家の髪
とある夜。男は友人のアパートを訪れていた。酒を飲み、話に花を咲かせ、夜も深くなった頃……。
「はははっ、うわ、と」
「おいおい、舐めるの?」
「舐めねえよ! うわあ、手がベトベトだわ。洗面所借りるな」
「どうぞどうぞ」
皿に残ったタレに指を突っ込んでしまった彼は、手を洗いに洗面所に向かった。そして……
「なあ……」
「おかえり」
「おう……いや、お前、ちょっとビビったわ」
「ん?」
「いや、風呂場のドアが少し開いてて、その隙間から黒いものが見えたんで、目を凝らしたらさ……はははっ、お前、あれ掃除しとけよな」
「あれって?」
「排水口の近くにあった長い髪の毛だよ。虫かと思ってギョッとしたわ」
「あー……」
「お前、あれか? 彼女できたのか?」
「いや、いないけど」
「嘘つけよ。あんな長い髪、お前のじゃないだろ?」
「ああ、違うよ」
「だろ。あ、じゃあ女友達か? シャワー貸す仲なんて、お前もやるなあ、ははは!」
「ははは……」
「……あー、もしかして違うの?」
「うん」
「っていうと、まさか……アレなのか? いや、いやいやいや……」
「まあ、たぶん、そのアレだね」
「うーわ……マジか……」
「一応、お前が来る前に一通り掃除したんだけどなあ……。えっと、使い捨てのビニール手袋、どこにあるかわかる?」
「いや、お前の部屋なんだから、おれが知るわけねえだろ」
「ははは! だよな! はははははは!」
「いや、怖い怖い。お前のその淡々としている感じも怖いし、え、本当に、その、幽霊的な……」
「的なやつだね」
「うわあ、マジか……映画とかだとよくあるパターンだが、実際は怖いな……」
「でも、不思議だよね」
「ん、何が?」
「たぶん、あれは死んだ女性の幽霊の髪だと思うんだけど、どこから出てくるのか不思議じゃない?」
「んー? そりゃ、排水口の奥から出てきたんだろ?」
「でも、パイプクリーナーで何度も掃除したんだよ。それに、逆流しているわけでもないのに変だよね。それどころか、ベッドの下にだってあったんだよ」
「ベッドの下にも? じゃあ、たぶんその、霊的なパワーで生み出されたんだろ……」
「霊的なパワー? 無から有を生み出したってこと? 何それ」
「おれに聞くなよ。知るかよ」
「宇宙パワー……」
「なんだそれ。変なこと言うなよ」
「あ、あったあった。じゃあ、片付けてくるよ。毎回引っ掛かって取りにくいんだよな、あれ」
「ふーん、それでこの部屋って他にも怪奇現象とか起こるのか?」
「あー、そうでもないよ。たまに家が揺れたり、悲鳴みたいな音が聞こえたりするくらいかな」
「ガッツリあるじゃねえか。なあ、それで――」
と、彼は言いかけて、ふと壁に目を向けた。顔を寄せ、目を凝らす。
「黒い……カビ……?」
部屋の白い壁には黒い点々があった。
「取れた! はははははは!」
風呂場から友人の声が響く直前、部屋が揺れた。
友人の笑い声と女の悲鳴がこだまする中、彼は立ち上がり、アパートを飛び出した。
――あの髪は、排水口から這い出てきたんじゃない……生えてきたんだ。
そう思った瞬間、背筋が震えた。背後に視線を感じたが、彼はアパートのほうを振り返りはしなかった。