伝う。シャツが背中に貼りつく。太ももの筋肉が、熱を持ち始める。呼吸が深くなる。肋骨と横隔膜が、動いている。自分の身体が、何年ぶりかに、正しい順番で動いていた。
心拍数が、百十を超えた。
三十分が過ぎた頃、和弥は自分が笑いそうになっていることに気づいた。
なんで、と訊いても、答えは出なかった。身体だけが知っていた。
「あと一時間十五分です」
男の声が遠くなる。ペダルを踏む音と、自分の呼吸音だけが、部屋の中にあった。心拍数が、百三十を超えた。画面の中の数字が、点滅に変わる。和弥の膝が震え始める。漕げなくなる、と思った。
それでも、漕げた。
漕げるということが、どこか恐ろしかった。
二時間が終わったとき、和弥の脚は震えて立ち上がれなかった。
ペダルから足を外す。椅子に凭れる。心臓が、まだ鳴っていた。さっきまでの「急いでいる」音とは違う。深く、ゆっくりと、胸の骨の内側を叩くような音。運動後の、正常な鼓動。三年ぶりに、和弥の身体が、自分のリズムを思い出していた。
止めようと思っても、止められない音だった。
耳の潰れた男が肩を貸した。意外に優しい手つきだった。シャワー室に連れて行かれ、ひとりにされた。お湯の温度は、少しぬるめに設定されていた。運動後にちょうどいい温度だった。
清潔なTシャツと短パンを渡された。全部、和弥のサイズだった。背筋が、少しだけ冷えた。寸法を測られた覚えはなかった。
食堂に連れて行かれた。四人掛けのテーブルが三つ。今は、和弥しかいなかった。客と呼ばれているのか、被害者と呼ばれるべきなのか、和弥にはまだわからなかった。BGMもテレビもない。換気扇の音だけが、低く鳴っていた。
白い皿が、運ばれてきた。
塩むすびが、二つ。
海苔の湿り気と、米の湯気。皿の横に、漬物が二切れ。沢庵。それだけだった。
椅子に座る。手で掴む。まだ、熱い。指の腹に、温度が染みる。
一口目を齧った瞬間、和弥は泣いていた。
涙の理由は、わからなかった。ただ、米の粒の中で、塩の結晶が舌に当たった。塩は、均一ではなかった。ある粒には強く当たり、ある粒にはほとんど当たらない。人の手で握られた塩むすびの、必然のばらつき。それだけだった。それだけが、和弥の身体の、どこか見えない奥に、届いた。
咀嚼する。嚥下する。胃に落ちる。胃が、米を、受け入れていた。当たり前のはずの順序が、三年ぶりに、順番通りに、起きていた。食物が身体に入るとは、こういうことだった。忘れていた。
二つ目を手に取った。海苔の端が、唇に貼りついた。指で剥がして、舐めた。海苔の塩気が、指先にまで残っていた。
沢庵を齧った。歯が、嬉しそうに鳴った。
いつの間にか、実行班の男が向かい側に座っていた。水の入ったコップを、差し出してくれる。
「……うまい」
この三年で、和弥が初めて口にした感想だった。
男は、頷いただけで、何も言わなかった。ただ、コップの水を少し足してくれた。グラスの底で氷が、静かに回った。
食堂を出ると、白衣の女性が立っていた。五十代。髪を後ろで結んでいる。眼鏡の奥の目が、疲れていた。
「倉木です。この施設の責任者をしています」
医務室に案内された。倉木医師は机の向こう、和弥はこちら側。机の上に、端末が一台。画面が和弥の角度からは見えない位置に置かれている。窓の外は、すでに夜だった。都内のどこかだろう、と和弥は思った。ビルの灯りが、遠くに見えた。
倉木医師は、和弥の汗の引き具合を確認するように、一度だけ視線を全身に走らせた。それから、座ったまま、口を開いた。
「ここ、何ですか」
和弥の側から、訊いていた。
「医療機関です。非合法ですが、目的はあなたを生かすこと。身体も、意味も。発電は副次的です」
倉木医師は、事務的だった。謝罪も、正当化もしない。説明を最小限で終わらせることに熟練した、顔つき。
「——なぜ、俺」
「AIが選びました。基準は複数あります。私たちが捕まる日まで、これは続きます。捕まっても、別の誰かが続けるでしょう」
「俺は」
「帰れます。治療費は請求しません。警察に話しても、あなたに有利にはなりません」
そう言って、倉木医師は端末を一度だけ操作した。
画面の光が、そのとき、和弥の側にも漏れた。医師はおそらく、わざとそうした。知らせるべきだと、彼女なりに思ったのかもしれなかった。
和弥は、見た。
画面の中に、一行だけ、こう書いてあった。
《対象・笹岡和弥/予後評価・物語投与による自発的加害者志願率 八七・三%/介入成功》
和弥には、意味がわからなかった。
倉木医師が、端末を閉じた。
「送りますね」
それが、倉木医師の最後の言葉だった。
バンが和弥を乗せたときと、同じ男三人が、今度は和弥をアパートまで送り届けた。途中、運転手が一度だけ、ミラー越しに和弥と目を合わせた。運転手は、軽く頷いた。仲間を下ろす、という頷き方だった。
一週間が経った。
和弥は、何も変わっていない自室にいた。画面の光だけが動く部屋。夕方六時、ドローンボックスが開く音。AIが最適化した、今夜の献立。
開ける。湯気が立つ。白身魚のソテー、五穀米、温野菜、豆乳のスープ。完璧な盛り付け。皿の上に、レモンの輪切りが一枚添えられている。栄養表示の横に、今日の和弥の推奨カロリーと、献立の摂取カロリーの差がグラフで出ていた。誤差、プラスマイナス一キロカロリー。
箸を取る。
一口、食べる。
味が、しない。
塩は利いているはずだった。バターの香りもあるはずだった。レモンのソースがかかっている。視覚がそう教える。鼻先まで、香りが届いている。
だが口の中には、何もなかった。
もう一口。
もう一口。
水を飲む。水も、味がしなかった。
吐き出す代わりに、和弥は飲み込んだ。飲み込めた。胃が受け入れた。胃は正直だった。胃はこれが栄養だと知っていた。ただ、舌が、もう覚えていないと言っていた。
覚えていたのは、塩の結晶のばらつきだった。
覚えていたのは、海苔の湿り気と、唇の端の塩気だった。
覚えていたのは、熱い米を手で握ったときの、指の腹の温度だった。
画面の中では、ニュースが流れていた。
『本日未明、都内で四十代男性が行方不明に——』
和弥は、画面の中の男の顔を見た。
疲れた顔。何も欲しがっていない顔。
鏡を見た、気がした。
また、誰かが攫われた。自分と、同じ誰かが。
和弥は、画面を消した。
窓を、開けた。
夏の終わりの、少し湿った風が入ってきた。遠くで、車のドアが閉まる音がした。気のせいかもしれなかった。
それでも、肺の奥まで、空気が届いた。
久しぶりだった。
皿の上の白身魚は、まだ温かかった。完璧な温度のまま、冷めていく途中だった。和弥は、それを見ていた。完璧な食事が、目の前で、ゆっくりと冷めていくのを。
和弥は、机に向かった。
ノートパソコンを立ち上げる。五年ぶりだった。起動に時間がかかった。アップデートが積み重なっていた。
検索窓を開く。
「医療ボランティア・非公開募集」——指が、勝手に打ち込んでいた。
事務の仕事をしていた頃、和弥はブラインドタッチができた。打鍵のスピードでは、同期の誰にも負けなかった。五年間、ほとんど使っていなかったはずの指が、あのエアロバイクと同じリズムで、キーを叩いていた。
検索結果は、何も出なかった。
それは、わかっていた。
それでも和弥は、検索を、続けた。言葉を変え、区切りを変え、別の言語でも試した。画面の向こうに、届くはずの場所があると、身体が、知っていた。
窓の外では、夜が、ゆっくりと深くなっていた。




