婚約破棄された調香師令嬢は、最後に作った香水で元婚約者を後悔させることにしました
第一章 薔薇園の断罪
「君の作る香水は、もう時代遅れだ」
満開の薔薇が咲き誇る公爵家の庭園。春の夜会で最も華やかなこの場所で、私——リリアーヌ・フォン・ベルフルールは、五年間連れ添った婚約者からそう告げられた。
周囲の令嬢たちが息を呑む気配。ひそひそと囁き合う声。そして、エドワード様の隣で勝ち誇ったように微笑む蜂蜜色の髪の女性——男爵令嬢セレナ・ミルフィーユ。
(……ああ、やっぱりこうなったのね)
私は内心で小さくため息をついた。
「エドワード様、それはどういう意味でございましょう」
声は震えなかった。五年間、侯爵令嬢として、そして王宮御用達の調香師として培ってきた矜持が、私の背筋を真っ直ぐに保っている。
「言葉通りの意味だよ、リリアーヌ」
エドワード様は冷たい青灰色の瞳で私を見下ろした。月明かりに照らされた端正な顔には、かつて私に向けられていた優しさの欠片もない。
「セレナの香水を嗅いでみたまえ。革新的で、斬新で、まさに新時代の調合だ。君のような古臭い技法とは根本から違う」
「まあ、エドワード様……私なんて、リリアーヌ様の足元にも及びませんわ」
セレナ嬢が控えめに俯く。大きな翡翠色の瞳には涙さえ浮かんでいた。
(……この子、本当に演技が上手いわね。感心するわ)
私は静かに二人を見つめた。セレナ嬢の手首から漂う香り。甘い白檀をベースに、ジャスミンとベルガモットを重ねた調合。そこに微かに混じる、禁忌とされる夜香木のエッセンス——。
知っている。
私がこの香りを知らないはずがない。
「彼女の『月下美人』という香水は、嗅いだ者の心を高揚させる効果がある。君の地味な調合とは比べ物にならない」
「そうでございますか」
私は穏やかに微笑んだ。
(三年前に私が『危険すぎる』と判断して封印したレシピね。夜香木の配合を間違えれば、アレルギー反応を引き起こす劇物になることも知らずに)
「君との婚約は本日をもって破棄する。異論はないな?」
エドワード様の声が庭園に響き渡る。周囲の貴族たちがざわめいた。
公開処刑。
これは、私への見せしめだ。
「……承知いたしました」
私は深く、優雅に頭を下げた。
「リ、リリアーヌ様……!」
セレナ嬢が驚いたように声を上げる。もっと取り乱すと思っていたのだろう。泣いて縋りつくと、そう期待していたに違いない。
「五年間、お世話になりました、エドワード様」
顔を上げた私は、静かに微笑んでいた。
「君は……悔しくないのか?」
エドワード様の眉が僅かに歪む。予想外の反応に、彼の虚栄心が揺らいでいるのが分かった。
(悔しい? ふふ、何を仰っているのかしら)
私は心の中で小さく笑った。
五年間。
私はあなたのためだけに香りを調合してきた。あなたが社交界で『素晴らしい香りだ』と称賛されるたびに、それが私の調合であることを誰にも言わずに。
あなたの成功は、私の香水によるものだった。
そのことに、あなたは最後まで気づかなかった。
「では最後に、あなたへの餞別を差し上げましょう」
私は懐から小さな香水瓶を取り出した。
淡い紫色の液体が、月明かりを受けて妖しく輝く。
「これは……?」
「『記憶の残滓』と名付けました」
私は微笑んだまま、香水瓶の蓋を開けた。
「嗅いだ者に、最も大切な人との思い出を蘇らせる香りです。どうぞ、セレナ嬢と共にお楽しみくださいませ」
甘く、切なく、どこか懐かしい香りが夜風に乗って広がっていく。
エドワード様の表情が凍りついた。
「な……っ」
彼の瞳に浮かんだのは、驚愕。そして——
(ああ、思い出しているのね。私と初めて出会った日のことを)
五年前、まだ私たちが純粋に惹かれ合っていた頃。エドワード様が私の調合した香水を『世界で一番美しい』と言ってくれた、あの春の日のことを。
「リリアーヌ……」
震える声で私の名を呼ぶエドワード様。その瞳には、確かに後悔の色が滲んでいた。
遅い。
もう、遅いのです。
「さようなら、エドワード様」
私は最後にもう一度だけ微笑んで、踵を返した。
背後で誰かが叫ぶ声がした。『待ってくれ』と、そう聞こえた気がした。
でも私は振り返らない。
夜空には満月が輝いている。
銀紫色の髪が風に靡く。手首の香水瓶のブレスレット——亡き母の形見——が、微かに温かくなった気がした。
(お母様、私、やっと自由になれます)
百年に一人の『香りの魔女』。
その名を、私はまだ誰にも明かしていない。
◇◇◇
公爵家の夜会を後にした私を待っていたのは、見覚えのない黒塗りの馬車だった。
「……どなた様でしょう」
警戒しながら足を止めると、馬車の扉が静かに開いた。
月光のような銀髪。深い紺碧の瞳。まるで彫刻のように整った顔立ちの青年が、そこにいた。
「初めまして、リリアーヌ嬢」
青年は穏やかに微笑んだ。
「あなたの『夜明けの調べ』を嗅いだ時——私は初めて、亡き母の顔を思い出すことができた」
彼の瞳が、月明かりの下で静かに輝く。
「お願いがあります。どうか、私に香りを調合していただけませんか」
(……この人、只者じゃない)
私の調香師としての直感が告げている。この青年から漂う香りは、高貴な者だけが纏うことを許された——
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「ルシアン、とお呼びください」
青年は——後に隣国ヴェルディア王国の若き国王であることが判明する彼は——そう言って、差し出された私の手に、そっと口づけた。
夜風が薔薇の香りを運んでくる。
捨てられた調香師の、新しい物語が始まろうとしていた。
第二章 籠の鳥は自由を知る
ベルフルール侯爵家に戻った私を出迎えたのは、継母と義妹の冷たい視線だった。
「まあ、恥知らずにも戻ってきたのね」
継母マルグリットが扇子で口元を隠しながら、嘲笑うように言う。派手な金髪に鋭い緑の瞳。常に不満げな口元には、今日ばかりは喜びの色が滲んでいた。
「婚約破棄ですって? 公爵家との縁談を台無しにして、一体どういうつもりなの」
「申し訳ございません、お義母様」
私は静かに頭を下げた。
(……まあ、この人が私の味方をしたことなんて一度もないけれど)
「ねえお母様、これで義姉様の持参金、私のものになりますわよね?」
義妹のカミーユが無邪気に——いや、悪意を隠しもせずに言う。母親譲りの金髪に、気の強そうな緑の瞳。十七歳にしては少々派手すぎる装いが、彼女の浅慮さを物語っていた。
「ええ、そうね。使えない義娘に持参金など必要ありませんもの」
継母が満足げに頷く。
「厄介払いができてよかったわ。これからは離れの部屋で大人しくしていなさい。お客様にあなたの顔を見せるわけにはいかないもの」
「……承知いたしました」
私は従順に頷いた。
(離れの部屋、ね。好都合だわ)
離れには、亡き母の秘密の工房がある。継母たちは知らない。あの部屋の地下に、『香りの魔女』の調合室が眠っていることを。
「さあ、行きなさい。その暗い顔を見ていると気分が悪くなるわ」
継母に追い払われるように、私は広間を後にした。
◇◇◇
「おかえりなさいませ、お嬢様」
離れの部屋で私を待っていたのは、白髪の老執事ニコラだった。七十を超えてなお背筋は伸び、穏やかな灰色の瞳には深い慈愛が宿っている。
「ようやく籠の鳥が自由になられましたな」
「……ニコラ」
私は思わず笑ってしまった。
「あなたったら、全部お見通しなのね」
「お嬢様のお母様——先代夫人にお仕えして四十年。そのお嬢様が、あのような浅薄な殿方に捕らわれたままでいるはずがないと、老いた執事は存じておりました」
「……ありがとう」
私は素直に礼を言った。この屋敷で、いや、この世界で、私の味方でいてくれるのはニコラだけだ。
「工房の準備は?」
「万全でございます。お嬢様がお戻りになる日を、ずっとお待ちしておりました」
ニコラが壁の燭台に手を伸ばす。古びた燭台を時計回りに三度回すと、カチリ、と小さな音がして——
壁の一部が静かに開いた。
「さあ、お嬢様。あなたの城へ」
冷たい空気が頬を撫でる。石造りの階段が、地下へと続いていた。
◇◇◇
「……ただいま、お母様」
地下の工房に足を踏み入れた瞬間、様々な香りが私を包み込んだ。
ラベンダー、ローズマリー、白檀、沈香——何百種類もの香料が、整然と棚に並んでいる。中央には大きな調合台。壁一面に掛けられた古い羊皮紙には、代々の『香りの魔女』が書き記してきた秘伝のレシピ。
そして——
「三つの禁断の香水、か」
私は調合台の上に置かれた三つの香水瓶を見つめた。
一つ目、『記憶の残滓』。嗅いだ者に最も大切な人との思い出を蘇らせる香り。これは昨晩、エドワード様に使った。
二つ目、『真実の鏡』。嗅いだ者の本性を、周囲の人間に見せてしまう香り。
三つ目、『暁光の誓い』。嗅いだ者それぞれの『守りたい人』を想起させ、心を一つにする香り——戴冠式や誓約の場で使えば、その効果は絶大。
(お母様が完成させられなかった三つの香水。私は、ようやくここまで辿り着いた)
百年に一人の『香りの魔女』。それが、私の正体。
嗅いだ者の記憶や感情に作用する、禁断の調合術を持つ者。
「お嬢様」
ニコラの声で、私は我に返った。
「実は、お客様がお見えでございます」
「お客様?」
「昨晩、お嬢様が夜会でお会いになった方かと」
ニコラの言葉に、私は目を見開いた。
まさか——
「名は『ルシアン』と仰っておいででした。ですが老いた執事の目には、その方の正体が見えております」
「正体?」
「隣国ヴェルディア王国の、若き国王陛下でございます」
◇◇◇
「お待たせいたしました」
応接室に入ると、銀髪の青年——ルシアン様が、窓際に佇んでいた。質素な旅装に身を包んでいるが、その立ち居振る舞いは隠しようもなく高貴だ。
「来てくれたんだね、リリアーヌ嬢」
振り返った彼の紺碧の瞳が、柔らかく細められる。
(……この人、本当に国王なの?)
私は内心で首を傾げた。王族特有の傲慢さが、この人からは全く感じられない。むしろ——どこか寂しげで、孤独な影を纏っている。
「昨晩は突然お声がけして、申し訳なかった」
「いいえ。それよりも、なぜ私を?」
「……あなたの『夜明けの調べ』」
ルシアン様は静かに言った。
「三年前、とある夜会で、その香りを嗅いだ。そして——」
彼の瞳が、僅かに揺れた。
「私は幼い頃に母を亡くした。顔も、声も、温もりも——何一つ覚えていなかった。それが、あなたの香りを嗅いだ瞬間、全てが蘇った」
「……」
「母が私を抱きしめてくれた感触。子守唄を歌ってくれた声。優しく頭を撫でてくれた手。全部、全部思い出せた」
銀髪の国王の瞳に、涙が滲んでいた。
「あの香りを作った人に、ずっと会いたかった」
(……ああ)
私は静かに息を吐いた。
この人は、私の香水を『革新的』だの『時代遅れ』だのと評価したいわけじゃない。
ただ純粋に、私の香りに救われたのだ。
「あなたの香りは、人の心を救う」
ルシアン様が真っ直ぐに私を見つめる。
「どうか、私のために香水を調合してほしい。来月行われる戴冠式のための、特別な一品を」
「戴冠式……」
「国中の貴族が集まる。その場で、皆の心を一つにできる香りが欲しい」
私は少し考えて——
「……一つ、条件がございます」
「何でも言ってくれ」
「私を、あなたの国の調香師として正式に雇っていただけますか」
ルシアン様が目を見開く。
「この国では、私はもう『婚約破棄された令嬢』でしかありません。ですが——」
私は真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「私の香りを必要としてくださる方がいるのなら、その方のために調合したい。それが、調香師としての私の誇りです」
沈黙が流れる。
やがて、ルシアン様はゆっくりと微笑んだ。
「……あなたは、本当に強い人だ」
「え?」
「婚約者に捨てられた翌日に、もう前を向いている。普通なら、もっと傷ついているはずなのに」
(傷ついていない、なんてことはないけれど)
私は苦笑した。
(でも、泣いている暇はないの。私には、やるべきことがあるから)
「あなたの価値が分からない者は、最初から相応しくなかった」
ルシアン様の言葉に、私は息を呑んだ。
「え……」
「あなたを『時代遅れ』と呼んだ男がいるらしいね」
静かな怒りが、彼の紺碧の瞳に滲む。
「愚かな話だ。百年に一人の才能を目の前にして、それに気づかないとは」
「ご存知、なのですか……?」
「『香りの魔女』の噂は、私の国にも届いている」
ルシアン様が穏やかに微笑む。
「あなたを雇うのは、私にとって願ってもないことだ。喜んで」
差し出された手。
私は一瞬躊躇って——でも、その手を取った。
「よろしくお願いいたします、陛下」
「ルシアンでいい。あなたには、名前で呼んでほしい」
銀髪の国王は、そう言って照れくさそうに笑った。
◇◇◇
ルシアン様が去った後。
私は工房に戻り、三つ目の香水瓶を手に取った。
『暁光の誓い』。
戴冠式のために、この香りを完成させなければならない。
「お嬢様」
ニコラが静かに声をかけてきた。
「あの方は、信頼に足る御仁のようですな」
「……ええ」
私は頷いた。
「エドワード様とは、全然違う」
(私を値踏みするような目で見なかった。私の技術ではなく、私の『想い』を見てくれた)
「お嬢様。老いた執事から一つだけ」
「何?」
「今度こそ、ご自分のために香りを調合なさいませ」
ニコラの穏やかな言葉に、私は目を見開いた。
「五年間、あの殿方のためだけに尽くしてこられた。でも今度は——」
「……今度は?」
「あなたを必要としてくださる方のために。そして、あなた自身のために」
私は——
「……ありがとう、ニコラ」
小さく、でも確かに笑った。
窓の外では、朝日が昇り始めていた。
新しい一日が、始まろうとしている。
第三章 偽りの華は枯れ落ちる
戴冠式まで、あと二週間。
私は工房に籠もり、『暁光の誓い』の調合に没頭していた。
ベースはネロリとサンダルウッド。そこに、朝露を浴びた白百合のエッセンスを一滴——
「お嬢様、お客様でございます」
ニコラの声に、私は顔を上げた。
「ルシアン様?」
「いいえ……」
ニコラの表情が僅かに曇る。
「公爵家のエドワード様でございます」
◇◇◇
「リリアーヌ!」
応接室に入るなり、エドワード様が駆け寄ってきた。
かつては端正だった顔立ちには疲労の色が滲み、青灰色の瞳は落ち着きなく泳いでいる。
「来てくれたんだね、僕の話を聞いてくれるんだね」
「……何のご用でしょうか、公爵子息様」
私は冷静に距離を取った。
『公爵子息様』。かつては『エドワード様』と呼んでいた。その違いに、彼は気づいただろうか。
「その……先日のことは、僕も言い過ぎた」
(言い過ぎた、ね。満座の中で『時代遅れ』と罵倒しておいて)
「セレナに騙されていたんだ。彼女の香水が、君のレシピの盗作だったなんて知らなかった」
「……あら、ご存知になったのですね」
「王宮への献上香水で、大失敗があった」
エドワード様の顔が苦々しく歪む。
「セレナの香水が、王妃様のアレルギーを引き起こしてしまった。調査の結果、彼女の調合が——」
「——三年前に私が『危険すぎる』と判断して封印したレシピの盗作だと判明した、と」
私は淡々と言った。
「ご存知だったのか!?」
「最初から存じておりました」
エドワード様が絶句する。
「夜香木のエッセンスは、配合を間違えれば劇物になります。私があのレシピを封印したのは、そのリスクを理解していたからです」
「な、なぜ黙っていた!?」
「言う必要がございませんでしたから」
私は静かに微笑んだ。
(実力のない者が使えば、必ず破綻する。それを待っていただけよ)
「リリアーヌ、頼む」
エドワード様が私の手を取ろうとする。私は一歩後ずさった。
「君がいないと困るんだ。公爵家の香水事業は、君の調合なしには成り立たない。社交界での僕の評判も——」
「それは、私の香水によるものでしたからね」
「えっ……」
「五年間、あなたが社交界で『素晴らしい香りだ』と称賛されるたびに、それが私の調合であることを誰にも言いませんでした。あなたの成功は、全て私の香水によるものだった」
エドワード様の顔から血の気が引いていく。
「そ、そんな……」
「知らなかったのですか? それとも、気づかないふりをしていたのですか?」
私は静かに問いかけた。
「五年間、私はあなたのためだけに香りを調合してきました。あなたに褒められたくて。あなたに認められたくて。でも——」
菫色の瞳で、真っ直ぐに彼を見つめる。
「あなたは一度も、私の香りの価値を理解してくださらなかった」
「リリアーヌ……」
「復縁のお話でしたら、お断りいたします」
私は深く、優雅に頭を下げた。
「もう遅いのです。私の香りは、私を必要としてくださる方のためにありますから」
「待ってくれ! 僕は、君を——」
「ニコラ」
私は振り返らずに言った。
「お客様をお見送りして」
「かしこまりました、お嬢様」
◇◇◇
エドワード様が去った後。
私は工房に戻り、調合を再開した。
手が、僅かに震えている。
(……悔しい、なんてことはないわ)
五年間の想いが、無駄だったとは思わない。でも——
「お嬢様」
静かな声が背後から聞こえた。振り返ると、銀髪の青年が立っていた。
「ルシアン様……!? いつからそこに」
「……申し訳ない。盗み聞きするつもりはなかったんだが」
ルシアン様の紺碧の瞳には、静かな怒りが滲んでいた。
「あの男は、許せない」
「え……」
「五年間、君の才能を搾取しておいて、都合が悪くなったら復縁を迫る?」
彼の声は低く、冷たかった。普段の穏やかさからは想像もできない。
「君は正しい。あんな男は、最初から君に相応しくなかった」
「……ありがとう、ございます」
私は少し笑った。
「でも、もう大丈夫です。私には、やるべきことがありますから」
調合台の上の香水瓶を見つめる。『暁光の誓い』は、あと少しで完成する。
「君は、本当に強いな」
ルシアン様が感嘆したように言った。
「傷ついているはずなのに、前を向いている」
「傷ついていない、とは言いません」
私は正直に答えた。
「でも——私を必要としてくださる方がいる。その方のために、最高の香りを作りたい。それが、今の私の全てです」
ルシアン様は、少しの間黙っていた。
そして——
「戴冠式の後、君に伝えたいことがある」
「……何でしょう」
「今は言えない。でも——」
彼の紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「その時まで、待っていてほしい」
私の心臓が、小さく跳ねた。
(……この人は、一体何を)
「分かりました」
私は頷いた。
「戴冠式の後に」
銀髪の国王は、嬉しそうに微笑んだ。
第四章 暁光の誓い
戴冠式当日。
ヴェルディア王国の大聖堂には、内外から千人を超える貴族が集まっていた。
私は控えの間で、最後の準備を整えていた。手の中には、完成したばかりの香水瓶。淡い金色の液体が、陽光を受けて輝いている。
『暁光の誓い』。
嗅いだ者それぞれの『守りたい人』を想起させ、心を一つにする魔法のような香り。
母が完成させられなかった、三つ目の禁断の香水。
「リリアーヌ嬢」
ルシアン様が正装で現れた。白と金の戴冠衣に身を包んだ彼は、息を呑むほど美しかった。
「準備は?」
「整いました、陛下」
私は香水瓶を差し出した。
「これが、『暁光の誓い』です。大聖堂全体に香りを行き渡らせれば、列席者全員の心が一つになるでしょう」
「……ありがとう」
ルシアン様が香水瓶を受け取る。その手が、僅かに震えていた。
「緊張、していらっしゃいますか?」
「正直に言えば」
彼は苦笑した。
「父の跡を継いで王になる。その責任の重さに、押しつぶされそうになることがある」
「……」
「でも」
ルシアン様は香水瓶を見つめた。
「この香りがあれば、きっと大丈夫だ。君が作ってくれたものだから」
私の心臓が、また小さく跳ねる。
「行ってきます」
「……いってらっしゃいませ、陛下」
◇◇◇
大聖堂に、『暁光の誓い』の香りが広がった。
ネロリの清々しさ、サンダルウッドの温かみ、白百合の気高さ——それらが調和し、えも言われぬ芳香となって会場を包み込む。
列席者たちが、次々と目を閉じ始めた。
涙を流す者がいた。微笑む者がいた。誰かの名を呼ぶ者がいた。
(……みんな、大切な人のことを思い出しているんだ)
私も目を閉じた。
瞼の裏に浮かんだのは——銀髪の国王の笑顔だった。
「なっ……!?」
思わず目を開ける。
(今、私は何を——)
その時、大聖堂に万雷の拍手が響いた。
ルシアン様の戴冠が、成功したのだ。
◇◇◇
「リリアーヌ嬢」
戴冠式が終わり、謁見の間で。
新王ルシアン一世は、満場の貴族の前で私の手を取った。
「今日の香りは、本当に素晴らしかった」
「光栄でございます、陛下」
「あの香りを嗅いだ時——僕は、母のことを思い出した」
彼の紺碧の瞳が、優しく細められる。
「そして、もう一人」
「もう一人……?」
「守りたい人、のことを」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「陛下……?」
「伝えたいことがあると言っただろう」
ルシアン様は、満場の貴族が見守る中で、片膝をついた。
「リリアーヌ・フォン・ベルフルール」
「っ——」
「この香りを作れる人を、僕は離さない」
紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「君を、僕の王妃に迎えたい」
会場がどよめいた。歓声が上がった。誰かが泣いていた。
私は——
「……本当に、よろしいのですか」
「君以外に、考えられない」
「私は、一度捨てられた女です。婚約破棄された令嬢です。そんな女が、一国の王妃など——」
「それがどうした」
ルシアン様の声は、穏やかだが力強かった。
「君を捨てた男は愚か者だ。でも僕は違う。君の価値を、君の強さを、君の優しさを——僕は知っている」
「……」
「リリアーヌ。君の答えを聞かせてくれ」
私は、深く息を吸った。
五年間、エドワード様のために尽くしてきた。認められたくて、愛されたくて、ずっと。
でも——
この人は、最初から私を認めてくれていた。
私の技術ではなく、私の『想い』を見てくれていた。
「……はい」
私は微笑んだ。
「喜んで、お受けいたします」
ルシアン様の顔が、満面の笑みに変わった。
彼が立ち上がり、私の手に口づけする。会場から、割れんばかりの拍手が湧き起こった。
◇◇◇
「嘘……だ……」
会場の片隅で、青ざめた顔の男が立ち尽くしていた。
エドワード・ヴァン・クロイツァー。かつての婚約者。
隣国の戴冠式に招待されていた彼は、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。
「リリアーヌが……隣国の王妃……?」
その隣には、もはや華やかさの欠片もない女がいた。
盗作が発覚し、社交界から追放されたセレナ・ミルフィーユ。エドワード様にすがりつこうとしていたが、彼は彼女を見向きもしなかった。
「あの時……手放さなければ……」
エドワード様の呟きが、風に消えていく。
公爵家の香水事業は、リリアーヌという柱を失って崩壊しつつあった。王家の不興を買った彼の次期当主の座も、危うくなっていた。
全ては、因果応報。
◇◇◇
「後悔、しているようね」
私はルシアン様の腕の中で、静かに呟いた。
「あの男のことか」
「ええ」
「……何か、言いたいことは?」
私は少し考えて——
「いいえ」
首を横に振った。
「もう、どうでもいいことです」
ルシアン様が微笑む。
「そうだな。僕たちには、未来がある」
窓の外では、朝日が昇っていた。
『暁光の誓い』の香りが、まだ微かに漂っている。
◇◇◇
——こうして、かつて捨てられた調香師は、一国の王妃として新たな人生を歩み始めた。
彼女の作る香水は、やがて大陸中に広まることになる。
『心を救う香り』として。
『希望の香り』として。
そして——『愛の香り』として。
百年に一人の『香りの魔女』、リリアーヌ・ヴェルディア。
その名は、歴史に刻まれることになる。




