黄昏の風
——何してんだ、俺。
入学式の自己紹介じゃない。
今ここでやる挨拶じゃない。
そう思ったのに、引っ込めるのも変で、そのまま待つ。
朝日奈は俺の手を見て、それから俺の顔を見た。
迷って、迷って、最後にそっと指先を重ねる。
冷たかった。
それでも、ほどけないように俺は力を抜いたまま支えた。
「……よろしく、お願いします」
声が小さい。
手を離すと、夕方の風がベンチの周りを一周して、落ち葉もないのに足元の砂が少しだけ舞った。
朝日奈は温かいお茶を両手で抱えたまま、また立ち尽くした。
立ち尽くすのが癖なのか、今だけなのか分からない。
「……座ろ」
俺が言うと、朝日奈は遅れて頷いて、ベンチの端に浅く腰を下ろした。
俺も隣じゃなく、少しだけ離れた場所に座った。
俺は、ゆっくり言った。
「朝日奈。……さっきの二百五十万って、今すぐ?」
朝日奈の肩が、ぴくっと動いた。
「……今すぐ、っていうか……」
言いかけて、止まる。
俺は先に言った。
「無理に言わなくていい。細かいところまで聞きたいわけじゃない」
聞きたいのは数字じゃない。
彼女が今どこまで追い詰められてるか、それだけだった。
朝日奈は、お茶の缶を指で撫でた。熱が残っているはずなのに、手つきが寒そうだった。
「……借りてます。もう、いくつか。最初は少しだけだったのに……」
俺は、できるだけ普通の声で聞いた。
「……辞めたら、働いて返すつもり?」
朝日奈が、小さく頷く。
「そうしないと……弟のご飯が……母も、今すぐは戻れないし……」
俺はそこで、少し迷った。
言うべきか。
言ったら、彼女は怖がるかもしれない。
でも言わなかったら、俺はただの「優しい同級生」になって、何も変えられない。
俺は息を吸って、吐いた。
「……朝日奈。俺さ」
言葉が一瞬だけ詰まる。
「お金、貸せるよ」
朝日奈が、目を丸くした。
「……え」
俺は、慌てて続ける。
「いや、変な意味じゃなくて。——その、俺個人が金持ちとかじゃないんだ」
大前提として、俺は高校一年だ。
朝日奈が、まだ口を開けたまま固まっている。
俺は視線を外さずに言った。
「うち、そういう家なんだ。……家業っていうのかな」
家業、という言葉は、あまりにも軽い。
「……望月くんが?」
「俺が、っていうより……家が。俺は手伝ってるだけ」
着飾らずそのまま口にする。
「……怖いことはしないよ」
言いながら、自分でも思う。
“怖いことはしない”って言い方が、すでに怖い。
朝日奈は、お茶の缶を握りしめて、目線だけで俺を見た。
「……なんで、そんなこと……」
俺は、すぐに言う。
「嫌ならやめる。今の話、なかったことにしてもいい」
朝日奈の目が揺れる。揺れて、揺れたまま止まる。
「……嫌、じゃない」
小さい。
「嫌じゃないけど……怖いです」
「うん。怖いよね」
俺はそこで、無理に笑わなかった。そんな笑みは、きっと安っぽいものになってしまうから。
「でも、辞めるのも怖いだろ」
朝日奈の唇が、ぎゅっと結ばれる。
肯定の代わりの沈黙だと受け取った。
俺は続ける。
「朝日奈が一番怖いのって、たぶん“借り続けること”だと思う」
朝日奈が顔を上げた。
「……借金を借金で埋めるの、終わりがない」
言葉が、少しだけ硬くなった。
俺は、それを抑えるみたいに、声の温度を落とさないまま言った。
「だから、まとめて止めたい。朝日奈がちゃんと学校に残れる形で」
朝日奈の目の端が、また少しだけ濡れる。
「……そんなの、望月くんに関係ないのに」
朝日奈が言った。
責めるみたいに。突き放すみたいに。
俺は、少し困って、でも正直に言った。
「関係ないって言われると、関係ないんだけど……」
言い直す。
「……ただ、クラスメイトを放っておけなかっただけ」
かっこよくない。でも、これが俺の本音だった。
遠くで蓮が、やっと動いた。
歩いてくる気配。
蓮は俺の横を通り過ぎる瞬間だけ、低い声で言った。
「悠斗、無理すんなよ」
それだけ。
朝日奈はそのやり取りを見て、息を吸った。
「……月岡くんは、知ってるんですか」
俺は頷いた。
「幼なじみだからね。……知ってる」
朝日奈は、視線を落とす。
「……望月くんって、普通の人だと思ってた」
「普通だよ」
「普通じゃない」
即答だった。その即答に、俺の方が少しだけ笑ってしまった。
「……そうかも」
俺はそこで、言葉を選んだ。
「朝日奈。今すぐ“借りる”って決めなくていい」
そして、ちゃんと続ける。
「でも、辞める前に一回だけ、ちゃんと話そう。俺の家——いや、うちの場所で」
朝日奈の表情が、固くなる。怖いのは当然だ。
俺は急いで付け足す。
「無理なら来なくていい。俺がどこかに行く。……人の目が少ないところ」
朝日奈はお茶の缶を見つめた。
温かさを確かめるみたいに、指でゆっくり撫でる。
「……望月くん」
「うん」
「私、今まで——助けてって、言ったこと、ないんです」
言い終えた瞬間、朝日奈の肩が少しだけ震えた。
俺は、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、今日が一回目」
朝日奈が目を瞬いた。
俺は不器用に、はっきり言う。
「今日だけじゃなくて、今日から。……でも、無理はしない。朝日奈が壊れない範囲で」
朝日奈は、少し迷ってから、ちいさく頷いた。
「……分かりました」
俺は、立ち上がって言った。
「帰ろう。今日はもう、家帰って、寝て」
朝日奈が、缶を握ったまま立ち上がる。
「……望月くん」
「ん?」
朝日奈は、言いかけて、飲み込んで、それでも言った。
「……ありがとう」
俺は、反射で首を振りそうになって、やめた。
「……うん」
それだけ返した。返せた。
遠くで蓮が、いつもの調子で叫ぶ。
「悠斗ー! 帰りにパン買っていい!? 今日は俺が奢る!」
「奢られなくていい!」
「えー!」
調子のいい声に、朝日奈の口元がほんの少しだけ緩んだ気がした。
校舎を出ると、夕方の涼しい風が頬を撫でてくれた。
その日の帰り道、夕方の光は思ったより優しかった。
さっきまでのことが夢みたいに思えるくらい、空はちゃんと青かった。
蓮が前を歩きながら、わざと大きめの声で言った。
「悠斗ー、パン!」
「奢られなくていいって言っただろ」
「奢りじゃねえよ。貸しだよ」
「意味わかんない」
「わからなくていい」
そう言いながら、蓮はコンビニの看板に向かってまっすぐ歩く。
いつも通りのうるささが、今日だけ少し救いだった。
朝日奈は、俺の少し後ろを歩いていた。
俺は何度も振り返りそうになって、そのたびにやめた。
コンビニの前まで来たところで、朝日奈が足を止めた。
そのまま視線だけを横に滑らせて、道路の向こうを見ていた。
そこに、小さな公園がある。滑り台と、錆びた鉄棒と、ベンチ。
ベンチの横に、保育園のバッグみたいな小さいリュックが落ちている。
そして、そのリュックの持ち主がいた。
男の子。小さな頭。
公園の端でしゃがみ込んで、靴ひもをほどこうとしては失敗して、またやり直している。
朝日奈の顔が、ほんの一瞬だけ変わった。
硬かった目が、柔らかくなる。
「……弟?」
俺が小さく聞くと、由衣が頷いた。
「うん」
道路を渡る。夕方の車は少ない。信号の青が、やけに長く感じた。
公園に近づくと、男の子が顔を上げた。
朝日奈を見る前に、俺を見た。
知らない男が近づいてきたから、警戒しているのだろう。
でも、その目がすぐに揺れた。
朝日奈が、小さく名前を呼んだからだ。
「……ゆう」
男の子が立ち上がって、朝日奈の方へ小走りに来る。
途中でよろけて、でも転ばない。転びそうになるのに、我慢して走る。
「おねーちゃん!」
声が、思ったより大きい。
朝日奈は、一瞬だけ手を伸ばしかけて、止めかけた。
でも——弟は待ってくれない。
勢いのまま、由衣の腰にしがみつく。
「おねーちゃん、遅い!」
「ごめん。ごめんね」
朝日奈がそう言って、弟の頭を撫でる。
撫でる指が、少し震えていた。
弟が、俺の方を見た。
見上げる目は、真っ直ぐで、果てしなく澄み渡っていた。
「だれ?」
質問が早い。
朝日奈が言葉を探す前に、俺が先に言った。
「望月。……朝日奈、お姉ちゃんとおなじクラスだよ」
朝日奈が驚いた顔をして、それから、ほんの少しだけ目を伏せた。
弟は俺の顔をじっと見て、次に朝日奈を見た。
「おねーちゃん、泣いてる?」
朝日奈の背中が一瞬固まった。
俺も固まった。
蓮が後ろで「うわ」って小さく言ったのが聞こえた。
子どもは容赦がない。ほんとに。
朝日奈は笑おうとして、笑えなかった。
だから代わりに、弟の頬を指でつまんだ。
「泣いてない。……目にゴミが入っただけ」
「ゴミじゃない」
「ゴミだよ」
「うそつき」
弟が言い切って、朝日奈の服を握り直した。
俺はそこで、しゃがんだ。
弟と同じ目線にする。勝手に動いてしまった。
「靴ひも、ほどけてる」
弟が足元を見て、眉を寄せる。
「これむずかしい」
「俺が結ぶよ」
「できる?」
「できる」
俺は靴ひもをつまんで、結び直した。指先で輪を作って、きゅっと締める。
簡単なはずなのに、今日は妙に丁寧になった。
弟がじっと見ている。
「すごい」
「普通だよ」
「すごいよ!」
弟が、即答した。
朝日奈がそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
蓮が後ろから、わざとらしく咳払いをして言う。
「俺もいるんだけど! 月岡蓮! 存在感ゼロ!」
弟が振り向いて、蓮を見た。
「うるさい」
「ごめん」
この幼なじみ、子どもには弱い。
朝日奈が、弟の手を握り直して、小さく言った。
「……帰ろ」
俺は頷いた。
「送るよ」
止まったのは、弟が先に言ったからだ。
「お兄ちゃんと一緒に帰る」
朝日奈が、目を丸くする。
「ゆう」
「一緒に帰るの!」
朝日奈は、小さく息を吐いて、頷いた。
「……分かったよ」
公園を出る前に、弟が俺の袖を引いた。
「おねーちゃん、学校やめるの?」
空気が、一瞬で冷たくなった。
朝日奈の手が、止まる。
握っていた弟の手の力が、逆に強くなる。
俺は息を吸って、同じ目線になるようにしゃがむ。
「やめないよ」
弟が瞬きをする。
「ほんと?」
「ほんと」
朝日奈が俺を見る。
驚きと、怖さと、少しの怒りが混ざった目。
俺は視線を逸らさずに言った。
「……今日だけじゃなくて、明日も。やめない。やめさせない」
弟が、朝日奈の手を握り直して言う。
「おねーちゃん、やめない」
朝日奈は一瞬だけ目を閉じて、それから、弟の頭を撫でた。
「……うん」
夕方の風が、三人の間を通り抜ける。
ほんの少しだけ、世界が軽くなった気がした。
朝日奈のスマホが震えた。
朝日奈の顔に、緊張が走る。弟は気づかない。
俺は気づく。蓮も、気づく。
朝日奈は、画面を見ないまま、スマホを握りしめた。
「……帰ろ」
朝日奈が、小さく頷いた。
「……うん」
夕方の道を歩き出す。
弟の小さな足音が、先に跳ねていく。
その足音が消えないように、俺たちは少しだけゆっくり歩いた。




