表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

英雄の遺志(いし)を継(つ)ぐ者①

 籌之助(じゅのすけ)の兄が亡くなったのは、まだ蝉の鳴き声が生ぬるい風に混じる残暑の季節だった。穏やかで優しかった兄を静かに送りたかったのに、生命力をひけらかすようなあの鳴き声がやたら不快だったことを(おぼ)えている。



 ところが今は、いっそあのうるさい蝉の声でも聞こえてくれたらいいのにと思うほど、肌を刺すような緊張(きんちょう)に満ちた静寂(せいじゃく)が籌之助の周りを囲んでいる。



 この静寂が始まる少し前は、今とは真逆で耳を(おお)いたくなるほどの大声が響き渡っていたのに。



「いくらなんでも無謀(むぼう)過ぎる!!籌之助(じゅのすけ)様はまだ『10歳』だぞ!!」(※数え年で10歳、満年齢では9歳)


 低くよく響く大きな声の持ち主は、(きた)え上げられた大きな身体を前のめりに片膝を立てて一人の男と対峙(たいじ)している。



 30半ばほどのその男は、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)玄武館(げんぶかん)(技の千葉)、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)士学館(しがくかん)(位の桃井(もものい))と並び『江戸三大剣術道場』に数えられる神道無念流(しんとうむねんりゅう)練兵館(れんぺいかん)師範(しはん)で『力の斎藤』と称される2代目斎藤弥九郎(さいとうやくろう)こと斎藤新太郎(さいとうしんたろう)である。



  この場にいる者達は皆、斎藤弥九郎・新太郎父子から剣術を習っている。師のあまりの剣幕(けんまく)に、自分が叱責(しっせき)されたわけでもないのに顔を(あお)くして、叱責を一身(いっしん)に受ける男の表情を(うかが)っている。



  その叱責されている男の顔色もやはり蒼白(あおじろ)く見えるが、これは恐れによるものではない。生来(せいらい)身体が丈夫ではない上に激務による体調不良が(かげ)りとなって、若かりし頃眉目秀麗(びもくしゅうれい)と持て(はや)された容貌(ようぼう)物憂(ものう)げな魅力を添えている。



 その脆弱(ぜいじゃく)そうな見た目とは裏腹(うらはら)に、(きも)は相当に()わっているらしい。男の目はひたと新太郎を見つめ返している。



「私も斎藤先生と同意見だ。」



 新太郎の怒りを(しず)めるような、(あお)い顔をした若い部下達をなだめるような静かな口調で、壮年(そうねん)の男が賛同(さんどう)の意を(しめ)した。



 松岡正平(まつおかしょうへい)、家臣団の筆頭であり、この家の3代に渡る(あるじ)から大きな信頼を寄せられてきた者だ。松岡は今この『家』が直面している『御家断絶(おいえだんぜつ)』、さらに『お役御免(やくごめん)』を回避すべく、今回で『2度目』となるこの言葉を告げた。



「やはり後継(こうけい)榊原(さかきばら)様にお願いするべきだ。」



 

 

 時は幕末、文久(ぶんきゅう)2(1862)年の秋。場所は伊豆国(いずのくに)韮山(にらやま)(現静岡県伊豆の国市韮山)にある『韮山代官・江川家』の屋敷。屋敷の敷地内に役所が併設されており、普段は江川家に家臣として仕える手代(てだい)と呼ばれる役人達がせわしなく働いている。



 伊豆半島の付け根に位置するこの韮山は周りを低い山に囲まれていて、屋敷の周辺の平野に広がる田畑や用水路は管理がすみずみまで行き届いている。



 下田街道(しもだかいどう)を上れば三島の東海道に合流し、近くを流れる狩野川(かのがわ)を舟で進めば沼津の駿河湾(するがわん)に出ることができ、山々を陸路(りくろ)で越えなくても伊豆の海岸を巡ることができるという、伊豆を預かる代官の役所に相応(ふさわ)しい場所である。



 屋敷の裏門から富士山を(のぞ)く絶景は、松平定信(まつだいらさだのぶ)が画家・谷文晁(たにぶんちょう)に命じて絵に留めさせたほどに美しい。



  源頼朝(みなもとのよりとも)が14歳で配流(はいる)されてから旗揚げまでの20年を過ごしたという『蛭ヶ小島(ひるがこじま)』や、北条早雲(ほうじょうそううん)築城(ちくじょう)して(つい)棲家(すみか)とした『韮山城』の跡地(あとち)に隣接しているこの屋敷で今日行われているのは、籌之助の亡き兄、『37代江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)英敏(ひでとし)』の後継(こうけい)を決める会議である。



  斎藤新太郎、松岡正平らが()すのは籌之助の義兄(ぎけい)(姉の夫)にあたる旗本(はたもと)榊原鏡次郎(さかきばらきょうじろう)



 「榊原様は大殿様(おおとのさま)(英龍(ひでたつ))がぜひにと望んで姫様を嫁がせたお方であるから、大殿様のご意志に(そむ)くことにはなるまい。


英敏(ひでとし)様の後見を勤めていただき、最高位の『師範代(しはんだい)』を(にな)われて幕府からの信頼も厚い。


もし今、その榊原様を差し置いて籌之助様を擁立(ようりつ)しようとすれば、世間から『家臣が幼い当主を立ててお家を牛耳(ぎゅうじ)ろうとしている』などと噂される危険がある。


英敏様が後継になられた時もそれは大変であったが、あの時はまだ大殿様のご威光(いこう)も阿部様の庇護(ひご)もあった。だが大殿様が亡くなられて7年が過ぎ、阿部様ももうおられない。


大殿様のご友人であられた川路(かわじ)様も政界を追われ、この家の置かれている状況は悪くなる一方だ。だから今はまず榊原様に継いでいただき、(しか)るべき時が来たら籌之助様に家督(かとく)をお(ゆず)りいただけば良いではないか。どうだ、総蔵(そうぞう)?」



 

 松岡正平は英龍が急死した7年前にも『英敏様の前に一度、榊原様を後継に』と唱えているが、それは決して籌之助の兄・英敏を軽んじていたわけではない。

 

 むしろ主の大切な忘れ形見である英敏を、英龍が倒れるほどの激務や政治の世界の権謀術数(けんぼうじゅっすう)嫉妬(しっと)怨嗟(えんさ)の声などから守りたいがための提案であった。


 事実、英龍の死からわずか2年後の安政4年、江川家お(かか)えの若き蘭学者が一人、『尊皇攘夷(そんのうじょうい)』を掲げた浪士に襲撃され命を落としている。


 鏡次郎には子もおらず、次代の後継者争いが起こる心配もない。


 だがしかしその時は『代々直系男子が後を継ぐ』という江川家の伝統を破るべきではないとの声も大きく、また時の老中・阿部正弘とその懐刀(ふところがたな)であった勘定奉行(かんじょうぶぎょう)松平近直(まつだいらちかなお)が英敏の後ろ盾となることを確約してくれたこともあり、正平もそれならばと納得できたのだ。


 英龍の上司であった阿部と松平は英龍が創立した『韮山塾』に入門しており、私的な時間においては英龍を『先生』と呼ぶほどであったから、英龍の生前の数々の功績(こうせき)への恩賞(おんしょう)として『芝新銭座(しばしんせんざ)』に8,000坪を超える広大な土地を下賜(かし)したり、江川家先祖代々の借金の返済を免除するなど、多くの便宜(べんぎ)(はか)ってくれた。



 何より英敏自身が父に似て非常に聡明であった。歳をあえて4歳上に偽っても問題ないくらいに。



 だが今や開明派の大大名・島津斉彬(しまづなりあきら)や老中・阿部正弘が亡くなり、『安政の大獄』による粛清(しゅくせい)報復(ほうふく)、幕府と朝廷の軋轢(あつれき)、金の海外流出によるインフレ、コレラやはしかの大流行などが相重(あいかさ)なり、人々は疲弊(ひへい)し政情は悪化の一途(いっと)をたどっている。



 この一層危険を増した時期に、英敏が家督を継いだ歳よりさらに幼い籌之助を矢面(やおもて)に立たせるなど、正平には耐え難かった。



 


 

 


 

権謀術数(けんぼうじゅっすう)…人を(あざむ)くための悪巧(わるだく)


怨嗟の声…深いうらみの声

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ