第1話 Re;
男はエリートだった。ともかくエリート。何をしてもエリート。
社会的に優れた人材。皆の憧れ。会社の稼ぎ頭。そんなエリート。
つまり彼はエリートなビジネスマンなわけだった。
優秀、逸材、俊才。与えられた仕事は丁重にこなし、得意分野なら必ず期待以上の成果を出す。
それが彼。それがエリート。何でもできる男。しかも眉目秀麗。整いに整っている。
細身だけども筋肉質。足が長い高身長。顔の造形もまぁ整っていること。まぁまぁまぁ整いまくっていることだ。
要するに、花も恥じらうようなその男は全部が完璧だった。あれもこれも全ての意味でオールマイティだった。
しかし。彼は空っぽだった。
才能もある。容姿も優れている。それでも彼はからっぽだった。
満たされない。満たされたい。何かが足りない。何かが欠如している。明らかに。明確に。
それは意思あるものとは言えぬ空虚な存在。意思なきものは無に等しく。ないだけのもの。
だからこそ彼は生きていない。肉体を持っていたとしてもそれは意思のないからっぽでは意味が無い。
男は、まさしく死んでいる。
お昼時の休憩時間。腹も空かぬ男は会社からやや離れた公園の噴水の縁で黄昏ていた。
彼は休憩の時はこうやって一人項垂れて適当なことを考えるのが日課である。遠くで走り回っている園児たちの活力はどこから来ているのか知りたいものだし、背中で水が流れ落ちる音は聞いていて飽きないもんだと無想したり。とてつもなくどうでもいいことを連想しているだけだった。エリートビジネスマンの頭の中は結局こんなものである。彼自身考えることは嫌いじゃないようだが。むしろ頭の中で叫びやすいタイプの男だが。覇気もない気怠いその雰囲気を纏う情けない奴のその顔面はしっかり整っているのが腹立つ。
男が虚空を眺めていると、横でぱちゃぱちゃと水が滴る音がした。噴水の流れる音とは違う別の音。男は我に返り音の方を向く。
目線の先に幼女がいた。その幼女は噴水の溜まった水を手ですくいあげて飲んでいる。
その幼女は異様だった。顔は見えないが、ぼさぼさのグラデーションのかかった青とピンクの朝焼け色の髪。ボロボロで薄汚れながらも質の良く高そうな淡い桃色のドレス。胸元のリボンには金色の宝石が輝いている。どこかの金持ちの子だろうか?そんな子供が何故独りで…?
ともかく彼は噴水の水は飲むには衛生的に良くなかろうと思い、ひとまず声をかけることにした。
「おい、やめておけ。噴水の水は飲むもんじゃない」
そう言ってやると幼女はビクンと跳ね上がりこちらを見て体を小刻みに震わせた。顔は俯いていてやはり見えない。
「あ…ごめんな、さい…っ」
みるからにその幼女は男に怯えていた。水に濡れた手でスカートの裾をぎゅっと握りしめている。
警戒されたと察した男はこれ以上この幼女を怯えさせてはいずれ怪しい男と認定され不審者扱いされてしまうと恐れ、なにか出来ないかと考える。
「…待ってろ」
幼女を噴水の縁に座らせて男は自販機にて水を買った。男はそれを屈んで幼女に渡す。幼女はそれをぎこちなく受け取った。しかし幼女は水の入ったペットボトルを見つめたまま何もしなかった。
「…開け方を知らないのか?」
その言葉に幼女の体はまたビクン。そしてコクリと小さく頷いた。本当に分からないらしい。
(最近の子供はこいつの開け方を知らないもんなのか?子供ってのはわからないもんだな)
仕方ないと男は幼女からペットボトルを取って代わりに開けてやった。そして再度ペットボトルを渡す。
「ほら」
また男から水を受け取った幼女はしばしその水を見つめてから一気に水を飲み始めた。ごくごくと必死に水を飲む。男はその様子を見ながら幼女の横に腰掛けた。
ぷはぁ、と幼女が口を離して息をつき、また水を一心不乱に飲み出した。
(そんなに喉が乾いていたのか。まぁそうだろうな、噴水の水を飲むほどだ)
男は辺りを見渡し水飲み場を見つけた。
(きっとあれの使い方もわからなかったんだろう。いや、まずあれから水が出ることも知らなかったんだろうな)
再度、幼女を見やる。繰り返し息をつきながら水を飲んでいる。その必死さが可愛らしいのかもしれない。
(……外の世界を知らなかったのか。ずっと家の中に閉じ籠っていたのか…?)
幼女は時間をかけながらも水を飲み干した。その様子に男は安堵する。
そして幼女は男の方を向き、
「おにいさん、ありがとう」
と、溢れんばかりの笑顔を見せた。
男はその子の顔を初めて見て、その笑顔を見て、ある思考が頭の中を巡った。
なんて美しく、なんて可愛らしく、なんて愛らしいのだろうか。これは希望で。自分の中を満たしてくれる。この子こそが。この子こそが自分の。
やっと見つけた。やっとやっと出逢えた。
…守らねば。命に変えてもこの子を守らねばならない。
俺はこの子のために生まれてきた。
俺は今、生まれたんだ。
鈴の音はもう響かない