第三章 とっつぁんの恋
「俺、煙草やめるわ」
とっつぁんが言った。
秋にしては暖かいある日の話だ。彼は、競馬で勝ったから、と大量の果物をもってキリオ君の部屋に現れた。
「うーい、おつかれーい」
ビニール袋を掲げて見せるその姿はどうみても中年のおっさんだ。袋の中を見てみとさんが歓声をあげる。
「やったー、丁度果物食べたかったの」
とっつぁんは満足げに頷いて、床に胡坐をかく。
大阪の小さな酒屋の次男坊である彼は、地元の名門男子校を卒業し、両親の期待を一身に受けて大学へやってきた。長男はどちらかといえばスポーツに没頭するタイプで、次男の頭の出来の良さに、両親は「誰に似たのか」と散々頭をひねったらしい。気さくで誠実で頼りがいのある彼は、その見た目もあってか、実年齢よりも大分年上に見られることが多かった。
「とっつぁん」という愛称は高校時代に隣に座っていたモリモト君がつけたらしく、それは瞬く間に定着し、とっつぁん自身もそう呼ばれることになんら不都合を感じなかった。女の子が好むいわゆる「スマートさ」とは無縁の彼だったが、その実直な性格のおかげできっと同性の友達からは今までも頼りにされてきたのだろう。先輩にかわいがられ、後輩に慕われ、とっつぁんのところにはいつも生きていくのに必要な情報がきっちり必要な分だけ集まってきたであろうことは容易に想像がついた。
そんな彼が卒業するときに、高校の担任はとっつぁんの肩に手を置いて、しみじみと言ったらしい。
「くらもと、お前はほんまにいい男や。お前の良さをちゃんと分かってくれる女を見つけるんやぞ。間違っても変な女に引っ掛かってバッグとか靴とか貢がされた挙句に捨てられるような目に合うなよ」
えらい具体的やんけ、とっつぁんは思ったが、そこは如才ない彼のこと、「いやいや先生何言うてますの、ははははははは」と笑って流した。
そんなとっつぁんが、大学入学が決まり部屋探しをしていた時に、持ち前の野生の勘を発揮して「目を付けた」のがケンザキだった。不動産屋の窓にべたべたと貼り付けてある賃貸物件の張り紙に眺めいるとっつぁんに、まるで十年来の知り合いのような気やすさで、「おっす。いい部屋見つかったか?」と声をかけたのだ。
いきなり肩を組むような馴れ馴れしさで話しかけてきた目付きの鋭い男に最初とっつぁんは警戒心を隠し切れなかったが、ケンザキはお構いなしに「俺もう部屋決めてきた。暇だからお前の部屋探しにも付き合ったるわ」とぐいぐいと距離を詰め、最終的に同じ学部というのをダシに、あれよあれよという間に懐に入り込んだらしい。
「あの時のことは一生の不覚やわ」
とっつぁんは言う。
何しろ、そこで捕まってしまったが故に、その後のとっつぁんは自他ともに認めるケンザキの世話係になってしまったのである。みんなの中で唯一車を所有していた彼は、酔ったケンザキに呼び出されては迎えに行き、ケンザキのために集めたノートのコピーを取り、ケンザキに迷惑をかけられた人々に、持ち前の如才なさで「えらいすんまへんな、よく言って聞かせるんで今回は堪忍な」と謝罪して回った。
とっつぁんの人のいい笑顔と腰の低さに、大抵の人はそれで黙ってしまうのだった。そんなとっつぁんにケンザキが返したものと言えば、「お前ちょっと頭薄なって来たんちゃう?」というありがたくもないコメントの数々だけで、みとさんはよく、ぷりぷりと怒っていたものだった。
「とっつぁん、もうケンザキ君の面倒見んでいいんやで、ほんまにいいんやで、もうほっとき!」
それでもとっつぁんは「そうやなぁ」と肯定するでもなく否定するでもなく、入学から半年経った今もやっぱり相変わらずケンザキの世話を焼くのだった。
「あれは最早父性やな」
みとさんはよく言っていた。
「とっつぁん、結婚したら絶対いいパパになるわ」
そんなとっつぁんはまた、ケンザキと並んでヘビースモーカーでもあった。
ポロシャツの胸ポケットにセブンスターの箱を忍ばせ、事ある毎にぷかぷかと吸っている。でもとっつぁんのことだから勿論、人の迷惑になる吸い方はしなかった。胸ポケットから「セッタ」の箱を取り出し、「ちょっとごめんな」と手刀で前置きをして、ベランダに出てひっそりと火をつけるのだ。その背中には年齢に似合わぬ哀愁が漂っていた。
その日も、キリオ君が作ったおいしいカレーを食べ終わった後に、皆は当然とっつぁんがベランダに出て一服するのだと思っていた。ところが、とっつぁんは「ごっそさん」とスプーンを置き、食器を台所に運んでざっと洗うと、所在なさげに部屋を見渡し、そのままストンとまた胡坐をかいた。
ケンザキが、「なんや煙草切らしとんのか」と自分のポケットから取り出した箱を差し出すが、とっつぁんは「いや、遠慮しとくわ」と断った。
そして言ったのだ。
「俺、煙草やめよう思てんねん」
皆がとっつぁんに注目する。
「良いと思うけど、いきなりどうしたの?」
とさゆりさんが尋ねると、とっつぁんはビールで赤くなった顔を綻ばせて「んー、まぁな、な」と逡巡した後、ぽつりと言った。
「気になる子、出来てん」
カレーや果物を食べていた皆の動きがぴたりと止まる。何か言おうとして「んぐっ」とライスをのどに詰まらせたあおいより一瞬早く口の中のものを飲み込んだみとさんが、目を輝かせて質問する。
「誰?誰?誰?私たちが知ってる人?」
キリオ君が黙ってリモコンを手に取りピッとテレビを消してとっつぁんに向き直る。ぽつりぽつりと話すとっつぁんの話をまとめると、こうだった。
ある月曜日、サボっていた分のノートを誰かにコピーさせてもらおうという不純な動機で出席した一般教養の講義が終わり、とっつぁんが帰ろうとすると外は大雨だった。自転車で来ていた上に傘も無く、とりあえず学食で暇を潰そうと走り出しかけたとっつぁんに、そっと傘を差しだした女の子がいたのだ。
「よかったら、どうぞ」とその女の子は言った。
レモンイエローの上品な傘の柄を持つ細い手首と、水色のカーディガンの色彩が印象に残った。ふんわりとウェーブがかかった髪が肩の上で揺れていた。二人は一緒に食堂まで歩いて、そこで別れたのだという。
「ちっちゃくて、なんかこう、ふんわりしてて、とにかくかわいいんねん」
とっつぁんは言う。すっかり恋する眼差しになっている。
傘を差しだされたとっつぁんは、その時点で既に舞い上がっていたそうで、何を話したかは覚えていないものの、自分より背の高いとっつぁんに傘をさしかけようと必死に腕を伸ばす彼女から、「俺が持ちますから」と傘を受け取り、目的地に着くまではとにかく彼女を雨に濡れさせないように必死だったそうだ。そして、別れ際に、お礼をしたいからとなんとか連絡先を聞き出した。その連絡先を後生大事に手帳に挟んだまま、今に至るという訳だ。
「電話して会ってお礼言おうと思うんやけどな、女の子ってたばこのにおいあかんやろ?だからま、とりあえず、な」
手持無沙汰らしく雑誌を取り上げてパラパラめくりながらうつむくとっつぁんを前に、他のみんなは顔を見合わせた。
「お前それはな」
ケンザキが狭い机の上に肘をついて乗り出し、重々しく口を開く。
「お前それは、マボロシや」
さゆりさんとみとさんの咎めるような目付きを無視してケンザキは続ける。
「お前はな、二十年弱もモテへんと男ばっかの社会で生きてきてな、もう童貞が過ぎてマボロシ見てんねん」
さすがのとっつぁんもムッとしたのか
「じゃぁあの女の子はなんやねん。オレは昼間っからマボロシ見たりせんぞ」と言い返す。
「それはな」
ケンザキが重々しく一拍置いていう。
「河童やな。あるいは狸や。」
部屋の温度がぐんと下がった気がする。あおいは思わず口を開いた。
「ケンザキってバカなの?」
「色んな女の子の部屋渡り歩いたりしてるから、そんなヘンテコなものの見方しかできなくなるんじゃないの?」
そう、ケンザキは特定の女の子とこそ付き合ってはいないものの、それなりに女子に人気のようで、たまに女の子の部屋に泊まりに行って朝帰りしたりしているのを皆知っていた。
「ちょっとはとっつぁんを見習って真面目になって誰かとお付き合いしたらもう少しまともになるんじゃない?」
ケンザキがニヤリと笑う。
「なんや、あおいお前言うようになったな。ええねん、俺はお前らと居るのが一番居心地いいからな」
さらりとクサいことを言って、そして再度とっつぁんに向き直る。
「ほんで、いくらやねん?」
「はぁ?」
「だから、いくらやねん。その壺。宗教やろ?」
キリオ君の投げたクッションがケンザキの顔を直撃する。
とっつぁんはケンザキの相手をするのにも飽きたのか、諦めて話を続けた。
「いや、俺もな、最初は宗教の勧誘とかかな思て警戒したんやけど、話してみたらほんまにええ子やねん。俺は気づいてなかったけど|般教《パンキョー 一般教養の意》の教室で何度か近くに座ったことがあるらしくて、彼女はそれで覚えててくれたらしいんやけどな」
なるほど、なるほど、と頷きながらおそらくケンザキを除くみんなの胸には一つの想いが去来していた。
え、これ大丈夫なやつ?とっつぁんいい人だからな。騙されたりしたらどうしよう、と。
これほどまでにケンザキにいいようにされているとっつぁんだ。相手がケンザキではなくかわいらしい女の子となればもうイチコロだ。壺を買うどころか靴も服も買い与えた挙げ句身ぐるみ剥がされる可能性だってある。高校の先生の予言が当たってしまう。あおいたちはこっそりと視線を交わす。キリオ君の眉間にしわが寄っている。
「一度、会ってみたいなぁ」
さゆりさんが代表して、恐る恐る口を開く。
「まぁそのうちな。とりあえず電話してもう少しお知り合いになれればな」
口笛でも吹きだしそうなとっつぁんを見ながら、ケンザキが面倒くさそうに大きな欠伸をした。
***
「取り越し苦労やったな」とキリオ君がのんびり言ったように、蓋を開けてみれば、あおいたちの心配をよそに、その女の子は河童でも狸でも、宗教団体の手先でもなかった。それどころか、なかなか本当に良い子のようだった。ようやく腹を決めて電話をし、ひっくり返った声で百万遍近くのイタリアンでお礼のランチの約束を取り付けるところまで漕ぎつけたとっつぁんはもうすっかり有頂天だった。
タバコを止め、シャツを買い替えて、車に流行りの曲ばかりを集めた自作のMDが常備されるようになった。みんなは気づかぬふりを決め込みつつも、とっつぁんの一挙手一投足に注目し、ドキドキしてこの後の展開を見守った。毎週講義に出席してはその女の子と昼食を一緒にとるようになったとっつぁんを傍目に、ケンザキが
「あいつの車、最近アムロとglobeばっかりやねん、なんとかしてくれよ」
と情けない顔でこぼしても、誰も相手にはしなかった。
ケンザキは自棄になって大声で歌う。
「sweet ~ sweet ~ 19 blues ~」
無駄に上手な歌声がキリオ君の部屋に響き渡る。
とっつぁんがその女の子、ヨウコさんをキリオ君の部屋に連れてきたのは、秋も深まる十一月の頃だった。
「こちら、お友達のヨウコさん」と紹介するとっつぁんに続いて「こんにちは。倉本君と仲良くさせて頂いてます」と顔を出したのは、小柄で目のくりくりとした、まさに「守ってあげたくなる」、といった風情の女の子だった。
ふんわりとパーマをかけたボブカットが柔らかな雰囲気を際立たせている。
「うわ、かわいい」
みとさんが驚愕し、さゆりさんにそっと足を踏まれて押し黙る。
紅葉を見に行った帰りということで、もみじの紅を映したように二人とも頬を赤く染めていた。
「まだオトモダチかよ!」
とはその場の全員が心の中で思ったことだろうが、そんなことはおくびにも出さず、ケンザキでさえいつもよりも行儀よく、「いつも倉本がお世話になってます」とフレンドリーな笑顔を浮かべて見せた。
みんなの振る舞いはまるで、高校生の息子が初めて気になる相手を連れて来た時の家族のそれのようだった。
「うちの息子は控えめですがとてもいい子なんですよ」
と家族ぐるみで懸命にアピールをする。
お茶うけにキリオ君が出したのはいつものポテトチップスでもポッキーでもなくて、近所の洋菓子店のこじゃれたクッキーだった。暖かな部屋の中に和気あいあいとした時間が流れる。ヨウコさんはあおいたちの気を知ってか知らずか、皆の話に丁寧に耳を傾け、何か聞かれると機知に富んだ答えを返した。皆が話を盛り上げようとして面白おかしく話すケンザキのエピソードには、上手に合いの手を入れながらころころと良く笑った。
そんなヨウコさんを、とっつぁんは見ているこちらが気恥ずかしくなるほど、愛しそうに見つめているのだった。いつも自分よりも周りを優先してしまうとっつぁんが嬉しそうにしているのを見ると、あおいたちの心の中はほのかな灯りがともったように温かくなった。
「お似合いだね」
あおいがこっそりみとさんに耳打ちすると、みとさんも赤べこのようにブンブンと首を縦に振る。
皆、ヨウコさんが気に入り、帰り際に彼女がペコリとお辞儀をして
「良ければまた遊びに来てもいいですか?」
と言った時には、
「どうぞどうぞ。とっつぁんがいない時でもぜひ!」
と声を揃えて答えたのだった。
***
そんな訳だから、誰もがとっつぁんとヨウコさんが恋人同士になる日は遠くないだろうと思っていた。それでも、とっつぁんがあおいに
「クリスマスになる前に告白したいから、プレゼント選ぶの手伝ってくれへん?」
と切り出してきたときには、あおいは面食らった。
とっつぁんが告白するのはよいとして、なんでよりによってそういうイベントに全く興味がなさそうなあおいに付き添いを頼むのか。あおいの戸惑いはそのまま顔に出ていたらしく、とっつぁんはにっこり笑う。
「あおいさんが一番客観的なアドバイスくれそうやからな。いつも冷静だし。」
「ありがとう」
あおいは柄にもなく照れる。誰かに頼られるのは初めてかもしれない。男友達のプレゼント選びに付き合うことになるなんて、少し前までは考えもしなかった。自分のことを冷たい、ではなく冷静と表現してくれるとっつぁんに心の中で感謝した。これは責任重大だなと背筋を伸ばす。
協議を重ねた結果、プレゼントを買いに行く場所としてとっつぁんとあおいが選んだのは河原町にあるおしゃれな雑貨屋さんだった。
「コンビニで立ち読みした雑誌に、いきなりアクセサリーは重い男と思われるって書いてたから」と、とっつぁんはまじめな顔をして言った。
街はクリスマス商戦真っただ中で、定番のクリスマスソングが繰り返し流れている。ショーウィンドウには金や銀、緑や赤が溢れ、チカチカと点滅する電飾で縁取られていた。道行く人々の表情も、なんだか普段よりも明るく見える。
「このラストクリスマスっていう曲ね」とあおいは白状する。
「ずっと、最後のクリスマスっていう意味なんだと思ってた。」
「人生最後のクリスマスを誰と過ごしたいか、っていう歌なんだと思ってたの」
「なんじゃそりゃ」ととっつぁんが笑う。
「あおいさんでもそういう勘違いすんのやな」
「お恥ずかしい」
あおいは顔を覆ってみせる。
今までずっとクリスマスが苦手だった。華やぐ街の雰囲気と反比例するように、母はこの季節にはいつも以上に機嫌が悪いのが常だった。小さい頃のあおいはいつもとばっちりを喰らわないように、息をひそめて早くクリスマスが終わればいいのに、と願っていた。サンタさんという存在を信じたこともなかった。あおいにとってのクリスマスプレゼントは、ワクワクしながら眠りについた次の日に歓声を上げながらラッピングをほどくものではなくて、不機嫌な母から直接手渡される文房具だったりお人形だったり、そういうものだった。本当に欲しかったのはプレゼントじゃなかったんだよ、とあおいは心の中でつぶやく。自分も楽しいクリスマスの参加者なんだと思える居場所が欲しかったんだ。
今までは自分一人でも大丈夫だとずっと思ってきたのに、今更それを認めることは、面映ゆくて、自分が弱くなったような気がして少し心細い。でもその半面、こうして友人の買い物に付き合ってみれば、鮮やかな色彩に彩られた街にもきちんと自分の居場所があるように思えて、クリスマスも悪くないもののように思える。
「現金だな」とあおいは苦笑する。
結局のところ、誰かを必要とし、誰かに必要とされるということが今までの自分の人生には欠けていたのかもしれない。
「マグカップとか割れ物は縁起悪いかな。でもぬいぐるみってのも違うわな」
「そうしたら寒くなって来たし、マフラーとか手袋とか。あとはかわいいポーチとか?」
金曜日講義の帰りに待ち合わせて訪れた雑貨店は、平日の割には賑わっていた。そう広くはないウッド調の店内の隅から隅まで品物が並んでいる。自動ドアを通って店に入ると、外の冷気とは対照的な暖かい空気が肺に流れ込む。色とりどりのマグカップやぬいぐるみ、バッグや観葉植物などに囲まれてとっつぁんはしばらく居心地悪そうにしていたが、あおいが
「このマフラーはどう?」
「あの化粧ポーチは?」
と話しかけると、腕組みをして品物の選別を始めた。
赤や緑や金色の、色とりどりの小物に囲まれて腕組みをして考え込む姿は童話に出てくる熊さんを彷彿とさせ、
「そうしたらヨウコさんはゴールディロックか?赤ずきん、は別の話か。もりのくまさんの歌詞どんなだったっけ」
と考えをめぐらせていると、とっつぁんがひょいと何かを持ち上げた。
「これなんか、どうやろ?」
それは赤地に茶色の模様の入った上品な手袋だった。手首のところにこげ茶色の皮の縁取りが付いている。あの時二人で見に行った紅葉を思い出しているんだな、とあおいは思った。
幸せそうな二人の笑顔が頭に浮かぶ。
「いいんじゃないかな。落ち着いた色でヨウコさんに似合いそうだよ」
とっつぁんは自分がプレゼントを貰うみたいに嬉しそうな顔で、恭しく手袋をレジに運んだ。
「贈り物ですか?」
店員に尋ねられて、少し照れながら
「そうです」
と答え、クリスマスカラーのきれいなラッピングをしてもらって大事に脇に抱える。
「ケンザキにバカにされると思って言い出せなかったけどな、女の子にクリスマスプレゼント買うの、初めてやねん。」
とっつぁんは頭をかいた。
とっつぁん、それはみんな薄々気づいているよ、とあおいは思うけれど、口には出さない。
「付き合ってもらってサンキューな。お礼に晩飯おごるし、どっかで食っていこうや」
「やったー。そしたらオムライスがいいな」
夕暮れの街にはぽつぽつと暖かい灯りがともり始めている。少し歩いた先にあるオムライスが有名な洋食屋で、名物のインディアンオムライスをつつきながら、ヨウコさんの話をした。崩した卵の下からドライカレーのスパイシーな香りが漂う。つやつやに磨かれた木のテーブルに置かれた料理を前に、溢れ出る感情を懸命にバケツで汲み出すように、とっつぁんの話は尽きなかった。
例えば、チキンカツの話。
とっつぁんによれば、その日、昼食をとるのに二人が向かったのは、学校の近くにあるボリュームが多いので有名な定食屋だった。
「男の子の友達が少ないから、余りそういうお店に入ったことがなくて。行ってみたいです。」
とヨウコさんが言ったらしい。
数ある学生向けの店の中でも、その定食屋はとにかくボリュームが多く、かつ値段が手ごろなことで有名だった。カツやハンバーグなどの肉料理と付け合わせのキャベツが、お皿からこぼれんばかりに盛り付けされて運ばれてくる。普段学食でも控えめな量しか口にしない彼女に、とっつぁんは「どうかなぁ、食べきれんと思うけど」と止めたらしいが、ヨウコさんの意志は揺るがず、二人は講義の後待ち合わせて店に入った。
素っ気ない木のテーブルと椅子が並ぶ店内には、それぞれのテーブルの上にラミネート加工された白地に黒文字の飾り気のないメニューが置かれていて、そこにはずらりと定食や丼のメニューが並んでいる。学生とサラリーマンで込み合う中で、二人は隅の方に陣取り、向かい合って座った。
ヨウコさんは真剣な目でメニューを吟味し、
「びっくり盛り定食ってなんでしょう?」
「やっぱり来たからにはお肉ですよね」
とか独り言のように呟いている。そして、
「魚の定食とかなら、食べやすいんちゃう?」
と勧めるとっつぁんをちらりと抗議の目つきで一瞥すると、迷わずその店一番のボリュームのジャンボチキンカツ定食を注文した。そして、これでもかというほどの大盛りの器が運ばれてくると、きれいな箸遣いで米粒一粒残さず完食したのだった。食べ終わって満面の笑顔で「ごちそうさまでした、おいしかった!」と両手を合わせる。
「食べ終わった時のあの得意そうな顔な。やればできるんですよ、とでも言いたげな顔がまたかわいいねん」
とっつぁんはオムライスをつつきながら、その時のことを思い出したのか嬉しそうに頬を緩める。人を好きになるって、こんなに喜びにあふれているものなんだな、とあおいは半ば羨ましいような気持ちで耳を傾けた。ふと、自分の両親も付き合い始めの頃はこんな感じだったのかな、と思う。ちょっとしたことでもお互いのことを思って笑顔になったりしたんだろうか。
「想像できないな」と思ってそっと首を振る。
世の中には人を好きになることに向いている人と向いていない人がいるのかもしれない。自分も自分の両親も、きっと後者なんだろう。
食べ終わると、とっつぁんはごそごそとシャツのポケットから何かを取り出し、
「これ、あおいさんに。付き合ってもろたから、お礼。いつも世話になってるしな。」
と渡してくれた。小さな紙の袋の中には透明なトンボ玉のついた根付が入っていた。トンボ玉の中には朱色の花が閉じ込められている。あおいが雑貨屋で手に取って眺めていたのに気付いたのかもしれない。明かりにかざしてみると、トンボ玉は光を反射してキラキラと光った。
こういうところがとっつぁんなのだ。本当によく気が回る。
「ありがとう」と受け取って、あおいはそれを大事に鞄にしまった。
***
不慣れなクリスマスの雰囲気にはしゃぎすぎたのか、とっつぁんのプレゼント選びに付き合った後、あおいは珍しく風邪を引いて寝込んでしまった。狭い部屋の中でずきずきと痛む頭を抱えてベッドに横たわっていると、外の世界から取り残されたみたいで心細くなってくる。
ひんやりとした枕に頬を押し付けて、うとうととまどろんでいると、さゆりさんとみとさんが代わる代わるやってきて、お粥を作ったり洗濯をしたりしてくれた。熱が出ても誰かに甘えるということがなかったあおいにとって、同年代の友達がこんなにも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるというのはちょっとした衝撃だった。さゆりさんのひんやりした手が、おでこにそっと触れるのを感じる。
「お母さんが二人いるみたい」
と呟くと、二人は笑って
「あおいもたまには甘えたほうがいいよ」
とリンゴの皮をむいてくれるのだった。
「お母さーん」
あおいはふざけて言ってみる。ふざけたつもりだったのに、なんだか鼻の奥がツンとして、喉の奥に熱い塊がせりあがってくる。あおいは慌てて布団をかぶった。
二人の看病のお陰もあり、二日も経つとあおいの熱もすっかり引いた。だから、あおいがその日キリオ君の部屋を訪れたのは、看病のお礼に皆に夕食でも振る舞おうと思ってのことだった。二日ぶりに歩く外の世界はすっかり冬で、灰色の景色の中、冷たい空気が病み上がりの肺に染みわたる。
数日間の間お粥や果物しか受け付けなかったあおいの体は、風邪をひく前よりも二割ほど軽くなった気がした。地面を踏む足元がふわふわと危うい。スーパーによって食材を買い、そのままキリオ君の部屋に向かう。片手にスーパーのビニール袋を提げて空いたほうの手でチャイムを押そうと手を伸ばしかけたその時、部屋の中から威嚇するような低い声が聞こえた気がした。ケンザキの声だ。
あおいはびっくりして手を引っ込める。普段どんな場面であっても怒りを顕にしたことのないケンザキが、明らかに怒気を含んだ大声で何か言っている。その声は、傷つけられ追い詰められた獣の苦しげな叫びを思わせた。
(何が起きたんだ?)
狼狽えて立ち竦んでいると、がちゃりとドアが開いてヨウコさんが飛び出してきた。目に涙を一杯に溜めている。こちらをチラリと見たけれど、立ち止まらずに走り去ってしまう。混乱したあおいは仕方なくドアに手をかけて部屋に足を踏み入れた。中では憮然とした表情のケンザキが一人、床に座り込み、手の上でライターを転がしていた。
まず頭に浮かんだのは、ケンザキが何かとんでもなく失礼なことを言ってヨウコさんを怒らせたのではないかということだった。「最近太ったんちゃう?」とかなんとか、ヨウコさんの気に障るようなことを。
でも、ケンザキはとっつぁんがヨウコさんに恋をしていることを知っている。とっつぁんが大事にしている人をケンザキが侮辱するような真似をするだろうか。とっつぁんがヨウコさんを連れて来た時のケンザキの如才ない笑顔と立ち居振る舞いを思い出して、あおいは即座にその考えを否定した。
「ちょっと、ケンザキ、あんた何したの」
と呼びかけるも、ケンザキは頑なにこちらを向こうとしない。不貞腐れた子供のようだ。
仕方なく立ちすくみ、目まぐるしく考えをめぐらせる中で、ふと何かが頭の端をかすめた。
まさか。いやでもまさか。ああ、神様。その考えは頭の中で瞬時に膨らみ、はじけて、確信へと変わった。頑なにライターから目を離さないケンザキを残して、あおいは踵を返してヨウコさんの後を追った。ヨウコさんは、アパートを出た道の先で、蹲っていた。迷った末、そっと肩に手をかけるとびくりと体を震わせる。何か喋ろうとするが、嗚咽に紛れて文章にならない。顔を覆う両手の隙間から「ゴメンナサイ」という言葉の切れ端がこぼれ落ちる。
かける言葉が見つからない。
彼女は、ケンザキに恋をしていたのだった。とっつぁんに連れられて遊びに来たその日から、ケンザキのことが頭から離れなかったのだという。
「しまった」とあおいは思った。
ぶっきらぼうで皮肉屋のケンザキに、彼女が惹かれる可能性を考えていなかった。でも、聡明な彼女は見抜いたのだろう。ぶっきらぼうな言葉の端々に隠れた気遣いや、皮肉な笑みの裏に隠れた情の深さのようなものに気づいたのだ。そして、惹かれた。
最初に湧いてきたのは怒りだった。腹の底から湧き上がるような正真正銘の怒り、だ。一緒にプレゼントを選んだ時のとっつぁんの顔が目に浮かぶ。
「とっつぁんのことが好きだったんじゃないんですか」
と詰め寄りたい気分だった。
「それとも、弄んだだけなんですか?」
でも、頭の中でもう一人の冷静な自分が言う。
「仕方ないじゃないか」と。
正しい正しくないで感情がコントロールできるのであれば、誰も恋愛で苦労したりなんかしない。恋愛に興味のない自分でもそれくらいは分かる。本当は、誰一人悪くないのだ。ヨウコさんを一途に想ったとっつぁんも、とっつぁんを大事に想いながらも自分の本当の気持ちを打ち明けずにいられなかったヨウコさんも、ヨウコさんの気持ちを受け止められず怒りを抑えられなかったケンザキも、誰一人として悪くはない。
ああ、とあおいは思った。ああ、私は無力だ、と。
「出てけよ」とケンザキは言ったのだった。
「出てけよ。もう二度と来んな」
ケンザキが、実は誰よりもとっつぁんの恋を応援していたのをあおいは知っている。その辺でもらったからお前ら行って来いよ、と渡した遊園地のペアチケットだってきっと自腹だ。とっつぁんが惚気るのを、気にも留めないふりをして雑誌を読むその口元に、微笑がかすめるのを何度も目にした。
ケンザキが悪いわけじゃない。
でも、ああ。
とっつぁんの初恋なのだ。
ヨウコさんに出会うまで、女の子とデートすらしたことなかったとっつぁんが、ようやく手にした恋なのだ。
真面目に一途に、プレゼントを選んでいたとっつぁんの顔が目に浮かぶ。力なく肩を落として天を仰ぐあおいの横を、「他の奴らに絶対話すなよ」と低い声で吐き捨てて、ケンザキが去っていく。原付バイクが走り去る音を、あおいは振り返りもせずに聞いていた。
あんな場面に遭遇するくらいなら部屋で寝ておけばよかった。そう後悔しても、もう遅い。
「他の奴らに言うな」
と口止めされた以上、あおいに出来るのは淡々と普段通りに過ごすことだけだった。一人キリオ君の部屋に戻り、床に投げだしたままのスーパーの袋から食材を取り出す。色々とメニューを考えてはいたけれど気分が乗らず、結局その日の夕食は野菜炒めになった。少し焦げた、明らかに味のうすい野菜炒めを、みんなは微妙な表情でそれでも文句を言わずに平らげてくれた。
「そういえば今日はケンザキ見かけてないな」
と、とっつぁんがのんびりと言う。
あおいは皿を洗いながら、聞こえなかったふりをした。
***
幸いケンザキは秋口から家庭教師のバイトで不在なことがしばしばだったし、とっつぁんについてはヨウコさんとのデートで忙しいんちゃう?というのがみんなの認識だったので、クリスマスまでに二人が姿を現さないことについてキリオ君、みとさん、さゆりさんの三人はさして気にも留めていなかった。また、彼らも学部の忘年会などでそれなりに忙しい日々を過ごしていた。あおいはただ貝のように口をつぐんで日々をやり過ごした。
冬が深まり、空気が急激に冷え込んだ。歩いていると、靴の裏からしんしんとした冷たさが伝わってくる。
「京都の冬は底冷えするよね」
とみとさんが鼻の頭を赤くして言う。
「盆地やからなぁ。冷たい空気がたまってしまうんやろなぁ」
あおいはぎこちなく頷く。とっつぁんと一緒にプレゼントを選びながら浮かれていたのが遠い昔のようだ。
それでも二週間もたって十二月も半ばを過ぎる頃には、大分気持ちも落ち着き、所詮物事はなるようにしかならないのだから、と半ば悟りの境地に至り一人でウンウンと頷くあおいを、みとさんとさゆりさんは気味悪そうに眺めるのだった。だから、そろそろ皆の年末の帰省も視野に入ってきて、
「ぱーっと鍋でもしようか」
とみとさんが言い出した時に、あおいは思ったよりも動揺しなかった。とは言え、
「とっつぁんとケンザキにも声かけたけど、二人とも忙しそうやなぁ」
というキリオ君の言葉には、正直ほっとしたのだけれど。
その日、あおい以外の三人は生協に寄って帰るというので、先にキリオ君の部屋に戻ったあおいは無心に米を研いでいた。暖かい部屋の中で、冷たい水につけた両手だけがツーンとかじかむ。皆を待ちながらシャクシャクと米をかき混ぜる時間は静かで心地よかった。フロアタイルの冷たさが、靴下を通して足に伝わる。誰かを待ちながら作業をするのは、安心で居心地がいい。すっかりリラックスしていると、ピンポーンとチャイムがなった。ドアスコープから覗いてみると、寒さに肩をすくめて立っているとっつぁんが見えた。
忙しくて来られないんじゃなかったのか。
私があのことを知っているということをとっつぁんは知っているんだろうか。
様々な思いが胸を去来する。
身構えながらドアを開けると、
「久しぶりやなぁ、ごっつい雨やで」
と言いながら、競馬で勝ったからこれオゴリな、とたんまり肉が入った紙袋を渡してくれる。
持ち重りのするその袋を受け取って、
「わ、これすごいいいお肉!今日鍋にしようと思ってたけど、すき焼きに変えよう!」
一瞬ヨウコさんのことを忘れて歓声を上げたあおいに笑顔を見せると、とっつぁんは台所に立つあおいの横を通り過ぎて部屋に入り、上着も脱がずにストンとベッドに腰を下ろした。
しばらく沈黙が落ちる。
「あのな」と、とっつぁんが口を開きかけたその時、ベランダの外で聞き慣れたブルルル、ガチャンという音がした。とっつぁんの動きが止まる。あおいは心の中でまたしても天を仰ぐ。
なんで私ばっかりこんな目に!
気持ちを立て直す間もなく、ガラガラとベランダに通じる窓が開いてケンザキの声がした。
「キリオ、タオルくれや。バイト行こうとしたらすげー雨降ってきやがった」
後ろ手に窓を閉めたケンザキの動きが、止まる。とっつぁんと視線がぶつかり、一瞬見つめ合う。先に目を逸らしたのはケンザキだった。
「くっそ、タバコもずぶ濡れやんけ」
悪態をつきながらジーンズのポケットを探る。
前、後ろ、とわたわたとポケットをひっくり返す様子をとっつぁんは表情を無くしてしばらく無言で見つめていたが、その目元がふっとほどけた。何かが腑に落ちたような、あるいは何かが吹っ切れたような、一瞬の表情の変化だった。
「はぁ。どっこいしょ」と膝に手をついて立ち上がる。
「おい、今日車で来てるからバイトまでおくったらぁ」
と、ケンザキに笑いかける。微塵もわだかまりを感じさせない、いつものとっつぁんの笑顔だ。ポケットをひっくり返していたケンザキの手が止まった。
「おぅ、助かるわ。わりぃな」
答えたその声が微かに震えているのにとっつぁんは気づいただろうか。
ようやく顔を上げたケンザキの目の縁が赤くなっているのを、とっつぁんは見ただろうか。
とっつぁんのところには、生きていくのに必要な情報が必要な分だけ、きちんと集まる。もし彼が、ケンザキの震える声に、赤くなった目元に、気づかなかったのだとすれば、それは彼が金輪際知る必要のなかった事柄なのだろう。人生はままならない。時間が経てば笑い話になるなんて綺麗事でしかない。今回の出来事はとっつぁんの心にも、ケンザキの心にも、チクリと突き刺さったまま抜けない棘となって存在し続けるだろう。二人がこの事について話し合って笑い合うなんて日はきっと訪れない。棘が刺さっていることに気付かないふりをして、二人は日々を紡いでいく。それでもふとした瞬間に、棘の存在に気付いてしまったら、その時は苦笑いをしてやり過ごすしかないのだ。
とっつぁんに続いて部屋を出ようとするケンザキに、あおいは小さな声で言った。
「ケンザキは、悪くない。それは、私が保証する」
それだけは、言っておかなければと思った。それでケンザキの心が軽くなる訳ではなかったとしても。ケンザキが振り向いて顔を顰める。束の間逡巡した後、あおいに向かって手を伸ばした。あおいはびくっと身を竦める。でもその手はあおいの髪を優しく、くしゃくしゃとなでただけだった。何か言おうとして、でも結局黙ってそのまま離れていく。
ドアが開くと、外から雨の匂いと冷たい空気が流れ込んできた。
二人が出て行った後、残されたあおいは部屋に立ち尽くして、長い長いため息をついた。