◆プロローグ◆
小さくて可愛いあの子は絵本を抱きしめて屋敷の廊下を小走りしていた。たくさんの扉が並んだ廊下をぽてぽて走れば階段を登って奥の部屋を目指す。
あの子はその奥の部屋の数歩手前で立ち止まり大きく深呼吸をした。
「今日は一緒に読んでくれるかな」
と呟いてまた扉まで歩き出した時。あの子は部屋の扉が少し空いているのに気づいた。
「?」
いつもは閉まっているのにどうしたのだろうと不思議に思いまた歩き出したその時。
「………げ……」
「!」
扉の向こうから微かに声がした。それに気づいて下を見やると。
「!!おねえ……ちゃん……?」
姉が扉の向こう側、つまり部屋の中でで倒れていた。姉はなんとかこちら側を見上げている。その体は震え痛々しく苦悶の表情を浮かべている。
あの子はその恐ろしい光景に体を硬直させた。信じたくないと鼓動が早くなる。全身に悪寒が走る。
あの子は理解した。理解してしまった。もうすぐ自分の姉が目の前で死んでしまうことに。もう長くないことに。
抱えていた絵本が腕から滑り落ちた。
「に……げろ」
「!」
倒れた姉の体から血が流れ出てくる。それは扉の下の隙間まで流れてきた。ボルドーのシックな床がまた赤く染まる。
「にげるんだ……!」
あの子は姉の言葉で我に返り、そのまま振り返って走り出した。
あの子は全力で走った。今までで1番走った。振り返らずに走った。必死になって屋敷から飛び出た。
「おねえちゃんごめんなさい…!ごめんなさい…!」
あの子は走る。ずっとずっと走る。涙を流しながら。姉の死をその小さな体に受け止めながら。誰が姉をあのようにしたのかも分からぬまま。巨大な罪の意識と共に屋敷の外の世界を精一杯駆けて行く。
……視界が揺れる。溢れる涙のせいなのか目の前はぼやけてしまう。それでもがむしゃらに走った。喉が痛むほど息を荒くして走った。
悲しくて悲しくて悲しくて。
独りぼっちは悲しくて。
絶望的な気持ちだった。
辺りが霧に包まれる。
…………………鈴の音が聞こえた。
意識が朦朧とする中、残った姉は遠ざかって消えた妹の姿を見て、頬を緩めた。
「そうだ……それでいい……」
血がまだ溢れ出る。でも姉に恐怖なんてなかった。彼女はある可能性を望んでいた。だから、大丈夫だった。
最後の笑みが零れる。
「逃げて……生きるんだ……私のかわいい…我が…妹………」
体から力が抜ける。最愛の妹を見送るために上げていた頭がガクリと床に落ちた。血溜まりだけが広がっていく。屋敷に静寂が灯る。
(愚かな姉を許してくれ)
その瞳からゆらりと光が消えた。
《……観賞不可》
なぜ姉は死んだのか。何があったのか。
……………それを知るものは、誰もいない。