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皇女の思惑 †

 ノイエ・ミラディン帝国の皇帝、ヨハン・シュトラウス・フォン・ミラディンは七〇に迫ろうかという老人であった。


 14歳のときに即位して以来、50余年、この帝国の皇帝として大過なく国をまとめ上げていた。


 いや、ここ近年の皇帝としては特筆すべき業績を残しているだろう。


 帝国の周辺にある小国を軍門に下し、在任中に起きた衛星国の反乱をいくつも鎮圧した。


 もしも後世の歴史家が『ノイエ・ミラディン帝国史』を編纂することになったのならば、彼の業績は輝かしく書き立てられるに違いない。その治世の長さに比例するページ数が割り振られるだろう。


 名君――、とは呼べないまでも、凡君ということはできない。ましてや暗君と後ろ指指すことは誰もできないだろう。


 それは定まった歴史の見解であった。


 ただ、内政においても戦争においても、大きな失態は見せなかったが、ヨハン9世は帝国の統治者として見逃せぬ欠点を持っていた。


 それは自身の後継者を明確に定めていないのである。

 ヨハン9世は御年69歳、来週には70になる。


 健康的で病気知らずの身体。それに大地を踏みしめる両足もいまだ壮健で、頭部にはまだ黒髪も目立ち、およそ老いを感じさせない老人であったが、皇帝もただの人間、いずれは死ぬ。


 それもそう遠くない未来に。


 だのにヨハン9世はいまだ皇太子すら立てず、政治や軍事にも熱心に関わっていた。


 宮廷内の権力を一身に掌握しようと努めていた。


 それはこの老皇帝のあくなく欲望を示すものだ、と、宮廷雀たちはささやいていたが、ヴェロニカには違う見解があった。


「皇帝はただ死を恐れているだけさ。皇帝にとって皇太子など、自分の権力と生命を脅かす存在にしか見えないのだろう」


 ヴェロニカがそう言うと、その側近はほろ苦い首肯を見せた。


「皇帝――、いや、父上は、幼きころ、母上、つまり我の祖母を毒殺されて宮廷を追放された。以来、家臣の家で育ち、そこでも何度も暗殺者に襲われたらしい」


 しかもその暗殺者は実の兄や叔父たちが雇ったものだったそうだ。


「以後、父上は血で血を洗うような宮廷劇を勝ち抜き、玉座についた。肉親を、いや、人を信じられなくなるのも仕方あるまい」


 かくいうヴェロニカでさえ実の父親と面会したことは数えるほどしかない。

 しかもその際、暗殺に用いられる道具を持っていないか徹底的に精査された。

 実の父親に触れることさえかなわなかった。


「そのように病的な父上なのだ。後継者を立太子させないことはなんら不思議ではないが……」


 ヴェロニカはそうつぶやくと、側近に見解を尋ねた。


「皇帝の命はもってどのくらいなのだ?」

 と――。


 不穏にして不敬な質問だったが、側近はよどみなく答えてくれる。彼はヴェロニカの忠臣中の忠臣なのだ。


「もってあと数年、という報告です」


「あの壮健な父上が死ぬのか」


「巨大な帝国の皇帝だろうが、乞食だろうが、等しく死が訪れます。それが神の定めたもうた(ことわり)です。いまだその身体は壮健ですが、心の臓を病んでいるそうです」


「死病か?」


「国中から医者や薬師、神官を集めているそうですが、回復の見込みはないとのこと」


「あの妖怪みたいな父親が死ぬのは一向にかまわないが、その後が心配だ。後継者を定めずに死ねば、必ず後継者争いが起きる。無能な兄や弟たちが珠玉の座を狙って抗争を繰り広げるだろう」


 さすれば帝国臣民の血が大量に流れる。

 それだけは避けたい。

 とヴェロニカは思っていた。

 側近もそれには同意のようだ。さりげない口調でこんなことを進めてきた。


「ならば後継者争いが起きないようにすればいいでしょう」


「簡単に言ってくれるな」


「簡単なことでございます。ヴェロニカ様が後継者になればいいのです。この帝国の」


「女帝は久しいぞ」


「ですが、例がないわけではありません」


「父上が我を皇太子に指名するとは思えない」


「そうでしょうか」


「知っているくせに。我の母の身分は低い。皇位継承権も下から数えた方が早いくらいだ」


「なにせヨハン9世陛下には何十人も子がおられますからな。たしかにヴェロニカ様が皇太子に取り立てられるのは雲を掴むような話かもしれない」


 ですが、と側近は続ける。


「それは皇位継承権上位の兄君たちも同様。いや、むしろ、疑り深い陛下は兄君たちこそ自分を脅かす存在として疎んじいる節がある」


「たしかにそのとおりだが、だからといって我が可愛がられているとも思えないが」


「しかし、可愛がられることは可能かもしれません」


「そんなことが可能なのか?」


「可能です」


 そう言うと、側近は、懐から一枚の書状を取り出す。


「それはなんだ?」


 ヴェロニカが尋ねると側近は言った。


「陛下が、最近、不老不死に執着されている、という話はご存じですね」


「ああ、知っている。魔術師どもをかき集めて実験をさせていると聞く」


 かんばしい成果は得られていないようだが、と続ける。


「そもそも我は永遠の命など欲しくもない。人間、等しく年をとり、死んでいくのが自然なのだ。我が皇帝になったらそのような研究は真っ先につぶす」


「まったく同感です。ですが、逆にお考えください。陛下は不老不死に執着しています。もしも、ヴェロニカ様が不老不死の法を陛下にほどこせる、となったら、ヴェロニカ様の覚えもめでたくなり、立太子させるのではありませんか?」


「なるほど、たしかにそうかもしれないが、もしも父上が不老不死になったら、我が皇帝になる日もこないではないか」


「なにも本当に不老不死の法を見つけ出す必要はありません。不老不死に近づける、と信じ込ませればいい」


 側近はそう言うと、一枚の報告書を差し出した。


「これは?」


「2年ほど前に帝国の情報部に出回った怪文書です」


 それを読み上げるヴェロニカ。


「帝国のローウェン地方にてホムンクルスが創造された形跡あり、か」


 そう読み上げると、ヴェロニカは側近に尋ねる。


「しかしこれは結局、デマであったのだろう?」


「はい、情報部はそのように解釈しました。その後、ローウェン地方の魔術師をくまなく精査しましたが、誰もフラスコの中の小人を創造したものはおりませんでした」


 側近はそう断言すると、こう続けた。


「――少なくとも生者の中には、ですが」


 その言葉を聞いたヴェロニカは眉をしかめる。側近に真意をただす。


「その後、私どもが独自に調査したところ、とある魔術師が死を偽装し、国外に逃亡したのではないか、という報告が上がってきたのです」


「ほう、それは怪しいな。子細は分かるのか?」


「はい。国外に逃亡したと思わしき男の名前はカイト、あの鮮血の魔女の弟子でございます。過去、帝国で従軍魔術師をしていた経歴がありますが、それ以外はローウェンの山奥に引きこもり、研究に明け暮れていた男です」


「あの鮮血の魔女の弟子か……」


「そのカイトなる男は、金髪の娘を連れております。村の人間に問い合わせましたが、ホムンクルスが生まれたと思わしき時期に、カイトのメイドが村を訪れては、人間や山羊の乳を買い求めていたそうです」


「なるほど、怪しいな。その娘の資料はあるのか? それとカイトという男の」


 無論。側近の男はそう言うと、資料を差し出す。

 それを受け取るヴェロニカ。

 ヴェロニカはその資料にくまなく目を通す。


 一枚一枚、時間を掛け、丁重にページをめくるが、その指もとあるページでとまる。


 そのページには、カイトとその娘の姿形を《複写》の魔法でコピーした絵が添付されていた。


 ヴェロニカはその絵に釘付けにされたのだ。

 思わずうなってしまう。

 そして思わず漏れ出てしまう。心の奥底の言葉が。



「こんなにも格好いい殿方と可愛い娘がこの世界にいるだなんて」



 その言葉を聞き取れなかった側近は「は……?」という顔をしている。


 側近の視線に気がついたヴェロニカは、上気した頬を見せまいとくるりと回り、軽く咳払いをした。


 振り向かずに語りかける。


「なかなかによく調べてある資料だ。しかし、まだ確証はない。この娘がホムンクルスであるか、もっと精査しなくては」


「承知しました。早速、間者(かんじゃ)を向かわせますか?」


「いや、それは無用だ。これは大事な任務。他人には任せられない」


「といいますと?」


「我、みずからリーングラード魔術学院におもむき、そのカイトという人物とフィオナという人物を調べる」


「皇女みずから出向かれるのですか?」


「それほど重要な任務ということよ。もしもこのカイトという人物が本当にホムンクルスを創造したというのならば、その製法を聞き出したい」


「フィオナという娘を奪い去り、研究材料にする、という手もありますが?」


「お前はフラスコの中の小人を創造するような賢者と、その師匠である鮮血の魔女を同時に敵に回すのか?」


「……それによって帝国に安寧がもたらせられるのならば」


「いや、それは悪手だ。我ならばそんな手は打たない。彼らを味方に付け、きたるべき皇位争奪戦争に備えたい」


「しかし、このふたりは変わりもの。易々とは味方になってはくれないのではないですか」


「そうでもない。このカイトという男にある報酬を約束すればいい」


「金で動くような男ではないかと」


「かもしれないな。だが、このノイエ・ミラディン帝国の皇帝の座はどうかな?」


「ま、まさか、皇女殿下……」


「そのまさかだ。この男が我の想像通りの男ならば、この身をこの男に捧げてもいいと思っている。我の夫になれば、帝国の共同統治者となる」


 ヴェロニカはそう断言すると、側近にリーングラードの教職に空きがないか尋ねた。


 丁度そのころ、カイトの活躍により、保守派の教師が一掃され、魔術学院は深刻な人手不足に悩まされていた。


 さらに付け加えれば、皇女ヴェロニカは異色の経歴の持ち主で、皇族にもかかわらず、魔術の心得があり、魔法戦士としても一流であった。


 このようにしてリーングラード魔術学院に新しい教師が赴任してくるのだが、カイトはまだ知らない。


 ヴェロニカがカイトの肖像画を見て恋をしてしまったことを。

 その娘であるフィオナも気に入ってしまったことを。


 そしてヴェロニカが赴任することによって起こる事件もカイトの想定の範囲外であった。

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