第二章 元田中のタナカ君
恐怖の闇鍋の夜から1ヶ月もたつと桜も散り、あおいも少しずつ大学の生活に馴染んだ。初日はどうなるかと思ったけれど、一人暮らしは始めてみれば思ったよりもずっと快適で誰の顔色もうかがわなくていいその生活はあおいの心をぐんと軽くした。
一人暮らしを始めてみて分かったことが二つ。
一つ目は、今まで自分が親しい友達もつくらずに学校で孤独を保っていられたのは周りの協力があったからだということ。つまり、自分が一人でいるためには、周りが「放っておいてくれる」必要があるのだ。
なんでこんな当たり前のことに今更気が付いたのかと言うと、みとさんとさゆりさんがあおいのことを全く放っておいてくれなかったからだ。二人は事ある毎にピンポーン、とまるで小学生が友達の家に遊びに行くような気軽さで「あおいー、ご飯食べに行こー」とか「キリオ君の家行こー」と誘いに現れた。
最初こそ「いやいや、私皆さんと高校も違いますし、本当にお構いなく」と断っていたあおいだったけれど、余りに頻繁になってくると最早断る気力もそがれてきて、結局渋々ながらも行動を共にすることが多くなった。
二つ目は、京都で生活するためには自転車が必須であるということ。あおいは今まで自転車に乗ったことがなかった。「将来乗れたほうが便利だから」という理由で練習を手伝ってくれる大人も周りにはいなかった。ある日キリオ君の部屋でそれを口にすると、ケンザキが叫んだ。
「お前、それは終わってんで」
あおいはムッとする。
「終わってる、と言うほどのことでもないと思うけど」と抗議すると「ほんじゃぁ、終わりかけてんで」と律義に訂正されてますます憮然となる。
不穏な空気を察したのか、みとさんが「まぁまぁ」と割って入る。
「でも確かにな、自転車乗られへんかったら困ると思う。そもそも大学まで歩いていくのめんどくさいし、一緒に食べ歩きいくのも不便よね。北白川のパン屋さんとか、宝ヶ池のカフェとか、そういえばこの前下鴨神社の方に入ってみたいご飯屋さん見つけたんよ。」
どんどん脱線しそうな彼女を押しとどめて「よし、とりあえず練習やな」とケンザキが張り切った。あおいはそのままみとさんの赤い自転車と一緒に近所の小学校のグラウンドに連行された。
「よっしゃ、とりあえずペダルから足外してそのまま地面蹴って進め」
とケンザキが叫ぶ。あおいは仕方なく、言われた通りに地面を蹴る。
シャーっと車輪が回り、自転車はよろよろと二メートルほど進んだ。
「よし、もう一回。手元見んなよ、前見て進め!」
シャーッ、ヨロヨロ、シャーッ、ヨロヨロを五回ほど繰り返したところで、あおいは猛烈に恥ずかしくなってきた。十八歳にもなって、友達と呼んでいいのかどうかもあやふやな人々に囲まれて小学校のグラウンドで自転車の練習をしているのだ。助けを求めてさゆりさんを見ると、彼女は意外にも真剣な表情であおいの様子を凝視していた。
「ここだとなかなか上達しないから、宝ヶ池のあたりのスロープをガーッと降りてみたら乗れるようになるんじゃない?」
物騒なことを言っているのを聞いてあおいは観念した。
結局その日は小学校の事務員さんがやってきて
「勝手に小学校に入られたら困るんですよ。はぁ?Y大の人たち?大学生なのになにやってんの?」
と散々絞られて終わったのだが、後日あおいはさゆりさんに連れられて宝ヶ池のサイクリングコースに行き、そこで猛特訓を受けることになった。曲がり切れずに側溝に突っ込んだりといったアクシデントはあったものの、幸いバンドエイドを数枚消費しただけで自転車には乗れるようになったのだった。
その結果、あおいは真新しいグリーンの自転車に乗って颯爽と大学に通うようになったのだ。朝から講義のある日は、朝の爽やかな風を切って東大路通りを大学に向かって走る。まだ開店していないスーパーや、モーニングの食べられるカフェ、朝から賑わっているコンビニなどをすいすいと通り過ぎて自転車で走るのは快感だった。
なるほどな、とあおいは思った。人に手伝ってもらった方が早いこともあるんだな、と。
そんな訳だったから、キリオ君の部屋に集まる面々との付き合いは煩わしいところもあれば、それなりに有用な面もあるのかもしれなかった。そんな風に思うようになった時点で、こんなおかしな人たちとは関わるまいというあおいの当初の思惑は大分そがれ始めていたわけだけれども、ある日みとさんとさゆりさんが「キリオ君の家でトランプして遊ぼー」とやって来た時、あおいがすぐに断らなかったのもまぁそんなこんながあったからだ。
外ではしとしとと梅雨の雨が降っていた。ざぁざぁ雨と違って、しとしと雨の時は世界はしん、と静まり返る。風景がぼやけて、水彩画の絵本のような景色になる。小さな子供に戻ったような心細さを覚えるその景色が、あおいは苦手だ。でもそれとは対照的に、キリオ君の部屋の中は煌々と明るくて、暖かくて、にぎやかだった。
「ちょっと、スペードの5止めてるの誰―?そこ埋まらんと次が出せへんー」
とみとさんが不満そうに声を上げる。
たかが七並べでこんなに盛り上がれる大学生もどうなんだろうか、と思いながら、あおいはチラリ、と自分の手札の中のスペードの5を見る。いつもこうして早々に手の内をさらしてしまうみとさんは、大体において最下位をさまよっている。もう出してあげようかな、と一瞬思うけれどまぁ、勝負は勝負だしね、と思い直す。
その時、プルルルル…とキリオ君の部屋の固定電話の呼び出し音が鳴った。濃い灰色のボディにファクシミリも備えた流線型の機械は、あおいたちの日常における唯一の連絡手段だった。
ニヤニヤとみとさんの様子を眺めていたキリオ君が手を伸ばして電話のスピーカーボタンを押したが、「おう、お前ら」とケンザキの声が聞こえたとたんに、流れるような動きで通話終了ボタンを押した。
「あら、ケンザキ君切っちゃっていいの?」
さゆりさんがのんびりと尋ねるが、その目は抜け目なくみとさんの次の手を注視していた。
「ええねん。アイツなんか張り切った声出してたやろ。ああいう時は関わらんのが吉や」
淡々と言うキリオ君に皆がウンウンと頷くけれど、勿論ケンザキが一回切られたくらいで諦めないのも皆知っている。案の定、電話はすぐにプルルル、と音を立てる。キリオ君が心底イヤそうな顔をしてスピーカーボタンを押すと、
「おいおいなんやねん、電話切れたぞ!」
悪びれないケンザキの声がした。
キリオ君はこちらを振り返り
「もうあかんわ」
と肩をすくめると
「なんやねん、何の用や」
と電話に向かって返事をした。
「おう、あのな。お前んちの前の道路、あそこ今工事中やったよな」
「ああ、あの下水かなんかの工事で道路掘り返してるとこな。あれがどうかしたんか?」
「あそこによ、立ち入り禁止の看板出てるやろ。あれな、ちょっと借りてきてくれ」
皆ポカンとした。
一瞬の間をおいていち早く立ち直ったとっつぁんが素早く返事をした。
「なんでや」
「あーお前らこっち来た時に説明するわ。とりあえずアレ持って元田中のコンビニきてくれ。」
元田中のコンビニ、とはキリオ君の部屋から少し行ったところにあるケンザキの行きつけのコンビニだ。ケンザキはその店の店長ともいつのまにか顔見知りになっていたらしく、よく賞味期限の切れた弁当や惣菜パンなどをもらっては「差し入れ」と称してキリオ君の部屋に持って帰ってきていた。
「いやじゃ。アホか。もう切るで」
キリオ君が通話終了ボタンを押そうとするのを、受話器の向こうのケンザキが押し留めた。
「おいおいおい、待てよ」
しばらく何か考える間があったかと思うと、落ち着き払ってこう宣言した。
「分かった。ほんならこうしよう、お前らがブツ持ってこんかったらな、これから一ヶ月の間俺ウンコしても便所流さへん」
「お前!!!」
キリオ君が般若の形相になった。
「やり方が汚ねえぞ」
「まぁどっちが自分のためかよく考えろよ」
「この外道が!!」
キリオ君は今や歯噛みをして悔しがっていた。
「なんや、ドラマの誘拐劇見てるみたいやな」
とっつぁんがあきれ返った。
結局その一幕はキリオ君が
「お前後で覚えとけよ!」
とがなり立てて電話を切るところで幕を閉じ、あおいたちは各々靴を履いて外に出た。勿論、工事現場のアレを拝借しに行くためだ。外はしとしとと雨が降り続いていて、そのせいか人通りもいつもより少ない。
「まぁ、目立たんからかえって良かったかもな」
白地に赤文字で、関係者以外立ち入り禁止、とでかでかと書かれた看板を小脇に抱えたとっつぁんがのんびりと言った。
「それにしても、こんなもの何に使うんやろうなぁ」
みとさんが首を傾げる。
「コンビニの前において、そのまま入って来いとか言うとったで」
「ケンザキ君のことだから、これを店の前において人が入らんようにしといてからゆっくり強盗するとか。でもいくら万年金欠のケンザキ君でもそんな効率の悪い犯罪行為に手を染めるとは思えんよね。」
「まぁ考えてもしゃあない。本人に聞こう」
とっつぁんの言葉にうなずいて、皆はとにもかくにも指定されたコンビニに急いだ。
元田中駅の近くにあるそのコンビニは街でよく見かけるフランチャイズ店で、大学生やサラリーマンといった客層でいつもそれなりの賑わいを見せていた。雨の降る薄暗がりの中、全身から蛍光灯の光を発してぽつんと佇むその店には、一種の健気さのようなものが感じられる。
夜のコンビニと言うのは、とあおいは思う。孤独の象徴みたい。人々はやってきてはすぐに立ち去ってしまう。誰もコンビニに自分の居場所なんて求めていないから、コンビニはただそこにあっていつまでも一人で待ち続けている。
「この辺でええんかな」
とっつぁんが自動ドアの前に立ち入り禁止の看板をカタリと置いた。
「もうちょっと左ちゃう?ど真ん中に置いたほうがきれいやから、もちょっとずらして…」
位置にこだわるキリオ君を「はいはい、もういいから入るよ」とさゆりさんが店内に引きずっていった。
店の中は、ヒステリックと言ってもいいくらいの鋭い白光に満たされていて、一瞬目がくらむ。流行りのJ-POPが流れる店内には今のところ客は一人もいなかった。いや、客どころか店員さえ一人もいない。不穏な空気を感じて歩みを止めると、レジの奥の扉からケンザキが姿を現した。
「お前!!便所流さんとか冗談でも言ったら二度とうちの敷居は跨がせへんぞ!」
詰め寄るキリオ君を軽くいなして、「おう、よう来たな。まぁ入れよ」と親指で後ろの扉を指して見せた。扉を抜けて進むと、そこは休憩スペースのようだった。奥に事務机とキャスター付きの椅子、扉からすぐのところにアルミのテーブルとパイプ椅子がいくつか置いてあった。微かに煙草の匂いの漂う部屋には、気の弱そうな眼鏡の青年と、仏頂面をした強面の中年男性が座っていた。青年が怯えたように膝に手を置いてうつむいているのに対して、人相の悪い中年男性はふてくされたように椅子に寄りかかり、足を組んでいる。
「よっしゃ」
ケンザキが言った。
「とりあえずこれでしばらく他の客は入ってこんからな、じっくり話し合おうぜ」
そしてあおいたちを振り返り、後ろを指して事も無げに言った。
「こいつな、コンビニ強盗」
みんなは一斉に中年男性に注目する。
ポロシャツにチノパンのその男性は、角ばった体つきに鋭い目つきの、いかにもその道の人、という印象だ。
「強盗っぽい!」
みとさんが叫ぶのをさゆりさんが口に蓋をして押し留める。
男性は皆に注目されて居心地悪そうに身じろぎした。
「お前らの目は節穴か!」
ケンザキが愉快そうに言う。
「そっちちゃう。こっちや。」
指さす先には気の弱そうな眼鏡の青年。
「こっちか!」
みとさんが感嘆する。
「全然強盗に見えへんな。」
思ったこと全部口に出ちゃうんだな、とあおいは最早感心してしまう。さゆりさんがやれやれ、といった風に肩をすくめる。
「こっちは店長な」
指さされた中年男性は、確かに制服を着てにこやかな表情をすれば、見覚えのある感じかもしれなかった。店長と呼ばれた男性は「ケンザキ君、困るよ」と苦言を呈する。
「こういう場合はさっさと警察に連絡して引き渡さないと。こっちも暇じゃないんだしさ」
「まぁ、とりあえず一時間、一時間話し合ってみようぜ。コイツにも事情があるかもしれんし、俺の知ってる店長は困ってるやつを見捨てたりせん男や」
なんてくだらない!とあおいは唖然とする。赤の他人のトラブルに首を突っ込んで時間を無駄にするなんて。どうもこのケンザキと言う人は必要以上に他人のことに首を突っ込みたいタイプらしい。
ケンザキに持ち上げられて満更でもなさそうな店長の様子を横目で見ながら、
「とりあえず俺らが何でここにいるのか説明してくれ」と、とっつぁんが口を挟む。
ケンザキが手短に語ったところによると、こういうことだった。
ケンザキが切らした煙草を買いにコンビニにより、ついでに雑誌を立ち読みしていると、後から眼鏡の青年が入店してきた。傘を差さずにやってきたようで、濡れた髪がぺたりと額に貼り付いている。
「えらいみじめったらしいのが来たな」
見るともなく見ていると、どうも挙動が不審だ。ウロウロと店内を歩き回り、チラリチラリとレジの方を気にするそぶりを見せている。「万引きか?」と思ったもののそのうちに興味を失ったケンザキはもよおしてきて店の後方にあるトイレに入った。そして出てきてみると、レジで先ほどの青年と店長が言い争っていた。青年の手には刃物らしきものが握られている。普通はそこで店の外に出て通報するなりしそうなものだし、店長としては明らかにそれを望んでいた筈なのだが、ケンザキは代わりに
「まーまーまー、双方穏便に、な。話やったら俺が聞いたるわ」と割り込んでいった挙句に、「すぐに通報する」と息巻く店長をなだめすかして頼まれもしないのに話し合いの場を設けたのだ。
店長気の毒に、とみんなが思ったが、過ぎてしまったことは仕方がない。
「なんでこんなことしようと思ったんですか?」
とさゆりさんが青年にやさしく話しかける。
話しかけられた青年は、びくりと肩を震わせ、そのまま机に突っ伏してしまう。腕の間から絞り出すような声が聞こえる。
「僕だって、僕だって別にこんな事したかった訳じゃないんです」
「ただ、勤めていた会社の経営が傾いて急にクビを言い渡されて、、そもそもブラックな会社でそれでも精神科に通いながら頑張って働いていたんですけど、一度首になってしまうと他の面接に行っても全然採用してもらえなくて、そのうちもうなにもかも嫌になってきてしまって。お金も残ってないし、いっそ警察に捕まってしまえば楽になるかと、、」
「うわ、めっちゃ安易やな」
みとさんが口に出すのをもう誰も止める気力もない。でも確かに、あおいも思った。安易で、ドラマにでもありそうな話だ。
「そもそも前働いていた会社も、朝は五時に出社してオフィスの掃除から始まって、夜は十二時まで働いて、そこから社長に飲みにつれて行かれて朝まで説教されて…。給料は雀の涙だし、有給なんてあってないようなもんだし。もう会社勤めなんて僕には無理なんです」
「うわー、それはひでぇな」
とキリオ君が顔を顰める。
「全部の会社がそうって訳でもないやろうけどな」
と、とっつぁん。
「だからといって強盗に走らなくても。」
とさゆりさんが諭そうとすると、青年はきっと顔を上げた。
「皆さんみたいに恵まれた人にはわからないでしょう!見た感じどうせ大学生でしょ?親の金でいい大学出てさっさと就職して幸せになる人たちでしょ?僕みたいに学歴もなくて大して頭もよくない、メンタルも弱くて精神科に通いながらでないと仕事もできない男の何が分かるって言うんですか!」
青年は頑なに目を合わそうとしないながらも、勢いよく言い募った。ケンザキがその様子をニヤニヤ笑いながら眺めている。
「まぁそうやな。そこで強盗に入ろうっていう発想の貧困さも含めてダメ人間やな。」
火に油を注ぐようなことを言うのであおいはぎょっとする。青年も意表を突かれたのか一瞬黙りこくったけれど、またすぐにわめき始めた。
「ほらね、すぐそうやって人を馬鹿にする!どうせ僕なんか生きるに値しないどん底の人間ですよ。これでどうせ強盗やって捕まって刑務所に入ったら入ったで税金で養われてるとか言って世間から冷たくされるんですよ!」
「そこまで分かってるんやったら尚更こんなことせんかったらよかったのに」と、みとさん。
完全にカオスな状況だ。耐えきれなくなったとっつぁんが割って入る。
「いや、まぁまぁ落ち着いて」
でもそんなとっつぁんを今度はさゆりさんが手で制する。その目には冷ややかな怒りが宿っていた。
あ、怒ってる!、とみんなが思った。
さゆりさんは普段は仏のようだけど、本気で怒ると誰よりも怖い。どれくらい怖いかというと、ケンザキでさえそそくさと逃げ出す程度には怖い。そして彼女は甘ったれたことが嫌いだ。どんな理由であれ、やるべきことをやらずに文句を垂れるような輩を許すことはしない。
そこまで考えたところで、あおいは苦笑する。こんなに短い付き合いなのに、まるでずっと知っていたかのように考えている。中高と六年間一緒だった人たちのことは何一つ覚えていないのに。実の家族とすら分かり合えずに逃げだした自分なのに。
そんなことを考えていると、冷たい笑みを浮かべたさゆりさんの口から
「あのね」
と低い声が漏れる。
隣に立っていたキリオ君が、びくっとして気を付けの姿勢をとる。
「そりゃあ、あなたにはあなたの理由があるんでしょうけれどね、どんな理由があったって人に迷惑をかけていいって話にはならないでしょう。
そんなこと幼稚園で習うんじゃないですか?
そもそも人のことを恵まれてる、自分はダメだっていうけど、あなたが私たちのことどれだけ知ってるんですか?
私達だってこんな世の中で卒業して必ず就職できるとも限らないけどだからって無職の人がみんながみんな犯罪に走るわけじゃないでしょう。
学歴とは関係なしに、やっていいこととやっちゃいけないことの境界をしっかり守れるのが賢い大人ってものでしょう?
コンビニ強盗してる暇があったら就活の雑誌読んで情報収集するのが先でしょう」
まくしたてられた青年は目を白黒させている。
隣で暇そうにタバコを咥えていた店長の口から、ポロリとタバコが落ちて、はっと我に返って慌ててパタパタと火消しに走る。
興味深そうに一連の流れを見守っていたケンザキがニヤリ、として身を乗り出す。
「まぁこいつの言う通りや、な。そこで俺から提案があるんやけどな」
店長に顔を向ける。
「店長、前からバイト雇いたいって言ってたやん。コイツ雇ったれよ」
「なんやって?」
店長が目をむく。
「何が悲しくて強盗をバイトで雇わんといかんのだ」
「そやかて、前から大学生は試験だ就職だですぐ辞めていくから困るって言ってたやんか。ちゃんと居ついてくれる奴がおったら助かるっていつもぼやいてんの誰やねん」
「その点、こいつな、とんだブラック企業に精神科に通ってまでしがみつくあたりなかなか根性あるやん。な、人助けと思ってとりあえず三か月使ってみたれよ」
皆が青年に注目する。青年は、
「でも僕はコンビニなんて嫌ですよ。この歳になってバイトっていうのも嫌だし、この人の下で働くのも嫌です。」と店長を指さす。
《《立場の割に嫌だ嫌だうるさいな。》》
皆が一斉にあおいの方を振り向く。声に出してた??まさか、ね。あおいはあらぬ方を向いて知らないふりをした。
さゆりさんが呆れたように青年を諭す。
「あなた、無職がいやで警察に捕まってもいいなんて言っていたくせに、何選り好みしてるの?」
青年は痛いところをつかれてまた黙り込んでしまう。
ケンザキがその肩に手を置いて言う。
「まぁとりあえずよ、食って行かなあかんのやろ。このまま金なくて生活保護とかなる前に、一旦働けよ、な?」
青年は更に項垂れる。ケンザキは店長に向き直る。
「な?ヨシダ君も反省してるって言うしな、店長ここはひとつ人助けと思って、な」
「僕はヨシダじゃありません」
青年が憤然と顔を上げる。
「タナカです!」
しかめっ面で成り行きを見守っていた店長が
「分かった、分かったよ」
と声を上げた。
「強盗見逃してやる代わりに、三か月まずは働いてみろよ。それで使えなかったらクビにするし、お前ももし他に他にやりたいこと見つかったらそっちにいけばいいだろ。とりあえずこの前バイトが一人辞めてこっちも人手不足なんだ。しっかり働いてもらうぞ」
ケンザキが我が意を得たりとばかりにニヤリとする。
「いやだから俺らはなんで呼ばれたんや!!」
とっつぁんが思い出したように叫ぶ。
「あのーとりあえずもう帰っていいですか?」
キリオ君が右手を挙げる。
なんなんだこの展開、とあおいは呆れた。
結局店長とタナカ君を残して、あおいたちは帰路に着いた。店を去る間際にケンザキがタナカ君の肩に手を置いて
「まぁそんな訳やから、これからちょくちょく余りもん貰いに来るわ。なんたって職を斡旋してやったわけやしな」
と念を押したのをあおいは目撃した。なんだ結局自分のためじゃないか、あおいは拍子抜けして、それからなんだか愉快になった。
外に出ると、もうすっかり夜も更けた町は、雨が上がって水にぬれた道路がてらてらと街の明かりを反射している。小脇に立ち入り禁止の看板を抱えてひょいひょいと器用に水たまりをよけて歩くケンザキにとっつぁんが声をかける。
「おい、あれ俺ら行く必要あったんか?」
「ほんまそれやな。あんなえげつない脅しまでして呼ぶ必要全くなかったやろうが」
とキリオ君がぶつぶつ文句を言う。
けれどもケンザキは意にも介さない。
「まぁええやんけ、ほら、店長からたっぷり余り物せしめてきたから今日はこれから飲もうぜ」
と愉快そうに手に持った袋を掲げて見せる。
あおいはそっとコンビニを振り返る。夜の闇の中にたたずむその建物は、何故だかもう全然孤独には見えなかった。
「あの人ちゃんと働けるといいけどね」
とさゆりさんが雲が流れる空を見上げてそっと呟いた。
「まぁ自分の置かれた現実と折り合いがつけられないんやったらな、まずはできる事から変えていくしかないやろ。しばらく働いてみてダメやったらまた強盗でもするんちゃうか」
とケンザキの言うことはどこまでも無責任だ。
「頑張れ、元田中のタナカ君」
とみとさんが歌うように唱えた。