第六章 夜の学校
人生経験のまだ乏しい年ごろにおいて、ステレオタイプというのは多くの場合読んだ本や観たテレビ番組などから形成される、というようなことを誰かが言っていた。あおいにとって、「不良少年」というステレオタイプは、十代半ばの頃に読んだ少女漫画によって形成されたものだった。つまり、髪を金色に染めてズボンからシャツがはみ出していて、両耳にピアスを沢山まとい、たばこを吸いながらバイクで疾走して、暇さえあれば敵対するヤンキー集団と抗争を繰り広げる、そういう粗暴な少年だ。
ところが、あおいたちが出会った現実の世界の「不良少年」は、少なくともあおいたちに対しては、全く粗暴ではなかった。それどころか、彼は素直で、控えめで、愛情にあふれていた。
彼に出会ったのは、さゆりさん、みとさんとあおいが講義の終わりに待ち合わせて大学の中庭で寛いでいる時だった。講義室から出ると外は暖かく、中庭の木々が居心地の良い木陰を作っている。木漏れ日の中で、大学生たちがそこかしこで立ち話をしたりベンチに座って本を読んだりしている、気だるげな日常の空間だ。
「モラトリアムって感じやなー」
みとさんが、うーんと伸びをしながら言う。
「急かされることなく、罪悪感とか焦燥感とかなく今いる場所に立ち止まったり、腰かけたり、できるわけやん。それってすごいことじゃない?」
「確かにね」とあおいも頷く。
「考えてみれば、小学校も高学年になると中学受験の勉強があったし、中学は定期試験だのなんだの、高校になると大学受験、、きっと社会人になったら一生懸命仕事覚えて、そのうち結婚とか出産とか仕事辞めるだ辞めないだ…あー、なんか考えるだけでイヤ。ずっとここで座ってたい。歳も取りたくない。」
「まぁまぁ」
さゆりさんが穏やかに口を挟む。
「きっと歳取ったら歳取ったなりの人生の楽しみ方があるよきっと」
「えーそうかなー」とみとさんとあおいは口を尖らせる。さゆりさんが苦笑する。
「あおいは、そんなに愚痴を言う子だったかな?入学当初はもっと淡々と物事を受け入れてたと思うけど」
「えーだって」
あおいは赤面する。
「みんながやいやい言うから色々つられるというか…」
「私たちのせいかいなー」
二人からツッコまれて、あおいは苦し紛れに周囲に目をやった。
「あれ、ほらなんかうちの大学に似合わないお洒落な男の子がいるよ」
中庭のすぐ近くに、彼はバイクを停めて佇んでいた。
まだ少年らしさが残るすらりとした体形に白い肌。くしゃくしゃの金髪が目にかかるのを、鬱陶しそうにかきあげている。手首にはじゃらじゃらとしたアクセサリーがついているのが見えた。ビンテージっぽいジーンズとチェックのシャツが良く似合っている。バイクに寄りかかって立つその姿は、青春映画のワンシーンみたいだ。
まず頭に浮かんだのは、「若いな」ということだった。
年齢がいくつかは分からないが、その少年はどう見ても大学生には見えなかった。かと言って中学生にも見えないから、きっと高校生なのだろう。高校生と大学生なんていくつかしか違わない筈なのに、そこには確固たる隔たりがあるように思える。「大学生」、「社会人」と新しいカテゴリーに足を踏み入れる度に、人はそれまで持っていた「何か」を取り返しのつかないほど失っていくのだろう。生きるとは失い続ける事である、とありきたりの台詞が頭をよぎる。それでも、とあおいは隣に立つ二人の友を見て思う。失ったものよりも新しく得たものの方がずっと大きい場合だってあるのだ。
少年に再度目をやる。周りに対して肩ひじを張るその様子も、なんだかほほえましい。
次に頭に浮かんだのは、「うちの大学って警備の概念がないのかな」ということだった。
別に門を開いて受け入れているわけではないのだろうけど、それでも大学の構内にはヘルメット、マスクにゲバ棒を持った人々がうろうろしていたし、得体のしれないビラ配りの人々、図書館に出没するド派手な花柄ワンピースのおじさんや、段ボール箱で稚拙な仮装をした学生など、つまるところ、勉強するしないに関わらず、なんだかちょっと変な人がその辺に溢れていた。そのうちのどれだけが実際に大学に籍を置いていたのか今となっては知る由もない。そんな中で金色の髪の毛の、バイクに乗った高校生なんて、さして目立ちもしなかった。
それよりなにより、あおいが衝撃を受けたのは、こちらに気付いた少年が嬉しそうに、声を上げたことだった。
「さゆり姉さん!」
「また来ちゃいました」
大きな声で言ってにっこりとする。
さゆりさんが、「あらまぁ」と頬に手を当てる。
漫然と大学時代を過ごすあおいたちの中で、さゆりさんはまず間違いなくいっとうまともな大学生だった。中流というよりはもう少し裕福な、品の良い家庭の長女として生まれた彼女は、もうなんというか、生まれながらの長女だった。年の離れた弟と妹の面倒を見ながら両親の手伝いをし、勉強もスポーツもそつなくこなした。決して声を荒げたりしなかったし、毎日きちんと新聞も読んだ。キリオ君の部屋でみんながだるんだるんにだらけているときでも、さゆりさんはその日の新聞を広げて隅から隅まで丁寧に読み、
「今日はこんなニュースがあるよ」
と教えてくれるのだ。
つまるところ、さゆりさんは「良くないもの」と呼ばれるものからはいつも一番遠いところにいた筈だった。そのさゆりさんに、「不良少年の代名詞」みたいな金髪の少年が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ちょっとタイム」
みとさんが両手の平を少年に向ける。
少年は律義に立ち止まる。
みとさんは、そのままさゆりさんの袖を引いて少し離れたところに連れていく。
「誰?」
と詰問する。
「あら?話してなかったっけ?」
さゆりさんがとぼける。
後ろでは、少年が「待て」と言われた犬のように期待に満ちた目でさゆりさんを見ている。
出会いは、真夜中の大学だった。
Y大学の法学部の学生は、三回生になるとそれぞれゼミに所属することになる。
司法試験に有利な、とか、就職に有利な、とか、教授が面白いから、とか、楽だから、とか色々理由はあるのだろうけれど、数あるゼミの中で人気のあるゼミについては抽選があり、二回生の後半になると学生たちは列に並んで希望のゼミへの申し込みを行うことになる。大学が準備した紙に自分の名前を書き込む、という方式は、非常にも早い者勝ちの様相を呈していたので、必然的に順番争いが生じることになる。
教授たちは本当に学生がお行儀よく、朝早く登校して、一列に並んで名前を記入すると思ったのだろうか。当然のように、前の晩から酒を持ち込み、雀卓を持ち込み、年越しイベントのように徹夜で盛り上がる学生の姿を想像できなかったのだろうか。いや、多分想像は出来たけど、放っておいたんだろう。あおいは、つくづく、学生も学生なら先生も先生だな、と首を振る。やれやれ、だ。
とにもかくにも、抽選の無いゼミを選んだあおいやみとさんとと違い、さゆりさんはその夜学部の友達と、徹夜の列に並んでいたのだった。冷え込む夜で、座って待つのにも大分飽きてきたさゆりさんは、列から離れて少しその辺りを散歩することにした。夜の大学には学生のはしゃぐ声が響き渡り、研究室の窓の灯りはまだぽつぽつと灯っている。藍色の夜空を見上げると、雲が速いスピードで流れていく。星がちらちらと瞬いている。
ゆっくりと散歩しながら、ほうっと冷えた手に息を吹きかける。時計台の前の階段で伸びている人影を見つけたのはその時だった。
その人影は、階段の上に横たわり、だらしなく手足を投げ出していた。白いTシャツに厚手のチェックのシャツを羽織り、ジーンズにはじゃらじゃらとチェーンがついている。片方の手は胸の上に、もう片方の手はだらりと階段の下に伸びている。くしゃくしゃの金髪の間からいくつものピアスが見えた。飲みすぎてアルコール中毒になった学生だったらどうしよう、とさゆりさんは危惧した。
「でも学生にしては幼いようだけれど」と。
慎重に歩を進めると、どうやらその人影はぐぅぐぅといびきをかいて眠っているようだった。
「あらあら」
さゆりさんは思った。
「大分寒いけれど、この子大丈夫なのかしら」
そこで放っておけばこの話はここで終わりだったはずなのだけれど、実際にはその少年はさゆりさんに見つめられていることに気付いたかのようにはっと目を覚ました。
そして言った。
「さっむ!」
起き上がってシャツの前をかき合わせて前かがみになる。ひとしきりブルブルッと震えた後で上げた目がさゆりさんを捉えた。
「寒いっすね」
少年は言った。
ずっと前からの知り合いだったかのように。
そして、愛嬌のある笑顔で、にっこりと笑った。
気を飲まれて突っ立っているさゆりさんに、彼は朗らかに挨拶をした。
「俺、トオルって言います。ピッチピチの17歳です」
でも、なんで真夜中の大学に高校生がいたのか、トオル君の話はいまいち要領を得なかった。
「たまにこの辺バイクで走ってるんすよ。で、今日は眠くなったから寝ちゃったんです」
と言っていたけれど、もしかしたら通りを走っているところを警察に見つけられて大学に逃げ込んだ、とかそういう話だったのかもしれなかった。彼の側には、赤い大きなバイクが停められていた。
「早く帰ったほうがいいよ」
さゆりさんは言った。
「高校生でしょ?親御さんが心配してるよ」
だが、結局少年はしばらく階段から立ち上がろうとはしなかった。
「お姉さん、この大学の人ですか?」
「何勉強してんすか?」
「大学って、どれくらい勉強したら入れるんすか?」
「飯ってうまいんすか?」
と矢継ぎ早に放たれる質問に、さゆりさんは仕方なく、一つ一つ丁寧に答えた。トオル君はさゆりさんの話に目を輝かせて聞き入った。
「まじですか!」
「すげーなー!」
「かっくいいっすねー!」
感嘆詞が散りばめられた相槌を打たれるとくすぐったくて、さゆりさんは
「全然そんなことない、そんなことないよ」
と必要以上に否定形を繰り出さざるを得なかった。
次の日、午後の講義に出席したさゆりさんが建物を出ると、目の前にトオル君が立っていた。
「来ちゃいました」と彼は言った。
法学部、という言葉を頼りに、朝からその辺をうろうろしてさゆりさんを探していたらしい。
言葉を失うさゆりさんに、
「時間あったらお茶しませんか?」
トオル君は悪びれずに言った。
やっていることは完全にストーカーだが、無邪気な笑顔に悪意は感じられなかった。
その日から、彼はたまにふらりと大学に現れては、さゆりさんとお茶を飲みながら、話をするようになった。さゆりさん自身のことや、大学のことなど、彼の質問は尽きなかったが、自分のことはほとんど話そうとしなかった。そして話し終えると、大人しく赤いバイクに乗って帰っていくのだった。
やってきて嬉しそうに話をして帰っていくだけの彼に、さゆりさんも「来ないで」とは言えず、困惑しているうちに時間が過ぎた。と、ここまで聞いて
「懐かれてしまったんだな」
あおいは思った。
高校生が年上のお姉さんに憧れる、ありがちといえなくもない。さゆりさんと話す彼の顔をこっそり見てみると、今にも尻尾を振らんばかりの笑顔だ。
「やれやれ」とあおいとみとさんは首を振った。
やれやれ、だ。
その少年、トオル君は、大学から車で十五分ほどのところにある定時制高校に通っていた。ふらりとやってくる彼にさゆりさんが「学校とかないの?」と尋ねると、
「親離婚したんで、昼間はバイトしたりして夜たまにガッコ行ってます」
と彼はさほど興味もなさげに説明した。
あおいたちは言葉に詰まる。
結局のところ、自分たちは親の金で大学に通わせてもらっているお嬢ちゃんなのだ。のんべんだらりと日々を過ごし、バイトで稼いだお金は自分の好きに使うことができる。十分に勉学に励める時間を与えてもらいながら、自分たちはきちんとそれを活用しているだろうか。
大学出たらどうせ働きたくなくても働くんだし、と日々を自由に過ごしている自分をあおいたちはちょっとだけ恥じた。
でもトオル君はそんなあおいたちの気持ちにはお構いなしに、
「このカレーうまいっすね!」
もぐもぐと学食のカレーを頬張るのだった。
その後も、あおいたちが彼と顔を合わせるのは、彼がふらりと大学に現れる時だけだった。さゆりさんに、大学以外で彼と顔を合わせるのをためらっているところがあったからだ。
それはそうだ。
大学でのんびりと過ごすお嬢ちゃんが、トオル君の人生に関わってこれ以上何をしてあげられただろう。よほどのことがない限り、ここから二人の人生のレールは分岐して距離を広げていく。ドラマのように、二人が恋仲になり、トオル君が奮起してY大に入学し、やがて結婚してハッピーエンド、なんていうことがそうそう起こりえないことがわかる程度には、あおいたちも大人になってしまった。
さゆりさんはきっと、公務員か大手企業に勤める年上の男性と結婚して、子供を二人産んで、ローンを組んで洒落た家を買い、ゆくゆくは孫たちに囲まれて幸せに一生を終える、ときっとさゆりさんの両親も、さゆりさん自身も、あおいたちだって、そう思っていた。
それでいいのだ、と思っていた。さゆりさんは家族の誇りであり、希望だった。それでも、本当はトオル君がさゆりさんのことを好きなのと同じくらい、さゆりさんはトオル君のことが好きだったと思う。トオル君が「さゆり姉さん!」と呼んで駆け寄ってくると、さゆりさんは照れたような、くすぐったいような他の人には決して見せない表情で笑っていた。
ペットボトルを渡すトオル君の指がさゆりさんの指に触れると、さゆりさんは顔を赤らめて、少女のようにはにかんだ。そんなさゆりさんを、トオル君はいつも切ないような期待に満ちたような、複雑な表情で見つめるのだった。
トオル君があおいたちを
「ガッコ見に来ませんか?」
と誘ったのは、だからとても珍しいことだった。
学食で相変わらずカレーをつつきながら(「これが一番好きっす」と彼は常々言っていた。)、彼は朗らかに切り出した。
その時、さゆりさんとあおいは頬杖をついて、隣りに座るハナちゃんのパフェから、みとさんが生クリームを懸命に取り除くのを眺めていた。
ハナちゃんはあの夏以来、午前中に小学校が終わったりするとたまにみとさんについてきては「大学生ごっこ」をしていた。みとさんの予想通り、講義室の後ろの方に小さな女の子がちょこんと座っていようが教授は気にも留めなかった。そしてこれも予想通り、はなちゃんは学食の名前が冠された素朴なパフェを気に入った。しかし、彼女によればそのパフェは
「クリームがちょこっと多すぎる」
とのことで、手が空いている誰かがスプーンでそのクリームをすくって除ける、というのが恒例だった。
トオル君が初めてハナちゃんに会った時の反応は見ものだった。小さな女の子に慣れていないのだろう、トオル君は日本語を喋る小さな宇宙人に出会ったかのように分かりやすくたじろいだ。対するハナちゃんは、みとさんの隣に立って落ち着いた眼差しでトオル君を見上げている。
「えーっと。水戸さんのお子さん?ですか?」
尋ねたトオル君に、みとさんは呆れたように
「いや、そんな訳ないやん」と返したが、それ以上説明するもの面倒だったのか、
「まぁでも似たようなもん?一応今この瞬間は私が保護者、みたいな?」
ふんわり締めくくったので、トオル君はますます煙に巻かれたみたいな顔をした。
向かい合ってそれぞれカレーとパフェを食べるトオル君とハナちゃんは、お互い警戒しながらもお行儀よく縄張りを守り合う子犬と子猫といった風情だった。それでも二、三回顔を合わせる頃には二人とも打ち解けて、
「パフェ、うまいっすか?」
「ウン」
「カレーもうまいっすよ。今度頼んだらどっすか?」
「辛いからイヤ」
といった簡単な会話も成立するようになった。
その日彼がカレーを食べながら言った「ガッコ」とは例の定時制高校のことだった。
ハナちゃんが問いかける。
「ガッコって学校のこと?トオル君?も大学生?」
「いや、俺は高校生」
「ハナも一緒に見に行っていい?」
「いやー、俺のガッコは遅い時間から始まるからな。小学生にはちょっと無理かなー」
とトオル君は何故か少し得意そうだ。
ハナちゃんは少し不満そうだったけれど、
「ほらハナちゃん、アイスが溶けちゃうよ」
あおいが促すと大人しく意識をパフェに戻した。
正直に言えば、あおいたちはひるんでいた。自分たちのような大学生が、連れ立って夜間の高校を見に行く。それはなんだかとても不謹慎なことのような気がした。
もちろん、みんなトオル君のことが好きだった。少しすねたような目つきが笑うと細くなって一気に愛嬌のある表情になる。白い肌にきゃしゃな体つきはまだ青年というよりは少年に近くて、くしゃくしゃの金髪に手を突っ込んでますますくしゃくしゃとなでてあげたい気持ちになる。
さゆりさんの話に耳を傾けて、矢継ぎ早に質問をする彼からは、
「好きな人のことを知りたい」
気持ちが溢れ出ていた。
でも自分たちはどこかで彼を「別の世界の人」だと思っていなかったか。
例えば昼と夜のように、海と大地のように、隣り合っては居ても交わらない、近くて遠い人だと思っていなかったか。こちら側から眺めるあちら側、とあちら側から眺めるこちら側とは全く別のものだと思っていたんじゃないか。
逡巡するあおいたちに、それでもトオル君は
「ね、来てくださいよ。みなさんのこと友達に紹介したいんすよ。ガッコにいる俺ってのも、ちょっと見てみたくないっすか?」
と畳みかけるのだった。
そういえば、彼は決して「さゆりさんに来てほしい」とは言わなかった。いつも、「みなさんに来てほしい」と言った。
さゆりさんのことが好きだから、さゆりさんのお仲間も好きですよ、とその目は語っていた。
ほんとうに、優しい子だったのだ。
結局さゆりさんとみとさんとあおいはその時一回だけ、トオル君に連れられて「ガッコ」を見に行った。
夜の灯りに照らされた古びた校舎の廊下に、「タバコのポイ捨て禁止!」という文字とたばこのイラストが描かれたポスターが貼ってあったのがやけに記憶に残った。トオル君は教室を覗き込んで、
「ほらお前ら、これ俺のお友達。挨拶しとけよー」
と明るく紹介した後、みんなを職員室に連れて行って先生にも会わせてくれた。
ジャージを着た男性の先生は、突然現れたあおいたちを訝しむわけでもなく、
「いつもトオルがお世話になってます。面倒かけたら教えてください、しばいとくんで」
と頼もしく笑ってトオル君の髪をくしゃくしゃっとなでた。
「やめろや!くしゃくしゃすんな!」
トオル君が照れる。
トオル君は、ちゃんと大切にされているようだった。
彼は、オレ、ちゃんと大切にされてるんですよ、とさゆりさんに見せたかったのかもしれない。
自分たちに見せるのとはまた違う表情のトオル君を、さゆりさんは何か貴重な宝物でも見るかのように見つめていた。
☞
学生の時間が過ぎるのは早い。
講義に出ようが出まいが、バイトに精を出そうが出すまいが、容赦なく時間は過ぎて季節は移ろっていく。
いつかはここを出て行かなくてはいけないと頭では分かっていても、その実感は沸かないまま、あの時あの京都という町はまるで透明なスノードームのようにあおいたちを包み込み、あおいたちはガラスの内側から、外の世界が移ろっていくのを他人事のように眺めていた。
さゆりさんとトオル君はただ淡々とお互いを想い、踏み込みすぎないように、でも忘れられないように、つかず離れずの距離を保ち続け、そしていつもほんのり、諦めの空気を漂わせていた。あおいとみとさんは、それをいつも歯がゆいような、でもやっぱり諦めたような、情けない気持ちで見守っていた。
すっかりぬるま湯に浸かっていた彼女達は、だから三回生も半ばになる頃、例によって大学に遊びに来たトオル君が言った言葉に衝撃を受けた。
「俺、彼女出来るかもしれないっす。なんかずっと俺のこと好きって言っててくれたヤツがいて、なんかもうそろそろいいかなって」
トオル君は一息に言った後、試すようにちらりとさゆりさんを見た。
彼にしてみれば一世一代の賭けに出たのかもしれない。そこでさゆりさんが不機嫌になるとか、もしかしたら怒り出すとか、そうしてくれたらもしかして、と思っていたかもしれない。
でも、さゆりさんは落ち着いていた。落ち着きすぎるほどに落ち着いて、何でもない風にコーヒーを一口飲んで、いつもの笑顔でにっこりして言った。
「それは素敵ね。トオル君に誰かいい人が見つかればいいってずっと思ってたの」
トオル君は一瞬表情を無くした。
表情を無くしてうつむいて、そしてうつむいたまま苦く笑った。
それは、自分自身を嘲笑うようなとても哀しい笑いで、見ていたあおいとみとさんは胸が詰まってしまった。でも、あおいもみとさんも、「お互い好きなんだから付き合っちゃいなよ」と二人の背中を押すようなことはしなかった。
漫画の主人公ではないあおいたちは順当に年をとって、好きだけではどうにもならないこともあることにもう十分気付いていたのだ。
その日から段々とトオル君は姿を見せなくなった。さゆりさんは表面上はいつもと変わらない風だった。でも、ほんの少し痩せたように見える彼女の口からは、頑ななまでにトオル君の名前は出なかった。
環境の違いなど努力で乗り越えられる、それもまた真実だろうとは思うけど、それでもまだ自分の力で生活することもできないあおい達にとってそれは越えられない壁だった。もしトオル君が同じ大学の学生だったらどうだったろうか。みとさんとあおいはきっと「付き合っちゃいなよ」とはやし立てたに違いない。でもそうであったとしたらきっとさゆりさんは彼を好きにはならなかった気がする。
さゆりさんは、決して恵まれているとは言えない環境の中でそれでも自分を卑下しないトオル君が好きだったのだと思う。自分を卑下しない代わりに、相手の環境を羨むこともなく、そういった背景をすべてひっくるめてさゆりさんのことを純粋に好きになってくれたトオル君の健やかさが、好きだったのだと思う。
その年のクリスマス、他の皆は一足先に帰省し、あおいとみとさんは、みとさんの部屋でカーペットに座り、ちゃぶ台に並べたミカンと大福を頬張っていた。
せめてケーキにすればよかったかなぁ、夜ご飯も焼き魚だったし、和風だなぁ、とちゃぶ台に頬杖をついてぼやくあおいに
「ええんちゃう?クリスマスに焼き魚と和菓子。むしろおしゃれ?それに、あの東大路通り沿いのスーパーの魚屋さん、お魚が新鮮でいつも美味しいよね」
トポトポ、とみとさんがお茶を入れてくれる。
「まぁねー。いっつもお魚おまけしてくれるの。お魚はあそこで買うことに決めてるんだ。って、そういうことではなくて。なんというか、彼でもいたら今頃四条のおしゃれなイタリアンとか行ってたかなー」
「まぁなぁ。でもさゆりとトオル君見てて、なんか恋愛はまだいいかなって思ってしまった。恋愛って好きってだけではどうにもならんこともあるんよなぁ。きれいごとじゃなくて、環境の違いとか結構大きいのよね。ままならんなぁ。」
「ままならんなぁ」というその口調が醸し出す年齢に不釣り合いな落ち着きに、あおいは思わず微笑んでしまう。
「お互い好きになれて、家族にも認められて、打算もひっくるめて全部バランス取れて幸せにお付き合いできる人、居ないかなぁ」
「それこそ、奇跡みたいなもんやなぁ」
「それか、私たちが社会人になって、頑張って働いて、打算も世間体も乗り越えられるくらいの力を身につける、とか」
「それは、なんかすごくいい」
暖かな部屋の中で、あおいたちは、ミカンをむく手を束の間停めて、自分たちの将来に思いを馳せる。
五年後、十年後、自分の好きという気持ちを貫くことができる強い大人になっているだろうか。「世間が何と言おうと、私がこの人を守って幸せにします!」と胸を張って、それを実行できるような格好いい大人になっているかな。
そうして、この居心地の良い空間を思い出して、懐かしんだりするんだろうか。
でも今は、とあおいは思う。今はもうちょっとだけまだこのままで、大人でもない子供でもない私たちのままで居させてください、と、誰にともなく願う。
窓の外では雪がちらつき始めていた。
「スノードームの雪みたい」
みとさんが優しく笑った。