忘れ雪
数日ぶりに、教室の空気が“普通”に戻っていた。
紬が「終わりました」って送ってきたあの日から、俺の中のどこかが少しだけ静かになって、代わりに日常の雑音がちゃんと聞こえるようになった。
シャーペンの芯が折れる音も、窓の外の運動部の叫びも、蓮のくだらない独り言も。
「慧ー」
その蓮が、今日も当然みたいに俺の机を叩いた。
「昼、購買に行くぞ。パン争奪戦だ」
「行かない」
「なんでだよ。お前、最近パン食ってないだろ」
「食ってる」
「食ってない。お前が食っているのは、栄養ゼリー一本だけ」
「……便利だよ」
「便利で生きるな。高校生なんだから好きなもの食べろ」
蓮が勝手に説教して、勝手に笑っている。こいつはこいつで、誰かを救ってる。
俺が、ノートを閉じたときだった。
教室の入口の方で、視線が、勝手に集まっていた。
そこに立っていたのは、女子だった。
制服は同じはずなのに、着ているというより、纏っていた。
姿勢がまっすぐで、動きが無駄に静かで、髪が光をきれいに返している。
月の光みたいな人だ、と思った。昼の光が、窓から差し込んでいるこの教室で。
彼女は、教室の中を一度だけ見渡して――俺で止めた。
「久我くん」
俺は顔に出さないように頷いた。
「……何」
女子は少しだけ顎を引いて、礼儀の角度で言った。
「二組の月城 雪です」
名前は、聞いたことはある。しかし、こうやって本人は、見るのは初めてだ。
蓮が横で、口を押さえて小声で言う。
「つきしろ……二組のマドンナ」
「声で言うな」
「聞こえてないから大丈夫」
「黙れ」
雪は、蓮の存在を一度も見ようとしない。
「放課後、少し時間をもらえますか」
「……話の内容による」
俺が言うと、雪の睫毛が一回だけ落ちた。
「ここでは言いません」
言い方は冷たいのに、どこか華がある。
蓮が耐えきれずに、間に割って入る。
「え、なに? 告白? 告白なの? 慧、今モテ期——」
「蓮」
俺が名前を呼ぶと、蓮は「はい」と一瞬で黙った。
雪は蓮に視線を向けず、俺にだけ言う。
「補習室で待っています」
……補習室。
入口を知ってる。
俺が返事をする前に、雪は一礼して、教室から消えた。消え方まで静かで、可憐だった。
蓮が机に突っ伏して呻く。
「なあ慧……お前、なにやってんの。補習室にヒロインが集まる呪いでもあるのか?」
「呪いじゃない」
「じゃあ何だよ」
「……春」
「雑な言い訳やめろ」
俺はノートを開き直した。開き直しても、文字が頭に入らない。
*
放課後。
廊下の音が軽くなる時間。人が帰り、部活が残り、先生の声が遠くなる。
補習室の前に立って、ノックをしようとして、やめた。
中から香坂先生の声がしたからだ。
「開いてるよ。……っていうか、開けっぱなし」
中に入ると、香坂先生が椅子にだらしなく座っていた。
プリントの山。眠そうな目。いつも通りの風景だ。
そして、その向かいに――月城雪が座っていた。
背筋が一本、空へ伸びるように真っ直ぐだった。手は膝の上。
まるで、ここだけ時間が止まって見える。
香坂先生が俺を見て、口元だけ上げた。
「来たね。……先に言う。私は面接しない」
「分かってます」
「うん。じゃ、私は寝る」
「寝ないでください」
「いや、寝る。私は疲れているんだ」
先生は言いながら、雪に向き直る。
「月城。ここは補習室で、相談室じゃない。だから、続きはそっち」
雪が小さく頷いた。
「はい」
言葉の節々に、丁寧さを感じる。
俺は椅子に座って、雪を見る。
「で。放課後に呼び出してまで何?」
雪は一拍置いてから、鞄から封筒を出した。学校のロゴが入った、薄い紙。
「昨日、学校から届いたものです」
封筒を机に置くだけで、空気が少し硬くなる気がした。きっと気のせいだろう。
俺は受け取らず、目だけで内容を追った。
“引き落とし未納”
そういった単語が、並んでいた。
文字の並びはただの印刷なのに、机の上に置かれた瞬間だけ、空気がひやりとした。
俺が黙って見ていると、雪は目線を落としたまま言った。
「学費です。……今週中に、入金がないといけないみたいで」
香坂先生が、椅子に沈んだまま片目だけ開ける。
「うわ。学校の手続きって、優しくないよね」
「先生、寝るなら寝てください」
「寝ない。聞くだけ聞く」
先生はそう言って、プリントの山に顔を埋めた。
俺は、雪に視線を戻す。
「金額は」
雪の睫毛が、一回だけ落ちる。言葉を整えているようだった。
「三十六万です」
高校生には、大きく見える数字だった。けれど、雪の声は揺れない。
「家の口座が止まってるとか、そういう?」
雪は首を振った。小さく、そしてきっぱりと。
「止まっていません。……ただ、入ってくるものはありません」
入ってこない。
その言葉は、彼女の涼しい顔とは、似つかない残酷な言葉だった。
「父の事業が、失敗しました」
雪が言った。淡々とした声で。
「失敗、って」
俺が聞くと、雪は目を上げずに続ける。
「事業を畳む、と父は言いました。……でも、畳むにもお金が要るみたいで」
香坂先生が、机に突っ伏したまま、ぼそっと言う。
「畳むにも金が要る。大人の世界って、やだねぇ」
「先生」
「はいはい。黙る。……月城、君、若いのに偉いね」
雪は先生の方を見ない。見ないまま、言葉を落とす。
「家の中で、誰も怒らないんです。怒らないのに、空気だけがずっと荒れていて」
俺は息を吸って吐いてから、短く言った。
「……雪。今、家に生活費は?」
雪の指先が、膝の上で一度だけ握られる。
「母が、食費を……削っています。父は、外に出る時間が増えました」
増えた、というより、逃げたという方が、適切なのだろう。そして、その言葉を言わないのが雪の強さで、弱さなのかもしれない。
「学費が払えないと、どうなる?」
雪は、机の上の紙の端を指で押さえた。
「猶予は、ほとんどありません」
俺は頷いた。
「……ここで全部は聞かない。先生の立場もあるだろうし.....」
香坂先生が、机の中から親指を立てた。
俺は、雪にだけ言う。
「放課後、事務所に来て。ここでは、これ以上言わなくていい」
雪の喉が、小さく鳴った。
「事務所って……怖いですか」
俺が聞くと、雪は一拍置いて、正直に頷いた。
「怖いです。……でも、払えない方がもっと怖いから」
その言い方が、まっすぐすぎて、眩しくて。
「怖いって言えてるなら、まだ大丈夫。無理って言ってもいいし、止めたいって言っていい。——その代わり、連絡は切らないで欲しい」
雪の目が、俺の目を見た。初めて、ちゃんと目と目が合う。
「……連絡を切らない」
繰り返す声は、小さいのに強い。
「うん」
香坂先生が、ようやく顔を上げた。眠そうな目で、雪を見て、それから俺を見る。
「まぁ、君なら大丈夫だろう」
「教師っぽいことするのやめてください」
「やめない。教師だから」
雪が、少しだけ口元を動かした。
「……久我くん」
「うん」
「よろしくお願いします。放課後、行きます」
俺は立ち上がる。
「じゃあ、また放課後に。遅れそうなら連絡して」
「分かりました」
雪は鞄を抱えて立ち上がる。指先がほんの少しだけ白い。
俺はドアを開けて、廊下の春の音の中へ出る。
補習室の中の空気だけが、少し遅れてついてきた。
月の光のような彼女が、俺の後に続く。
窓の外で、吹き撫でる麗らかな風が、今日も、誰かの春を、ほんの少しだけ前へ進める。




