アナスタシアの思い †
雪の魔女、アナスタシアの館は文字通り雪に包まれていた。
冬はもちろん、春が訪れ新緑が芽生える季節になってもアナスタシアの館の雪は溶けない。
夏になり虫が鳴き始めても館の氷は溶けることはない。
その館はまるで季節を忘れてしまったかのように凍り付いていた。
そんな館に一組の男女がいる。
一人は氷結の瞳を持った魔女、アナスタシア――
この館の主である。
アイスブルーの瞳に白銀髪、その姿は氷の彫刻を思わせるが、彼女の心臓は鼓動していた。それを証拠に肺に空気が満たされるたび、胸は上下している。
一方、その傍らにいる男の方は、生気に満ちあふれていた。
顔色も良く、肌つやも良い。
むしろ肥満気味の身体を持て余しており、その身体や仕草を含め、アナスタシアとは対極の存在であった。
彼を一言で評するのならば、俗物、という言葉がぴったりであろう。
事実彼は俗物であることを証明するかのような発言をアナスタシアにした。
テーブルを挟んで向かい側にいる魔女に向かい男は言った。
「雪の魔女よ、本当に約束は果たしてくれるのだろうな」
その言葉は焦燥感に満ちていた。
アナスタシアにはそれが滑稽で仕方なかったし、本来ならばこのような俗物と語り合う時間さえ惜しいのだが、あえて口を開いた。
「妾が大恩ある貴殿との約束を反故にするとでも?」
極北の風のような冷たさをはらんだ言葉だった。
目の前の男は思わずひるむ。
「ま、まさか、雪の魔女の実力を疑うような真似はしない」
しかし、と男は続ける。
「しかし、ホムンクルスの情報を掴んだというのに、我ら帝国軍諜報部になにも教えてくれない、というのは秘密主義も度が過ぎるのではないか。これではまるで我々を信用していないと言っているようではないか」
「お前らなどはなから信用していない」
と、アナスタシアは思っていたが、口にはしなかった。
目の前の男、帝国諜報部中将ケーニッヒのことを恐れることなどなかった。
いや、中将個人だけでなく、帝国軍でさえ恐れてはいなかった。
ただ、アナスタシアは個人の願望を叶えるため、賢者の最終目的を成就するため、帝国軍に協力している振りをしているに過ぎない。
目的さえ達すれば、このような小物を切り捨てるのになんの躊躇も感じなかった。
――ただし、この男を切り捨てるのはまだ先である。
今はまだ早い。
アナスタシアの手中にはまだ切り札はなかった。
ホムンクルスという賢者の石にも匹敵する存在を手中に収めたあとこそ、手のひらを返すべきだろう。
今はまだよしみを通じておくべきだった。
たとえどのような愚物でも、帝国軍の中枢で権力を持っているものは役立つのだ。
そんなふうに思いながら、アナスタシアは口を開いた。
「ホムンクルスの所在を秘匿しているのは、ひとえに帝国軍、いえ、皇帝陛下の御ためでもあるのです。ホムンクルスはたしかに存在しますが、その存在が世に露見すれば帝国軍だけではなく、聖教会や他の有力な魔術師も目を付けましょう。そうならば捕らえて保護するどころではなく、血みどろの争奪戦となる」
ホムンクルスは生きて捕らえねば意味はありません、アナスタシアは淑女の口調で主張した。
「たしかにその通りだが、そのホムンクルス争奪に、我が国の跳ね返り皇女が参戦してきた、という情報もあるのだ」
跳ね返り皇女とは、あのカイトとかいう賢者の横にいた女のことであろうか。
大帝国の軍人が何十人もいる皇女一人を恐れるというのは滑稽であるが、アナスタシアはケーニッヒが皇女を恐れる理由も察していた。
ケーニッヒは帝国の軍人であるが、それと同時にとある皇族の有力な後ろ盾でもあった。
皇帝に気に入られる武功、――つまりホムンクルス創造の秘密を解き明かし、自分の庇護する皇族を立太子させたいのだろう。
その皇族が立太子され、次期皇帝になれば、帝国の権力を思うがままにできる。
それは目の前のような俗物にとって、至高の喜びに通じるものがあるのだろう。
理解できるが、共感はできない。
だからこそ、アナスタシアはこのような小物と手も組めるし、利用するのになんら良心の呵責も覚えない。
アナスタシアは囁くように言う。
「ご安心ください、閣下。半月もしないうちにホムンクルスの秘密を解き明かし、永遠の命の秘術を皇帝陛下に施して見せましょう」
「それはまことか?」
「なんなら誓約書でも書きましょうか?」
アナスタシアは薄く笑う。
そのようなものはなんら効力はなく、またそのようなものが表沙汰になれば困るのはケーニッヒだと分かった上での言葉である。
事実、ケーニッヒは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
もしもケーニッヒが美男子であるのならばしばしその苦渋の表情を鑑賞していたかったが、残念ながら彼はアナスタシアの審美眼には耐えられない凡庸な容姿の男だった。
このまま会話を続けていても良かったが、それは双方にとって不幸になるだろう。
アナスタシアはケーニッヒに帝国に戻るよう告げた。
「ここは大賢者の館、そう言われれば部外者である我々は立ち去るしかありませんな。――しかし、決して忘れないように。いくら大賢者とはいえ、帝国の武力の前ではどうにもならないことを」
「ご忠告痛み入りますわ」
アナスタシアがそう返答すると、ケーニッヒはきびすを返し、部屋から出て行った。
それと入れ替わるように入ってくる異形のもの――。
醜怪な仮面と真っ黒なローブを身にまとった男は、アナスタシアに尋ねた。
「アナスタシア様、あのような男に『生命の創造法』を本当に渡すのですか?」
忠実な下僕である彼はそう尋ねてきた。
アナスタシアはテーブルに置かれた葡萄酒を口に付けると、他人事のように言った。
「そうね、それも悪くないわ」
「…………」
沈黙する従僕。意外な言葉だったのだろう。
しかし、それはアナスタシアの本心であった。
「しかし、それではあまりではありませんか。アナスタシア様が何百年にも渡って研究を続けてきた成果を、俗物の中の俗物たるあのような男に渡すなど」
「何百年にも渡って研究を続けてきたから、そのような愚行も一興だと思っているのよ。ローランド――」
アナスタシアは忠実な従僕の名を呼ぶとこう続けた。
「妾は300年ほど前、望まぬ形で不老不死の身体を手に入れた。肢体をばらばらにされようが、業火で焼かれようが、妾は死ぬことさえできない」
「…………」
ローランドは沈黙する。
アナスタシアが不老不死の身体を手に入れた経緯を知っているからだ。
アナスタシアは実の父親の魔術の実験台にされ、人間ではない生命体となった。
アナスタシアの身体は人間とホムンクルスの中間のような存在となり、今日まで老いることもなく、朽ちることもなく生き続けてきた。
不老不死の身体――。
口にするは容易いが、実際、その身体を手に入れたものは、地獄のような責め苦を味わう。
300年前、あの夜、実の父親に心臓をくり抜かれ、生け贄に捧げられて以来、アナスタシアは毎夜、全身に針を突かれるような苦しみを味わっている。
呼吸をするたび、肺を灼熱の炎に焼かれるような苦痛を受けていた。
何度死のうと思ったか、何回この身体を消し去りたいと思ったことか。
しかし、いくら自分の身体を切り刻もうとも、死ぬことはできない。
溶岩の中に飛び込んでも、自分を消し去ることはできない。
アナスタシアの身体はその程度では死なないようになってしまった。
無論、何度もこの生き地獄から脱出しようと努力はした。
世間から賢者と呼ばれるようになるくらい勉学に励み、魔術を極めた。
この300年間、ただひたすらに研究に励んだ。
この世界に6人しかいない大賢者にもなった。
しかし、そのような存在になっても、アナスタシアは『人間』に戻ることはできなかった。
300年間のときを掛けて行き着いた結論が、『もうどうにもならない』であった。
それはたとえ、『本物』のホムンクルスを手に入れたとしても同じだろう。
アナスタシアの身体が、心が、もうどうにもならないと叫んでいるのだ。
「ならばどうして自分はあの娘、フィオナというホムンクルスに拘るのだろうか?」
うちなる自分が語りかけてくる。
たとえ本物のホムンクルスを入手し、それをもとに実験を重ねても自分の身体がもとに戻ることはないだろう。
300年ほど前のように心臓で鼓動をし、普通に呼吸をし、普通に笑い、普通に死ぬことはできない。
それは既定の未来であるのに、どうしてそれでも自分はあがなうのだろうか。
この凍てついた心がまだ僅かばかりの可能性に賭けているのだろうか。
アナスタシアは自分の胸に手を当ててみる。
無論、そこから心臓の鼓動は聞こえない。
実の父親にくり抜かれてしまったからだ。
自分の心臓があった場所からはただただ虚しい風の音が吹き抜けるだけであった。
「…………」
アナスタシアはしばし、服の上から自分の胸を押さえると、ぼつりと漏らした。
思ってもみなかった言葉だ。
聞いていた従僕はもちろん、発した本人が一番驚いているかもしれない。
そんな言葉であった。
「妾の父親は、自分の夢を叶えるために自分の娘の心臓をえぐり出した。
今から思えば畜生の所行であるが、当時の妾にとって父上の行動は正義であった。
この身を父上の役に立てられると喜んでいたくらいだ」
しかし、とアナスタシアは続ける。
「300年も生きると、その大好きだった父上の記憶もおぼろげになる。
優しかった父上の顔もどこかうっすらとしてくる。
父上の理想は正しかったのか、妾の行動は間違っていなかったのか。
そう問いただす夜もある」
アナスタシアはそう漏らすとこう締めくくった。
「妾は見たいのかもしれないな」
ホムンクルスの娘と人間の父親の間に愛情が生まれるのかを。
もしもふたつのことなる種族の間に愛情が生まれるのであれば、妾の人生も――」
アナスタシアはそこで言葉をとめる。
部屋に置いてあった鈴がなったからだ。
その鈴はアナスタシアの領地に侵入者が入ったときに鳴るように細工がされていた。
その軽やかな音を聞いてアナスタシアは思った。
今宵、この館にやってくる父と娘はどのような人生を送るのであろうか。
どのような結末を迎えるのであろうか、と。
あらゆることに興味を失ってしまっているアナスタシアであったが、彼らの結末だけは見届けておきたかった。
それが雪の魔女の偽りのない心情であった。