第5話 名前
しばらくした後、やっと落ち着いて泣き止んだセルアは男の横にぴったりとくっついて座った。とても満足げな顔をしていて十二分に男に懐いた様だった。男もそれに嬉しくなってニヤリと口元が歪んでいた。気持ち悪い。
(かわいいなぁこいつ)
なんて可愛いセルアを眺めてみる。
するとセルアがあっ!と声を上げた。
「おにいさんの名前きいてないの…」
「あ、忘れてた」
自分で自分をアホだと思った。私もそう思う。
まぁ仕方ない。改めて自己紹介でもしようと男は息を着いた。セルアの瞳を正面からまっすぐ見た。
「俺の名前は」
…………………そこで止まった。
「……俺の、名前は」
何故だろうか。思考が回らない。いや、違う。
自分の名前が出てこなくなったのだ。男は自分の名前が急に分からなくなったのである。
(おかしい。さっきまで、会社にいた時までは自分の名前を理解していた筈なんだ。昨日までも分かっていたはずなんだ)
混乱する。酷く焦る。思考が歪む。いくら頭の中を巡っても自分の名が出てこない。記憶の中が霞がかったかのように揺らぐ。
何故だ?何故だ?何故だ?何故だ?……何故?
「おにいさん?」
「!」
セルアの声で我に返る。名前を言わないまま固まっていた様だ。
「もしかしてお兄さんお名前ないの?」
セルアがそんなことを口にした。きょとんとしたあどけない顔で男を見つめる。
名前が無いのか、なんて言われてしまった時。何故か男はどうもとてもそれに納得してしまった。あぁそうか自分は名前が無かったのか、と自分で自分を解釈したのだ。
この子の前では自分は嘘などつけない。自分には名前が無いという事こそが真実であると気づいたのだ。
男の瞳が黄色に輝く。
「………そうだな。俺には名前が無いらしい」
なんてとても穏やかな表情でそう答えた。ほんのりと柔らかくて爽やかな笑顔である。
「そっかぁ!えっとね、なら私がお兄さんの名前考えてあげる!」
と言ってセルアはうーん。と頭を傾げた。少し困った八の字の眉がお茶目で可愛い。そしてすぐにあっ!とキラキラ笑顔になった。何かいい名前が思いついたらしい。男はその様子をまじまじと眺めているだけだった。
「あのね!ラミア!お兄さんの名前はラミアがいい!」
その途端、男の心の中に何かが駆け巡った。風のように男の全身を飛ぶように駆け抜けたのだ。そして男はまた、理解する。
……そうか。
俺は、ラミアだ。
ラミアは今度は嬉しそうに微笑んだ。
俺はセルアのために生まれてきた