英雄の遺志(いし)を継(つ)ぐ者①
籌之助の兄が亡くなったのは、まだ蝉の鳴き声が生ぬるい風に混じる残暑の季節だった。穏やかで優しかった兄を静かに送りたかったのに、生命力をひけらかすようなあの鳴き声がやたら不快だったことを憶えている。
ところが今は、いっそあのうるさい蝉の声でも聞こえてくれたらいいのにと思うほど、肌を刺すような緊張に満ちた静寂が籌之助の周りを囲んでいる。
この静寂が始まる少し前は、今とは真逆で耳を覆いたくなるほどの大声が響き渡っていたのに。
「いくらなんでも無謀過ぎる!!籌之助様はまだ『10歳』だぞ!!」(※数え年で10歳、満年齢では9歳)
低くよく響く大きな声の持ち主は、鍛え上げられた大きな身体を前のめりに片膝を立てて一人の男と対峙している。
30半ばほどのその男は、北辰一刀流の玄武館(技の千葉)、鏡新明智流の士学館(位の桃井)と並び『江戸三大剣術道場』に数えられる神道無念流・練兵館の師範で『力の斎藤』と称される2代目斎藤弥九郎こと斎藤新太郎である。
この場にいる者達は皆、斎藤弥九郎・新太郎父子から剣術を習っている。師のあまりの剣幕に、自分が叱責されたわけでもないのに顔を蒼くして、叱責を一身に受ける男の表情を窺っている。
その叱責されている男の顔色もやはり蒼白く見えるが、これは恐れによるものではない。生来身体が丈夫ではない上に激務による体調不良が翳りとなって、若かりし頃眉目秀麗と持て囃された容貌に物憂げな魅力を添えている。
その脆弱そうな見た目とは裏腹に、肝は相当に据わっているらしい。男の目はひたと新太郎を見つめ返している。
「私も斎藤先生と同意見だ。」
新太郎の怒りを鎮めるような、蒼い顔をした若い部下達をなだめるような静かな口調で、壮年の男が賛同の意を示した。
松岡正平、家臣団の筆頭であり、この家の3代に渡る主から大きな信頼を寄せられてきた者だ。松岡は今この『家』が直面している『御家断絶』、さらに『お役御免』を回避すべく、今回で『2度目』となるこの言葉を告げた。
「やはり後継は榊原様にお願いするべきだ。」
時は幕末、文久2(1862)年の秋。場所は伊豆国韮山(現静岡県伊豆の国市韮山)にある『韮山代官・江川家』の屋敷。屋敷の敷地内に役所が併設されており、普段は江川家に家臣として仕える手代と呼ばれる役人達がせわしなく働いている。
伊豆半島の付け根に位置するこの韮山は周りを低い山に囲まれていて、屋敷の周辺の平野に広がる田畑や用水路は管理がすみずみまで行き届いている。
下田街道を上れば三島の東海道に合流し、近くを流れる狩野川を舟で進めば沼津の駿河湾に出ることができ、山々を陸路で越えなくても伊豆の海岸を巡ることができるという、伊豆を預かる代官の役所に相応しい場所である。
屋敷の裏門から富士山を覗く絶景は、松平定信が画家・谷文晁に命じて絵に留めさせたほどに美しい。
源頼朝が14歳で配流されてから旗揚げまでの20年を過ごしたという『蛭ヶ小島』や、北条早雲が築城して終の棲家とした『韮山城』の跡地に隣接しているこの屋敷で今日行われているのは、籌之助の亡き兄、『37代江川太郎左衛門・英敏』の後継を決める会議である。
斎藤新太郎、松岡正平らが推すのは籌之助の義兄(姉の夫)にあたる旗本・榊原鏡次郎。
「榊原様は大殿様(英龍)がぜひにと望んで姫様を嫁がせたお方であるから、大殿様のご意志に背くことにはなるまい。
英敏様の後見を勤めていただき、最高位の『師範代』を担われて幕府からの信頼も厚い。
もし今、その榊原様を差し置いて籌之助様を擁立しようとすれば、世間から『家臣が幼い当主を立ててお家を牛耳ろうとしている』などと噂される危険がある。
英敏様が後継になられた時もそれは大変であったが、あの時はまだ大殿様のご威光も阿部様の庇護もあった。だが大殿様が亡くなられて7年が過ぎ、阿部様ももうおられない。
大殿様のご友人であられた川路様も政界を追われ、この家の置かれている状況は悪くなる一方だ。だから今はまず榊原様に継いでいただき、然るべき時が来たら籌之助様に家督をお譲りいただけば良いではないか。どうだ、総蔵?」
松岡正平は英龍が急死した7年前にも『英敏様の前に一度、榊原様を後継に』と唱えているが、それは決して籌之助の兄・英敏を軽んじていたわけではない。
むしろ主の大切な忘れ形見である英敏を、英龍が倒れるほどの激務や政治の世界の権謀術数、嫉妬や怨嗟の声などから守りたいがための提案であった。
事実、英龍の死からわずか2年後の安政4年、江川家お抱えの若き蘭学者が一人、『尊皇攘夷』を掲げた浪士に襲撃され命を落としている。
鏡次郎には子もおらず、次代の後継者争いが起こる心配もない。
だがしかしその時は『代々直系男子が後を継ぐ』という江川家の伝統を破るべきではないとの声も大きく、また時の老中・阿部正弘とその懐刀であった勘定奉行・松平近直が英敏の後ろ盾となることを確約してくれたこともあり、正平もそれならばと納得できたのだ。
英龍の上司であった阿部と松平は英龍が創立した『韮山塾』に入門しており、私的な時間においては英龍を『先生』と呼ぶほどであったから、英龍の生前の数々の功績への恩賞として『芝新銭座』に8,000坪を超える広大な土地を下賜したり、江川家先祖代々の借金の返済を免除するなど、多くの便宜を図ってくれた。
何より英敏自身が父に似て非常に聡明であった。歳をあえて4歳上に偽っても問題ないくらいに。
だが今や開明派の大大名・島津斉彬や老中・阿部正弘が亡くなり、『安政の大獄』による粛清と報復、幕府と朝廷の軋轢、金の海外流出によるインフレ、コレラやはしかの大流行などが相重なり、人々は疲弊し政情は悪化の一途をたどっている。
この一層危険を増した時期に、英敏が家督を継いだ歳よりさらに幼い籌之助を矢面に立たせるなど、正平には耐え難かった。
権謀術数…人を欺くための悪巧み
怨嗟の声…深いうらみの声