第9話 白い犬とおじいさんとの別れ……そして皮肉な新しい出逢い
―それから1週間後
「ったく、何であたしが引き取りに来ねぇといけねぇんだよ! それも仕事が休みの日にだぜ!!」
「…………」
獣医の女性は、知り合いの動物病院から白い犬を抱き抱え出てきました。白い犬は無事手術を終え、麻酔で眠っていましたがとても安心した表情を見せていました。
「よっ、っと。よし! これでいいな。うん。オマエも良く頑張ったな」
獣医の女性は白い犬をゆっくりと丁寧に毛布が敷かれた車の後部座席に乗せ、頭を撫でました。そして一路おじいさんの家を目指します。
「ったく、何ですぐに出てこねぇんだよあのクソじじいわ!!」
ピンポーン、ピンポンピンポン♪ 獣医の女性は苛立ちを表すように、呼び鈴を鳴らしまくっていました。
「やかましいわ!! 何度も何度も呼び鈴を押すでないに!! って、お主か。まったくふざけおって。イタズラ癖は未だ治っていないようじゃな」
おじいさんは呼び鈴の騒音に耐えかねて、家から飛び出してきました。っと言っても、おじいさんは右足が不自由なのでゆっくりと歩いてでしたが。
「ふざけてんのはどっちだよじじい! こちとら休み返上して、動物病院にまで行ってやったんだぞ! 感謝の1つもしやがれってんだ!!」
「わかったわかった、お前さんには感謝しとるわい。ほれこのとーおりじゃよ。で、例の犬の手術は無事成功したんじゃろ?」
おじいさんが軽口を叩き感謝の言葉を述べると、獣医の女性は「それで感謝してるのかよ……ったく」っと苦言を示しながらも、車の後部座席に乗せられたあの白い犬を抱き抱え降りてきました。
「ほれ、このとおりだよ」
「ふむ……」
獣医の女性は白い犬の手術した足をおじいさんに対して見せました。
「やはり……切ることになったのじゃな」
「ああ。じゃないとやがては全身に広がって死んじまうからな。この子を確実に生かすにはこれしか他に方法がなかったんだよ」
二人は抱えられている白い犬の後ろ足を見つめていました。……いいえ今は無き後ろ足を、でした。
白い犬の右後ろ足の根元には包帯が幾重にも巻かれ、足自体は……そこにはありませんでした。
原因は骨折した際に傷口から感染症が広がり肉が腐ってしまったのが要因だったのです。この白い犬を生かすには、それ以上肉が腐るのが全身に広がらないようにと右後ろ足を切るしか選択肢はありませんでした。
もしも、これほど傷が悪化する前に適切な治療をしていたのなら……きっとこんなことにはなっていなかったでしょう。そう思うと悔やんでも悔やみきれません。
ですが、例え右足を1本なくしたとしても白い犬は生き残れたのです。あの曜日が書かれた保健所の部屋から生きて出ることができたのです。
本来なら数日前に処分されていた命です。数多くいる犬達の中から選ばれ、今も生きている……こんなに幸運なことはないでしょうね。
「よしよしっと。……今は麻酔で寝ておるのか?」
「ああ。もう少しで目覚めるだろうよ」
おじいさんは眠っている白い犬の頭を撫で、目を細めて微笑んでいました。
それからおじいさんと白い犬とは、苦労しながらも毎日の日々を過ごしていきました。麻酔から目覚めた白い犬は最初自分の足がないことに大変驚き、またそのショックから術後必要であるリハビリもまったくしようとしませんでした。ですが、おじいさんに「リハビリをちゃんとせぬと、いつまでも歩けぬぞ!」っと無理矢理散歩に連れて行かれ、そのおかげか白い犬は少しずつではありますが、普通に歩けるようになりました。
普通と言っても昔のように『スムーズに歩ける』とはいきません。ですが、おじいさんもまた右足が不自由でしたので、ゆっくりとした歩行速度のリハビリと証した散歩は全然苦ではなかったのです。
いいえ、苦どころか白い犬は散歩にいけること自体が嬉しくて堪りませんでした。
前の飼い主は散歩に行きたいと服を引っ張っても連れて行ってもらえず、白い犬は歩く喜びを忘れてしまっていたのです。白い犬は右後ろ足を1本失い、おじいさんも右足が不自由……ですがどちらも雨が降ろうが風が吹こうが、例えその時間を短くしても毎日散歩する習慣だけは欠かしませんでした。
また食事も1日2回っと、おじいさんは1食たりとも欠かすことなく白い犬に餌を与えていました。前の飼い主は酷いもので、1日1回どころか数日に1回あるかないかだったのです。
「ほれ、クソ犬。今日もオマエさんが大好きなボール遊びじゃぞ!」
「(コクコク)」
おじいさんの力ではボールを投げることはできませんでしたが、白い犬に取って来るようにと前の方に手で転がし、毎日のように遊ばせたりもしていました。
ですがおじいさんは何故かその白い犬に名前を付けず、最初にその白い犬を呼んだとおりの「クソ犬」っといつも呼んでいましたが、それは言葉が悪いだけで世話だけはちゃんとしていました。
おじいさんも白い犬も、そんな何気ない毎日が好きでいつまでも続くと信じていました。……このときまでは。
―それから1年後
「おい、じいさん! 大丈夫なのかよ!?」
獣医の女性がおじいさんの家に勢い良く入ってきました。
「……なんじゃ……オマエさんか……何しに来たのじゃ?」
そういうおじいさんは布団の上で横になったままでした。病気でもう起き上がることもできなくなっていたのです。本来なら病院で入院しなくてはいけませんでしたが、「ワシが入院したら、このクソ犬はどうするんじゃよ!!」っと、医者から進められていた入院を拒んでいたのです。
「こんなときにまで軽口叩くんじゃねぇよ!! アンタが死ぬそうだって聞いたから、来てやったんだろうがっ!!」
「ほぉ……オマエさんにもそんな殊勝な気持ちがあったんじゃのぉ……」
おじいさんはもう起き上がることができないほど、体が悪かったのです。
「まったく、何で死ぬときまでいつもと変わらねぇんだよ、アンタは……」
獣医の女性は呆れるようにそう口にしました。
「これがワシの性分じゃろうに……でも、ちょうどよかったわ。洋子の嬢ちゃんに頼みたいことがあったのからのぉ」
そういうとおじいさんは、自分が寝ている隣に置いていた大き目の封筒を獣医の女性に指先だけでスッ、っと少しだけ前にやり、これを見るようにと促しました。
「んんっ? これは何だよ……じいさん?」
獣医の女性は不思議そうな顔でその封筒を手にし、中を見てみることにしました。
「何だよじいさんこれ!? 『遺言書』と『この家の権利書』それに『保険証書』じゃねぇかよ!? 何でこんなものを……」
封筒の中には何枚もの紙や書類が入っていました。保険証書の受け取りの名義人には獣医の女性の名前が書かれていました。
「ふん……察しの悪いのは昔からじゃな。中を読めば分かるじゃろうが、ワシには家族と呼べる身内がいないのは知ってるじゃろ? だからオマエさんにワシのすべてを託すことにしたんじゃぞ」
「いやいや、こんなの貰う謂われはねぇぞ!? こんなの貰って何しろって言うんだよ……」
獣医の女性はいきなりの話で驚き、どうすればいいのか迷っていましたが、おじいさんはこう口にしました。
「金はいくらあってもいいじゃろうに……その金でオマエさんの夢を叶える足しにすればいい」
「あ、あたしの夢って……」
そこで獣医の女性は前におじいさんに話したことのある自分の夢を思い出しました。
「オマエさんの夢は保健所で処分される犬や猫を1頭でも、1つでも本当は助けるのが夢なんじゃったろ? ……なら、この金と家を有効に使って叶えればいいんじゃよ」
「……じいさん覚えてたのかよ。そんな昔言ったことを……」
「ああ、もちろんじゃ。オマエさんがウチに初めて来た時から全部……覚えておるぞ。オマエさんだけでなく、他の子たちも……のぉ」
おじいさんはその昔、児童養護施設(民間の身寄りが無い子供達を引き取り、育てる施設)を運営していました。そこで幼い頃預けられた中の1人に獣医の女性がいたのです。
「ふん。オマエさんが昔、ウチで飼っていた犬が亡くなった時に言ってたことじゃろ? 『自分の力で1つでも多くの命を救う。そんな大人になる!』……じゃったよな?」
「すんっ……まったくじいさんは、くだらねぇことばっか覚えていやがるんだからな……まいっちまうよ……」
獣医の女性は涙ながらにそう文句を言いました。
「今はどうなんじゃ? オマエさんはちゃんと救えているのか?」
「はぁーっ。ふっ……全然さ。毎日毎日、逆のことばっか……だもんな」
獣医の女性は自分の仕事である、毎日の出来事を振り返りながらそう言いました。
「そうじゃろ? だからこの金を使って……オマエさんの『その夢』を叶えてみるのがいいとワシは思ったのじゃぞ」
「はっ、まったく……アンタにはかなわねえなぁ~」
獣医の女性は呆れながらにその封筒を受け取りました。
「最後にのぉ……洋子に頼みがあるのじゃ」
「なんだい? この際だ……何でも言ってみなよ」
おじいさんは初めて獣医の女性を呼び捨てにしました。それはまるで、自分の子供に最後の望みを伝えるように……。
「この子を……このクソ犬をオマエさんに頼みたい……それだけがワシの心残りでのぉ……」
おじいさんは傍に伏せていた白い犬の頭を撫でながら、そう言いました。
「くぅん?」
白い犬は頭を撫でられ少しくすぐったそうに首を傾げ、おじいさんと獣医の女性に交互に目を向けていました。
「ああ、去年来たときに保健所から引き取った子だね。そういえばあたしが引き取り人になってたんだね。……すっかり忘れてたよ」
獣医の女性は思い出したようにその白い犬に目を向けました。
「オマエさんも知ってるとおり、この子も不幸な運命を辿ってきたのじゃ。このままワシが死んだら、この子はまた保健所に逆戻りになってしまうじゃろ? だから洋子……オマエさんにこの子を頼みたいのじゃ」
「ああ、分かったよじいさん。この子はあたしが責任もって最後まで面倒みてやるからよ。じいさんも安心して死にやがれってんだ……っ」
獣医の女性はおじいさんの最後の頼みを受け入れると、軽口を叩きましたが最後は泣いてしまい「ばかやろう「っと小声でそう言って泣き崩れてしまいます。
「ほら……シロ。こっちにおいで。オマエさんの本当の名前は『シロ』じゃったんだろ? 今まですまなかったなぁ~……名前で呼んでやらないで……」
「くぅん」
おじいさんは白い犬を自分の元へ呼ぶと、今までのように『クソ犬』とは呼ばず本来の『シロ』っと名前を呼びました。シロもまたおじいさんとの別れを惜しむように、頭をこすりつけ頬や手を舐めます。
「実はワシも……怖かったのじゃ。オマエさんに名前を付けると、また『大切なモノ』を失いそうでのぉ……」
おじいさんはそういうと昔の出来事を語り始めました。
おじいさんには元々、今は亡き身重の奥さんがいました。ですが、その当時の日本は戦争真っ最中でした。戦況が悪化すると、やがておじいさんは戦争へと徴兵されてしまい『オレが帰ってくる頃には、オレとオマエのガキが生まれてるだろうな……。オレはそのガキに名前を付けるために必ず戻ってくるからな!』っと、言い残し身重の奥さんを残したまま戦場へと向かいました。
おじいさんは毎日いつ死ぬか分からない恐怖と、自分の妻と子供に会えなくなる恐怖で押しつぶされそうになっていました。ですが、『子供に名前を付けるために生きて戻るんだ!』そう心に決め戦場で戦っていました。
しかし、運の良いことに戦場で右足に怪我を負っておじいさんは日本に戻されることになったのです。『ふん。右足はダメになっちまったが、これで妻と……まだ見ぬ子供に会えるぞ!』っと生きて帰れる喜びで胸がいっぱいでした。
ですが、日本に戻ってすぐ妻の元へと駆けつけましたが……妻と生まれたばかりの子供は空襲によって死んでしまっていたのです。
おじいさんは「自分は何のために生きてここに戻ってきたんだ? これでは生きて戻ってきた意味がないじゃないか……」っと生きる意味を見失っていました。
そこで、ふと目にしたのは戦争で両親を失って身寄りの無い子供達でした。今の自分と同じで『大切なモノ』を失った子供達……「その子たちを1人でも多く救いたい!」「それは顔も見れなかった自分の子供に報いるためでもある!」っと、身寄りのない子供達を育てる民間の『児童養護施設』を作ったのでした。
「シロ……オマエさんじゃって、ワシの大切な子供の一人なんじゃぞ……わかるか? なぁ」
「くぅん」
おじいさんは優しく語りかけながらシロの頭を何度も何度も撫でました。またシロもおじいさんの言葉を理解したように頭をこすりつけてきました。
「シロ……オマエは最後の最後までまったく声を出なかったのぉ~。それだけツライことを体験したきたのじゃな……」
シロはおじいさんに引き取られてから1度も吠えてことがありませんでした。それは人間から酷い仕打ちをされ、心に傷を負って声がでなくなったのかもしれません。
「まったく……シロよ。オマエはシアワセになれるのか? ……それだけが……ワシの心残りじゃっ……た……」
「くぅん、くぅん」
(おじいさん死なないで! 死んじゃ嫌だよ!! ボクを置いていかないでよ……)
シロは必死におじいさんの頬を舐めてそう語り続けましたが、もうおじいさんがシロに応えることはありませんでした。