眠りの国のクロエ
胸から生えた薔薇の触手、寝息ひとつたてない安らかな眠り。
まるで童話の中のお姫様みたい、とはフィオナの言葉であるが、その表現は的を射ていた。
いつもは小うるさいメイドであるが、黙って目をつむっていれば、どこぞの小国のお姫様を自称できるほどに目鼻立ちが整っている。
俺は何百年ぶりかに自分が造り出したメイドの寝顔を眺めていた。
「クロエは主より先には絶対眠らない娘だからな。寝ているところを見るのは久しぶりだ」
俺はそう言うとクロエの銀髪を手ですくう。
なめらかでとてもしなやかな髪質をしていた。
「クロエの寝顔、綺麗だね……」
その台詞は娘のものだ。フィオナも改めて自分の姉にも等しい存在を見つめていた。
「……クロエ、元気になるといいな」
フィオナの本心が漏れる。
一刻も早くクロエの心臓を束縛する植物をなんとかし、クロエの笑顔が見たい。クロエの作ってくれたクリームシチューが食べたい、と娘は嘆いていた。
その気持ちは俺も一緒だ。
実はクロエが伏せてから、家事や食事など家のことはすべて娘がこなしてくれていた。
最初こそ娘の手作り料理が食べられると有り難がっていたが、最近、その嬉しさよりも寂しさの方が上回るようになっていた。
俺の脳や舌は娘の料理を欲していたが、記憶の方がクロエの料理を懐かしがっているようだ。
数百年間も同じメイドの料理を食べていると、舌にその感覚がこびりついてしまうものらしい。 これは早くなんとかしないとな、と善後策を考えていると、俺の耳に悲鳴が飛び込んでくる。
「きゃっ、お父さん、大変だよ」
その鈴を転がしたかのような軽やかな声はフィオナのものだった。
なにごとが起きたのだろう、娘の方に振り向く。
すると娘はクロエの口元に手を当てていた。
娘は俺の方を振り向くとこう言う。
「お、お父さん、クロエが息をしていないよ! ク、クロエ、死んじゃったのかな、ど、どうしよう」
う、うわーん、と今にも泣き出しそうな表情をしていた。
その姿に思わず笑みを漏らしてしまう。
娘の半べそ顔があまりにも可愛らしかったからだ。
このような表情を見るのは娘がもっと幼かったころ以来だろうか。
娘の友人(友熊)のユーノの腹が破け、腹綿が露出してしまったとき以来の表情かもしれない。
懐かしげにその表情を見ていると、娘は非難めいた視線を向けてきた。
この一大事になんでお父さんは慌てないの? そんな顔をしている。
たしかに娘にしてみれば一大事なのだろう。
娘に薄情な賢者だと思われたらかなわない。俺は娘の誤解を解くことにした。
「フィオナ、落ち着くんだ。クロエは機械人形だぞ、元から息をしていないじゃないか」
その言葉を聞いたフィオナは、文字通りほっと胸をなで下ろす。
「そ、そうだったね。クロエはお父さんが作った機械人形だった」
「その通り、機械人形は息をしないんだ」
「クロエは息をしなくても生きていられるんだね」
「ああ、だから海の底まで潜れるし、この大陸で一番高い山の上でもへっちゃらだ」
「クロエは高性能なんだね」
「クロエはいつも言っているだろう。クロエをそんじょそこらの機械人形と一緒にしてもらっては困りますね、って。だから大丈夫、雪の魔女ごときの呪いなんかに屈するものか」
娘を勇気づけるため、安心させるため、冗談めかしながらそう言うと、フィオナは平常心を取り戻したようだ。
娘は笑顔を作りながら言った。
「だよね、クロエはそんじょそこらの機械人形じゃないもの。きっと、すぐによくなって、またわたしたちにご飯を作ってくれるよね」
娘はそう結ぶと、眠っているクロエの白い手を握りしめた。
その姿を黙って見つめると、俺は娘の予言が成就するよう行動に出た。
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。
それが俺がこの千年という年月を変えてたどり着いた必勝法だ。
要は敵と戦うとき、事前に情報を収集し、準備を欠かさねば勝率は跳ね上がる、ということである。
単純にして当たり前のような行動であるが、凡人ほどこれを実践できない。
情報を軽視し、特攻を繰り返し、戦場の露と消えていった人間がいかに多いことか。過去、帝国軍に所属し、多くの人間の死を看取った俺はそのことをよく知っていた。
俺は彼らと同じ轍を踏まない。
まずは徹底した情報収集を行い、雪の魔女の弱点を探すことに力を注いだ。
情報収集には先日知り合った帝国の皇女様、ヴェロニカも協力してくれた。
彼女は身分を偽って魔術学院の教職をつとめる一方、自分の腹心の部下も連れてきており、リーングラード公国の内情を探らせていた。
さすがは一国の皇女様、如才ないというか、抜かりがない。
本人いわく、
「我はこう見えても帝国軍にも籍を置いているからな。しかも少将の位をたまわっている。婿取りだけにかまけていたわけじゃない」
とのことだが、婿取りの方はまだ諦めていないようだ。
娘に対する配慮も欠かさない。手土産は雪の魔女の情報だけではなかった。
公都でも有名な菓子店のシュークリームを買ってくると、
「これを未来の我の娘にあげてくれ」
と、俺に押しつけた。
やれやれ、と思ったが、このカーネリアン亭のシュークリームは娘の大好物であったし、甘いのが苦手な俺でも食べやすいものだったので、素直に受け取るとメイドに渡した。
「皇女殿下からのプレゼントだ。人数分のお茶を頼む――」
……無論、そのシュークリームを受け取るメイドはいない。
代わりにシュークリームを受け取ったのは娘だった。
娘は笑顔を浮かべると、
「ヴェロニカさん、ありがとうございます」
と、ぺこりとお行儀よく頭を下げた。
その姿を見てヴェロニカはむずむずと身もだえしている。
トイレにでも行きたいのかな、と思って訪ねてみたが、そうではないようだ。
「ああ、このような可愛い娘の母親になって思う存分なでてみたい」
彼女はそう心情を告白してくれた。
その未来が実現するか、それは神のみぞ知るが、今の俺には興味がない事柄なので丁重に無視をするとヴェロニカを居間に案内した。
居間に到着するとヴェロニカと二人きりになる。
フィオナが紅茶を注ぎに台所に向かったからだ。
我が娘ながらよくできた子である。
普段からクロエの家事を手伝っていたし、このような不測の事態、メイドさんがいなくなっても家事音痴の父親になにひとつ不自由をかけないのだから。
ますます嫁に出すのが惜しくなってくるが、娘の結婚問題に悩むのは遠い未来の話、今は娘の大切なメイドを救わなければならない。
なので娘が紅茶を持ってくるよりも先に俺は用件を切り出した。
「合理主義がドレスを着ているようなヴェロニカ先生がこのように来訪されるのですから、雪の女王について有力な情報が得られたと解釈してかまわないですか?」
そう問うと、皇女殿下はにやりと笑った。
「愚問だな、未来の婿殿」
自信ありげな笑みだった。首尾は上々だったのだろう。
「なにも我は紅茶を飲みにカイトの家までおもむいたわけではない」
「それでは紅茶は飲まないのですか? 娘が入れたダージリンは絶品ですが」
俺がそう言ったと同時に娘が今にやってきて、困惑している。
どうしよう、ヴェロニカさんの分はいらなかったのかな? そんな表情をしていた。
その表情を見たヴェロニカは慌てて否定する。
「い、いや、冗談だ。半分はフィオナの紅茶を飲むためにやってきたのだ」
ヴェロニカはそうやって取り繕うと、フィオナに紅茶に砂糖を三杯、それにミルクをたっぷり注ぐように注文する。
フィオナは、
「はい」
と満面の笑みで答えると指示に従った。
ついで俺と自分の分の紅茶を注ぐと、ちょこん、と俺の横に座った。
娘も雪の魔女の情報を聞きたいようだ。
今さら危険なことに首を突っ込んではいけない、などと普通の親のような注意はしない。
俺は娘と同じように真面目な表情を作りながら、皇女殿下の情報に聞き入った。