ドッペルゲンガー
「『ドッペルゲンガー』とは、ドイツ語で二重の意味であり、分身のことである。自分と全く同じ姿をした―もう1人の自分―を目撃してしまう怪奇現象、及び、その現れたもう1人の存在の事を指す。リンカーンや芥川龍之介などがドッペルゲンガーを目撃したという記録が残されている。伝説では、ドッペルゲンガーを見た者は、必ず数日のうちに死ぬとされる。」
~巨義辞典より抜粋~
―ドッペルゲンガーか
普段は滅多に開くことのない、埃の被った大きな辞書をタンスの上に戻しながら、男は独りごちた。
「ドッペルゲンガーか」
今度は自分でも聞こえる程の声でつぶやく。
口から自然に出た言葉で確認したのは、説明書きの最後、「ドッペルゲンガーを見た者は、必ず数日のうちに死ぬ」という部分だった。
「ドッペルゲンガー」について全く知らなかったわけではない。出会うと死ぬという話も聞いたことがあった。
しかし、現実に知識として書かれているのを見ると、あたかも自分だけのためにこの辞書が、この項目が書かれているようで気味が悪い。
―大体、ドッペルゲンガーなんて誰も調べないだろうに
調べた人間は、彼のようにドッペルゲンガーに出会った人間くらいなのではないか。
そう考えると、まるで死を宣告するためにこの項目があるようにすら思えてくる。
「ドッペルゲンガーか」
男の周りに奇妙な出来事が起き始めたのは丁度一週間前。
初めは、取引先のおなじみ様からの話だった。
会議が終わった後、別れ際の談笑中のこと。銀座の街中で彼に会ったという。しかし、男には銀座に行った覚えは無かった。その時は、よく似た人がいたものだという話で終わった。
それから今日までの間、次第に男に近い人間が「男」と接触するようになっていった。会社の同僚、自宅近くに住む両親、妻や子供。
そして今日、遂に男の目の前に「男」が現れたのである。
それは、会社からの帰り道。いつもよりも残業が延び、日付が変わって間もない頃だった。
すでに幹線道路も車はまばらになり、信号待ちにも男の車が一台、晧晧とライトを照らすだけであった。
―深夜に信号機なんていらないだろうに
手持ち無沙汰にサイドブレーキのボタンをカチカチと鳴らしながら、くだらない事を考える。気がつけば、対抗車線にも車が止まっていた。
「同じ車種だなあ」とさして珍しくも無い自分の車を呪う。
信号が青に変わって、次第にスピードをあげる車が通り過ぎる瞬間。
見えたものは、対向車から青ざめた顔でこちらを見ている自分だった。
「ドッペルゲンガーか」
―やっぱり確かめよう
そう思うと、車のキーを握り、駐車場へと走った。
見えてきたあの交差点は赤だった。速度を落として止まる。対向車が先に一台止まっていた。
―まさか
車種は同じ。乗っているのはおそらく。ハンドルを握る手が汗ばんでくるのがわかる。
青になった。確認するためにゆっくりスピードを上げる。
―ドッペルゲンガー
通り過ぎる自分の顔を見ながら考える。あいつも俺を追っかけて来たのか。それとも。
―コロシニキタノカ
二つ先の広い交差点で、急いでUターンすると、速度を上げてさっきの交差点へ戻る。
見えてきた交差点。信号は青。横断歩道でしゃがむ人影。その人影が自分であると気付いたとき、踏んでいたのはアクセルだった。後ろへと跳ね飛ばされる人影。踏み続けるアクセル。
どのくらい走っただろうか。
冷静になったはずの自分が、自宅の道がわからない。いや、冷静になればなるほど記憶が曖昧であることに気付く。
一週間前の会議、同僚の名前、両親の家、妻の顔、子供の声。そして。
―俺は、誰だ
勤めていたはずの会社も、歳も、名前も、顔すら思い出せない。
―もしかして俺は。俺こそは
払拭したい想い。それを確かめるために、あの交差点に行ってみる。
倒れているはずの自分はいなかった。車を降りて、自分と血痕を探す。
―ない。ない。そんな馬鹿な
必死に探す彼が、猛スピードで走ってくる車、鬼の形相をした自分に、気付くことはなかった。