春の目覚め
四月の朝は、まだ冬の名残を小さく引きずっている気がした。
校門の脇の桜が、咲いてるのか咲いてないのか分からないくらいの色で揺れていて、風が通るたびに、花びらじゃなくて“雰囲気”だけが落ちてくる。
教室の前の掲示板に貼られたクラス名簿を見上げて、俺は一回だけ瞬きをした。
ここでの二年目の学生生活が、始まった。
「おーい、いた。いた」
背中に軽い衝撃。振り返ると、にやけた顔がそこにある。
「お前さ、名簿の前でフリーズするのやめろって。新入生に怖がられるだろ」
「怖がられないよ」
「いや、怖い。目から何かが出る」
「出てない」
「出るんだよ。年利が」
「年利って言葉、学校で使うのやめて」
唯一と言ってもいい男友達の蓮は、俺の肩に肘を乗せたまま名簿を覗き込んで「うわ」と声を出した。
「見ろよ。席、俺と離された。運営さぁ……」
「運営って言うのもやめて」
「じゃあ、神。神が俺らを引き裂いた」
「神は、そんな細かいことしない」
「するんだな、これが。神は陰湿だから」
蓮のしょうもない恨み節を聞き流しながら、俺は名簿の自分の名前のところを指でなぞった。……隣の席の名前は知らない。去年のクラスにいなかった子だ。
新学期は、人が勝手に入れ替わる。空気も、机の傷の位置も、声の大きさも。
「……なあ」
蓮がふいに、少しだけ声のトーンを落とした。
「今年も、放課後、あれ、行くの?」
俺は視線だけで「どれ」と返して、わざとらしく首を傾げる。
「どれって言うな。お前、そういうとこだぞ」
「分かってる。……行くよ」
「……そっか」
一瞬だけ、蓮の顔が“安心”の方へ寄る。それがすぐに照れ隠しみたいに戻って、わざと大げさにため息を吐いた。
「ま、俺はカラオケ行くけどな。お前も来いよ」
「今日は無理」
「予定?」
「予定」
「なに、予定って?」
俺は迷った。迷った結果、適当な答えを選んだ。
「人生の調整」
「言い方ぁ!」
蓮が、腹を抱えて笑う。
その笑い声を聞くと、俺の頭の中の余計な計算が、ほんの少しだけほどける。
――そのはずだった。
*
ホームルームが終わって、教科書の山が机に乗り、クラスの雑談が“新学期の音”になってきた頃。
廊下の方から、絶対に教室に入ってきちゃいけない種類の足音が聞こえた。
すり足気味。
「……あ」
蓮が口元を引きつらせる。
「来た」
「何が」
「だるい人」
それは、担任でも生徒指導でもなく――現代文の香坂先生だった。
いつも眠そうで、いつもプリントを抱えすぎている。
整っているはずの身なりが、どこか雑で、それが妙に現実味を帯びていた。
香坂先生は、教室の入口に立ったまま、こちらを探すでもなく、当たり前の顔で俺を見つけた。
そして、片手をひらひらさせる。
「……君」
呼ばれ方が、呼び出しのそれだった。
俺が立ち上がろうとすると、蓮が小声で言った。
「お前、何しでかした?」
「何もしてない」
「何もしてない奴が一番呼ばれるんだよ」
「理不尽だね」
「大人って理不尽な生き物なのだよ」
俺は、立ち上がり、教室の外へ出た。
香坂先生は、廊下を歩き出しながら言う。
「二年生、おめでとう」
「ありがとうございます」
「その顔、全然めでたくないみたいだね」
「そうですか」
「そうだよ。……で、君、今学期も補習教室使うでしょ」
いきなり話が飛んだ。
俺は、一歩遅れて理解して、口元だけで笑う。
「俺が補習を受けるみたいに聞こえます」
「受けるでしょ。人生の補習を」
「それ、単位出ます?」
「出ない」
「じゃあ、やる気出ません」
香坂先生はふっと笑って、プリントの山を抱え直した。
「君さ、そういうとこ、ちゃんと可愛げあるよね」
「褒めてます?」
「褒めてないよ。……忠告だよ」
その言葉が、ちくりと胸を刺す。
香坂先生は、廊下の角を曲がって、誰もいない空き教室の前で立ち止まった。
ドアの札には「補習室」と手書きで貼ってある。去年も見た光景だ。
香坂先生は、ポケットを探って、鍵を取り出した。
鍵の束には、やたら可愛いキーホルダーが付いている。真顔のうさぎ。
「先生、それ、似合ってないですよ」
「うるさい。可愛いから付けてんの」
「先生が?」
「うさぎが」
「……はい」
香坂先生が鍵を差し込む手が少しだけ震えて、俺は反射で言った。
「眠いんですか」
「眠い。あと、お腹すいた。あと、人生が終わりかけている」
「盛りすぎですよ」
「盛ってない。……君さ、そういう顔で聞くから本当のこと言っちゃうんだよ」
鍵が回って、ドアが開く。
薄い埃の匂いと、春の風が一緒に入ってくる。
香坂先生は、教室に入る前に、俺をちらっと見た。
「ねえ」
「はい」
「今月、私、ちょっとだけ困ってるんだ」
言い方が、相談じゃなくて報告に近い。
俺は頷いた。頷くのが早すぎて、自分で少しだけ嫌になった。この人に良いように使われすぎている気がするから。
「分かりました。いつまでに、いくら欲しいんですか?」
香坂先生が、目を細める。
「ほらね」
「……何がですか」
「君、優しいのに、すぐ数字にする。いや、優しいからこそなのかな」
「合理的に判断しているだけですよ」
「はい、人間性マイナス一点」
「採点するのやめてください」
「やめないよ。私、教師だから」
香坂先生は、机の上にプリントの山を置いて、椅子にどさっと座った。スカートの裾が、雑に揺れる。
この人には、だらしないという単語がよく似合う。
「で。今学期のルール」
香坂先生が、指を一本立てる。
「ここは“補習室”。表向きはね。君もたまに座って、勉強してるフリしなさい」
「フリじゃなくて勉強します」
「偉い。でも、フリも大事なことだよ」
「先生、教育方針がずるいです」
「ずるい大人が、ずるく生き残ってんの。君は、どうもずるく生き残るのが下手なみたいだね」
その言い方は、からかっているように聞こえるのに、胸に刺さっていた。
俺が返事を探していると、教室の外から控えめにノックが鳴った。
香坂先生が「はいはい」と雑に言う。
「開いてるよ。入って」
ドアが少しだけ開いて、女の子が顔を覗かせた。
見たことがある。けど、話したことはない。たしか、去年、廊下で一度だけ、泣きそうな顔をしていた子。
彼女は目を伏せたまま、声を絞り出す。
「あの……香坂先生。放課後、少し……」
香坂先生は俺を見て、わざとらしくため息を吐いた。
「ほら。新学期ってこういうのが来るんだよ」
それから、その子に向き直って言う。
「座って。深呼吸して。――大丈夫、怒られないから」
俺は何も言わずに、椅子を引いて、彼女が座れるように空けた。
彼女が座った瞬間、香坂先生が小さく呟く。
「で、久我君」
俺を見る。
「……今日から、二年生の春、開始ね」
俺は、柔らかく笑った。
「先生、ドラマっぽく言わないでください」
「ドラマだよ。君がいる時点でね」
教室の外の桜が、窓の向こうで揺れている。
花びらはまだ落ちない。
でも、何かだけが――静かに動き始めていた。
俺は椅子を引いて、座れる場所を作った。
女の子は、恐る恐る腰を下ろす。膝の上の手が、きゅっと固い。
香坂先生は、机の端にプリントの山を置いて、椅子にどさっと座る寸前で、俺のほうに顔だけ向けた。
目が、いつもの眠そうなものではなかった。ほんの少しだけ、真面目な大人の目をしていた。
女の子は、膝の上で握った指をほどけないまま言った。
「……母が、入院してて」
香坂先生が、眠そうな目を一瞬だけ細くする。
「うん。だが、そこから先、私は聞かない。面倒ごとには巻き込まれたくない」
「……すみません」
「謝ることないよ。で、君。続きは“そっち”で」
俺は頷いて、彼女にだけ柔らかく言う。
「ここでは細かい話はしない。放課後、うちの事務所に来て。
——香坂先生の補習があるって言えば大丈夫だから」
女の子は、小さく息を吸って、言葉を落とすみたいに続けた。
「……病院に、保証金が必要で。明後日の昼までに……三十二万」
数字が出た瞬間、彼女の肩が目に見えないくらい縮む。
俺は視線を外さず、声の温度だけを落とさずに言う。
「大丈夫。まず“明後日までにどう動かすか”だけ決めよう。続きは放課後で」




