桜の余韻
四月が一枚めくられて、朝の空気が少しだけ軽くなった気がした。
教室の窓から見える桜は、相変わらず「落ちる気配」だけを先に見せて、花びらそのものはまだ粘っている。
「おーい慧ー」
蓮が、俺の机に寄りかかってくる。
「今日の放課後さ、ほんとにカラオケ——」
「無理」
「即答すぎ。断られすぎたら、そろそろ泣いちゃうかもよ」
「泣くなよ。延期だって言ってるだろ」
「延期延期って、本当に行く気ある?」
蓮がぶつぶつ言いながら、去っていく。
そういう日常の雑音に混ざって、机の横に影が落ちた。
「……久我、くん」
顔を上げると、紬が立っていた。
制服の襟は整っている。髪も、ちゃんとまとめてる。目の下の隈は薄くなってきたけど、まだそこにあった。
「どうした」
紬は、一度だけ呼吸を整えるみたいに胸を小さく上下させてから、封筒を鞄から出した。薄い封筒。派手じゃないのに、目に入ると空気が少し硬くなる。
「……これ。今日、持ってきました」
「何」
「……一万円。今月の分です」
言い切ったあと、紬の肩がほんの少しだけ落ちる。
俺は「うん」とだけ頷いた。
「本当は、来月からって言ってもらったのに……でも、父が『先にできるなら先に』って」
「ありがとう。受け取るね」
紬の目が揺れて、すぐに落ち着こうとする。
「……ここで、渡してもいいですか」
教室の真ん中。人が多すぎる場所。
俺は、反射で周りを見た。視線が集まっているわけじゃない。
しかし、俺は、首を横に振った。
「ここはだめ」
「……すみません」
「すぐ謝らない」
「……はい」
紬が小さく頷く。
「放課後。事務所で」
紬が唇を結ぶ。少しだけ、怖い顔をする。
「……九条さん、いますよね」
玲奈は、よく怖がられる。本人は自覚ないらしい。それが、一番怖い。
「いる」
「……やっぱり」
「でも、今日は返すだけだから。やることは、封筒を渡す。それだけ」
紬は、少し迷ってから言った。
「それだけですか?」
「それだけ」
俺が言うと、紬の目が大きくなる。
紬の指先が、封筒の端をぎゅっと掴む。掴んで、すぐに力を緩めた。
俺は、机の引き出しを開けて、個包装の飴を一つ取り出した。前に渡したのとは別の味。たぶん。
「これ、持ってて」
「え」
紬は一拍遅れて、ふっと笑った。
「……久我くん、やっぱり現実的ですね」
「取り柄だからね」
「……その取り柄、助かります」
紬は飴を受け取って、ポケットに入れた。
そのタイミングで、香坂先生が教室に入ってきた。プリントの束を抱えたまま、目が半分くらい閉じている。
「はーい。次、小テストあるからねー。……あ、早川。今日は顔が生きてる」
「せ、先生……」
この人には、不思議そうに見ている他のクラスメイトの視線を、感じていないようだ。
先生の視線が、俺に刺さる。
「君、今、何してた?」
「何も」
「嘘。今、君は人間性について学んだ。プラス半点」
「採点やめてください」
「やめない。教師だから」
先生は、いかにもだるそうに言いながら、プリントを机に置いた。
「……早川。放課後、補習室来る?」
紬が俺を見た。俺は首を小さく振る。
「今日は来るな」
香坂先生は察した顔で、雑に手を振った。
「そ。じゃあ、早川は無理すんな。久我も。——無理すんな」
最後だけ、少しだけ真面目な大人の声だった。
*
放課後。
蓮がまた叫ぶ。
「慧!カラオケ!」
「無理」
「……最近“無理”しか言ってないぞ」
「言ってない」
「言ってる。今も言ってた」
「……うん」
「ほら!」
蓮が笑って、俺は手だけ上げて校門を出た。
商店街を抜けて、裏道に入る。いつも通り、呼吸が浅くなる。
二階の目立たない扉。ポケットから取り出した鍵を回す。
静けさが、落ちてくる。
「お帰りなさいませ」
玲奈が、頭を下げる。
黒髪はきっちりまとめられていて、シャツの襟は真っ直ぐだ。
今日はテーブルの端に小さな花瓶があった。白い花が一輪、懸命に咲いていた。
「慧様。本日の予定は」
「普通に聞いて」
「承知しました。ご予定は」
「返済を受け取った」
玲奈の空気が、一段引き締まる。
「承知しました。領収書、準備済みです」
「ありがとう」
「当然です」
当然、が今日も、玲奈から落ちる。
ノックが二回。
俺が扉を開けると、紬が立っていた。手には、茶封筒。
「……こんばんは」
「うん。入って」
紬が一歩入った瞬間、玲奈がすっと位置を変える。
紬の斜め後ろ。影みたいに、圧が出ていた。
俺は、軽く咳払いして言った。
「玲奈、座って」
「立ち会いですので」
「座って」
玲奈は一拍、俺の言葉を受け取ってから座った。
「……承知しました」
紬の肩が、少しだけ落ちる。
「紬。今日は、渡すだけでいい」
呼び捨てにすると、紬が少しだけ驚く。驚いたあと、頷いた。
「……はい」
紬が、封筒を両手で差し出した。指先は震えてない。
俺は受け取って、封を開けずに玲奈へ渡す。
「確認しろ」
「承知しました」
玲奈は封筒を開け、手際よく札を確認した。
その途中、玲奈の視線が一瞬だけ床へ落ちた。
――床の隅。小さな黒い点。
虫だ。
玲奈の動きが、ぴたりと止まる。
紬が気づきかけて、目を丸くする。
俺は思わず、ため息を一つ。
「玲奈」
「……はい」
「今は、仕事だ」
「……承知しました」
玲奈は無表情のまま、視線を虫から切り離した。が、意識は、微かに蠢いている小さな生物に向けられていた。
「一万円。受領しました」
玲奈が言って、即座に領収書を差し出す。
俺は、それを紬に渡した。
「これで一回目。——お疲れ」
紬は領収書を受け取って、紙の文字を確かめるみたいに見てから、胸のところで握った。
「……ありがとうございます」
玲奈が小さく続ける。
「次回は、同日。遅れる場合は事前連絡を」
「玲奈、言い方」
「……連絡、ください」
「それで」
紬がくすっと笑った。笑ってから、慌てて口元を押さえる。
「……九条さん、やっぱり、すごいですね」
「当然です。慧様のご命令ですから」
玲奈が即答する。即答しすぎて、紬がまた笑いそうになる。
俺は虫の方へ、視線を送った。玲奈の視線が、また一瞬だけ強張る。
「……俺がやる」
紙を一枚取って、ぱん、と叩く。それで終わり。
玲奈が、何事もなかったように言った。
「衛生が確保されました」
「今の、言わなくていい」
「必要です」
「……はいはい」
紬が今度は、ちゃんと笑った。
その笑いが、妙に嬉しかった。それを言葉にすると、何かが台無しになってしまうと感じたから、俺は言わない。
「紬。今日はここまで。気を付けて帰って」
「……はい」
紬は立ち上がって、深く頭を下げそうになって、途中で止めた。代わりに、小さく言う。
「……また、連絡します」
「うん。待ってる」
紬が扉を出ていく。足音は軽い。春のような音だった。
扉が閉まったあと、玲奈がぽつりと言った。
「慧様。初回の返済、完了です」
「うん」
「……早川様、震えていませんでした」
「見てたんだ」
「当然です」
俺は椅子の背にもたれて、天井を一回だけ見た。
貸し手と借り手の関係は、数字上でのやり取りでしかない。でも、紬を見ていると、これから先それだけの関係だけではいられない気がする。
外では、桜がまだ落ちない。
それでも、少しずつ季節は進んでいく。
飲み込んだ言葉は、心に沈んで溜まっていく。
そう思った瞬間、机の端でスマホが震えた。
知らない番号だ。
玲奈が、既にペンを持っている。
春は、まだ始まったばかりなのに。




