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私はもう、透明ですから

作者: 相野端摘
掲載日:2026/02/02

 シャンデリアの光軸が、指一本分ずれている。


 会場の中央、磨き上げられた大理石の床に落ちる影の角度が、私の計算よりもわずかに鋭い。

 掃除係が脚立の位置を間違えたのか。

 あるいは、熱気で膨張した空気が光の屈折率を歪めているのか。


 どちらにせよ、不快だ。

 世界の均衡が、またしても私の知らないところで勝手に崩れている。


「……だから、これは運命なんだ! わかるだろう、エレオノーラ」


 目の前で、男が何かを喚いている。

 ジュリアン・ド・ヴァランシエンヌ。

 私の婚約者であり、この夜会の主催者であり、そして今まさに、自らの喉元にナイフを突き立てていることに気づかない道化。


 彼の視線は、私を見ていない。

 私の肩越しにある虚空、そこにいるはずの「観客」に向かって演説している。

 時折、カフスボタンをいじる指先だけが、彼の深層にある焦燥を裏切っていた。


 唾が飛ぶ。

 汚い。

 計算外の水分が、私のドレスに付着する確率を瞬時に算出する。


「お姉様……ごめんなさい。でも、ジュリアン様は私が必要なの。私だけが、彼の本当の孤独を埋められるの」


 その隣で、妹のクラリスが私の腕に絡みついてくる。

 毒々しいほどに鮮やかな真紅のドレス。

 彼女の体温は、いつも微熱があるように高い。

 じっとりと汗ばんだ掌が、私の二の腕に吸盤のように張り付く。


 薔薇の香水の匂いがきつすぎる。

 鼻腔の粘膜が焼けるようだ。

 彼女は私の腕を掴みながら、上目遣いで私の反応を窺っている。


 その瞳は、獲物を前にした獣のように濡れている。

 ああ、気持ち悪い。

 ナメクジが肌を這うような、生理的な嫌悪感が背筋を走る。


「承知いたしました」


 私は、鏡に向かって練習した通りの角度で口角を持ち上げた。

 三七度の微笑。

 相手を最も安心させ、同時に思考停止させるための、完璧なマスク。


「え……?」


 ジュリアンの口が半開きになる。

 演説が止まった。

 台本にない反応を返された役者のように、彼は瞬きを繰り返す。


 残念ながら、変数は削除させてもらう。

 私の貸借対照表において、あなたたちは既に「償却済みの不良債権」でしかない。


「おめでとうございます。お二人の愛が、いかなる障害にも負けず成就したこと、心より祝福いたします」


 私は一歩、後ろに下がった。

 たった一歩。

 けれどそれは、私が長年維持してきた「防波堤」を決壊させるには十分な距離だった。


 ――ザッ。


 音がしたわけではない。

 けれど、鼓膜の奥で確かに聞こえた。

 気圧が急激に下がる音。

 真空が発生する音。


 それまでジュリアンの周りに群がっていた投資家たちが、まるで磁場が反転したかのように、不自然なほど滑らかに視線を逸らした。


 カツ、カツ、カツ。


 硬質なヒールの音が遠ざかる。

 グラスをテーブルに置く音が、やけに乾燥して響く。

 隣国の外交官が、無言で懐中時計を懐にしまい、出口へと足を向けた。


 構造計算を間違えたビルから、リベットが弾け飛ぶように。

 この空間を支えていた鉄骨(わたし)が抜けたことで、社交という巨大な建造物が、音もなく崩落を始めている。


「あ、あれ? おい、男爵? そっちの客も、どこへ行くんだ? まだ乾杯も……」


 ジュリアンが慌てて声をかけるが、その声は空虚な空間に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。

 彼は気づかない。

 皆が離れていくのは、二人の愛を尊重しているからではない。

 倒壊寸前の廃墟には、誰も長居したくないだけだ。


「お姉様……? ねえ、待ってよ。どこへ行くの?」


 クラリスが焦燥に駆られた声を上げる。

 彼女の声が震えている。

 私が去れば、彼女が奪った「宝石」はただの「石ころ」に戻ってしまうことを、本能で悟ったのだろう。


 私は振り返らない。

 もう、あなたたちに掛けるコスト(時間)は残っていない。


 窒息するまで、その狭い水槽の中で愛を貪り合っていればいい。


     ◆ ◆ ◆


 別室の応接間。

 扉を閉めると、会場の喧騒が嘘のように遮断された。


「……で、どうするつもりだ、エレオノーラ」


 父の声には、娘を心配する響きなど微塵もなく、ただ損益分岐点を割ることを恐れる商人の焦りだけがあった。

 母はソファで扇子を使いながら、不機嫌そうに眉間の皺を揉んでいる。


 私は無言で、懐から一通の羊皮紙を取り出し、テーブルに滑らせた。


 シュッ。


 乾いた紙の音が、部屋の空気を裂く。

 父が先代ディートリヒ辺境伯から借りた金の、債務弁済契約書。


「……これは」


「現物返済です」


 短く告げる。

 父が書類に目を走らせる。

 その瞳孔が、目を逸らしてきた金額の欄を見た瞬間に開いた。


「私がディートリヒ辺境伯のもとへ行きます。人的担保として。あちらは、領地経営の実務能力を持つ人間を求めています。私のスペックは、その需要と合致します」


 父の瞳に、計算の色が走る。

 莫大な借金。

 扱いづらい長女。

 そして、侯爵夫人となる予定の可愛い次女。


 天秤が傾くのに、一秒もかからなかった。


「……よかろう」


 父は、私の行く末を案じる言葉など一言も発さず、懐から印章を取り出した。

 バン。

 朱肉の匂いと共に、私の運命が決定される。


 あまりにも速い。

 あまりにも軽い。


 私は羽ペンを取り上げ、サイン欄に走らせる。

 カリ、カリ、カリ。

 硬いペン先が紙を引っ掻く感触が、指先を通じて脳髄に響く。


 それは、私が「ヴィトゲン家の娘」という籍を削り取る音だった。


「借金は帳消し。厄介な長女も片付く。……完璧な計算でしょう?」


 父と母が顔を見合わせる。

 その表情に浮かんだのは、安堵。

 「助かった」という、吐き気がするほど正直な安堵。


 ああ、やっぱり。

 あなたたちにとって私は、ただの高機能な計算機だったのね。


 それでいい。

 情愛なんて、計算を狂わせるノイズでしかないのだから。

 私はペンを置き、一度も彼らを見ることなく、部屋を出た。


     ◆ ◆ ◆


 ガタガタと、骨まで響くような振動が続いている。

 王都を出てから、もう半月は経っただろうか。


 私が揺られているのは、クッションの効いた貴族用の馬車ではない。

 泥にまみれ、所々が赤く錆びついた、鉄の棺桶のような無骨な馬車だ。

 窓には鉄格子が嵌められ、隙間風が容赦なく吹き込んでくる。


 鉄錆の匂い。

 あるいは、古びた血の匂い。

 硬い座席が、容赦なく私の尻と背中を打ち据える。


 痛い。

 けれど、その痛みが、私の輪郭を確かめる唯一の感覚だった。

 この痛みだけは、誰のためのものでもない。

 私だけのものだ。


 王都の方角を振り返る。

 灰色に濁った空の下、華やかな都の灯が、一粒ずつ滴り落ちるように消えていくように感じた。


 振動が激しくなるたびに、私の中で何かが剥がれ落ちていく。

 ドレスではない。

 皮膚だ。


 「ヴィトゲン伯爵令嬢」という名の、分厚い皮膚が。

 「社交界の調律師」という名の、重たい仮面が。

 一枚、また一枚と、乾いた音を立てて剥離していく。


 痛い?

 いいえ。

 これは、痒みだ。

 傷口がかさぶたになって剥がれる時の、あのむず痒いような、背筋が粟立つような快楽。


 私は、私でなくなっていく。

 名前も、過去も、期待も、憎悪も。

 すべてが後方の闇に溶け、置き去りにされていく。


 懐中時計を取り出す。

 チク、タク、チク、タク。

 規則正しい無機質な音が、私の脈拍と同期する。


 これから向かうのは、何もない場所だという。

 色も、音も、意味さえも凍りついた、白銀の虚無。


 なんて素敵なんだろう。

 私は硬いシートに深く沈み込み、目を閉じた。


 ようやく、静かになる。

 誰も私を呼ばない場所へ。

 あと少し。



 鉄の扉が開いた瞬間、暴力的な冷気が馬車の中に雪崩れ込んだ。

 呼吸をするたびに喉が凍てつき、内側から刺青を彫られているような鋭利な痛みが走る。


 痛い。

 この痛みだけが、ここが王都ではないことを保証する唯一の証明。


 泥にまみれたステップに足をかけ、地面へ降り立つ。


 雪。

 視界を埋め尽くす、圧倒的な白。

 音がない。色彩がない。

 世界が死に絶えた後に残されたような、純度の高い虚無だけがある。


 目の前に聳え立つのは、黒い石塊だ。

 装飾を削ぎ落とし、風雪に耐えるためだけに積み上げられた要塞。

 その壁面は、長い年月をかけて拒絶を堆積させた地層のように冷たく、触れれば指先の熱など瞬時に奪われるだろう。


 出迎えも、ファンファーレも、儀礼的な挨拶もない。

 ただ、吹き荒れる風が頬を叩き、ドレスの裾を乱暴に煽るだけ。


 ……完璧だわ。


 誰も私を見ていない。

 この無関心こそが、私が求めていた安息。

 私は薄いショールを肩に引き寄せ、凍てつく石段を上った。


     ◆ ◆ ◆


 屋敷の中は、外よりも静かだった。

 重厚な扉が閉まると、世界から音が切り離される。


「……こちらへ」


 現れたのは、枯れ木のような老執事が一人。

 荷物を持とうともせず、背を向けて歩き出す。

 その歩みは遅く、壊れかけた時計の秒針のようだ。


 廊下には肖像画も、花瓶も、絨毯もない。

 あるのは、剥き出しの石壁と、等間隔に配置された最低限の燭台だけ。


 ここは生活の場ではない。生存のためのシェルターだ。

 余計な装飾(ノイズ)を排除した、機能美の極致。


 空っぽだ。

 空気が澄んでいる。

 私の輪郭が、この深い沈黙に溶け、希釈されていく。


「旦那様。連れて参りました」


 執事が、黒いオーク材の扉をノックもせずに開けた。


 部屋の中央。

 書類の塔に埋もれるようにして、男が座っていた。


 オズワルド・フォン・ディートリヒ。

 この極寒の地を統べる辺境伯。


 顔も上げない。

 羽ペンを走らせる音だけが、カリカリと乾いたリズムを刻んでいる。

 私がそこに存在しないかのように。

 あるいは、部屋の隅に置かれた新しい家具だと思っているかのように。


 好都合だ。

 誰かの瞳に映る「私」を見るのが、何よりも嫌いなのだから。


「……そこに置け」


 低い声。

 凍りついた鉄鎖が軋むような響き。

 彼は顎でソファをしゃくり、ようやく視線をこちらに向けた。


 部屋の温度が、さらに一度下がった。


 左の頬から首筋にかけて、赤黒いケロイドが這っている。

 火傷の痕。

 高熱によって皮膚が融解し、蝋のように固まっている。

 「死神」と呼ばれる所以か。


 普通なら、ここで悲鳴を上げるのが令嬢の作法なのだろう。

 あるいは、扇子で口元を隠し、憐れみの視線を向けるのが「優しさ」なのかもしれない。


 私は観察する。

 炎によって(なめ)された革のような質感。

 まぶたの開閉に支障はない。視界も確保されている。


 なら、問題ない。

 それはただの「形状」だ。

 不揃いな歪みが、この荒涼とした部屋に奇妙な調和をもたらしている。


「……悲鳴も上げないのか」


 オズワルドがペンを止めた。

 灰褐色の瞳が私を射抜く。

 焦点が合っていないようでいて、私の骨格標本でも見ているような、底冷えする視線。


「事実に対して、感情を喚起する必要性を感じません」


 淡々と答えると、彼は鼻を鳴らした。

 乾いた、諦念のような吐息。


「中央の貴族様には、刺激が強すぎると思ったがな。……帰れ」


 彼は手元の書類の束を、無造作にテーブルへ放り投げた。

 バサリと、紙が散らばる。


「ここは遊戯場ではない。あんたのような綺麗な人形が、お茶を飲んで過ごせるような余裕はないんだ。……見ろ」


 彼が指差したのは、散らばった帳簿の山だった。


「今期の収支、備蓄食料の残量、領民の死亡予測数。……これを見て、まだここにいたいと思えるなら、好きにすればいい」


 試されている。

 あるいは、単なる厄介払いか。

 数字の羅列を見ただけで頭痛を起こし、泣きながら馬車に飛び乗ることを期待している。


 私は無言で、床に落ちた帳簿を拾い上げた。

 革の表紙は冷たく、使い込まれて毛羽立っている。


 ページをめくる。

 ……ッ。


 数字の悲鳴が、鼓膜を突き破った。

 吐き気がする。


 借方と貸方のバランスが崩壊している。

 食料配給の計算式に、感情的な「希望的観測」という不純物が混入しているせいで、結果として三ヶ月後に破綻する未来が確定している。


 これは「貧しさ」ではない。

 「ノイズ」だ。

 調律の狂った楽器を、耳元で力任せに掻き鳴らされているような苦痛。

 美しい静寂であるべき帳簿が、矛盾という雑音で汚されている。


 直さなければ。

 今すぐに。

 この雑音を消さなければ、私は静かになれない。


「……ペンを」


「は?」


「ペンをお借りします。あと、赤インクも」


 返事を待たず、デスクの上のペンを奪い取った。

 ドレスの裾が汚れるのも構わず、その場に膝をつき、帳簿に覆いかぶさる。


 カリ、カリ、カリ、カリ。


 この村への配給を二割カット。

 その分を種籾の保存に回す。

 老人の生存率を下方修正。

 子供の労働力を資産として計上。


 残酷?

 いいえ、これは「生存」のための切断手術。

 腐りかけた手足を切り落とし、胴体だけを生かす。

 それが、数式の慈悲だ。


 十分後。

 私は赤字で埋め尽くされた帳簿を閉じ、彼の目の前に突き出した。

 指先には、赤いインクが血のように滲んでいる。


「計算、終わりました」


 オズワルドは、怪訝そうな顔で帳簿を受け取る。

 パラリとページをめくる。

 その手が止まる。

 ページをめくる速度が上がる。

 彼の瞳孔が、微かに収縮した。


「……なんだ、これは」


「誤差を削除しました。生存に必要な数値だけです」


 私は立ち上がり、ドレスの埃を払った。

 これでいい。

 ノイズは消えた。

 世界は再び、あるべき静寂を取り戻した。


 オズワルドが、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳から、先ほどまでの「厄介者を見る目」が消えている。

 代わりに浮かんでいたのは、得体の知れない生物を見るような、あるいは……。


 彼は立ち上がり、窓の方へと歩いた。

 分厚いガラスの向こう、吹き荒れる吹雪をじっと見つめる。


「……あんたの目は」


 彼が、独り言のように呟いた。


「雪に似ているな」


「……え?」


「冷たくて、何もなくて……ただ、正しい」


 彼は振り返り、火傷のある左手で、自身の胸元をぎこちなく押さえた。

 それは、敬意を示す礼のようにも、痛みを堪える仕草のようにも見えた。


「部屋を用意させる。……好きに使え」


 それだけ言い捨てて、彼は再び書類の山へと戻っていった。

 私への関心は、もう消えている。

 彼は私を「解決済みの問題」として処理し、次の業務へと移行したのだ。


 ああ、なんて心地いい。

 無視されることが、これほどまでに安らかだなんて。


 私は深く息を吐き出した。

 白く濁った呼気が、冷たい空気に溶けていく。

 私もまた、この部屋の風景の一部となり、雪の中に輪郭を失って、静かに沈んでいった。


     ◆ ◆ ◆


 羊皮紙の上を、鋭利なペン先が走る。

 紙の繊維を無理やり引き裂くような、硬質で乱暴な感触。

 最後に力強く跳ね上げられた俺の署名――『ジュリアン・ド・ヴァランシエンヌ』の文字だけが、この部屋で唯一の「正解」として黒々と輝いていた。


 インクの匂いが鼻腔を犯す。

 鉄と油の混じった、支配の香りだ。


 目の前には、解約通知書の山。

 そこにはかつて、エレオノーラが幾何学的な筆跡で築き上げた「契約」が並んでいた。

 俺はそれを、黒いインクで塗り潰す。

 彼女の名前を、彼女が残した痕跡を、俺の筆先が蹂躙し、上書きしていく。


 これだ。

 背骨の芯が震えるような、暗い高揚。


 『ガルニエ商会』への不当な支払い。『デルファ運送』への過剰な委託料。

 彼女が「必要経費」と呼んで癒着していた膿を、俺はたった一朝で切除した。

 俺の指先一つで、金貨が動く。世界が形を変える。

 美しい。

 彼女の整然とした文字が、俺の黒いインクに飲み込まれ、意味のない染みへと変わっていく様は、何よりも美しい。


「……見たか」


 誰もいない空間に、熱い息を吐き出す。

 君が十年かけて編み上げた蜘蛛の巣は、俺の決断という炎で焼き払われた。

 俺は、俺の足で立っている。

 誰の支えも必要としない、完全な王として。



 夜会。

 シャンデリアの暴力的な光量が、網膜を焼く。


 今夜は、俺の「改革」の成果を披露する凱旋式になるはずだった。

 隣にはクラリス。

 燃えるような赤のドレスが、彼女の白い肌に吸い付いている。

 エレオノーラの、あの死人のような無機質さとは違う。

 体温のある、生き生きとした肉感的な宝石。


「ジュリアン様、あちらに公爵閣下が」


 クラリスが甘い声で囁く。

 視線の先。

 夜会の主催者であり、王国の重鎮、公爵。


 俺はグラスを片手に、余裕の笑みを浮かべて歩み寄る。

 彼とは懇意だ。

 いや、懇意だったはずだ。

 以前、エレオノーラを連れて挨拶した時は、彼の方から歩み寄ってきたのだから。


「閣下、今宵は素晴らしい――」


 世界から、音が剥離した。


 公爵は、俺を見なかった。

 無視、ではない。

 俺という人間に質量が存在しないかのように、その視線が俺の身体を透過し、背後の壁へと突き抜けたのだ。


 ……は?


 呼吸が止まる。

 真空に放り出されたような圧迫感。

 鼓動だけが、不快な重低音となって耳の奥で暴れ回る。


 聞こえなかったのか?

 いや、距離は二メートル。

 俺の声は届いていた。届いた上で、「認識する価値なし」と処理された。


「……あら、可哀想なジュリアン様」


 脇を通り過ぎようとした伯爵夫人が、扇子で口元を隠した。

 その隙間から覗く目が、獲物の死に様を楽しむ爬虫類のように細められている。


「公爵閣下の『ご親戚』になんてことを。……書面一枚で、随分と勇気がおありですこと」


 夫人はそれだけ言い捨てると、香水の残り香と共に去っていった。

 背中が、嘲笑っている。


 ご親戚?

 あの、三割高い、無駄な業者か?

 あれが、公爵の縁故?


 そんなことは帳簿に書いていなかった。

 エレオノーラのメモにも、契約書にも、どこにも「公爵の血縁」だなんて記載はなかった。


『それは書くものではなく、覚えているものですわ』


 脳裏に、あの冷ややかなアルトの声が蘇る。

 幻聴だ。

 彼女はいない。

 なのに、彼女の影が、俺の無知を嗤っている。


 視線。視線。視線。

 会場中の目が、無数の針となって俺の皮膚を突き刺す。

 「恩知らずの愚か者」。

 シャンパングラスを持つ手が、小刻みに震える。

 中身がチャプチャプと揺れ、冷たい液体が指にかかった。

 その冷たさが、心臓まで伝播する。


 挽回しなければ。

 今すぐに。

 公爵に謝罪を?

 いや、ここで頭を下げれば、俺の「改革」が間違いだったと認めることになる。

 何か、別の手。

 贈り物だ。実家の金庫にある、初代当主の懐中時計。あれならば――。


「ねえ、ジュリアン」


 思考の糸を、粘着質な指が絡め取った。


「私、踊りたいわ」


 クラリスが、俺の腕に全体重をかけるようにしてぶら下がっている。

 腐りかけの果実のような、むせ返るほど甘い香水の匂い。

 それが俺の焦燥感と混ざり合い、強烈な吐き気を催させる。


「……今は、無理だ」


「どうして? 音楽は鳴っているじゃない」


「状況を見ろ! 公爵の機嫌を損ねたんだ。今すぐ対策を考えないと、我が家の立場が……」


「そんなの、あとでいいじゃない」


 彼女は、俺の腕を強く引いた。

 爪が、ジャケットの生地越しに食い込む。

 

 俺の言葉が、彼女の笑顔に吸い込まれて消える。

 壁に向かって叫んでいるような徒労感。

 通じない。

 俺が必死に組み上げようとしている「生存のための理屈」を、彼女は「退屈な雑音」として聞き流している。


「みんなが見ているわ。あなたが私をエスコートしないと、私が『愛されていない女』に見えるでしょう?」


「クラリス、頼むから」


「嫌よ。今、踊って。あの公爵よりも、私を優先して」


 琥珀色の瞳が、とろりと濁っている。

 彼女は分かっている。

 俺が追い詰められ、顔面蒼白になり、社会的な死の淵に立たされているこの瞬間。

 その「危機」よりも、「クラリスの機嫌」を選ぶこと。

 それこそが、彼女が欲する「愛の証明」なのだと。


 破滅への天秤。

 俺の理性と、彼女の底なしの飢餓。


「……っ、離せ!」


 俺は、彼女の手を振り払った。

 勢い余って、彼女がよろめく。

 周囲の視線が、一斉にこちらに突き刺さる。

 「公爵を無視した上に、婚約者を突き飛ばす野蛮人」。


 終わった。

 音を立てて、俺の足元の床が崩れ落ちていく。



 帰りの馬車。

 車輪が石畳を叩く音が、頭蓋骨に直接響く。


 胃の腑が焼け付くようだ。

 明日の朝、公爵派の貴族たちから、どれほどの絶縁状が届くだろうか。

 想像するだけで、酸っぱい液が喉までせり上がる。


「……ひどい人」


 闇の隅から、濡れた声がした。


「あんなに大勢の前で、私に恥をかかせるなんて」


「お、お前が……っ! お前が、あんな真似をしなければ!」


 叫び声が裏返る。

 喉が引きつり、うまく息が吸えない。

 王者の威厳など、どこにもない。

 ただの、怯えた子供の癇癪だ。


「俺が何を考えていたか、分からないのか!? お前を守るために、必死で……ッ、頭を……!」


「守る?」


 クラリスが、くすりと笑った。

 その音が、ガラスを爪で引っ掻いたように、俺の神経を逆撫でする。


「守らなくていいわよ。……ねえ、ジュリアン。今の顔、すごく素敵」


 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。


 彼女は、身を乗り出し、俺の膝に手を置いた。

 その手は熱く、汗ばんでいて、まるで生き血を吸った後の獣のように生々しい。


「お姉様の話なんかしないで。……ほら、今はこんなに必死になって、顔を真っ赤にして」


 彼女の瞳孔が開いている。

 俺の絶望を、最高のご馳走として味わっている目だ。

 俺が壊れていく様を、特等席で鑑賞して恍惚としている。


「可哀想なジュリアン。世界中が敵になっても、私だけは見ていてあげる」


 食われている。

 俺の中身が、自尊心が、彼女の底なしの胃袋へと啜り込まれていく。

 俺が弱り、傷つき、孤立すればするほど、この毒花は鮮やかに咲き誇るのだ。


 脳裏に、ふと、あの静寂がよぎった。

 エレオノーラ。

 彼女なら、こんな時どうした?


 感情のない瞳。

 整然と並ぶ書架のような静けさ。

 狂いのない時計の針が刻む、正確無比なリズム。


 そこには「熱」はなかったが、俺が生きていくために不可欠な「酸素」があった。

 彼女がいなければ、俺は息すらできない赤子だったのだ。

 空気が薄い。

 息ができない。


「……触るな」


 俺の拒絶は、弱々しい震えとなって消えた。

 クラリスは聞こえないふりをして、俺の首筋に、その熱い唇を押し付けた。


 逃げ場のない闇の中で、俺はただ、自分の愚かさがドロドロと溶けていく音を聞いていた。


     ◆ ◆ ◆


 窓の向こう側で、世界が白く漂白されていく。エレオノーラという名も消えてくれそうな一面の白。


 私の視界の端から、この領地の輪郭さえもが滴り落ちるように消えていった。

 猛吹雪。

 それは、あらゆる「意味」を剥離させるための、神による乱暴な洗浄作業。


 重低音の風が屋敷の骨組みを揺らし、古い石造りの壁が、巨大な深海生物の胃袋の中に飲み込まれたかのように軋んでいる。

 使用人たちはすでに別棟へと下がり、この広大な本館には、私と彼――オズワルド様だけが取り残されていた。


 書斎の空気は、暖炉の熾火が放つ微かな熱と、窓の隙間から染み出す零度の安息が混ざり合い、重く澱んでいる。

 鉄錆の沈黙が、部屋の隅々にまで堆積していた。


 「……茶が、切れた」


 オズワルド様の、砂利を踏みしめるような掠れた声が、沈黙の層を無理やり引き裂く。


 私は羽ペンを置き、立ち上がった。

 絹のドレスが擦れる音さえ、この無音の質量の中では不快なノイズとして響く。


 「私が淹れます。……期待はしないでください。茶葉であっても機嫌を伺いたくないので」


 「構わない。……俺の舌も、とうの昔に死んでいる」


 キッチンから持ち寄った茶葉は、乾燥しきって香りを失っていた。

 沸騰した湯を注いでも、茶葉は踊ることなく、ただ湯の中で溺れるように沈んでいく。

 カップから立ち昇る湯気が、冷気の中で瞬時に白く爆ぜ、消えていく。


 彼はそれを一口啜り、熱に浮かされたような溜息を吐く。

 ひび割れた陶器のカップが、彼の指先で微かに触れ合い、乾いた音を立てた。


 「……いい苦さだ。目が覚める」


 「それは幸いです。毒を飲ませたのではないかと、今、計算をやり直していたところでした」


 口に含むと、砂を噛んだようなザラつきが喉の奥にへばりつく。

 けれど、この不味さこそが、今の私たちの生活における唯一の「味」だった。


 再び、沈黙が訪れる。

 時計の針が刻む規則的なチクタクという音と、外で荒れ狂う風の咆哮。

 二人の呼吸が、それらの不規則なリズムと同期していく。


 ふと、彼のペンが止まった。


 視線が、彼の右手に吸い寄せられる。

 デスクの端を握りしめる指先は、血の気が引いて白く硬直していた。

 浮き出た血管が、土の中に這う根のように不自然に波打っている。


 彼の肩が、微かに、けれど激しく震え始めた。


 左の首筋から頬にかけて這う、あの赤黒いケロイド。

 傷跡という獣が、彼の皮膚の下で呼吸をし、熱を持って蠢いているのが遠目にも分かった。


 ペンの先が、帳簿の上で不自然に滲んだ。

 私の脳内で整列していた思考の数式が、彼の震えというノイズによって乱され、計算が成立しなくなる。


 私の領域が、彼の苦痛によって物理的に侵害されている。


 私は椅子を立ち、彼に近づいていた。


 一歩、踏み出すごとに、暖炉の熱が遠のき、彼が纏う「苦痛の熱」が肌に伝わってくる。


 「……見るな」


 オズワルド様が顔を伏せ、喉の奥で獣のように呻いた。


 「醜いだろう。この傷は……俺が犯した、計算ミスの代償だ。死に損なった俺に、冬が報復をしに来ているだけだ。……あっちへ行け」


 「醜い? ……いえ、ただの『損傷の記録』です。あるいは、修復不可能なバグの残骸」


 私は、彼の拒絶を無視して手を伸ばした。


 私の指先は、常に冷え切っている。

 血の通わない大理石。あるいは、凍土に埋もれた硝子の破片。


 その氷のような指が、彼の熱く、脈打つ火傷の痕に触れた。


 「……ッ!」


 彼は短く息を呑み、全身を岩のように硬直させた。


 硬化した皮膚の凹凸が、私の指紋の一つ一つに引っかかる。

 その下で、彼の血管が不整脈を打ち、私の指を押し返そうと暴れている。

 冷たい水が灼熱の鉄に触れた時のように、私の指先が、彼の苦痛を吸い上げてジュッという幻聴を立てた。


 「冷たいだろう。……あんたの手は、本当に、生きている人間のものとは思えないな」


 「ええ。ですから、今のあなたには最適でしょう。冷却は、炎症に対する最も合理的な処置です。……動かないでください」


 私の指先から、彼の余剰な熱が吸い取られていく。

 代わりに、彼の痛みが、微かな振動となって私の皮膚を透過し、骨の芯まで染み込んできた。


 それは、かつて私が王都で捨ててきた「エレオノーラ」という名の残像が、最後に流した涙の温度に似ていた。


 指先が、ケロイドの複雑な溝をなぞる。

 壊れた楽器の弦を調整するように、丁寧に、冷徹に。


 『……ああ、ようやく、静かになる』


 彼の荒い呼吸が、次第に凪いでいく。 


 「……俺は、壊れているんだ、エレオノーラ」


 オズワルド様が、自嘲気味に、力なく笑った。

 その瞳には、かつての戦場で焼き付いた光景が、砂の記憶となって澱んでいる。


 「英雄と呼ばれた時も、死神と蔑まれる今も。俺の中には、守れなかった連中の名前が、重い石のように積み重なっている。……空っぽなんだ。何を入れても、底の抜けた桶のように零れていく」


 「……私と同じですね」


 私は、彼の傷跡をなぞる指を止めなかった。


 「……私の中身も、ただの空洞です。部品と、数字と、冬の風が吹き抜けるだけの場所。……あなたの熱は、煩わしいほどに人間臭い」


 「……そうか」


 「ええ。ですから、私たちは二人で、一つの『空白』になれる。……今は、ただのメンテナンスだと思ってください」


 彼はゆっくりと顔を上げ、私の瞳を見た。

 

  そこには、王都の夜会で交わされるような、虚飾に満ちた愛など存在しない。

 ただ、同じ深淵を覗き込む者同士の、共犯の温もりだけがあった。


 「……あんたの冷たさが、心地いい。……このまま、雪になって消えてしまえたら、どれほど楽だろうな」


 「……ええ。本当に」


 窓の外では、依然として嵐が吹き荒れている。

 けれど、この書斎という小さな鳥籠の中だけは、嵐の音だけが世界の全てであり、それ以外は何も聞こえない、完璧な遮断に満たされていた。


 奪い合うことも、与えすぎることもない。

 ただ、互いの欠落を鏡合わせにして、静かに呼吸を同期させる。


 それは、私がかつて夢見た、どんな華やかな社交界の灯りよりも清冽な、終着の闇に似た場所だった。


 夜が明ける頃、嵐は嘘のように止んでいた。


 窓を開けると、そこには一切の足跡がない、完璧な白銀の死地が広がっている。

 反射する陽光が、網膜を刺すような鋭い痛みを持って、私たちの視界を白く塗りつぶした。


 「……仕事に戻るか」


 オズワルド様が、いつもの無愛想な声で言った。

 その背中は、昨夜の脆弱さを微塵も感じさせない、冷たい岩の塊に戻っている。


 「はい。……計算の続きをいたしましょう。昨夜の遅れを取り戻さなくては」


 私たちは、昨夜の出来事を語ることはない。

  

 けれど、彼がペンを握るその手が、もう不自然な震えを見せていないことを、私は知っている。

 私の指先に残った、微かな、消え入りそうな彼の体温。


     ◆ ◆ ◆


 半年という月日が、白銀の地層の下に埋没していった。


 窓の向こう側は、依然として色彩を拒絶する深雪に閉ざされている。

 数メートルに及ぶ雪の壁は、外界との一切の「摩擦」を遮断するための、巨大な石棺。


 執務室を満たすのは、{鉄錆の沈黙}。

 それは音の欠落ではなく、古い金属が冷気に凍てつくような、重く、ざらついた質量を持った静寂だ。


 チ、チ、チ……。


 隣で、オズワルド様が古い懐中時計の竜頭(りゅうず)を回している。

 時を刻むのをやめた、壊れた機械。


  金属同士が噛み合う乾いた音が、部屋の空気の分子一つ一つを微細に叩き、波紋を広げる。

 彼の指先の、剣筋で硬くなったタコが、冷えた銀の竜頭を擦る音。


  この無意味な反復動作こそが、私たちの平穏な心臓の鼓動。

 誰にも邪魔されない、不毛で、けれど完璧なリズム。


 その静寂を、控えめな、けれど重いノックの音が破った。


 「……入れ」


 オズワルド様の短い許可と共に、枯れ木のような老執事が無言で入室してくる。

 足音を立てず、影のようにデスクへ近づくと、銀のトレイに載せられた郵便物の束を滑らせるように置いた。

 そしてまた、一言も発さずに一礼し、静かに扉を閉じて去っていく。


 オズワルド様が、時計のネジを巻く手を止めた。

 その無骨な指先が、束の中から一通だけ、異質なものを摘み上げる。


 「……王都から、お前宛だ」


 彼の声は、冬の枯れ木が風に触れ合うような乾いた響き。

 差し出されたのは、場違いなほど豪華な装飾を施された封筒だった。


 泥と雪に汚れ、角が潰れたその紙片。


 都会の、酸化した高価な香水の残香が、鼻をつく不快な匂いとなって漂う。

 湿気を吸ってぶよぶよと波打つ紙の感触。


  私の清潔な執務机の上にそれが置かれただけで、目に見えない菌が繁殖し、部屋の空気が汚染されていくような生理的嫌悪を覚えた。


 封蝋に刻まれたヴァランシエンヌ侯爵家の紋章。

 それは、すでに死んだはずの「エレオノーラ」という名の亡骸を、無理やり墓から掘り起こそうとする、不潔な指先のようだった。


 私は無言で、ペーパーナイフを滑らせた。

 喉の奥で、苦い胆汁の味がした。



 『……結局、父上は私から一切の権限を剥奪し、この湿った別邸へと私を押し込めた。クラリスも一緒だ。彼女は今や、かつての面影もないほど痩せ細り、それでも私の隣で「お姉様なら、もっと上手に愛してくれたわ」と、壊れたオルゴールのように呪詛を繰り返している。


 なあ、エレオノーラ。これは君の復讐なのか? 君がいないこの世界は、あまりに摩擦が多すぎて、一歩歩くたびに肌が擦り切れて血が止まらないんだ。


 頼む、一度だけでいい。ここへ来て、この狂った時計の針を直してくれ。君が私を無能にしたのだから、君にはその責任があるはずだ。私はまだ、君の完璧な調律の中にいたい。君に無視され、管理され、生かされていたあの静寂が、今では何よりも愛おしい。


 返事はいらない。ただ、君が私の絶望をどこかで眺めていると信じさせてくれ。そうでなければ、私は自分が消えてしまうのが怖いんだ。


ジュリアン・ド・ヴァランシエンヌ』



 読み終えた瞬間、指先の皮膚をすべて削ぎ落とし、酸で洗浄したいという衝動に駆られた。


 彼はまだ、私を「自分を管理する部品」だと思っている。


 自分の無能さを、私の不在のせいにするその厚顔無恥。

 救いを求めるふりをして、その実、私を再び「装置」という名の檻に引きずり戻そうとする、卑屈な依存心。


 「……戻るか?」


 オズワルド様が、時計を巻く手を止めて私を見た。

 その灰褐色の瞳には、執着も悲哀もない。

 ただ、広大な雪原のような、平坦な虚無だけがある。


 「いいえ」


 私は、その不潔な紙片を暖炉の火の中へと投じた。


 上質な紙が炎に炙られ、悲鳴のような乾いた音を立てて反り返る。

 ジュリアンの文字――そのインクが熱でドロリと溶け出し、まるで黒い血が流れているかのように見えた。


 やがて火は、彼の執着を、絶望を、そして私への歪んだ期待を、一つ残らず炭化させていく。


 「私はもう、透明ですから。……誰の目にも、誰の檻にも、収まることはありません」


 都会の「摩擦」に耐えきれず、血を流し続ける彼ら。

 奪うことでしか自分の輪郭を保てなかった妹。

  

 彼らが求めていたのは、私という人間ではない。

 自分たちの不都合な現実を濾過し、痛みを肩代わりしてくれる、無機質なフィルターだ。


 『……ねえ、待ってよ。どこへ行くの?』


 かつてのクラリスの叫びが、薪が爆ぜる音に混じって聞こえた気がした。


  燃え尽きた手紙から、微細な黒い煤が立ち昇る。

 それは暖炉の気流に乗って一瞬だけ舞い上がり、やがて白い灰の中に混ざって、二度と識別できない塵へと還っていった。


 過去は、完全に焼却された。


  硬貨一枚の貸しも、硬貨一枚の借りもない。

 私はようやく、完全なる無色へと還ったのだ。


 オズワルド様が立ち上がり、私の隣に並んだ。


  彼の大きな、火傷の痕が残る手が、私の冷え切った肩に置かれる。

 分厚い軍服越しに伝わる、確かな、けれど控えめな重み。


 「……雪が、また強くなるな」


 「ええ。すべてを隠してくれます」


 窓を開けると、暴力的なまでの白銀が、私たちの視界を真っ白に塗りつぶした。

 反射する陽光が網膜を焼き、眩しさに涙が滲む。


 その光の中で、私たちの輪郭は曖昧になり、風景の中に溶け込んでいく。


 けれど、私は消えてなくなったわけではない。


 広大な雪原の中に降り積もる、数多の雪の一片として。

 誰の色に染まる必要もなく、誰のために輝く必要もない、ただの「透明な個」として、私はここに存在している。


 「……仕事に戻りましょう。次の冬越しの備蓄の計算が、まだ終わっていません」


 「ああ。……そうだな」


 私たちは、この雪と静寂の場所で生きていく。


 華やかな社交界も、泥沼の愛憎も、ここには届かない。

 インクの微かな鉄の匂いと、凍てついた窓枠の硬質な感触だけがある世界。


 私は眩しさに目を細めながらも、その暴力的なまでの白さを、真っ直ぐに見つめ返した。


 帳簿に向かう背筋を、昨日よりも少しだけ伸ばして。

 私は、私という名の静寂を、深く、深く、愛おしんだ。


 私たちはここで、世界から忘れ去られたまま、幸福に錆びついていく。

 アイディアが降りてきたので投稿してみました。

 完全なる無糖ですが、これは恋愛ジャンルだと私は思っております。


 星やリアクションをいただけると嬉しいです。

 また、ご感想やご意見は、ご自身のSNSアカウントなどへ書いていただければ幸いです。

 このたびは、拙作を見つけてくださり、ありがとうございました。

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