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婚約破棄された調香師令嬢は、最後に作った香水で元婚約者を後悔させることにしました

作者: さんず
掲載日:2026/01/25

第一章 薔薇園の断罪


「君の作る香水は、もう時代遅れだ」


満開の薔薇が咲き誇る公爵家の庭園。春の夜会で最も華やかなこの場所で、私——リリアーヌ・フォン・ベルフルールは、五年間連れ添った婚約者からそう告げられた。


周囲の令嬢たちが息を呑む気配。ひそひそと囁き合う声。そして、エドワード様の隣で勝ち誇ったように微笑む蜂蜜色の髪の女性——男爵令嬢セレナ・ミルフィーユ。


(……ああ、やっぱりこうなったのね)


私は内心で小さくため息をついた。


「エドワード様、それはどういう意味でございましょう」


声は震えなかった。五年間、侯爵令嬢として、そして王宮御用達の調香師として培ってきた矜持が、私の背筋を真っ直ぐに保っている。


「言葉通りの意味だよ、リリアーヌ」


エドワード様は冷たい青灰色の瞳で私を見下ろした。月明かりに照らされた端正な顔には、かつて私に向けられていた優しさの欠片もない。


「セレナの香水を嗅いでみたまえ。革新的で、斬新で、まさに新時代の調合だ。君のような古臭い技法とは根本から違う」


「まあ、エドワード様……私なんて、リリアーヌ様の足元にも及びませんわ」


セレナ嬢が控えめに俯く。大きな翡翠色の瞳には涙さえ浮かんでいた。


(……この子、本当に演技が上手いわね。感心するわ)


私は静かに二人を見つめた。セレナ嬢の手首から漂う香り。甘い白檀をベースに、ジャスミンとベルガモットを重ねた調合。そこに微かに混じる、禁忌とされる夜香木のエッセンス——。


知っている。


私がこの香りを知らないはずがない。


「彼女の『月下美人』という香水は、嗅いだ者の心を高揚させる効果がある。君の地味な調合とは比べ物にならない」


「そうでございますか」


私は穏やかに微笑んだ。


(三年前に私が『危険すぎる』と判断して封印したレシピね。夜香木の配合を間違えれば、アレルギー反応を引き起こす劇物になることも知らずに)


「君との婚約は本日をもって破棄する。異論はないな?」


エドワード様の声が庭園に響き渡る。周囲の貴族たちがざわめいた。


公開処刑。


これは、私への見せしめだ。


「……承知いたしました」


私は深く、優雅に頭を下げた。


「リ、リリアーヌ様……!」


セレナ嬢が驚いたように声を上げる。もっと取り乱すと思っていたのだろう。泣いて縋りつくと、そう期待していたに違いない。


「五年間、お世話になりました、エドワード様」


顔を上げた私は、静かに微笑んでいた。


「君は……悔しくないのか?」


エドワード様の眉が僅かに歪む。予想外の反応に、彼の虚栄心が揺らいでいるのが分かった。


(悔しい? ふふ、何を仰っているのかしら)


私は心の中で小さく笑った。


五年間。


私はあなたのためだけに香りを調合してきた。あなたが社交界で『素晴らしい香りだ』と称賛されるたびに、それが私の調合であることを誰にも言わずに。


あなたの成功は、私の香水によるものだった。


そのことに、あなたは最後まで気づかなかった。


「では最後に、あなたへの餞別を差し上げましょう」


私は懐から小さな香水瓶を取り出した。


淡い紫色の液体が、月明かりを受けて妖しく輝く。


「これは……?」


「『記憶の残滓』と名付けました」


私は微笑んだまま、香水瓶の蓋を開けた。


「嗅いだ者に、最も大切な人との思い出を蘇らせる香りです。どうぞ、セレナ嬢と共にお楽しみくださいませ」


甘く、切なく、どこか懐かしい香りが夜風に乗って広がっていく。


エドワード様の表情が凍りついた。


「な……っ」


彼の瞳に浮かんだのは、驚愕。そして——


(ああ、思い出しているのね。私と初めて出会った日のことを)


五年前、まだ私たちが純粋に惹かれ合っていた頃。エドワード様が私の調合した香水を『世界で一番美しい』と言ってくれた、あの春の日のことを。


「リリアーヌ……」


震える声で私の名を呼ぶエドワード様。その瞳には、確かに後悔の色が滲んでいた。


遅い。


もう、遅いのです。


「さようなら、エドワード様」


私は最後にもう一度だけ微笑んで、踵を返した。


背後で誰かが叫ぶ声がした。『待ってくれ』と、そう聞こえた気がした。


でも私は振り返らない。


夜空には満月が輝いている。


銀紫色の髪が風に靡く。手首の香水瓶のブレスレット——亡き母の形見——が、微かに温かくなった気がした。


(お母様、私、やっと自由になれます)


百年に一人の『香りの魔女』。


その名を、私はまだ誰にも明かしていない。


◇◇◇


公爵家の夜会を後にした私を待っていたのは、見覚えのない黒塗りの馬車だった。


「……どなた様でしょう」


警戒しながら足を止めると、馬車の扉が静かに開いた。


月光のような銀髪。深い紺碧の瞳。まるで彫刻のように整った顔立ちの青年が、そこにいた。


「初めまして、リリアーヌ嬢」


青年は穏やかに微笑んだ。


「あなたの『夜明けの調べ』を嗅いだ時——私は初めて、亡き母の顔を思い出すことができた」


彼の瞳が、月明かりの下で静かに輝く。


「お願いがあります。どうか、私に香りを調合していただけませんか」


(……この人、只者じゃない)


私の調香師としての直感が告げている。この青年から漂う香りは、高貴な者だけが纏うことを許された——


「失礼ですが、お名前を伺っても?」


「ルシアン、とお呼びください」


青年は——後に隣国ヴェルディア王国の若き国王であることが判明する彼は——そう言って、差し出された私の手に、そっと口づけた。


夜風が薔薇の香りを運んでくる。


捨てられた調香師の、新しい物語が始まろうとしていた。



第二章 籠の鳥は自由を知る


ベルフルール侯爵家に戻った私を出迎えたのは、継母と義妹の冷たい視線だった。


「まあ、恥知らずにも戻ってきたのね」


継母マルグリットが扇子で口元を隠しながら、嘲笑うように言う。派手な金髪に鋭い緑の瞳。常に不満げな口元には、今日ばかりは喜びの色が滲んでいた。


「婚約破棄ですって? 公爵家との縁談を台無しにして、一体どういうつもりなの」


「申し訳ございません、お義母様」


私は静かに頭を下げた。


(……まあ、この人が私の味方をしたことなんて一度もないけれど)


「ねえお母様、これで義姉様の持参金、私のものになりますわよね?」


義妹のカミーユが無邪気に——いや、悪意を隠しもせずに言う。母親譲りの金髪に、気の強そうな緑の瞳。十七歳にしては少々派手すぎる装いが、彼女の浅慮さを物語っていた。


「ええ、そうね。使えない義娘に持参金など必要ありませんもの」


継母が満足げに頷く。


「厄介払いができてよかったわ。これからは離れの部屋で大人しくしていなさい。お客様にあなたの顔を見せるわけにはいかないもの」


「……承知いたしました」


私は従順に頷いた。


(離れの部屋、ね。好都合だわ)


離れには、亡き母の秘密の工房がある。継母たちは知らない。あの部屋の地下に、『香りの魔女』の調合室が眠っていることを。


「さあ、行きなさい。その暗い顔を見ていると気分が悪くなるわ」


継母に追い払われるように、私は広間を後にした。


◇◇◇


「おかえりなさいませ、お嬢様」


離れの部屋で私を待っていたのは、白髪の老執事ニコラだった。七十を超えてなお背筋は伸び、穏やかな灰色の瞳には深い慈愛が宿っている。


「ようやく籠の鳥が自由になられましたな」


「……ニコラ」


私は思わず笑ってしまった。


「あなたったら、全部お見通しなのね」


「お嬢様のお母様——先代夫人にお仕えして四十年。そのお嬢様が、あのような浅薄な殿方に捕らわれたままでいるはずがないと、老いた執事は存じておりました」


「……ありがとう」


私は素直に礼を言った。この屋敷で、いや、この世界で、私の味方でいてくれるのはニコラだけだ。


「工房の準備は?」


「万全でございます。お嬢様がお戻りになる日を、ずっとお待ちしておりました」


ニコラが壁の燭台に手を伸ばす。古びた燭台を時計回りに三度回すと、カチリ、と小さな音がして——


壁の一部が静かに開いた。


「さあ、お嬢様。あなたの城へ」


冷たい空気が頬を撫でる。石造りの階段が、地下へと続いていた。


◇◇◇


「……ただいま、お母様」


地下の工房に足を踏み入れた瞬間、様々な香りが私を包み込んだ。


ラベンダー、ローズマリー、白檀、沈香——何百種類もの香料が、整然と棚に並んでいる。中央には大きな調合台。壁一面に掛けられた古い羊皮紙には、代々の『香りの魔女』が書き記してきた秘伝のレシピ。


そして——


「三つの禁断の香水、か」


私は調合台の上に置かれた三つの香水瓶を見つめた。


一つ目、『記憶の残滓』。嗅いだ者に最も大切な人との思い出を蘇らせる香り。これは昨晩、エドワード様に使った。


二つ目、『真実の鏡』。嗅いだ者の本性を、周囲の人間に見せてしまう香り。


三つ目、『暁光の誓い』。嗅いだ者それぞれの『守りたい人』を想起させ、心を一つにする香り——戴冠式や誓約の場で使えば、その効果は絶大。


(お母様が完成させられなかった三つの香水。私は、ようやくここまで辿り着いた)


百年に一人の『香りの魔女』。それが、私の正体。


嗅いだ者の記憶や感情に作用する、禁断の調合術を持つ者。


「お嬢様」


ニコラの声で、私は我に返った。


「実は、お客様がお見えでございます」


「お客様?」


「昨晩、お嬢様が夜会でお会いになった方かと」


ニコラの言葉に、私は目を見開いた。


まさか——


「名は『ルシアン』と仰っておいででした。ですが老いた執事の目には、その方の正体が見えております」


「正体?」


「隣国ヴェルディア王国の、若き国王陛下でございます」


◇◇◇


「お待たせいたしました」


応接室に入ると、銀髪の青年——ルシアン様が、窓際に佇んでいた。質素な旅装に身を包んでいるが、その立ち居振る舞いは隠しようもなく高貴だ。


「来てくれたんだね、リリアーヌ嬢」


振り返った彼の紺碧の瞳が、柔らかく細められる。


(……この人、本当に国王なの?)


私は内心で首を傾げた。王族特有の傲慢さが、この人からは全く感じられない。むしろ——どこか寂しげで、孤独な影を纏っている。


「昨晩は突然お声がけして、申し訳なかった」


「いいえ。それよりも、なぜ私を?」


「……あなたの『夜明けの調べ』」


ルシアン様は静かに言った。


「三年前、とある夜会で、その香りを嗅いだ。そして——」


彼の瞳が、僅かに揺れた。


「私は幼い頃に母を亡くした。顔も、声も、温もりも——何一つ覚えていなかった。それが、あなたの香りを嗅いだ瞬間、全てが蘇った」


「……」


「母が私を抱きしめてくれた感触。子守唄を歌ってくれた声。優しく頭を撫でてくれた手。全部、全部思い出せた」


銀髪の国王の瞳に、涙が滲んでいた。


「あの香りを作った人に、ずっと会いたかった」


(……ああ)


私は静かに息を吐いた。


この人は、私の香水を『革新的』だの『時代遅れ』だのと評価したいわけじゃない。


ただ純粋に、私の香りに救われたのだ。


「あなたの香りは、人の心を救う」


ルシアン様が真っ直ぐに私を見つめる。


「どうか、私のために香水を調合してほしい。来月行われる戴冠式のための、特別な一品を」


「戴冠式……」


「国中の貴族が集まる。その場で、皆の心を一つにできる香りが欲しい」


私は少し考えて——


「……一つ、条件がございます」


「何でも言ってくれ」


「私を、あなたの国の調香師として正式に雇っていただけますか」


ルシアン様が目を見開く。


「この国では、私はもう『婚約破棄された令嬢』でしかありません。ですが——」


私は真っ直ぐに彼を見つめ返した。


「私の香りを必要としてくださる方がいるのなら、その方のために調合したい。それが、調香師としての私の誇りです」


沈黙が流れる。


やがて、ルシアン様はゆっくりと微笑んだ。


「……あなたは、本当に強い人だ」


「え?」


「婚約者に捨てられた翌日に、もう前を向いている。普通なら、もっと傷ついているはずなのに」


(傷ついていない、なんてことはないけれど)


私は苦笑した。


(でも、泣いている暇はないの。私には、やるべきことがあるから)


「あなたの価値が分からない者は、最初から相応しくなかった」


ルシアン様の言葉に、私は息を呑んだ。


「え……」


「あなたを『時代遅れ』と呼んだ男がいるらしいね」


静かな怒りが、彼の紺碧の瞳に滲む。


「愚かな話だ。百年に一人の才能を目の前にして、それに気づかないとは」


「ご存知、なのですか……?」


「『香りの魔女』の噂は、私の国にも届いている」


ルシアン様が穏やかに微笑む。


「あなたを雇うのは、私にとって願ってもないことだ。喜んで」


差し出された手。


私は一瞬躊躇って——でも、その手を取った。


「よろしくお願いいたします、陛下」


「ルシアンでいい。あなたには、名前で呼んでほしい」


銀髪の国王は、そう言って照れくさそうに笑った。


◇◇◇


ルシアン様が去った後。


私は工房に戻り、三つ目の香水瓶を手に取った。


『暁光の誓い』。


戴冠式のために、この香りを完成させなければならない。


「お嬢様」


ニコラが静かに声をかけてきた。


「あの方は、信頼に足る御仁のようですな」


「……ええ」


私は頷いた。


「エドワード様とは、全然違う」


(私を値踏みするような目で見なかった。私の技術ではなく、私の『想い』を見てくれた)


「お嬢様。老いた執事から一つだけ」


「何?」


「今度こそ、ご自分のために香りを調合なさいませ」


ニコラの穏やかな言葉に、私は目を見開いた。


「五年間、あの殿方のためだけに尽くしてこられた。でも今度は——」


「……今度は?」


「あなたを必要としてくださる方のために。そして、あなた自身のために」


私は——


「……ありがとう、ニコラ」


小さく、でも確かに笑った。


窓の外では、朝日が昇り始めていた。


新しい一日が、始まろうとしている。



第三章 偽りの華は枯れ落ちる


戴冠式まで、あと二週間。


私は工房に籠もり、『暁光の誓い』の調合に没頭していた。


ベースはネロリとサンダルウッド。そこに、朝露を浴びた白百合のエッセンスを一滴——


「お嬢様、お客様でございます」


ニコラの声に、私は顔を上げた。


「ルシアン様?」


「いいえ……」


ニコラの表情が僅かに曇る。


「公爵家のエドワード様でございます」


◇◇◇


「リリアーヌ!」


応接室に入るなり、エドワード様が駆け寄ってきた。


かつては端正だった顔立ちには疲労の色が滲み、青灰色の瞳は落ち着きなく泳いでいる。


「来てくれたんだね、僕の話を聞いてくれるんだね」


「……何のご用でしょうか、公爵子息様」


私は冷静に距離を取った。


『公爵子息様』。かつては『エドワード様』と呼んでいた。その違いに、彼は気づいただろうか。


「その……先日のことは、僕も言い過ぎた」


(言い過ぎた、ね。満座の中で『時代遅れ』と罵倒しておいて)


「セレナに騙されていたんだ。彼女の香水が、君のレシピの盗作だったなんて知らなかった」


「……あら、ご存知になったのですね」


「王宮への献上香水で、大失敗があった」


エドワード様の顔が苦々しく歪む。


「セレナの香水が、王妃様のアレルギーを引き起こしてしまった。調査の結果、彼女の調合が——」


「——三年前に私が『危険すぎる』と判断して封印したレシピの盗作だと判明した、と」


私は淡々と言った。


「ご存知だったのか!?」


「最初から存じておりました」


エドワード様が絶句する。


「夜香木のエッセンスは、配合を間違えれば劇物になります。私があのレシピを封印したのは、そのリスクを理解していたからです」


「な、なぜ黙っていた!?」


「言う必要がございませんでしたから」


私は静かに微笑んだ。


(実力のない者が使えば、必ず破綻する。それを待っていただけよ)


「リリアーヌ、頼む」


エドワード様が私の手を取ろうとする。私は一歩後ずさった。


「君がいないと困るんだ。公爵家の香水事業は、君の調合なしには成り立たない。社交界での僕の評判も——」


「それは、私の香水によるものでしたからね」


「えっ……」


「五年間、あなたが社交界で『素晴らしい香りだ』と称賛されるたびに、それが私の調合であることを誰にも言いませんでした。あなたの成功は、全て私の香水によるものだった」


エドワード様の顔から血の気が引いていく。


「そ、そんな……」


「知らなかったのですか? それとも、気づかないふりをしていたのですか?」


私は静かに問いかけた。


「五年間、私はあなたのためだけに香りを調合してきました。あなたに褒められたくて。あなたに認められたくて。でも——」


菫色の瞳で、真っ直ぐに彼を見つめる。


「あなたは一度も、私の香りの価値を理解してくださらなかった」


「リリアーヌ……」


「復縁のお話でしたら、お断りいたします」


私は深く、優雅に頭を下げた。


「もう遅いのです。私の香りは、私を必要としてくださる方のためにありますから」


「待ってくれ! 僕は、君を——」


「ニコラ」


私は振り返らずに言った。


「お客様をお見送りして」


「かしこまりました、お嬢様」


◇◇◇


エドワード様が去った後。


私は工房に戻り、調合を再開した。


手が、僅かに震えている。


(……悔しい、なんてことはないわ)


五年間の想いが、無駄だったとは思わない。でも——


「お嬢様」


静かな声が背後から聞こえた。振り返ると、銀髪の青年が立っていた。


「ルシアン様……!? いつからそこに」


「……申し訳ない。盗み聞きするつもりはなかったんだが」


ルシアン様の紺碧の瞳には、静かな怒りが滲んでいた。


「あの男は、許せない」


「え……」


「五年間、君の才能を搾取しておいて、都合が悪くなったら復縁を迫る?」


彼の声は低く、冷たかった。普段の穏やかさからは想像もできない。


「君は正しい。あんな男は、最初から君に相応しくなかった」


「……ありがとう、ございます」


私は少し笑った。


「でも、もう大丈夫です。私には、やるべきことがありますから」


調合台の上の香水瓶を見つめる。『暁光の誓い』は、あと少しで完成する。


「君は、本当に強いな」


ルシアン様が感嘆したように言った。


「傷ついているはずなのに、前を向いている」


「傷ついていない、とは言いません」


私は正直に答えた。


「でも——私を必要としてくださる方がいる。その方のために、最高の香りを作りたい。それが、今の私の全てです」


ルシアン様は、少しの間黙っていた。


そして——


「戴冠式の後、君に伝えたいことがある」


「……何でしょう」


「今は言えない。でも——」


彼の紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「その時まで、待っていてほしい」


私の心臓が、小さく跳ねた。


(……この人は、一体何を)


「分かりました」


私は頷いた。


「戴冠式の後に」


銀髪の国王は、嬉しそうに微笑んだ。



第四章 暁光の誓い


戴冠式当日。


ヴェルディア王国の大聖堂には、内外から千人を超える貴族が集まっていた。


私は控えの間で、最後の準備を整えていた。手の中には、完成したばかりの香水瓶。淡い金色の液体が、陽光を受けて輝いている。


『暁光の誓い』。


嗅いだ者それぞれの『守りたい人』を想起させ、心を一つにする魔法のような香り。


母が完成させられなかった、三つ目の禁断の香水。


「リリアーヌ嬢」


ルシアン様が正装で現れた。白と金の戴冠衣に身を包んだ彼は、息を呑むほど美しかった。


「準備は?」


「整いました、陛下」


私は香水瓶を差し出した。


「これが、『暁光の誓い』です。大聖堂全体に香りを行き渡らせれば、列席者全員の心が一つになるでしょう」


「……ありがとう」


ルシアン様が香水瓶を受け取る。その手が、僅かに震えていた。


「緊張、していらっしゃいますか?」


「正直に言えば」


彼は苦笑した。


「父の跡を継いで王になる。その責任の重さに、押しつぶされそうになることがある」


「……」


「でも」


ルシアン様は香水瓶を見つめた。


「この香りがあれば、きっと大丈夫だ。君が作ってくれたものだから」


私の心臓が、また小さく跳ねる。


「行ってきます」


「……いってらっしゃいませ、陛下」


◇◇◇


大聖堂に、『暁光の誓い』の香りが広がった。


ネロリの清々しさ、サンダルウッドの温かみ、白百合の気高さ——それらが調和し、えも言われぬ芳香となって会場を包み込む。


列席者たちが、次々と目を閉じ始めた。


涙を流す者がいた。微笑む者がいた。誰かの名を呼ぶ者がいた。


(……みんな、大切な人のことを思い出しているんだ)


私も目を閉じた。


瞼の裏に浮かんだのは——銀髪の国王の笑顔だった。


「なっ……!?」


思わず目を開ける。


(今、私は何を——)


その時、大聖堂に万雷の拍手が響いた。


ルシアン様の戴冠が、成功したのだ。


◇◇◇


「リリアーヌ嬢」


戴冠式が終わり、謁見の間で。


新王ルシアン一世は、満場の貴族の前で私の手を取った。


「今日の香りは、本当に素晴らしかった」


「光栄でございます、陛下」


「あの香りを嗅いだ時——僕は、母のことを思い出した」


彼の紺碧の瞳が、優しく細められる。


「そして、もう一人」


「もう一人……?」


「守りたい人、のことを」


私の心臓が、大きく跳ねた。


「陛下……?」


「伝えたいことがあると言っただろう」


ルシアン様は、満場の貴族が見守る中で、片膝をついた。


「リリアーヌ・フォン・ベルフルール」


「っ——」


「この香りを作れる人を、僕は離さない」


紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「君を、僕の王妃に迎えたい」


会場がどよめいた。歓声が上がった。誰かが泣いていた。


私は——


「……本当に、よろしいのですか」


「君以外に、考えられない」


「私は、一度捨てられた女です。婚約破棄された令嬢です。そんな女が、一国の王妃など——」


「それがどうした」


ルシアン様の声は、穏やかだが力強かった。


「君を捨てた男は愚か者だ。でも僕は違う。君の価値を、君の強さを、君の優しさを——僕は知っている」


「……」


「リリアーヌ。君の答えを聞かせてくれ」


私は、深く息を吸った。


五年間、エドワード様のために尽くしてきた。認められたくて、愛されたくて、ずっと。


でも——


この人は、最初から私を認めてくれていた。


私の技術ではなく、私の『想い』を見てくれていた。


「……はい」


私は微笑んだ。


「喜んで、お受けいたします」


ルシアン様の顔が、満面の笑みに変わった。


彼が立ち上がり、私の手に口づけする。会場から、割れんばかりの拍手が湧き起こった。


◇◇◇


「嘘……だ……」


会場の片隅で、青ざめた顔の男が立ち尽くしていた。


エドワード・ヴァン・クロイツァー。かつての婚約者。


隣国の戴冠式に招待されていた彼は、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。


「リリアーヌが……隣国の王妃……?」


その隣には、もはや華やかさの欠片もない女がいた。


盗作が発覚し、社交界から追放されたセレナ・ミルフィーユ。エドワード様にすがりつこうとしていたが、彼は彼女を見向きもしなかった。


「あの時……手放さなければ……」


エドワード様の呟きが、風に消えていく。


公爵家の香水事業は、リリアーヌという柱を失って崩壊しつつあった。王家の不興を買った彼の次期当主の座も、危うくなっていた。


全ては、因果応報。


◇◇◇


「後悔、しているようね」


私はルシアン様の腕の中で、静かに呟いた。


「あの男のことか」


「ええ」


「……何か、言いたいことは?」


私は少し考えて——


「いいえ」


首を横に振った。


「もう、どうでもいいことです」


ルシアン様が微笑む。


「そうだな。僕たちには、未来がある」


窓の外では、朝日が昇っていた。


『暁光の誓い』の香りが、まだ微かに漂っている。


◇◇◇


——こうして、かつて捨てられた調香師は、一国の王妃として新たな人生を歩み始めた。


彼女の作る香水は、やがて大陸中に広まることになる。


『心を救う香り』として。


『希望の香り』として。


そして——『愛の香り』として。


百年に一人の『香りの魔女』、リリアーヌ・ヴェルディア。


その名は、歴史に刻まれることになる。


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