英雄の遺志(いし)を継(つ)ぐ者③
ペリー来航時 嘉永6(1853)年 (※実年齢です。誕生日を考慮していませんすみません。)
江川英龍 52歳
斎藤弥九郎 55歳
斎藤新太郎 25歳
柏木総蔵 29歳
桂小五郎 20歳
矢田部郷雲 34歳
望月大象 25歳
中浜万次郎ことジョン万次郎 26歳
江川籌之助 2カ月
1年で一番暑い時期だが、潮の香りをまとい通り過ぎてゆく風は存外気持ちがいい。
「この海の上に人工の島を造って砲台を築くなんて夢のようですね!!
どんな光景になるのか想像もつきませんが、江川先生の頭の中にはきっとはっきりと完成後の姿が見えてるんでしょうね!!」
新太郎の隣で若い男が目を輝かせている。
髪型や衣装は中間(武士に仕える召使い)のそれだが、育ちの良さと見目の良さが隠しきれていない。新太郎は笑いをこらえながら「そうだな」と頷いた。
昨年、長州藩(山口県)から自費で江戸の練兵館に留学してきた桂小五郎は、英龍が幕府から命じられた台場築造のための見分をどうしても自分の目で見たくて
「柏木さん、どうか俺も連れて行ってください!!」
と総蔵に懇願したらしい。江川家の家臣は皆、練兵館で剣術を学んでいるため小五郎にとっては身分差はともかく先輩にあたる。
柏木総蔵もこの若者の情熱に何かを感じ取ったのだろう、
「長州藩の者だとバレたら不味いので、中間にでも変装してもらいましょうか。人数に加えられるよう、殿様に掛け合ってみましょう。」
と快く請け負ってくれた。
総蔵からそれを聞いた英龍も
「弥九郎が最近目をかけている者だそうだな、同行は長州藩の未来にも繋がるだろう。
良いだろう、連れて行こう。ただし、弥九郎や新太郎のそばを離れるなと伝えておけ。」
とどこか嬉しそうに許可してくれたそうだ。
「それにしても、柏木さんって裁判を担当する文官ですよね?何で測量まで出来るんですか?」
江川家の家臣団の優秀さを知らない者は皆一様に小五郎と同じように驚くが、新太郎は子供の頃より知っているので得意げな気持ちになる。
「測量だけじゃないぞ。総蔵さんはあのおとなしそうな見た目で大物の博徒を捕縛したし、かと思えば伊豆の博徒の大親分を巧みな説得で改心させたんだ。」
総蔵は文武両道の優秀な者ばかりの江川家家臣団の中でも一際優秀で、「一度見聞きしたことを忘れることがない」とまで言われていた。
英龍は常に総蔵を側に置き、己の仕事を見せ、付き合いのある者達と総蔵を引き合わせ、総蔵に自分の理念を余すことなく全て伝えた。いずれ自分の後を継ぐ息子・保之丞(のちの英敏)を託せるように総蔵を鍛え上げた。
「総蔵さんが口喧嘩で負けた話を聞いたことがない。味方でいるうちは心強いが、敵に回すと手強いぞ。」
剣の腕では負けるはずのない新太郎でも、総蔵の胆力には一目置いている。
「へぇ~、俺には物腰の柔らかい親切な方としか感じられませんでしたが。」
「そうだろうな、だが今総蔵さんと一緒に測量している矢田部殿とはよく仲違いしているぞ。」
新太郎に言われて小五郎が前方で測量をしている者達に目を向けると、2人が何やら言い合いをして、横からもう1人がそれを諌めているように見える。
総蔵と言い合いをしている矢田部郷雲もまた、英龍が『ぜひ我が韮山で働いてほしい』と懇願し、総蔵らのように公的に雇っている手代たちとは別に、私的に雇うことにした逸材である。
郷雲は蘭学者であり医学の心得もあり、砲術も巧みで銃の腕前も屈指の実力者である。総蔵が大物の博徒の討伐に向かった時、同行していた郷雲もまた博徒を撃ち取っている。
総蔵も郷雲も、お互い相手の実力を知っているからこそぶつかり合えるのだろうが、仲裁する最年少の望月大象がかわいそうに見えてしまう。
だがこの望月大象も甲賀忍者の末裔であり武の才能に長け、2人に劣らない資質があり、父・弥九郎がたいそう気に入っている者である。
おおらかな性格の大象が「まあまあ」と人好きのする笑顔で間に入れば、総蔵も郷雲も矛を収めるしかない。
新太郎は父・弥九郎の隣で3人のやりとりを温かい、しかし何処か少し寂しそうな目で見守っている英龍を見やった。
英龍の目にはきっと、若者達がその才能を遺憾なく発揮して創り上げる明るい未来と、申し分ない見識がありながら執拗に責められ非業の死を遂げた蘭学の師・渡辺崋山や高野長英達の悲しい過去が重なって見えているのだろう。
新太郎は幼い頃、ほんの少しだが渡辺崋山に絵を教わったことがある。蘭学者として、画家としての印象が強いが崋山はれっきとした武士で、田原藩(愛知県の渥美半島)の家老であった。
彼は父・弥九郎と『神道無念流』の同門だったので、その縁で教わることができた。線の細い物静かなお方だったが、優しげな目の奥には『この国を守らなければ』という、剣豪の気迫にも負けないような強い意志が宿っていた。
江戸湾を防衛するために台場を築く計画は、実は今から15年前にも英龍が幕府に献策して、一度途中まで進められていた。その計画を英龍に託したのが渡辺崋山と高野長英らが所属していた『尚歯会』である。
崋山は田原藩の藩士だから幕府に直接意見を言うことができない。高野長英はシーボルトの高弟だが民間の医者に過ぎないので、本を出版するくらいでしか自分の思想を公表できない。
幕府に仕える代官として幕府の上役に献策できる立場の英龍と縁ができたことを、崋山と長英は喜んだ。また、英龍もこの国で最高峰の蘭学者から教えを受けることができ、その見識をみるみるうちに吸収していった。双方にとって互いの存在が得難いものとなっていった。
しかし15年前の台場を築く場所の見分は、蘭学を憎んでいるといっても過言ではない、儒学の最高峰である大学頭の息子である『鳥居耀蔵』と、あろうことか測量図の出来栄えを競うような形になってしまい、鳥居から執拗なまでの横槍を入れられてしまった。
さらに測量図とともに提出しようとした崋山の意見書が『幕府を批判している』と鳥居に言い掛かりをつけられ、『蛮社の獄』という蘭学者の弾圧が起きてしまう。
崋山は捕らえられ、仲間の蘭学者達も捕らえられたり自死に追い込まれてしまう。
崋山は自分が所属する田原藩で蟄居することになったが、崋山を快く思わない者達に責められ、家族や主君の足枷になることを憂い12年前に自害した。
いち早く逃亡した長英も逃げられないことを悟り一度は自首し、脱獄を経て、3年前に追手と戦い死亡した。
英龍の、温かさと空寂が混在していた表情がやがて強い決意を固めたものに変わった。
「弥九郎、今度こそ必ず台場を築き、大砲を揃え、兵を鍛えてこの国を守ってみせるぞ。
この国には崋山先生や長英先生の知識が、秋帆先生(砲術家・高島秋帆)の技術がある。
未来を託せる有望な若者達がいる。
さらに万次郎(ジョン万次郎)が我が韮山に来てくれたのだ。これほど心強いことはない。」
まだ英龍が『邦次郎』と呼ばれていた頃から35年の長い付き合いがある父・弥九郎も万感の思いが込み上げているのだろう、眩しいものを見るような表情で親友の言葉の続きを待っていた。
「万次郎がただの『英語を覚えた漂流者』ではなく航海術や測量術、造船術を会得して、アメリカに永住することも出来たのに危険を顧みず日本に帰国することを選んでくれたのは神仏の思し召しとしか思えない。
万次郎を韮山に呼ぶことが出来たのも、こんな奇跡が起こり得るのかと驚いたが、もしかしたら崋山先生や長英先生の御導きかも知れぬな。
万次郎自身もこの国を守るために心身を捧げてくれることを誓ってくれたのだ。
拙者も今一度、自分に出来得る全てを賭けてこの国に尽くすと誓おう。」
大きな声ではなかったはずなのに、強い決意を帯びたその声は少し離れた位置にいた新太郎や小五郎にも届いた。
英龍の前方にいた総蔵達にも聞こえたのだろう、一斉に振り返り頭を下げた。
このお方について行きたい、このお方のもとで自分も身命を賭してこの国を守る力になりたい。
そう思ったのは新太郎だけではないはずだ。
《おまけ》
矢田部郷雲は朝ドラ『らんまん』の田邊教授のモデルになった矢田部良吉のお父さん。
《英雄こぼれ話》
『江川門下の砲術家番付表』という資料が残されていて、それによると(横綱はいない)
東の大関 山田熊蔵(後ほど少し出てきます)
関脇 長澤鋼吉(柏木総蔵の甥(?))
小結 柴 弘吉(松岡正平の次男)
前頭 矢田部郷雲
〃 八田篤蔵
〃 中浜万次郎
〃 中村小源治
〃 安井畑蔵
〃 安井晴之助
〃 長澤房五郎(柏木総蔵の甥(?))
〃 松岡磐吉(松岡正平の3男)
〃 甲斐直次郎
西の大関 森田定吉
関脇 市川来吉(松岡正平の長男)
小結 岩嶋源八郎(柏木総蔵の実弟)
前頭 石井修三(蘭学者。後ほど出てきます)
〃 佐藤清五郎
〃 山田山蔵
〃 旦那村杢郎(?)読めない…
〃 鈴藤勇次郎(後ほど出てきます)
〃 西脇寅之助
〃 斎藤四郎之助(新太郎の弟)
〃 中村鎮三郎
〃 肥田浜五郎(後ほど『がっつり』出てきます)
となっております。
いつのものか分からないけれど、行司のトップが
菊之井太郎左衛門(菊之井は『井桁に菊』という江川家の家紋)となっていて、英龍なのか英敏なのか英武なのかは分かりません。
ほか、榊原鏡次郎・高島喜平(高島秋帆)・松岡正平・友平栄(後ほど出てきます)・柏木総蔵などの名前が見えます。
おもしろい資料が残っていてくれて嬉しい✩