飴と糖分
次の日。
目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。春の朝は眠いはずなのに、今日は眠気がどこかに行ってしまっていたらしい。
制服に袖を通しながら、頭の中で昨日のことを思い出していた。
玄関を出た瞬間、スマホが震えた。
『おはよ。今日こそカラオケ行ける?』
蓮からだった。
俺は「無理」とだけ返して、ポケットに戻した。
学校へ向かう坂道は、昨日より少しだけ暖かい。桜の匂いは相変わらず“雰囲気”でしかなくて、花びらもまだ落ちない。
教室に入ると、朝の雑音がいつも通りだった。机を引く音、誰かの笑い声、シャーペンの芯が折れる音。
日常は、勝手に続いていく。
「おーい、慧!」
呼び捨てが飛んでくる。蓮が自分の席から身を乗り出して手を振っている。
俺は席に座って、鞄の中のメモ帳を指で確かめた。今日は学校のノートより、こっちの方が心が落ち着く。
ホームルームが始まる前、廊下の方から、すり足みたいな足音がした。
――来た。
香坂先生は、昨日と同じように眠そうな顔で教室の入り口に立って、黒板の方を見もせずに俺を見つけた。
見つけるのが早い。
先生は、小さく手を振って、口だけ動かす。
俺は頷いた。
蓮が、横で小声で言う。
「なに?また先生に呼び出しくらった?」
「呼び出しじゃない」
「じゃあ何」
「人生の補習」
――ここまでが、学校の顔。
*
昼休み、スマホが震えたのは、一回だけだった。
『病院、午前中に行くって。母の手術、今日になった。……ごめん』
紬からだった。
短く必要なことだけ。
俺はその場で返信した。
『謝らなくていい。予定通りだ』
送信。
机の上のプリントに視線を落として、授業のフリをする。フリと言っても、授業はちゃんと受けている。しかし、思考の半分は、病院に向けられていた。
窓口にいるはずの紬のもとへ。
教室の窓から見える校庭は、いつも通りの春で、いつも通りの馬鹿騒ぎだ。そこに混ざれないことを、寂しいと感じる余裕はない。
放課後。
蓮がまた叫ぶ。
「慧! 今日こそカラオケ!」
「無理」
「また人生の調整か?神は・・・」
「しつこい」
蓮が「ひどい」と喚いているの背に、俺は廊下へと出る。
香坂先生が廊下の端で、プリントの束を抱えていた。抱えすぎて、持ち方が雑で、でも落とす気配は一切なかった。
「おい、二年生」
「先生、授業でその呼び方やめてください」
「授業じゃない。……早川から、連絡来たか?」
「来ました。午前中に行くって」
香坂先生は、眠そうな目を一瞬だけ細くする。昨日みたいに。
「そ。……君は、どうも顔が固い。ほぐせ」
「どうやって」
「甘いものを食べて、ぐっすりと寝て、心の底から笑う。……どれも無理なら、せめて深呼吸をしろ」
先生はそう言って、プリントの山を抱え直した。
「私は補習をする。君は、君のすべきことをやれ。私は見ないし、聞かない。……でも、困ったら私に相談しろ。君も私の大事な生徒の一人だ」
「……ありがとうございます」
香坂先生は、だるそうに手を振って教室へ消えた。
商店街の匂いがして、裏道に入ると空気が冷える。
いつもと同じ道で、いつもと同じ扉。
鍵を回す。
「お帰りなさいませ」
玲奈が頭を下げる。黒髪はきっちりまとめられていて、シャツの襟は相変わらず真っ直ぐだ。
机の上には、昨日よりさらに整った書類の束。
整いすぎていて、逆に怖い。
「慧様。現金は準備済みです。封筒、領収の控え、返済計画の写し、連絡確認のチェック項目も」
「チェック項目って何」
「受領確認です」
「……そこまでやるんだ」
「当然です」
俺は、椅子に座って、スマホを机に置いた。
「玲奈。今日は、病院の外でいい。紬が窓口に入ったら、距離を取って見てて」
「承知しました。距離を取り、視認を継続します」
「言い方」
俺は、玲奈に向ける視線を少し鋭くした。
「……見守ります」
「それでいい」
玲奈が、小さく頷く。
その時、スマホが震えた。
紬からだ。
『今、病院です。窓口に並んでます』
俺は、すぐに返す。
『了解』
送信すると、玲奈が一歩だけ動いた。
「慧様。出発しましょう」
「うん」
俺は立ち上がって、封筒を手に取る。重さは紙なのに、手が勝手に重い。
玲奈が扉を開ける――開けそうになって、俺に目を向ける。
「……慧様が」
「うん。俺が開ける」
俺が、扉を開ける。外の空気が、入ってくる。
春の匂いは、少しだけ冷たい。
病院へ向かう道の途中で、玲奈が低い声で言った。
「慧様。万一、早川さんが動揺した場合」
「俺は出ない。紬が嫌がるだろう」
「承知しました。では私は――」
「玲奈も出ない。外だけだ」
玲奈が一拍止まる。それでもすぐに頷く。
「……承知しました。外だけですね」
病院の建物が見えてきた。
白い壁が、春の光を跳ね返して目に刺さる。ガラスの自動ドアが絶えず開閉して、そのたびに冷えた空気と消毒の匂いが外へ漏れた。
玲奈は、入口から少し離れた位置に立った。人の流れの邪魔にならない、でも見失わない位置。訓練された立ち方。
俺はさらに離れた。窓口が見えるギリギリのところで、立つ。
時間が、流れ過ぎていく。
スマホが一度だけ震えた。
『終わりました』
紬から。
俺は息を吐いた。
玲奈も、ほんの少しだけ肩の力が落ちる。
「……受領確認ですね」
玲奈が言う。
「確認しなくていい」
「確認は必要です」
「今は必要ない」
「……承知しました」
その言い方が、ちょっとだけ悔しそうで、俺は口元を緩めた。
紬が病院の自動ドアから出てくる。顔色が悪い。目が赤い。泣いていたのかもしれない。
俺は動かない。
玲奈も動かない。
紬が周りを見て――俺を見つけた瞬間、ほんの一瞬だけ、足が止まる。
それから、小さく頷いた。
俺も、同じくらい小さく頷き返した。
封筒を持つ手が少しだけ重い。
でも、渡すのは俺じゃない。
渡すのは紬自身。
玲奈が、低い声で言う。
「慧様。……“外だけ”で、よろしいのですね」
「うん」
俺は目を逸らさずに言った。
玲奈が、ほんの少しだけ目を細めた。
理解したのか、理解できていないのか。
それでも、静かに頷く。
「承知しました。……慧様の仰せのままに」
「仰せはやめて」
「……承知しました」
病院の前の春風が、制服の裾を少しだけ揺らした。
花びらは、まだ落ちる様子はなかった。
数日後。
昼休みの終わりが近づいてきたころだった。
俺が机の中を探って、消しゴムのカスを丸めていたら、視界の端に影が落ちた。
その影が、俺の目の前で立ち止まっていた。
「……久我、くん」
呼び方が、まだ慣れていないようだった。
顔を上げると、早川紬が立っていた。制服の襟はちゃんと整っていた。
でも目の下の隈が、睡眠不足を物語っていた。
「どうした」
俺が言うと、紬は一度だけ唇を噛んだ。
「……あの時は、本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げる。少し深すぎはしないか。
俺は反射で周りを見た。誰も見てない……と言いたいところだが、見ている人間が一人だけいた。
蓮だ。
机に頬杖をつきながら、こっちを見てニヤニヤしている。
俺は紬に、小さく手で止める合図を出した。
「ここでそれは、流石に目立つ…」
「……すみません」
「謝らないで」
「……はい」
紬は小さく頷いて、手に持っていた紙袋を胸の前に寄せた。紙袋は小さい。
「これ、よかったら……」
「だめだ」
即答した。玲奈みたいな即答をしてしまって、自分でちょっと嫌になる。
紬の目が泳ぐ。
「え……?」
「俺は、そういうの受け取らない主義なんだ」
「でも……お礼くらい……」
そこで、背後から声。
「おーい。いまの聞いた? “だめ”だって。冷たいなー」
蓮がわざとらしく大声を出した。クラスの数人が、俺の方を見る。ほんとに最悪。
「蓮、黙ってて」
「だってよ。お前、今のはさすがに——」
「蓮」
俺が少し、語気を強めると、蓮は「はいはい」と言った。そういうところは素直だ。
紬が小さく息を吸って、俺の目を見た。
「……じゃあ、これもだめですか」
紙袋を持つ指が震えてる。
俺は一回だけ、呼吸を置いてから言った。
「……中身は何?」
「クッキー、です。……家で焼いてきました」
どこか、普通の高校生の響きだった。
俺は「それ」を否定するのが、なぜかすごく嫌だった。
でも、受け取ってしまうと、貸し手と借り手の関係以上のものになってしまう。
俺は、偽善者ではない。
「紬」
意図的に、呼び捨てにした。苗字で呼ぶと距離が遠い感じがするから。
紬が目を丸くする。
そして、俺の後ろで蓮が「えっ」って声を漏らす。とりあえず、黙れ。
「お礼は、もうもらってる」
「え……?」
「連絡、切らずに、ちゃんと来た。それだけで十分だよ。俺は」
紬の喉が、小さく鳴った。
「でも……私は……」
「返す気があるなら、それで大丈夫。……だから、そのクッキーは、家で食べて」
紬の表情が、しょんと落ちかけて、すぐに戻った。そして彼女は、困ったみたいに笑った。
「……分かった」
その「分かった」は、きっと分かっていないのだろう。
俺は、机の上のシャーペンを指先で回して、言い方を変える。
「じゃあ、交換」
「交換……?」
「クッキーは受け取らない。その代わり——」
俺は自分の鞄を開けて、個包装の飴を一つ取り出した。いつも引き出しにあるやつ。味は、相変わらず覚えてない。
「これ。……あの日みたいに、息が止まりそうになったら使って」
紬が飴を見て、ぽかんとした。次に、目尻が少しだけ柔らかくなる。
「……それ、私に?」
「うん。糖分補給に」
「……すごく、現実的ですね」
言い方が、ほんの少し笑っている。
「それが、俺の取り柄らしいよ」
蓮が後ろで耐えきれずに吹いた。
「取り柄が糖分補給って何だよ」
「うるさい」
紬が、飴を両手で、包むように受け取る。その受け取り方が丁寧すぎて、ちょっと可笑しい。
「……ありがとうございます」
紬が、紙袋を持ち直して、少しだけ視線を落とした。
「母の手術……うまくいきました。まだ入院は続くけど……先生に言われたんです。“今は焦らなくていい”って」
言葉の最後が、少しだけ震える。
「そっか」
俺は頷いた。それ以上は、踏み込めない。
「……よかった」
紬が、その二文字だけで、目を瞬いた。自分でもびっくりしてる顔。
俺はそれ以上言わない。
教室のドアが開く音がした。
「……え、なにこの空気」
香坂先生が入ってきた。プリントの束を抱え、髪がちょっとだけ雑で、目が半分寝てる。
先生は一瞬で状況を理解して、俺の方を見て口角だけ上げた。
「君、顔がちょっとだけ生きてる」
「顔の話しないでください」
「してない。観察だ」
先生はプリントを机に置きながら、さらっと言った。
「じゃ、授業始める。……あと早川、放課後の補習、もう来なくていいからね。君は今日は、帰って寝ろ」
紬が驚いて、でもすぐに頷いた。
「……はい」
香坂先生は、そのまま黒板の方へ行き、チョークを持った。
いつも通りの授業の音が始まる。
紬は俺に軽く頭を下げて、静かに自分の席へ戻っていく。紙袋を大事そうに抱えたまま。
蓮が机に顔を近づけてきて、小さなの声で言った。
「なに今の、飴渡してたよな。お前、そういうことするんだ」
「する」
「……へえ」
「何」
「いや……普通に、良かったなって」
俺はシャーペンを握り、窓の外を見る。
桜は、まだまだ落ちそうになかった。




