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第五章 ハナちゃんの話

みとさんが、子供の手を引いて連れてきたのは夏休みも半分過ぎた暑い日のことだった。


「あんまり子供とか動物とか好きじゃないんよな」

と公言していたみとさんが、小学一年生のやせっぽっちの女の子の手を引いてキリオ君の部屋に現れた時、あおいたちはキリオ君の部屋で溶けていた。


大学はもうとっくに夏休みに入っていて、健全な大学生ならサークルやゼミの合宿やアルバイトに明け暮れていてもよさそうなものだが、あおいたちの誰にも、そんな予定は入っていなかった。


「あっちぃな、冷やし中華食おうぜ」とケンザキが言うのを無視して、みとさんが、

「私達だらけすぎちゃう?なんか世間の役に立つことすべきちゃうかな?」

問題提起をしたこともあったけれど、とっつぁんが

「人は皆、有用の用を知るも、無用の用を知らず。って荘子も言ってるしな」

と混ぜっ返すと、

「それは楽観的な解釈にすぎるよな」

「でも一理ある。」

「こうやってだらけてる時間が、実は大事だったりするかもよ」

「いや、やっぱり大学生だし勉強すべきでは…」

「あっちぃな、素麺食いてー」

結局振出しに戻るのだった。


そんな訳で、みとさんが女の子を連れて来た日もキリオ君の部屋には気だるさと安心感がないまぜになった夏の日の空気が満ちていた。みとさんたちが入ってきたドアから、湿気でむぅっとした空気が流れ込む。玄関に立つみとさんを、ケンザキが胡散臭そうな目で見上げて、問いかける。


「なんやお前、いつの間に子持ちになったんや」


「いや、私の子ではないんやけどな」

みとさんが言わずもがなの返答を返す。


「どちらさん?」

尋ねたのはキリオ君。


女の子は目の前で行われているやり取りに全く興味を示さず、みとさんの手を握ったままぼんやりと立っている。


女の子の名前はハナちゃんというのだと、みとさんが紹介した。


みとさんのが後日身振り手振りを交えて熱く語ったところによると、こういうことだった。


みとさんの両親は愛情深くはあったけれども、歯磨きに関しては妙に楽観的なところがあって、だからということもないかもしれないが、幼い頃のみとさんはずば抜けて虫歯の多い子供だった。このままでは老人になる前に全ての歯が抜けてなくなるかもしれないと思うと、伝記で読んだ小林一茶の句が心に染みた。


「歯が抜けて あなた頼むも あもあみだ」


五十歳にもならないうちに歯が全て抜け落ちてしまうというのはどういう心境だろうか、と子供だったみとさんはつらつらと考えた。そもそも歯があってこそものを咀嚼して飲み込み、栄養を得ることが出来るのだし、歯があってこそ明瞭な発音でコミュニケーションが取れるのだ。お喋りするも食べるもの大好きなみとさんにとって、歯がない人生なんて考えられない。そりゃぁ、阿弥陀様に頼りたくなるに違いない。


でももちろん、一茶と違って現代を生きるみとさんがまず頼るべきは阿弥陀様ではなくその道の専門家、すなわち歯医者さんだった。


自分の身は自分で守っていかねばならぬ、と歯科医のアドバイスを厳守し、毎日の歯磨きを徹底し、定期的な歯科健診を必ず欠かさず受けるようにした結果、成長してからはとんと虫歯に縁のなくなった彼女が大学に進学してまず最初にしたことの一つが、当然のようにかかりつけの歯科医を探すことだった。みとさんが狙いを定めた歯科医院は、あおいたちの住むマンションから百万遍に向かって十分ほど歩いたところにあるこぎれいな病院で、四十代の女性の先生と、三人の歯科衛生士が働いていた。

白と水色で統一されたシンプルな院内は清潔に保たれていて、待合室にはいつも数人の患者が腰かけて大人しく名前を呼ばれるのを待っていた。待合室の隅には週刊誌やファッション雑誌、子供向けの絵本などが小ぶりな本棚に並んでいる。


その病院の先生は眼鏡をかけた背の低い痩せぎすの女性で、長い髪をいつも後ろでひとくくりにしていた。腕は非常に良かったのだが、少し変わっていて、混んでいない時にはみとさんの歯をつぶさにチェックしながら、自分の人生について、今日来た他の患者さんについて、よく響く高い声でとにかく機関銃のように喋りまくるのだ。その話題は自分が歯科医として初めて抜いた親知らずの話から政治の話、はては別居中の配偶者のことまで、とにかくとどまるところを知らなかった。


みとさんは大体において「ふーん」と話を聞き流していた。口をがっつりと開けられている状態なので、当然気の利いた相槌など打てる状態ではなかったのだ。けれど、その中で興味を引いたのが、先生の一人娘の話だった。


「何考えてるかまーったく分かんないんだよね」

と先生は言ったそうだ。


「産んですぐ旦那と別居しちゃったからさ、一人で今まで育ててきたんだけど、子供って何考えてるか分かんないし、いまいちかわいいって思えないんだよね。まぁ私ほら働いてるから、夜ご飯食べるとき以外あんま関わらないってのもあるんだけどさ。

親子って言っても相性とかもあるのかなぁ。いっつも黙って本読んでるだけだし、こっちもイライラしちゃう。もう最近は思いきって旦那の方に任せちゃおうかと思ってさ。あっちはじいちゃんばあちゃんもまだ元気だし、私といるよりいいかなって。しかもあの子、歯医者の娘のくせに虫歯多いの、いやになっちゃう。」


先生は一息に言い募った。


みとさんは、戦慄した。


「子供って何考えてるか分かんないし、いまいちかわいいって思えない」

とは、彼女自身が常日頃から思っていたことだったからだ。


みとさんにとって、言葉を使ってコミュニケーションをとることは世界を理解するための要と言ってよかった。相手の話を聞き、疑問は口に出し、返ってくる返事でさらに考察を重ねて、結論を口に出して確かめる。そこまでいってようやく、少しでも相手のことが理解できた気持ちになるのだ。


そこへ行くと子供というものは話しかけても突拍子もない答えが返ってくるし、そもそもこちらの言うことを聞いているかどうかも怪しい。みとさんにとってはどうにも理解しがたい生き物なのだった。


でも独身である自分が無責任に発する言葉と違って、母親が一人娘に対してさばさばと発する「かわいいと思えない」という言葉にはなんだか不穏なものが感じられた。例えばどこぞの派手目の女子大生が、「今の彼、気が合わないから別れようかなー」と晴れやかに友達に報告するような、それはそんなあっさりとした宣言だった。


「そういえば」と口の中を洗浄されながらみとさんは考える。


その病院の待合室に、いつも隅の方で本を読んでいる女の子がいなかっただろうか。隅っこの方で、みとさんが診察に行くときも帰るときも、同じ姿勢でぼんやりと絵本を見つめている。その小さな体からは、(好きで読んでいるわけじゃないんですけど、他にやることがないんです、どうぞお構いなく)というメッセージが強く発されていた。みとさんはその子に話しかけてみようと思ったことはなかったけれど、頻繁に歯医者に通っていた自分の子供の頃を思い出して、がんばれー、とひそかに心の中でエールを送ったりしていた。


そうか、あれは患者では無かった訳だ。


「それでさ、お願いがあるんだけど」

口を大きく開けたまま考え込むみとさんにお構いなしに先生は続けた。


「もうすぐ夏休みじゃない?水戸さん暇だったら娘預かってくんない?朝から晩までずっと病院で待たせるって訳にもいかなくてさ。習い事は嫌だって言うし。かといって家に一人もなんかアレでしょ。テレビゲームばっかさせてる訳にもいかないし。」

「ベビーシッター代、一日七千円でどうかな?昼食代とか経費は別。大人しい子だし、まぁ適当に本でも読ませておいてくれたらいいから。水戸さんれっきとしたY大生だし、ついでにちょこっと勉強なんかも教えてくれたらもうちょっとお礼弾んじゃう!」


みとさんは目をむいた。

「あががが」

言葉にならない言葉が漏れる。


「ほら、あの子本当にぼーっとしてるからさ、たまには他人としっかり関わって世界を広げるものいいかなって。学校に友達もいないみたいだし、このままだとほんとに毎日待合室で本読んで終わっちゃうのよ。私は仕事あるしさ」


「何考えてんですか!」


とあやうく大声が出そうになるのをみとさんはかろうじて飲み込んだ。

親戚ならともかく、ただの患者の大学生にそんなにぽんぽん子供預けちゃっていいんですか?みとさんの咎めるような目つきを、先生が気に留める様子はない。


「うーん、それか、水戸さんにお願いできないとしたら旦那のじいちゃんばあちゃんかなぁ」

先生は続ける。


「でもいきなりだときっと迷惑がられちゃうんだろうなぁ。冷たく当たられたりしないといいなぁ」

ちらり、とみとさんの顔色を窺う。


みとさんは頭をフル回転させる。夏休み中、デートの約束は、ない。デートする相手もいない。夏休み中にそんな相手が出来る予定もない。バイトはあるが、常連客がメインのゆったりした喫茶店だから、マスターにお願いして子供を連れて行ってカウンターに座らせて宿題をさせるくらいできるかもしれない。お盆に実家に帰省するまで特段これというイベントもない。どうしても相手できない時にはキリオ君の部屋に誰かは居るだろう。頼りがいのあるメンツとは言い難いが、少なくとも子供に危害を加えるようなヤツはいない。一日七千円は正直助かる。なにより、七歳の子供が夏休み毎日縮こまって一人で本を読んだりゲームをして過ごすのはいかがなものだろうか。元来正義感が強く、困っている人を放っておけない性質なのだ。そこを見抜かれて付け込まれていることに、本人は気づいていない。


みとさんを見つめていた先生が、にんまりと笑って言った。


「じゃあ、よろしくね」


***


次の日みとさんは、ハナちゃんの手を引いて「めとろのーむ」に向かった。


白と茶色を基調とした店内には品のいいジャズが流れ、十席ほどあるテーブルはその三分の一ほどが埋まっていた。ハナちゃんはカウンターの端っこに座り、椅子からたらした足をぶらぶらさせながら夏休みの宿題のドリルとにらめっこしていた。たまにカウンターの中のマスターが声をかけると、「ウン」とも「ウウン」ともつかない曖昧な首振りで答える。マスターはそんなハナちゃんを嬉しそうに眺め、そして絶妙な距離感で放っておいた。


喫茶店の背景の一部と化したハナちゃんは、それでもたまに顔をあげては、壁に飾られた抽象画や変わった形の照明などをしげしげと眺めるのだった。


「きっと頭の中では色々考えているのだろうな」

みとさんは思った。


「でもそれを口に出したくはないんやわ」


バイトが終わって店を出ようとしたみとさんにこっそりマスターが声をかける。


「忍耐だよ、みとさん。親になるために必要な能力が一つだけあるとすれば忍耐だってクラッシャーも言ってるよ」


「私は別に親になりたいわけでは」

と、みとさんは言いかけて、でも黙った。


少なくともこの十日間は、自分がこの子の保護者であり、この子の安全に気を配り、一緒に食事をし、出来れば今日は楽しかったと思って帰ってもらいたい。みとさんはハナちゃんの手を握っててくてくと部屋に帰った。


京都の夏は暑くて、歩いているだけで汗でシャツがまとわりついてくる。ハナちゃんのつるりとしたおでこにも、汗で髪の毛が貼り付いていた。タオルで拭いてあげながら、

「明日は帽子と水筒を持ってこないとあかんなぁ。」

とみとさんは思った。

「世の中のお母さんたちの荷物が多いわけやなぁ」と。


次の日、喫茶店で本を読み、まかないのトマトスパゲッティとバナナジュースで昼食を済ませ、マスターの手伝いでお皿を拭いたハナちゃんは、バイトが終わってみとさんと一緒にキリオ君の部屋にやってきた。みとさんとハナちゃんが部屋に入ると、机の上には近所のレンタルビデオ店のロゴが入った袋が置いてある。


「これは?」

みとさんが目で問いかけると、キリオ君が嬉しそうに言った。


「そこのビデオ屋で借りてきたんやけどな、小さい女の子が好きそうなアニメ借りたいって言ったらこれがオススメですって」


確かに、袋の中にはカラフルな衣装に身を包んだ女の子達がポーズを決めているアニメのビデオテープが数本入っていた。


「キリオ、悪いことは言わんから返却の時にはさゆりかあおい連れてけ」

ケンザキが忠告する。

「お前その(ツラ)でこんなアニメ借りとったらなんか変なヤツや思われんで」


ハナちゃんはアニメを観ながらキリオ君が用意してくれた麦茶とお菓子でおやつを済ませ、さゆりさんが買ってきた折り紙で一緒にツルやカブトを折って遊んだ。さゆりさんの白くて細い指は折り紙にどんどん生気を吹き込み、ハナちゃんは隣に座って一心にそれを見つめた。それでもやはり、ハナちゃんはしゃべらなかった。さゆりさんの手元を覗き込むおかっぱの髪がさらさらと揺れていた。あおいは折り紙を折りながら、そっとハナちゃんを窺いみる。


虐待されているわけじゃない。本だって服だって、必要なものはちゃんと買ってもらえている。でも、それでも拭いきれない孤独感というものがあるのをあおいは知っている。小学生ではきっとまだその正体に気付かない。自分が満たされていないことにすら、気づいていないかもしれない。もしかしたら遠い未来に、大切な人たちと出会って初めて今まで自分が望んでいたものに気付くのかもしれない。


ハナちゃんに早くそういう未来が訪れることをあおいは祈った。おでこに貼り付く前髪をそっとかき上げてあげる。


「がんばれ」

そっと呟く。


「何か言った?」

さゆりさんが顔を上げたけれど、あおいは黙って首を振った。


四日目、みとさんのバイトは休みだった。昼過ぎに一緒にお昼を食べようとハナちゃんを連れてやってきたみとさんが人数分の冷やし中華を作り、皆でつるつると食べた。食べ終わった食器を片付けて、あおいはカバンから「子供とお出掛け」と銘打たれたガイドブックを取り出す。


「ハナちゃん、どこか行きたいところある?」

問いかけるものの、ハナちゃんは戸惑ったように首を傾げる。ウンともウウンともつかない風にその首が振られる。みんなが顔を見合わせたその時、それまでベッドに仰向けに寝転んでゴロゴロと漫画雑誌を読んでいたケンザキがふいと上体を起こした。


「おい、マリカー勝負しようぜ。一回でもお前が勝ったら何でも買ったらぁ。」

ケンザキは言ったのだった。ハナちゃんの目が、キラリ、と鋭く光った気がした。


「そういうことか」

あおいたちは思った。


子供相手にゲームで程よく負けて花を持たせ、ついでにおもちゃでも買い与えて仲良くなろうという魂胆か、と。ケンザキにしては、真っ当じゃないか、と。


「ケンザキ君、やるやんか」

みとさんが親しみを込めてケンザキを肘でつつく。


「おう、任せとけよ」

とでもいうように、ケンザキが片方の眉を上げて不敵な笑みを見せた。


ここぞという時には頼りになるヤツなのだ。たまに、ケンザキいない方が平和、なんて思って悪かった、とあおいは心の中で謝る。キリオ君がいそいそとテレビ台の下の扉を開けてコントローラーを取り出すと、ケンザキはごそごそと起きだしてテレビの前に胡坐をかいた。


後頭部に盛大な寝癖がついている。その隣にハナちゃんがちょこんと正座する。他のみんなは自然と二人を取り囲んで座ることになる。


「ハナちゃん、このゲームやったことあるの?」

とさゆりさんが気遣うと、ハナちゃんはこくりと頷いた。慣れた動作で、ピンク色のドレスを着たお姫様のキャラクターを選ぶ。


この後の明るい展開を想像して勇気づけられたのか、

「私前から不思議なんやけどな」

みとさんが明るい声で切り出す。


「このお姫様はこんなにかわいいのになんで主人公はおっさんなん?」

「お前おっさんなめんなよ」

とっつぁんが憤慨する。でもその声も、明るく弾んでいる。


「外見老けてても中身は少年っていうギャップがいいかもしれんやろ」

「いや、この主人公実は二十代半ばで意外と若いんよ」

とさゆりさん。何故そんなことを知っているのだ、とキリオ君が不思議そうにさゆりさんを見つめる。


「ほら、皆始まるよ!」

あおいは柄にもなくはしゃいだ声を出す。


赤い帽子にヒゲのおっさんが、画面の中で「フッフゥー」と歓声を上げる。みんな、ワクワクしながら画面を見つめた。


始めてみれば、ハナちゃんはなかなかのコントローラー捌きを見せた。画面のキャラクターの動きにあわせておかっぱ頭が右へ左へと揺れる。真剣なその顔につられて、つい応援にも熱が入る。


「ハナちゃん、がんばれ!」

「あーっ、あぶない!なんか来るよ!」

「あっぶな。ぎりセーフ!」


煌びやかなコースの上をキャラクターが乗ったカートがすごいスピードで走り抜ける。妨害したり妨害されたり、追い付いたり追い越したり、目まぐるしくて見ているこちらがくらくらとしてしまう。でも、目が離せない。必死に応援する周りの騒音を無視して二人はゲームに没頭した。


何だ、結構楽しいじゃないか、とあおいは思った。子供がゲームばかりやることには賛成できないけれど、ゲームも使い方によっては役に立つこともある。でも、そんな明るい気分も長くは続かなかった。


結果から言うと、その勝負はケンザキの勝利に終わった。意外だろうか。いいや、全然意外じゃない。そもそも現状打破に必死になるあまり、ケンザキに救いを求めた私たちが愚かだったのだ、とあおいは思った。冷静な判断を欠いていたとしか言いようがない。


レースが終わる毎に画面から聞こえる華々しい音楽に交じってケンザキが「っしゃ」とか、「おおー」とか子供じみた歓声を上げる。


涼しいはずの部屋の中が、やけに蒸し暑く感じて、首筋を汗がたらり、と伝う。ケンザキ以外のみんながだんだんと表情を無くしていく中、(今この瞬間、隕石が落ちてきてこの部屋が吹っ飛んでくれないかな)とあおいは願う。


さゆりさんが、ハナちゃんから見えない角度でケンザキの腕をつねるが、ケンザキは気にも留めない。なかなかの健闘っぷりをみせたハナちゃんがそれでも力及ばず三回負けたところで、キリオ君が「見てられん」とでもいう風に立ち上がり、部屋から退散した。台所で静かに洗い物を始める。


とっつぁんが冷や汗をかきながら

「なぁ、ハナちゃん、アイス買いに行かへん?そこのコンビニに、ほらあのソーダのやつあったやん。あれ食べたいなぁ」

と誘うも、ハナちゃんは頑として首を縦に振らなかった。

「アホ、勝負の邪魔じゃ」

ケンザキがとっつぁんを押しのける。


アホはお前じゃ!とみんなが心の中で叫んだ。


きっと今日帰宅したハナちゃんは泣きべそをかいて、自分のことを大人気なくゲームで負かしたアホな大学生のことを歯医者のお母さんに話し、「明日はもう行きたくない」と小さな声で訴えるに違いない。


お母さんはみとさんに娘を任せた判断を悔やみ、明日からはもう結構です、と言葉柔らかに、でも断固としてベビーシッタークビを言い渡すに違いない。

「Y大生ってやっぱり社会性がないのね。子供相手に大人気ない」くらいの嫌味は言われるかもしれない。結局自分たちは、ハナちゃんからウンとウウン以外の言葉を引き出せないまま、アホであるばかりか役立たずのベビーシッターとしての烙印を押されるのだ。そしてハナちゃんは残りの休みを、また歯医者の待合室で本を読んで過ごすことになる。隣りで、いつも冷静なさゆりさんの目が泳いでいる。


五回目、ぎりぎりのところで負かされたハナちゃんを見て、ケンザキ以外の全員が身をすくめた。泣く!とみんなが思った。


でも、予想に反して、ハナちゃんは涙をこぼさなかった。代わりにケンザキをにらみつけて、はっきりと、大きな声で言った。


「ズルい!!!」


ケンザキがニヤリ、と笑う。


「ああ?勝負にズルいもクソもあるかよ。強なって出直して来いよ」

コントローラーをひょいっと投げてよこし、

「疲れたしもっかい寝るわ」

とベッドに横になってしまう。


そのケンザキを、ハナちゃんがゆっさゆっさと揺さぶって、

「もう一回!もう一回やろ!」

と声を上げる。


「ねぇってば!ずるいよ!」

腕をつかんで引っ張る。


ケンザキが面倒くさそうに「また明日な」と答えて寝返りを打ち、こちらに背を向ける。ハナちゃんがこちらを向かせようと必死に引っ張るので、ケンザキの頭がガクンガクンと揺れる。その大げさな動きがおかしいのか、ハナちゃんは今や笑いながらケンザキの上に飛び乗らんばかりのはしゃぎようだ。


「なんなんだ」


あおいたちは余りにも予想と異なる展開に唖然とする。


自分たちだって、ハナちゃんを喜ばせようとこの数日間心を砕いたのだ。その辺に散らばったカラフルな折り紙や、子供向けアニメのビデオテープ、「こどもとお出かけ。絶対楽しいオススメスポット」と銘打たれたガイドブックなどをみんなは力なく見下ろした。


あおいたちの良識ある大人としての努力は、ケンザキの大人気なさに呆気なく負けたのだ。


必要なのは忍耐だったんじゃないのかよ。クラッシャーふざけんなよ!

信頼にこたえてくれるんじゃなかったのかよ、ラクサナ頼むよ!


とっつぁんがケンザキの寝顔を見下ろして、「こいつ山に捨ててきたろか」と忌々しげに呟く。あおいは、思いっきり寝ているケンザキの尻を蹴飛ばした。


みんなが敗北感に肩を落とす中、ハナちゃんの笑い声と、ケンザキの気持ちよさそうな寝息が部屋に響く。


消し損ねたゲームの画面から、赤い帽子にヒゲのおっさんが「フッフゥー」と馬鹿にしたように声をあげた。


***


マリカーの件がきっかけになったと思いたくはないが、その頃からハナちゃんは少しずつ気持ちを言葉に表すようになった。右往左往するあおいたちを気の毒に思ってくれたのかもしれないし、あるいは、こんなアホな大学生達にこれ以上気を使っても仕方ないと思ったのかもしれない。


「アイス食べたい」とか「図書館行きたい」とかちょっとしたことだったけれども、あおいたちからすればそれは大きな進歩だった。ハナちゃんは、相変わらずみとさんと一緒に「めとろのーむ」とみとさんの部屋とキリオ君の部屋を行ったり来たりして過ごし、キリオ君の部屋に来る時にはみとさんに倣って「ただいまー」と挨拶をした。


ある日あおいが大学から帰ると、キリオ君とハナちゃんがお菓子を作っていた。狭い台所スペースで材料を混ぜるキリオ君の手際のよい手元を、ハナちゃんが真剣に覗き込んでいる。砂糖とバターを混ぜた甘い匂いがたちこめる。


「何作ってるの?」

と尋ねると、

「カップケーキ!」

二人は声を合わせて答える。


丁寧にカップに生地を流し込むハナちゃんのまるいほっぺたがバラ色に上気していた。お母さんにケーキを持って帰りたいというハナちゃんのために、キリオ君は透明のラッピング用セロファンと、色とりどりのリボンも用意していた。

全くいつも思うのだけど、キリオ君のやることには抜かりがない。


「さすが、料理の似合う理系男子」


みとさんが茶化す。ハナちゃんは小さな手で大事そうにカップケーキをラッピングして、お皿の上に並べた。うまく蝶々結びが出来ないところを、キリオ君がそっと手伝ってあげる。ピンクや水色のリボンがかけられたケーキを見て、さゆりさんが「お店屋さんみたいやね」とほほ笑むと、ハナちゃんは嬉しそうにお皿を持ち、その場にいたあおいたちにも一つずつ配ってくれたのだった。そのケーキは甘過ぎず、素朴ないい味がした。


「ああ、あかんわ。俺はよ結婚したくなってきた。結婚して娘ほしいわ。」

とっつぁんが大げさに目頭を押さえる。


隣りでカップケーキを頬張るケンザキが馬鹿にしたように鼻で嗤った。

「パパクサいとかキショい(気持ち悪い)とか言われんのがオチやな」


「俺の娘やぞ、そんなこと言うかいな。お父さん大好きって言わせたるわ」


きっしょ(気持ち悪いの意)


「はいはい、ハナちゃんはこんなしょうもない大学生になったらあかんでー」

みとさんが二人とハナちゃんの間に割って入る。


最後の日には、みんなでガイドブックに載っていた動物園に行った。昼間の動物園は夏休みにも関わらず結構空いていて、あおいたちは地図を見ながらめぼしい動物のいる場所を歩いて回った。アスファルトから熱のこもった空気が立ち上る。動物たちも、うだるような暑さの中、寝転がってたるんとしている。ハナちゃんはライオンが気に入ったようで、ごろごろと転がる大きな茶色い生き物を、しげしげと見つめて

「本物のライオンのたてがみは、結構、ぼさぼさ」

と意見を口にした。


「あのライオンたちは、みんな家族なの?」


「どうかなぁ」

ハナちゃんと手をつないでいたみとさんがのんびりと答える。


「一緒に暮らしてるから、まぁ家族みたいなもんなんかなぁ」


「一緒に暮らしてるから家族なの?じゃぁみとさんたちも、家族なの?」


みとさんが答えに詰まる。しばらく考えてから、

「私たちは、一緒に暮らしてるわけじゃ、ないんやけどな」

みとさんは注意深く答える。


「でも、そうなぁ。沢山一緒にいて、沢山お喋りして、お互い大事に思っていたらまぁ家族みたいなもんかなぁ。」


その答えは、隣りで会話を聞いていたあおいの心に水のようにすーっと染み渡った。家族って言葉は不思議だな、とあおいは思う。


血が繋がっていて同じ家に住んでいてもなかなか分かり合えない相手もいるし、出会って一年でももう自分の人生にとってなくてはならない存在になる人たちもいる。そういう時には、友達、でも仲間、でもなく、家族という言葉がしっくりくるような気がする。この先何があっても、この縁が完全に途切れてしまうことはないのだろうという根拠のない自信も多分、ある。


「きっと、ハナちゃんにもいつかお母さん以外にもそういう人ができるんちゃうかな」


みとさんは、まだ何か言うべきことがあるかな、と考えているようだったが、ハナちゃんはもうそのことには興味を失ったようで、

「ふぅん」

と言っただけだった。


首をかしげてライオンに見入るハナちゃんの隣にとっつぁんが立って日陰を作る。とっつぁんの作った日陰に守られて、ハナちゃんは足を右、左、と踏みかえながら飽きもせずにライオンを見つめていた。


チェックのワンピースの裾がひらひらと揺れる。

シャーシャーとうるさいほどのセミの声が降り注ぐ。


後ろでは頼まれもしないのについてきたケンザキが、

「あっちぃな。動物園てなにがおもろいねん。座ってなんか冷たいもん飲もうぜ。」

と子供のように駄々をこねている。


ライオンの檻の前に立つあおいたちの間を、一瞬だけ、涼しい風がさらりと吹き抜けた。


こうして何とか無事にお盆を迎え、あおいたちはお役御免となった。

みんなで歯科医院に挨拶に行き、歯科医の先生からバイト代の封筒を受け取って帰ろうとするみとさんのスカートの裾をハナちゃんが引っ張って止めた。みとさんが腰をかがめると、ハナちゃんはみとさんの耳元に口を寄せて囁いた。


「ハナ、次は、みとさんたちの、学校に、行ってみたい」

みとさんとハナちゃんの視線が合う。


(うちの大学に、子供が受けて少しでも面白いような講義はあったかな。

本を読むのが好きだからと言って国文学って訳にもいかないだろう。

小さな子供が講義に紛れていても大丈夫だろうか。

きっと大丈夫だろう、教授は、講義室にウルトラマンが座っていたって気にも留めまい。

後ろの方に座って大人しくしていればいい。

途中で退屈した時用に、本を持っていこう。

講義が終わったら学食でパフェでも食べたらいいかもしれない。

イチゴとコーンフレークの上にジャムと生クリームがかかったあの素朴なパフェを、ハナちゃんは案外気に入るかもしれない。

講義室で自分の隣に座って本を読むハナちゃんの姿はなかなかしっくりくる気がする。)


きっと、みとさんは瞬時に色々なことを頭の中で考えたのだろうと思うけど、それを口にすることはしなかった。


口に出さなくてもいいこともある。


代わりに、

「一緒にお母さんにお願いしてみようか」

とそっと頷いた。


そんなみとさんを見上げて、ハナちゃんはにっこりと笑った。












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