鮮血の魔女の館
オットー家の人々に別れを告げる。
「諸事情により、オットー家の家庭教師になれません」
そう断りを入れた上で、彼らに別離を告げた。
伯爵夫人は残念そうにうなだれてくれた。
「カイト様のような賢者に教えを請えれば我が子供たちの立身は約束されたようなものでしたのに」
お世辞でもそう言ってくれたのは嬉しかったが、ともかく、数週間滞在したオットー家に別れを告げる。
クロエが馬車の馬に鞭を入れると、馬車は動き始めた。
オットー家の人々は最後まで見送ってくれた。
馬車が見えなくなるまで手を振っていてくれた。
フィオナも、「また会おうねー!」そう叫びながら、館が見えなくなるまで手を振っていた。
その姿を見て、俺は「意外だな」とくちにする。
「どういうことでしょうか? とクロエは振り向かずに尋ねてくる。
「いや、もっと我が儘を言われるかと思った。あの屋敷に留まって暮らしたい、そうだだをこねられると思っていた」
俺がそう言うと、フィオナはぷるんぷるんと首を横に振る。
彼女の金髪のツインテールが揺れる。
「わたし、我が儘は言わないよ! フィオナはおとーさんがいればいいの」
「悲しくないのか? 初めてできた友達と別れるんだぞ?」
「友達ならもういるもん」
フィオナはそう言うとクロエを指さす。
「……クロエは友達扱いですか。ここはおかーさんと言って欲しいのですが」
クロエは、よよよと泣いた振りをするが、フィオナはそれを無視すると、ついで荷物から人形を取り出す。熊の人形だ。いわゆるテディ・ベアというやつである。
「この子もわたしの友達!」
と、俺に友達を押しつける。
「名前はユーノっていうの。だからおとーさんは気にしないで。わたしには友達が二人もいるんだから」
「……そうか。フィオナにはもう友達が二人もいるんだな」
そう言うと俺はユーノの頭を軽く撫でる。
「わたしはおとーさんと一緒に居られればどこでもいい。おとーさんがいればおかーさんはいらないよ。だからおとーさん、ずっとわたしの側にいて」
フィオナはそう言うとユーノごと俺を抱きしめてきた。
小さな子供独特の暖かさと匂いが伝わってきた。
あるいはフィオナは、俺の表情から、今、自分たちが窮地に立たされていることを感じ取っているのかもしれない。
フィオナは賢い子供だ。
大人たちのわずかな表情の変化から、なにかを読みとってしまったのかもしれない。
「やれやれ、これでは親失格だな」
子供に心配をさせてしまうなど、親以前に大人失格である。
これ以上、娘に心配をさせないよう。考えを改めることにした。
楽観的に考えるようにしたのである。
俺は娘を抱きしめると、彼女に約束をした。
「おとーさんは、フィオナがお嫁に行くまで絶対に側を離れないぞ」
「わたしはおとーさんのお嫁さんになるんだよ?」
「じゃあ、ずっと一緒だ」
俺は冗談めかしてそう言うと、彼女を抱きしめる腕に力を加えた。
「痛いよ。おとーさん、力強すぎ!」
フィオナは珍しく非難の声を上げるが、俺は力を緩めずにこう言い放った。
「そうだ。おとーさんは強いんだ。もしも帝国や聖教会の連中が、フィオナにちょっかいをかけてきたら、この強さを存分に発揮してやる」
俺の実力は大賢者シーモアのお墨付きだ。
かつてはその一番弟子にして後継者とも目されていたくらいだ。
大賢者には選定されていないが、シーモアからは大賢者並の実力があると太鼓判を押されている。
そんな賢者から娘を取り上げるのは不可能だ。
帝国や聖教会の人間にそう思い込ませることも可能であろう。
そう確信しながら、この世界で最も大切な存在を抱きしめた。
「あるじ様、シーモア様の屋敷が見えてまいりました」
馬車の旅を始めて数週間、やっと目的地に到着した。
安馬車でさぞ乗り心地が悪かったであろうが、娘は不平不満ひとつ言わず、ここまで旅に付き合ってくれた。
(見た目)5歳児のフィオナには難儀な旅路だったろうが、それもここまでである。
俺は遠慮なく、師であるシーモアの屋敷の扉を叩いた。
すぐに屋敷の使用人だと思われるメイドが扉を開けてくれた。
見慣れぬ顔である。
もっとも最後にシーモアと面会をしたのは数十年前だ。
エルフ族のものでもない限り、最後に見た使用人などとうの昔にあの世に旅立っていてもおかしくはなかった。
そんなことを思いながら、俺は師匠の書斎へと案内された。
道中、クロエにだけ聞こえるようささやく。
「もしもなにかあれば、フィオナを連れて即座に逃亡しろ」
クロエは怪訝な顔で尋ね返してきた。
「あるじ様の命令を拒否する気などありませんが、それはシーモア様が裏切られる、ということでしょうか?」
「まさか。俺は師匠のことを信用しているよ。あの人はそんなことはしない」
ただ、と付け加える。
「あの人も常勝無敗ってわけじゃない。やむにやまれぬ事情で帝国と聖教会に首根っこを捕まれているかもしれない」
「まさか。あの大賢者を屈服させることなど可能なのでしょうか?」
「他の5人の大賢者が師匠の敵になれば可能だよ」
俺はそう言い切ったが、こうも付け加えた。
「まあ、念には念を入れるだけだ」
そう言ってメイドの背中を叩く。
まったく、人は責任感ある立場になると、最悪の事態ばかり想像するようになる、と笑った。
つい先日、これからは楽天家になると誓ったばかりなのに、なにを焦っているのだろうか。
これから会う人物は、俺が知る限り最高の賢者である。
世界にただ6人しかいない大賢者の称号を持つ魔術師――。
その魔力は最強にして最狂。
俺が全力を出してもその爪の先を傷つけることができるかできないか、といったほどの実力者なのだ。
――その人格は破綻しているし、変わり者にして偏屈であるが、少なくとも真っ当な方法で師匠を屈服させられる人間などいない。いや、国家レベルでもそれは困難であろう。
イリス・シーモア。
御年、1200歳。
ミラディンの血塗られた魔女。
この世界最強の魔女の異名を持つ女性。
俺の姉のような存在であり、この世で最も信用できる女性だった。
この世界で最も尊敬している女性だった。
――もっとも、実力に天地の差があろうが、尊敬していようが、もしもフィオナに害をなす存在であれば、俺は容赦なく叩きつぶすつもりでいたが。
娘は、フィオナはそれくらいまでに大切な存在なのだ。