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第一章 出会い

「なんでだっけ?」と武藤あおいは考えた。


「なんで、私はここにいるんだっけ?」


七畳ほどの部屋の中では、同年代の若者たちが、ある者はぐったりと床に寝そべり、ある者は机に突っ伏していびきをかいている。部屋には甘いような酸っぱいような異臭が漂い、部屋を支配する不気味な沈黙の合間に、ぐぅぐぅと鼾が聞こえる。


三月、まだ春爛漫とはいかないけれども、少しずつ春めく季節、ここ京都では四月から新生活を始める大学生達がこぞって不動産屋を巡り、着々と新しい居を構え始めていた。そこかしこに建ち並ぶ不動産屋の窓には所せましとワンルームマンションのポスターが貼られ、カウンターには大学生と思しき人々が物件を探しに群がっている。あおいも、京都にある国立大学に入学するにあたり、不動産屋を巡ることになった学生のうちの一人だった。


京都市は周知のとおり、北区、上京区、左京区、中京区、東山区、下京区、南区、右京区、西京区、山科区、伏見区の十一区に分けられているけれど、その中で左京区と右京区の位置関係にはちょっと首をひねるものがある。地図で見ると右に左京区、左に右京区があるのだ。


「天子南面す」という考え方に基づいているからなんですよ、と不動産屋の人のよさそうなおじさんは言った。平安京は北側中央に天皇が居住する内裏が設けられ、内裏から南に向かって都を見渡した天皇の視点を基準に、朱雀大路より左手は左京、右手は右京を呼ぶようになって、その名残りなんですよ、と。今まで何百回も説明を繰り返してきたのだろう、その説明はとても滑らかで滞りがなかった。


Y大生であれば、とおじさんは目の前に広げた地図を指さしながら続けた。「ここの百万遍の交差点を中心に部屋を探せばいいかなと思いますよ。南に行くと三条四条の辺りは賑やかだけど家賃が高いので、それであれば百万遍から北上して高野の辺りで探すのはどうでしょう。丁度、良いお部屋が出てますよ」


なるほどなるほど、とあおいは頷いた。正直に言えば、誰にも気兼ねせずに一人で暮らせるのであればどこでもよかった。


そして、今あおいがいるのは、その左京区にある百万遍の交差点から少し北に行ったところにあるマンションの一室だ。ちなみに、あおいの部屋ではない。


東大路通りから少し細い道を入ったところにある五階建てのその建物の様相は、マンションと呼ぶべきか、アパートと呼ぶべきか悩むぎりぎりのラインだ。白い壁は所々剥げかかっていて、全体的には小振りの団地を思わせる四角い建物である。建物をぐるりと取り囲むように巡らされた人の腰ほどの高さの壁に、「ハッピーコート木村」と銘された真鍮の札が打ち付けてある。門の近くには沢山の自転車が停められていて、ここが学生向けワンルームマンションなのであろうことが見て取れる。


遡ること数時間前、あおいは拉致されてここに連れてこられた。相手は同じ大学の同じ学年の女の子達だったから拉致とは呼ばないのかもしれないけれど、あおいからしてみればそれは確かに拉致なのだった。


***


説明するためには、話を数時間前に戻す必要がある。


あおい自身が新生活の拠点として選んだのは、不動産屋のおじさんのお勧め通り、大学から北に自転車で十分程度のところにあるこじんまりした女性専用マンションだった。洒落たタイル張りのそのマンションの三階の角部屋が丁度空いていて(不動産屋のおじさんは、「まだ新しくておススメですよ、早く契約しないとすぐ埋まっちゃいますよ」と大層な力の入れようだった。)、内見したあおいはすぐにその部屋が気に入った。


六畳ほどのフローリングの部屋には東にベランダ、南に小窓がついていて日当たりは抜群だ。小窓から見下ろす公園には大きな桜の木が植えてある。周りに背の高い建物がないので、ベランダからは遠くに京都盆地を囲む山々の連なりが見えた。東京で、ビルに囲まれて切り取られたような空を見慣れてきたあおいにとって、それは新鮮な眺めだった。周りには大型のスーパーや、本屋、個人病院などが一通りそろっていて、住みやすそうなのもよかった。


その小さな部屋に荷物を運び入れ、青いカーペットを敷いて、ベッドや机と言った組み立て式の家具を組み立てるのには丸々一日かかって、一段落する頃にはすっかり夕方になっていた。近所にある大型スーパーで、夕食用のお惣菜と、明日の朝ごはんを調達するつもりだったあおいは財布と鍵だけを持って自分の部屋を出たのだった。記念すべき一人暮らし初日である。


部屋の外はすっかり薄暗くなり、外廊下のコンクリートからひんやりとした冷気が立ち上り、スニーカーの裏からコンクリートの冷たさが伝わってきた。素っ気ない白いドアを閉めて、鍵をかけようとしているところに、後ろから声をかけられたのだ。


「お出かけですか?」


振り向くと、そこには同年代くらいの女の子が二人、立っていた。二人とも、手には食材の入ったスーパーの袋を提げている。


一人は中肉中背で少しくせっ毛のミディアムヘア、くるくるとよく動く瞳は愛嬌があると言えなくもないが、何故かおばあちゃんのように眼鏡が鼻にずり落ちて剽軽な印象を醸し出している。赤と黄色の奇抜な配色のトレーナーにはなぜか幼稚園児の落書きのような熊のアップリケがついていた。もう一人はすらりとした清楚なたたずまいで、黒いストレートヘアに真っ白い肌が良く映えた和風の美人だ。


「あ、はい、晩御飯を買いに行こうと思って」


あおいが身構えたのを察したのか、二人は顔を見合わせてそれぞれに自己紹介をした。彼女達はあおいと同じマンションの同じ階に住むことにしたという同学年の女の子達で、奇抜な服装の子が三〇三号室の水戸さん、和風美人が三〇四号室の立花さんとそれぞれ名乗った。二人は南の方にある県の高校を一緒に卒業して、あおいと同じ国立大学に入学したということだった。


あおいはほっとした。女性専用マンションだから、隣りが怖いお兄さんと言うことはないのは分かっていたけれど、ド派手な女子大生や神経質なOLだったりしたら嫌だな、と思っていたのだ。同じ大学の、しかも同級生の女の子達ならば、摩擦を起こさずにやっていけそうだ。ところが、そこから話は予想外の展開を見せた。水戸さんが、唐突に言ったのだ。


「鍋しに行かへん?」


(なんですって)とあおいは思った。何故初対面の人たちといきなり鍋をつつきに行く話になるのだ。


そもそもあおいは人付き合いと言うものがすべからく苦手だった。今まで学校で親密な友達付き合いというものをしたこともないし、したいと思ったこともない。


「武藤さんは冷めてるよね」

「達観してるというか、全てどうでもよさそうに見える」


高校生活の一大イベントである体育祭の日。トラブルに見舞われたあおいのクラスは予想外の最下位だった。申し訳ないと泣いている体育祭委員の子を、クラスの皆が総出で慰めているのをぼんやり眺めていたあおいに、隣の席の子が少し尖った声で言ったことがある。


あおいは戸惑った。


「え、だって、トラブルはしょうがないじゃない?委員の子のせいでもないし、泣く必要もないと思うよ」


「いやだからさ、そういうことじゃなくて」

とその子は呆れた声を出したけど、諦めたのか、首を振ってあおいを置いて輪の中に戻って行った。あおいは所在なく、自分の席に座って騒ぎが収まるのを待っていた。


友達と言う言葉に伴うあの熱量はなんなのだろう、とあおいは不思議に思う。「友達だから」というだけで、同じ方向を見て同じことで喜んだり悲しんだりしないといけない。あの不自由さに自分が耐えられるとはとても思えない。


なのに、目の前では今出会ったばかりの相手がワクワクした顔であおいの返事を待っている。「結構です」と断るべきだった。でも、口を開こうとした瞬間に、立花さんがちらりと腕時計を見て言った。


「あ、もう行かなきゃ。六時半集合って言ってたけど、どうせキリオ君私たちが遅刻すること見越して今頃大掃除始めてるよ」


「あ、ほんまやな。そうしたら行こう行こう。武藤さん、鍵ちゃんと閉めた?ちなみに鍋は水炊きか鶏だしどっちが好き?」


「え?あの、私…」


「ちなみに関西は昆布出汁が主流って知ってた?関東ではそもそもあんまり鍋ってしぃひんのかな?」


「あ、いえ、鍋はたまに…」


「は!やばい、ほんまに遅刻や。行こう行こう」


水戸さんの勢いに負けて口が挟めない。

結局、なんとなく言葉を続け損ねて、あおいは二人に同行することになったのだった。


二人はお互いを「みと」「さゆり」と呼び合っていて、混乱するあおいに

「みと、はファーストネームって思われがちやねんけど本当は苗字の「水戸」やねん。だけど、なんとなく二文字で呼びやすいやろ?呼ぶときは「み」を強調して「みと」って呼んでー。ナウシカのユパ様とおんなじイントネーションやで」と説明してくれた。


混乱した頭を抱えたまま、二人と一緒にマンションを出て横断歩道を渡り、大通りから一本入った細い道を東に辿る。その先にあったのが、「ハッピーコート木村」だった。「なんというか、オシャレじゃない名前やなぁ」とみとさんがしみじみと口に出す。


狭い道に面して四~五部屋分、鉄の手すりがついたベランダが並んでいるのが見える。門をくぐって薄暗い内廊下に並んでいるアルミのドアのうち、一つの呼び鈴を鳴らすと、中からドアが開いた。みとさんとさゆりさんが先に部屋に入って、「おいでおいで」と手招きしてくれる。おずおずと玄関に足を踏み入れたあおいを、みとさんが紹介してくれた。


「お隣に住むことになった武藤あおいさんでーす」


「で、これがこの部屋の主の桐生君こと、キリオ君でーす。イケメンやろ?」


狭い玄関のすぐ目の前右手が小さなキッチン、左手にはおそらくお風呂に続くであろうドアがある。その向こうには小ぎれいに整頓されたワンルーム。その部屋には玄関と向き合う方向に、カーテンのかかった掃き出し窓が見える。おそらくベランダへと続いているのだろう。キリオ君と呼ばれた部屋の主は、キッチンのシンクの前に立っていた。


よくよく見てみればその人はジャニーズもかくや、という長身でぱっちり二重の美形の青年だった。ジーパンに黒いシャツを腕まくり、サラサラの長い前髪を押さえるためか、頭に白いタオルをまいている。手にはスポンジと洗剤。どうやら台所の掃除をしていたようで、目の前のシンクはピカピカに磨き上げられている。コンロの前に立ったまま大きな目でこちらをまじまじと見つめて、後じさりをした。なんだか警戒されているらしい。あったこともないのに何故?怯むあおいを指してみとさんが「この子は大丈夫やで。私が保証する。」と高らかに宣言した。


さっき会ったばかりの自分の何が大丈夫だと思って何を保証したのだ。戸惑うあおいに、さゆりさんが説明してくれる。


「キリオ君はね、女の子が苦手なの。」


「あのルックスでしょ、中高時代、色んな女の子に追いかけられて結構苦労したんだよね」


キリオ君と呼ばれた青年は、みとさんの宣言で少し安心したのか、若者特有の顎だけ前に突き出すような会釈をして、「あ。こんばんは」と挨拶をした。


「すいません、初対面でぐいぐい迫ってくる子が多いんで、つい警戒してしまって」


悪びれずに言ってのける辺り、ちょっと変わった人なのかもしれない。


それでも、まだ緊張感は漂いながらも、穏やかな声で丁寧に発声された「こんばんは」は耳に心地よく響いたし、その語尾まできっちり発音する言い方が几帳面な育ちの良さを感じさせた。あおいもあわててお辞儀を返す。


「みとさんとさゆりさんの隣に住むことになりました、武藤です。よろしくお願いします。あの、私はグイグイ迫るつもりは毛頭ないので、大丈夫です」


隣りでさゆりさんが苦笑している。


気づけばみとさんはもう腕まくりをして包丁を手に取り調理の準備をしている。素早い。


「キリオ君、お鍋の材料買ってきたんやけど、これで足りるかなぁ」


とみとさんが差し出したスーパーの袋を覗き込んで「まぁ、いいんじゃない?」と返事したキリオ君は、手早く人数分のスリッパを用意してくれた。


「洗面所はこっちだから」とドアを開けて、バスケットから新しいタオルを取り出して渡してくれる。あおいたちが手を洗っている間に、ベッドの上の布団をパンパンっと叩いてしわを伸ばし、クッションの形を整え、あっという間に居心地の良い空間を作りあげている。机に備え付けのキャスター付きの側机を引き出し、上にウーロン茶の二リットルのペットボトルとグラスを人数分載せる。途中で床掃除のコロコロを取り出し、入念にカーペットを掃除する。最早、こちらのことは目に入っていないようだ。部屋を見まわして足りないものがないことを確認すると、満足そうに一つ頷き、そそくさと台所に戻って掃除の続きを始めた。


「キリオ君て几帳面すぎて彼氏にしたらすごいめんどくさそうよね」と無邪気に言ってのけるみとさんをさゆりさんがそっとこづく。


足を踏み入れてみると、部屋はグレーのカーペット敷きの六畳程のワンルームで、大学生御用達のシリーズ家具とおぼしき黒い勉強机とパイプベッド、本棚が配置されていた。勉強机の上には参考書と筆記用具がまっすぐ整えて配置してある。ベランダに通じる掃き出し窓は換気のためになのか、ほんの少しだけ開けてある。全体的に、学生向け家具カタログのモデルルームみたいな整いようだ。塵一つ、落ちてはいない。


あおいは居心地悪く身じろぎする。そもそも友達の部屋に遊びに来るのなんて小学生以来だ。いや、そもそもこの人たちは友達ですらない、ほんの数十分前に会ったばかりの他人じゃないか。


部屋には先客が一人いた。大分年配のようだ。中肉中背で、生え際が少し後退しているように見える。ポロシャツにベージュのチノパンというコーディネートの彼は、机の前の椅子に腰かけて競馬本を読んでいたが、キリオ君が床にコロコロをかけている時には、律義につま先を揃えて両足を床から持ち上げ、邪魔にならないように気を使っていた。コロコロが終わると、さっと立ち上がって「どーもどーも初めまして」とニコニコと挨拶をしてくれた。目の端が垂れて、いかにも人のよさそうな恵比須顔になる。思ったよりも、声が若い。


「これ、とっつぁん。私たちもつい最近知り合ったんやけどな。経済学部やったやんな。あれ、本当の名前なんやったっけ」


みとさんが一息に言うのを聞きながら、あおいは失礼にならないようにそっととっつぁんと呼ばれた青年の様子を窺う。綽名の通り、気のいいおじさん、という感じだ。本人は本名を紹介されなかったことに気を悪くした様子もなく、ニコニコと人のいい笑みを浮かべて「くらもとと言います、以後お見知りおきを」と会釈をして見せた。


そこまでは、色々と唐突ではあったものの、それなりに説明のつく展開だったと思う。物事がおかしくなってきたのは、そう、あの男が入って来た辺りからだった。あおいはガンガンする頭を抱えて眉を顰めた。


皆で鍋の準備をしていた時に、ベランダの外でブルルルン、ガチャっと原付バイクの止まる音がしたかと思うと、ベランダに通じる掃き出し窓から一人の青年が乱入してきたのだ。


湯気で温まった部屋に外の世界のひんやりとした風が通り抜けた。


風と共にベランダから入ってきたのはすらりとした長身の青年だった。ジーパンに黒いジャンパーを羽織って、口元には煙草をくわえている。よく見れば端正な顔立ちだが、切れ長の鋭い目元に威圧感があり、道ですれ違うとしたら少し距離をとりたいタイプだ。右の眉毛の辺りに傷があり、それが余計にその存在の鋭利さを際立たせているようだった。ハンサムなチンピラといった風情だ。


うわ、また人が増えた、とあおいはため息を押し殺した。しかも、とびきりめんどくさそうな人だ。


後ろ手に窓を閉めた青年の口の端にくわえた煙草から灰が落ちそうになる。慌てたとっつぁんが器用に携帯灰皿で受け止めるのを気にも留めずに、青年は机の前の椅子に座っていたとっつぁんに向かってシッシッと手を振った。「お前なぁ…」と呆れ顔で言いかけたとっつぁんだったが、面倒くさくなったのか肩をすくめて椅子を譲り、自分は隣の床に胡坐をかく。そんなとっつぁんに構うことなく、椅子にドカッと腰かけて長い脚を組み、「よぉ、お前らどうよ」と言いかけた青年に向かってキリオ君が消臭スプレーを吹き付けた。


「ちょ、お前!何すんねん!!」


青年が盛大に咳き込むのをキリオ君は氷のようなまなざしで一瞥した。


「ケンザキ、お前煙草臭いねん。うちに煙持ち込むなや」


「なんやお前は、相変わらずおかんくさいな。てか、おかんかお前は!」


青年は顔の周りで手をバタバタとさせてスプレーの残り香を払う。


それでもケンザキと呼ばれた青年はそれ以上気を悪くした様子もなく、部屋を見まわした。その目があおいにとまり、「おう、新入りか。よろしくな。」と、ぽんっとボールを投げてよこすかのように挨拶をした。そして、言ったのだった。


「おう、そういえばよ、今日鍋やろ。闇鍋にしようぜ」


「絶対イヤ」

みとさんが即答した。


「今日は隣人のあおいさんとの初めましてパーティーすることにしたの。なのに、なんで闇鍋なんかせんとあかんの、ちゃんとしたおいしい鍋食べよ。もう準備もほぼ完了したし、闇鍋したいならケンザキ君一人でやって!」


「あの、お気遣いなく」


ヒートアップするみとさんを恐る恐る遮って、あおいは小声で言った。


「あまり遅くなってもあれなんで、今日は失礼しようと思います」


「ほらなー」

ケンザキが勝ち誇った。


「お前らのノリが悪いから帰る言うてるやんけ」


「え、うそ、うそ。せっかくお近づきになれたのに帰らんといて。闇鍋したかった?やってみようよ、大学生活幕開け記念に。私もやってみたくなってきたかも!人生で一回くらいやってみてもいいよね!」


みとさんがまくしたてた。


(言ってること180度変わってるよ)


圧力に押されて口ごもるあおいにお構いなしに、話はどんどん進んでいく。最早あおいの意向は関係ないようだった。腹を括ったようにキリオ君が言った。


「分かった、やろう。でも食えるものしか入れたらあかんで。あと生ものも禁止」


ケンザキの顔が嬉しそうに輝く。


「当然やんけ、俺を誰だと思ってんねん。食材厳選してきたからお前ら早く出汁の準備しろよ」


そっと立ち上がって出ていこうとするとっつぁんのシャツの端をさゆりさんが笑顔で掴んだ。


「一人で逃げるの禁止、ね」


勿論、結果から言うと闇鍋は大惨事を引き起こした。

薄暗い部屋の中には酸っぱいような甘いような異様な臭いが立ち込め、皆がしかめ面で鍋をつついた。箸が触れるものを引き上げるとそれは溶けかけたわらび餅であったり、プチプチした触感の明太子だったり、噛み応えのある干し芋だったりした。


「食べ物は大事にせんとあかんから」というみとさんの言葉に異論を唱える者は誰もおらず、皆必死に箸を動かしていた。


「なんやねん!なんか柔いもん入ってるぞ!!」

「もういややー。これわらび餅やん。鍋に入れたら絶対あかんやつやん!」

「文句言うな!食え!」

「あ、でもこれ結構美味しいかも。」

「もう俺無理」

「お前!逃げんな!」


食材を持ち込んだケンザキは、ふらりと途中退席したかと思うと今度は大量のアルコールをもって姿を現し、がぶがぶとビールを飲みながら「おう、お前らもっと食えよ。」とヤジを飛ばしつつ、自分も旺盛な食欲を見せた。


あおいは下を向いて自分の皿とにらめっこをしながら、それでもたまに繰り出される会話の端々からある程度の情報を拾い上げて組み立てた。


あおいととっつぁん以外は近県の同じ高校出身者であること。だからといって高校時代からつるんでいたわけではなく顔見知り程度だったのが、同じ大学に通うということで親密になったこと。とっつぁんは大阪出身でケンザキとは入学後、近所の不動産屋で知り合い、連れてこられたこと。ケンザキは高校時代からキリオ君の言葉を借りれば「イキって」いて、色々とトラブルを起こした割には現役でY大に合格して周りを驚かせたこと。などだ。


「こいつ高一の時に授業サボって麻雀してたら先生に見つかって、大通りダッシュで逃げたけど結局捕まって正座で反省文書かされとったんで」

キリオ君がケンザキを指して言う。


「そういうお前は女子ともめて散々つるし上げられとったやんけ」

「あれは俺が悪いんちゃうわ。アイツらブスな上にアホやねん」

「キリオ君、言葉遣い気を付けて!」

「うわー、なにこれいつの間にかミカン入ってるやん」

「そういえば古文の○○先生、バレンタインにチョコあげたら詩集が返って来たよねぇ」

「あ、あれクラス毎に違う詩集だったって知ってた?」

「あー、俺もう無理。ごっそさん」

「まだ残ってるよ!」


それらの話を、あおいは鍋をつつきながら、感じ慣れた疎外感と共にぼーっと聞いていた。とにかく早くこの場から退散したい、頭にあるのはそのことばかりだ。いわんこっちゃない、としみじみと思う。他人と深く付き合うつもりなんてないのに、のこのことこんなところについてくるから、こんな目に合うんだ。


「あおいさんは、なんでY大に来ようと思ったの?」

さゆりさんに聞かれてはっと我に返る。


引っ越しに付き添ってきた母が段ボールの積みあがった部屋を見回して、「殺風景だけど仕方ないわね。四年間の仮住まいだし」と呟いた横顔を思い出す。母の中では、あおいは四年後には実家に戻って実家から通える範囲で就職先を見つけるということになっているようだった。


「思いもよらないんだろうな」

あおいは思った。


東京で生まれ育ったあおいがなぜわざわざ京都の大学に進学しようと思ったのか。その理由が家庭にあるとは、母は微塵も思っていないようだった。

家族から逃げてきたんです、とここで答えたらどうなるかな、と考える。ドン引きされるかしら。


虐待、とは言わないと思う。食事も衣類も教育費も、十分に与えてもらった。でも、旧家の一人娘で蝶よ花よと大事に育てられた母は、あおいが絵本などで読む母親像とはちょっと違っているようだった。母は、子供のために何かを犠牲にするのはいやだ、とはっきり口に出して言うようなタイプだったし、実際自分の気に入らないことがあると子供の前であっても手当たり次第にその辺のものを投げつけて泣いたりしていた。


まだ子供だったあおいから見ても、子供のような人だったのだ。


そして出張や単身赴任の多い父は、そんな母の気まぐれと激情に辟易していたのか、余り家に寄り付かないことも多かった。母と二人家に残されたあおいは、学習塾に通い、夜中まで勉強し、模試の点数が悪いと辞書で頭を殴られり髪をつかんで引き回されたりした。だからあおいはいつだって、家から逃げ出すことばかり考えて子供時代を過ごしたのだった。


でも、そんなあれこれを今日初めて会った人々に話すわけにもいかない。というか、誰に話すつもりもない。結局あおいはちょっと考えてから「受かりそうな範囲で一番偏差値が高かったから、かな」と答えた。我ながらつまらないことを言っていると思ったけれど、別にこの人たちにどう思われたってかまわない。ケンザキがちらりとこちらを見て、「なんや、あおいチャンはえらくつんけんしてんな」と絡んできた。


「お構いなく」


答えたあおいの声は自分でもびっくりするくらい冷たく響いた。つまらんやつやなー、くらい言われるかと思ったけど、ケンザキは別に気にも留めない様子でビールをあおっている。必死に箸を動かしながら「どうしてこうなったんだっけ」と考えるが、もう頭が回らない。


ようやく鍋の底が見えてきて必死に口直しのアイスを食べ始めるころには、皆は疲弊しきっていたし、ケンザキはべろんべろんに酔っぱらっていた。ビールのグラスと火の消えた煙草をそれぞれの手に持ち、身を乗り出して管を巻く。


「お前らなぁ、予言しといたるわ。お前らな、」


煙草を挟んだ指を残りの五人の一人ずつに向けていく。


「お前らこれから四年間な、恋に落ちたりしょうもないトラブルに巻き込まれたり喧嘩したりな、色々あんで。あるけどまぁ総じてなんとかなるわ。この部屋にな、今六人おるやろ。六ってのはな、縁起ええねん」


「何の話やねん」

とっつぁんが呆れ返る。


「あれ、でも六ってむしろ縁起悪い数字違った?悪魔の数字やんな、キリスト教では」

とみとさん。6,6,6、と宙に指で数字を書いて見せる。


「でも中国では六って天を表す数字ですごく縁起がいいってきいたことあるよ」

さゆりさんも口を挟む。


「まぁ六は完全数やしな。オレは好きやけどな」

キリオ君も言う。


「まーまーまー」

ケンザキが両手で皆を制した。


「要はな、これから四年間、この六人で支え合っていこうということや。ほんでな」


「お前はよ」

ビシッと指をあおいに向ける。


「自分は関係ないみたいな顔してるけどな。お前も大丈夫や。ちゃんと居場所が見つかるからな」


あおいは呆気にとられる。あんたに何が分かるんだ、と憤る。ケンザキの指に挟まれた煙草をもぎとって鍋に突っ込んでやりたい衝動にかられるけれど、勿論そんなことはしない。関わるだけ無駄だ。結局そっぽを向いて知らんぷりを決めこんだ。最後に、ケンザキは煙草を持った指先をとっつぁんに向ける。


「あとお前はな、四年のうちにハゲる。」


とっつぁんの繰り出した平手がバチンといい音を立ててケンザキの頭をはたいた。

そこまで行って猛烈な眠気が襲ってきてあおいはテーブルに突っ伏した。お茶のストックはもうとっくに尽きていて、鍋の具をなんとか流し込むのに缶チューハイに頼るしかなかったのだ。見れば他の皆もそれぞれげんなりとした顔で壁やベッドにもたれている。ケンザキはぐぅぐぅと大きな鼾をかいて寝こけていた。


勘弁してよ、とあおいは思った。何この状況、頭おかしいんじゃないの?


今分かるのは、自分が完全に間違った入り口から大学生活に足を踏み入れてしまったというその事実だけだった。ちゃんと入り口用のドアがあるのに、わざわざ生け垣と柵を乗り越えてベランダから転がり込んでしまった、要はそんな感じ。早く元の世界に戻りたい。そう思うけれど、元の世界に戻ったところでそこに自分が何を期待しているのかは最早皆目わからないのだった。





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