第4話 姉と魔女
はじまりの魔女ははじまりの魔女である
空気が沈む。先程までの2人の暖かな世界はもうそこには無かった。その悲しい事実に二人の世界に亀裂が入る。
「姉が死んだ……だと?」
「うん。お姉ちゃんのお部屋に行ったらね、お姉ちゃんがいっぱい血を流して倒れてたの。それでお姉ちゃん痛そうな顔でにげろって…それでわたし…」
悲しみの涙がどんどん溢れてくる。拭っても拭っても涙は止まらない。男は彼女の背中を擦りながら見守ってやることしかできなかった。
(それでここまで逃げてきたわけなのか…こんな、こんな小さな子供がたった1人で)
姉が目の前で血を流し倒れていた。それだけでもこの小さなセルアにはとてもショッキングな出来事である。おそらく姉は自分の身よりもセルアを案じて「逃げろ」と言ったのだ。それが姉にとって妹にできる最後の施し…だったのだろう。
ラミアは眉を潜める。優しくセルアを抱きしめてやった。包み込み慰めるように、優しく。
「辛かったな」
男はセルアが酷くたまらなく愛おしくなる。この子を守ってやらねばならない。この子の心を癒してあげればならないと心の中で呟く。できる限りの事はしてやりたい。愛情を注いでやりたいとそう願う。
「あの、ね、きっとお姉ちゃんが死んじゃったのは私のせいなの…」
セルアの小さな手が男の服を掴んだ。
「え…?」
「わたしお姉ちゃんに絵本を読んでもらおうと思ったの、きっと、それがいけなかったの」
「どういうことだ?絵本を読んでもらおうとしただけで?それだけで…?」
「うん。わがままなのがいけないの。わがままになっちゃうと嫌なことが起きるの」
セルアは涙を流しながらそう訴えた。目元が赤いく頬が涙で濡れ冷たくなっている。
そんな、そんなはずはない。絵本を読んでもらいたかっただけで。そんな子供らしい可愛げで小さなわがままでそんな悲しいことが起きるはずが無いのだ。
それでもセルアはそう考えている。そう思い込んでしまっている。小さなわがままを巨大な罪と思うほどまでに姉の死はショックであったのだ。それほどまでにセルアの心に深く突き刺さってしまったのだ。そのわがままは癒えぬ傷となってしまったのだ。
「そんなはずはねぇよ…そんな、っ…親はどうしたんだ?」
男は焦燥に駆られる。そして。
「おとうさんとおかあさんはいないの」
「!!」
セルアは悲しげにそう答えた。金色の瞳が潤む。いたいけな小さな女の子は男を見上げる。きゅっとしまったさくらんぼのような唇が少し震えていた。
「父親も母親もいなくて、姉も死んだ…?」
愕然とした。ただひたすらに悲しかった。心に酷く痛みが走った。それは感じたことの無い初めての悲痛だった。男の頬に冷や汗が垂れる。
セルアが切ない。
セルアには父親も母親もおらず。おそらく唯一頼れる存在であったであろう姉も目の前で死んだ。幼すぎるセルアにはとても悲しすぎる現実だった。
男は震える小さなセルアの両手を握った。拭き取った涙で濡れて冷たくなっている。
「お家ではね、わたしと、お姉ちゃんと、メイドと執事で暮らしてたの。でも、お姉ちゃんはいつもお部屋でお仕事してて、お家にいることも少なかったの。ダクラスとギティルもお姉ちゃんのお手伝いをしててわたしとあまり遊んでくれなかった… 」
セルアは肩を落とすようにそう言った。
ダクラスとギティルはセルアのメイドと執事のことだろう。…。
「それでもね、お姉ちゃんのこと大好きだった。優しくってね、色んなこと教えてくれたの。ダクラスとギティルもそう。みんな優しかったの」
「そのダクラスと、ギティルはどうしたんだ?」
「おねえちゃんが死んだ時はお家にいなかったの」
「そうか…」
その時メイドと執事はいなかった。それはいなかっただけであって姉のように死んでいるわけではないのでは?
つまり、まだ生きている可能性がありセルアを捜しているのではないか?
「セルア。メイドと執事はその時いなかっただけだろう?ならまだ生きていてお前を捜している可能性もあるぞ」
男は泣きじゃくるセルアの頭を優しく撫でる。
しかしセルアはその可能性に喜ぶことも驚くことも無くただ涙ぐんでいるだけだった。
「あのね、多分無理なの。きっと、二人共もお姉ちゃんとおなじになってるの」
「え…?」
同じとなるとそれは姉同様に2人とも死んでしまっているということになる。何故だろうか。セルアはそう確信しているようだ。
「う…あの」
セルアは先程のように言葉を詰まらせた。ばつの悪そうな顔で俯く。自分の着ている服の裾をきゅっと掴んだ。
「どうしたんだ?言ってみろ」
男はできるかぎり優しく、セルアを怯えさせないようにそう言った。
「本当はお姉ちゃんが死ぬことはありえないはずだったの。すごくすごいの」
「…?それはどういうことだ?」
「お姉ちゃんは魔女なの」
…魔女、それは超自然的な力を有する存在。大昔に存在したとされる魔術師だ。が、魔女はこの現代では確認はされていない。少なくとも。
子供だからなのか、姉を偉大なる魔女という様に捉えているだけなのだろう。しかし、この子は「姉が偉大なる魔女であったにも関わらず死んでしまった」と言っている。
ということは本当に姉は魔女だったのだろうか。
いや、それこそセルアによる「姉は偉大な魔女である」解釈から導き出した答えなのだろう。姉の死を嘆くあまりに引き出されてしまった云わば修飾なのだ。魔女などありえない。
そしてメイドも執事もセルアにとっては姉と同じような「偉大なもの」だったからこその修飾をしたのだろう。きっとその2人も彼女に何かしらの力を持っていると思われるほどの存在であったのだ。…男はそのように解釈した。
「ギティルが言ってたの。お姉ちゃんはとても凄いことした魔女さんだったって。だから…」
セルアの大きな金色の瞳がまた潤む。この子は姉を尊敬していたのだろうな、と見なした。
「そうか…」
「…やっぱり、お姉ちゃんが言った通りお外は怖かったの」
セルアは俯いてそう言った。
「人間はみんな怖いことするの…」
セルアはそう呟いた。
人のことを人間呼ばわり?セルアは自分の中で人を人間と差別している?こんな幼い子が自分以外の他人を違うものとして認識しているのか?自分も人間でありながら何故…?これも姉の影響によるものか?
「…人間に、何されたんだ?」
男はそのまま慎重にセルアに問いただす。
「私と同じくらいの子たちにね、髪が青くて目が黄色くて気持ち悪いって言われて石を投げられたの……おとなの人間たちも私のこと変って言ってた……」
「!だからお前あんなに汚れていたのか…」
セルアは小さく頷いた。
……男は厭う。
人というものを初めて嫌悪した。可愛くて無邪気で幼いセルアを邪険にした人を、人というものを初めて憎たらしく思った。
ギリ、と奥歯を噛む。口元が歪み眉に皺を寄せる。男が微笑みの次に表にみせたのが人に対する嫌悪の表情だった。
「…教えてもらったの。人間は自分にそっくりなひとしか好きになれないんだって。知らないものやおかしいものを好きになろうとしないんだって。やっぱり私はおかしいの…?この髪も目もおかしいの……?」
外の世界を知らなかった子はまた目を潤ませた。人間と自分の差にはじめて酷く気付かされたのだ。あの痛みと、あの罵声で思わせられる。
恐怖したのだろう。人間に。
姉の死に加え、人間から虐げられたその心は深く深く傷付いていたのだ。セルアには全てが恐ろしく見えていたのだ。
しかし。
「おかしい訳ないだろう!この朝焼け色の髪も金色の瞳も綺麗だ。すごく綺麗だ。誰がなんと言おうとお前は綺麗だよ」
男は必死に言った。セルアの髪を手で梳くい頬を撫でる。それは全くの真実で嘘偽りなどない、心の奥底からの言葉だった。
セルアは本当に美しいのだ。客観的に見て平常的な目で見て価値観の幅を越えてまで言えるほどにとんでもなく美しいのだ。小さくて幼いながらもその美しさは確固として明瞭に明確に明白に疑う余地もなくそこにはあった。髪が青くても、目が黄色でも美しい。いいやそれ以前に美しいのだ。
つまりセルアは永久に美しい訳で。容姿だけではない、心もだ。
……その思いはセルアに届いたようだった。
「ほんとう?」
その言葉を聞いたセルアはまた涙を流した。ポロポロと小さな宝石の礫が頬を流れる。そして顔をくしゃくしゃにして声を上げて泣き喚いた。
セルアは記憶の隅から思い出す。姉が生きていたあの頃を。昔、自分と姉とメイドと執事の4人で過ごしていたあの時を。
(お嬢様。なんの心配もありませんわ。貴方様はとても美しいのです)
(自信をお持ちくださいお嬢様)
(そうだぞセルア。ほら、私の髪は深緑と若紫だ。その桃色の朝日が広がり始めた夜空の様な髪となんだか似ているだろう?お揃いじゃないか)
姉が目の前で屈む。その笑顔はとても優しくて安心した。姉のまっすぐな深緑と毛先が若紫の色をしたグラデーションの髪が揺らめく。セルアは自分の青いふわふわの髪と見比べた。
(少しでもお前と似た箇所があって嬉しいよ)
(セルア、もし外の世界に出たとしても絶望することは無いんだ。お前を認めてくれる者は必ずいる。だからもしその時が来たとしてもお前は心配しなくていい)
(必ずお前を守ってくれる者がいるよ)
姉が頭を撫でてくれた。とても暖かった。ふわりと幸せな気持ちになった。
(これは魔女との誓いだ。はじまりの魔女としてセルアに誓うよ)
魔女は愛しいセルアの額にそっと口付けをした。
その光景がセルアの瞳に蘇る。
セルアは確信した。魔女との誓いはたった今果たされたのだ。セルアを認めてくれる者が、愛してくれる者が今、目の前にいた。
セルアは泣き崩れる。涙が枯れるほどに泣き叫ぶ。姉との思い出のカケラが煌めき、傷は瘡蓋となって剥がれ落ち砂となって溢れる。男は彼女を精一杯抱きしめた。泣き崩れるセルアを抱きしめる力が増す。
(おにいさんとってもあたたかい)
セルアはしゃくり泣きながらそう考えた。こうやって抱きしめられるのはとても久しぶりで。この男とは初めてだけど懐かしいようで、今まで忘れていた一番大好きな温もりな気がして、とてもとても心地よかった。…こんな存在を心から求めていたのかもしれない。セルアも男に縋る様に抱きしめ返した。ぎゅっと男の服を握る。
それはまさしく二人だけの時間だった。