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日本未来誌 FUTURITATES JAPONICAE

下賤の矜持

作者: 鱈井 元衡

 二人は侵入者たちになすすべもなかった。

 この時二人は、まだ幼かった。もっとも年齢が少し上であったにせよ、同じ結果だっただろうが。

 人さらいたちは、前触れもなく村に現れると、人々を取り押さえ、縄で体を縛りつけ、身動きできないようにして連れ去っていった。

 剣や棍棒を手に、前触れもなく襲いかかってきたのだ。抵抗する暇もなかった。

 ある男は、同胞たちが連れていかれるのを座視できず、拳を振り上げて立ち向かって行った。その直後、数本の矢が彼の体に刺さった。

 別の女は腕から赤子を取り上げられ、自分の大切なものが瞬く間に遠く離れるのをながめているだけだった。

 二人も、兄と妹、別々に捕まえられ、引き離されてしまった。人さらいは早急に仕事を終え、村から出た後、ひつぎのような箱に『獲物』を収めて、馬車で道を引きかえす。

 少女はそれから何があったのかよく覚えていない。ただ気づくと幾多の波が水面を通り過ぎる音を聴いていた。もう、そこは海の上だったのだ。

 少女は叫ぼうとした。だができなかった。猿ぐつわをかまされていたせいだ。

 それまではずっと普通に生きていたはずだ。それなのに、なんでこんな目に遇わなくちゃ。

 悪夢だと必死に、思いこもうとした。けれども、ついに悪夢は覚めずじまい。

 それどころか、もっと恐ろしい夢に変貌していく。

 海の声がやみ、体が荒々しくゆさぶられた。今度は一体、どこなんだ。

 彼女はひつぎから引きだされ、猿ぐつわや縄も外されてしばらく歩かされた。もうあたりは真っ暗で、誰が自分を導いているのか見当もつかない。ただ、自分を束縛する雰囲気があまりに重々しく殺気に満ちていたために、何も変な行動はとれない。

「さあ、座れ!」

 いきなり肩を叩かれ、地面につっぷす。粗めのむしろが敷かれているだけの。

 人間の声が幾重にも重なり、不協和音をかなでている。ほとんど雑音として聞こえてくる話し声に耳を澄ますと、この場所はハテノ島というらしかった。もう、故郷ははるか彼方。

 いきなり二本のたいまつが少女の目の前にかかげられた。自分が何人もの男にとりかこまれていると知った時、言葉を失った。

 彼らがどのような表情をとっていたか、説明するのも忌まわしい。

「こいつはいい女じゃねえか!」 下卑た男の言葉。

「二千エンでどうだ!?」「いや三千五百エンだ!!」

 それが自分を算段しているのだと知った時、どれほどの衝撃がのぞんだか。

「だがこんな奴に高値がつくのか? たいしてみめよいわけでもない」

「ぼやくな、これが商売なんだから」

 もう、帰りたい。だが叫ぶほどの勇気も今はなく。

「おびえだしやがったぞ、こいつ。まだ自分が何であるか理解していないんだな?」

 男たちはその日、彼女に『値段』をつけることはできなかった。

 日が昇るとまたもや少女は船に載せられた。ノトとかいう所らしく、岸近く建てられた小屋でわずかな食事をたべさせられた。焼き魚や薄い四角形のクッキーといった――食欲は皆無に等しかったが、少しでも食指を休めると叱責された。

「食え、食え! やせた体じゃ金にならねえからな!」

 自分以外にも同じ境遇の人間が少しはいたような気がする……詳しくは覚えていない。何しろこの時は自分の行く末しか頭になかったから。

 それからまた船に載せられ、今度は檻で囲まれた部屋に入れられた。湿っぽく、蒸し暑かった。ただ船床に座り格子にもたれ、さめざめと泣くことしかできなかった。一体何の罪があって、こんな目をみなきゃ。

 自分と同じように囚われの身となった人間が、何やらわからないことをぶつぶつ言っていた。それも、かなり険悪な雰囲気で。それを聴くまいとして耳をふさぐ。だが耳はその声を通す。その声が、少女の精神に深く傷を刻む。

「もうすぐで着く!」 誰かが叫んだ。

 少女は目を開けて、声の方を向いた。

 檻を通して、海の向こうに大地が見えた。それは少女が見たことのない光景だった。


 サカキ・マイナはツルガに住む女奴隷である。

 彼女の主人はイシモト・ヤバオというウヤカワ出身のフクオカ人で、船頭を務めていた。

 マイナは表には決して顕わさなかったが、この男を激しく憎んでいた。彼こそが、自分の命に値段をつけた奴らの一人だったからだ。

「今朝やってきた身内への接待はしてくれたな?」

 その日、やや遅くなってからヤバオは帰ってきた。

「はい、ご主人様」 あくまでもマイナは忠実な下僕としての態度を守った。

「では沐浴の用意をしてくれ。こっちはもう、体に汗がたまっている」

「かしこまりました」 この男は、私にいささかの罪も感じていないだろう。そしてあの日々に関するみじんの記憶も持っていないのだ。

 マイナは庭に行くと、池から水をくみ、かまどでわかし始めた。その作業が終わったことを主人に伝えると、ヤバオはまず湯を桶でくみとって何回か浴び、それから風呂の中に入って一日の汚れを清めた。

 屋敷に戻ると、何やらわけのありそうな顔をマイナに向け、語り始めるには――

「マイナ、今日は一緒に寝ような」

「えっ……?」 そんなことは今まであったためしがない。それまではずっと、イシモト家の人々とは別の部屋で過ごしていたというのに。

「今日は仲間たちと商売の成功を祝ってたくさん飲んだ。今も少し酔いが回っている。静かにしていられないんだよ」

 マイナは一瞬胸が鳴った。これは、明らかに。

 目の前の商人は、それが当然とでも言わんばかりの顔。

「その喜びをお前とも分かち合いたいと思ってな。――分かるだろ?」

 商人は笑った。

 マイナは戦慄した。まるで、あの時の表情そっくりだ。

 私を物として品定めした、あの時のに。

「どうした、嫌なのか?」

「……いえ、ご命令とあれば」

 最悪だ。マイナは今すぐにでも逃げ出したかった。


 逃げ出さなければ、とマイナは思った。

 このまま身の純潔をあいつにゆだねてたまるか。

 でも、もはや帰る場所がない。あの東の果てに行ったところで、故郷が待っているわけでもない。

 マイナは自分の小屋で思い悩んでいた。ろうそくが照明として部屋をあわく照らしている。

 外に出て闇におもむき、外へ逃げ出そうとした。だが、空に妖しげな光を浴びつつ行き交う雲の何となく怖ろしげな様子を見ると、逃げたいという気持ちも四散していく。

「マイナ、ご主人様がお呼びですよ」

 ヤバオの女中だ。これには従わざるを得ない。だが、そうなれば。

 マイナは何を言えばいいかわからず、ただこの時の心情をそのまま言葉に吐いた。

「私はどうすれば……いいの」

「一体――どうしたの?」

 今ここで真実を打ち明けたところで、どうにもならない。この女中も彼の下僕に過ぎないのだから。

「いや、何でもありません。ただ今日の働きでつかれていただけです」

 マイナは持ち前の演技力でそうごまかした。

「まあ、健気だというのに」 女中はその心の中を理解したかどうか。

「旦那様は夜更かしをよくなさるから困ったものです。酔いさえ回っておられるというのに」

 女中が目を離したすきに、彼女は色々な道具のつまった机から、何かを引きだした。次の瞬間、それを懐に隠す。

 いっそそうなってしまうのなら、これで。これで――

「おや、何か音がしましたが」 息を不意に飲むマイナ。

「おそらく、気のせいでしょう」

 マイナが持ったのは、鋭い先端をいただく錐。もう、それを戻すことはできずに。


 ベッドにその男はねそべっていた。やや古そうな燭台がいくつかの火で闇に光りをもたらしている。

「遅いじゃないか、マイナ」 やや気に障った声だった。表情はよく見えないが、口元は弧を描く。

「申し訳ございません」 心の中にだんだん浮かび上がってくる何かを、必死に覆い隠す。

「お前は今日までよく私に尽くしてくれた。礼を言う」

 うそだ。どうせ、使い捨ての道具としてしか見ていないくせに。

「そのお心に感謝いたします」 思ってもみないことを口にしてしまう。元から、そういう態度だったのだが。

「それにしてもやけに目が鋭いな」 部屋にクモの巣を発見する程度の口調。

 身が震え、肌にくっついた錐が揺れる。

「何か私に言いたいことでもあるのか」 体の奥底にも何かが走る。

 そうだ、こいつを、こいつを、こいつを……。

「ほう、言いたくないのか。ならあててやろう」

 なぜ、体が動かない。なぜ、前に歩まない?

「お前は、自分の光栄を受け止めきれないのだな? ここに呼ばれたということへの栄光を」

 マイナは目を見開いた。

「絶対にそうだろう。お前の動揺ぶりを目にするにおいて」

 ふざけるな。口から言葉が出てこない。

「違う、とでもほざくのか? いや、絶対にそうだ」

 ヤバオの顔から、表情が消えていく。

 やめろ、そうしないと私はお前を――

「たとえお前が認めなくとも、私には君を支配する権利があるんだよ!」

 マイナはその直後、ベッドの上に投げ出された。

「あ……う……」

「さあ、時間が来たぞ」 ヤバオは本性の露出した声を上げる。

 そして、動けないマイナの上に両腕を伸ばした。

 分かってた。最初からこうなるのは。

 だから、もうここで。

 錐を懐から抜き取るマイナ。もうヤバオの顔はすぐそばに迫っていた。眉が異様なまでに曲がっている。

「くたばれ。」 マイナはとっさに針をヤバオの肉に突きさしていた。

 不意に目を背ける。

「何だ、これは……?」 変な吐息のまざった声色だった。

 それからは反応がなかった。マイナはもう他の選択肢もなく、また様子の変わったヤバオに恐る恐る視線を移した。

 錐が刺さっていた――彼の首筋に。

「あわああぁ……!?」 ヤバオはマイナを見て感情の読めない奇声を発す。

 逃げろ! 心の中の声が少女に呼びかける。

 でも、どこに逃げれば? そんなことは、考えてるひまがない!

 マイナは自失状態のヤバオを部屋に残し、扉のかんぬきを外して家の外へと逃げた。

 もうあたりには漆黒が広がり、見上げると薄暗い雲の群れが空を漂っている。寒気が彼女の体をなじる。どこかで、あわてふためく女の声がする。

 少女は通りを走り抜け、とにかく家を離れていった。犬の遠ぼえや男の騷ぐ声を聞いたような気がした。

 だが、しばらく走ったところでばたりと倒れてしまう。石の固さが、彼女のすっかり重くなった体を打つ。

 このままだったら、私はどうなるんだろう。連れ戻されるのか。あるいはまた売りに出されるのか――これまでよりもっとひどいところに?

 どっちにしても、もうここで終わりだ。二度と、あの日々には戻れない。

 ――今、兄さんはどこにいるんだろう。そんな疑問が、現れては消える。それからは考えることをやめ、この肉体がそれからどうなっていくことにのみ注意を向けた。

 今すぐにでも、どこかから追剥でもやってくるかと思われた。だが、誰もそこには来ず、その間に彼女は眠りに落ちていった。

 

 フクイ北部の城砦の太守イシイ・ヤレルはこの日も、やぐらの上で蛮族の動向を見張っていた。

 イシカワ地方以西には数百を数える小集団が存在する。彼らは絶え間なく小競り合いを続けているが、統一されたことがない。たまにいくつかの集団が連帯を組み他の敵にあたることもあるが、元の目的を果たすとまた分裂しすぐに争い合うのが常である。

 厄介なのは、彼らがたまに南下してきてフクイの国境を犯そうとすることだ。平時にはフクイ人との間で交易したり談笑したりする風景が見られることも珍しくないものの、一度関係が緊張すると粗暴な連中に早変わりして略奪を働くのが一度や二度ではなかった。

 フクイのソーリはゆえに辺境に城砦を建造し、潜在的な危機への備えとする。いつ彼らが攻め込んでくるかわからない。彼らの心の内が、どうであるかなど。

 その時、ヤレルは叫んだ。

「マコト!」

 はるかに見下ろすと、部下をひきつれ、馬に乗ってやってくる一人の若者の姿があった。

 ヤレルは若者を発見するや、すぐにやぐらを降りて彼らを城門に出迎える。

「今回の見回りは御苦労であった。異常はなかったか?」

 そのことがヤレルにとって何よりの喜びであることは表情が証明している。

「はい。この日は極めて安寧でした」

「それは良かった。お主が出かけてゆくたびに、なにか事でもあればと思うてな」

 若者はすると笑みを浮かべる。

「私が敵地に赴くたび、生きて帰ってこなかったことがございますか?」

 ヤレルも満足げな表情。

「うむ、お主は実にわしの期待に見合う奴隷だ」


 クズリュー川流域はナガハマ・マイバラ地方とならんでフクイの防衛上の要衝である。

 かつてオーサカ勢が北上してアネ川を越えた時、現地の豪族はツルガ人の臣下となる条件で彼らの協力を取り付け、キノモトで大いに撃破し、ヒコネ以南まで撤退させたのだった。

 ツルガ人はその後領域を拡散するとともに、東ではタカシマに、西にはクズリュー川に至る大国を築き上げたのである。

 その西北の地にマコトは暮らしていた。

「また奴隷が逃げ出した、と?」

 マコトは執務室でそれを聞いた。ヤレルはいかにも深く憂えている表情だ。

「逃亡奴隷は我が国にとって大きな問題だ。オーサカに逃げ出したりすれば反乱を起こす機会を与えることにもなりかねん」

「以前もオーサカ人が奴隷を笠下に加えてやってきたこともありましたしね」

「ああ。しかもそのフクオカ人の商人から逃げ出した奴隷、ことによると女らしい。一度事に及ぼうとした時に、返り討ちにされ逃げられたという噂さえある」

 なんという醜聞なのだろう、と思わずにはいられない。フクオカ人は女を愛玩用の道具にしか思っていない、そんな下劣な奴を内に持っているのか。

 いや、これは何かあるのではないのか。

 わずかに胸騒ぎがした。女? しかも、話からして若い女のようだが。

 違う。たったこれだけの情報で、なぜそんなに早合点せねばならない?

「お前はそのようなことはしでかさぬだろうな?」

 気づくと、何かの思惑を持ってヤレルが自分の目をのぞきこんでいる。

「い、今何と……」 自分の疑念にあまりにも入りこんでいたために、外側の世界に心が行かなかったのだ。

「お主は今いった奴隷女のように、面従腹背の精神を秘めてはおらぬなということだ」

 マコトは失望を禁じ得ない。

 まるで、自分を疑って言っているようではないか。

「いえ、私はあなたにこの身を買っていただき、とても光栄です」

 はっきりと断定する口調で彼は答えた。奴隷であることは一種の誇りでさえあるのに。

「他の者に買われる奴隷とは違い、このように国家に貢献する役割を与えてくださいましたから」

「まことに――か?」 しばらくはヤレルはその表情を変えない。

 マコトは口をきゅっと結んだまま、その顔を見つめる。

 それから、ヤレルはようやく彼の言葉の真実であることを認めたらしく、一転して笑い出した。

「ははは、それでこそわしの世継ぎだ! 人前で意志を貫けぬ者にこの仕事はつまらんからな。さあ、ビールでも飲もう」


「ここは……?」

 マイナが目覚めると、そこは小さな部屋だった。最後に意識があった時とほとんど同じ姿で、わらの上にねそべっていた。

「やあ、目覚めたか」

 すると隅にあった扉が開いて、一人の少年が入ってきた。

「わっ!」

 急に動転して上体を起こす。よく見るとその少年は、少女より若干年上らしく、粗布で織られた服をまとい、腰に短剣を身につけていた。

「いや、驚かせてすまない」

 マイナは自分が何かされるのではないか、というような顔つきで少年を見ていた。それに対して少年は面食らったように両手のひらを。

「君が道ばたで倒れていたから、ここまで運んできたんだ」

 マイナは片膝をついて彼を見上げる。

「じゃああなたは……何者?」

「その前に、君のことについて確認させてくれ」 そこで少し目つきが変わった。

「君は、ニーガタで捕まえられて、売りに出された奴隷だな?」

 驚いて瞳が狭くなるマイナ。

「ど――どうしてそんなことを」 姿勢を崩して両手を地面につく。

「体につけられた烙印を見ればわかることさ。奴隷にはいつもその手の傷がついているから」

 彼女は沈黙したまま言葉を継げなかった。

「君がいつからそこにいたのかはわからないが、多分主人の仕打ちにたえかねて、逃げて来たんだろう」

「そ、そんな」 マイナは目前の事態をつかめない。

「私は、あの時出かける必要があって……」

 だがそんな話はさえぎられた。

「いや、奴隷があんな夜に出したら逃げ出す恐れと言うのを考慮するはずだ。後で連れ戻すのも難しいしな」

 少年は自分のことを知っている。そうマイナは実感した。

 そして、少年は単なる善意で自分を助けてくれたわけではない、ということを。

「ここは、どこ?」

「ツルガの外れにある隠れ家さ。たまにここから街の方に下っていくこともある。仲間を探しにね」

 仲間? マイナは彼の心を知ろうと必死に目を向ける。

「僕らは、そうやってやつらの支配から抜け出た元奴隷だ。そして、フクイにあだなすために他の奴隷も集めている」 顔も声も穏やかではない。

「奴隷を集めて、フクイにあだなす?」

 確かに、この少年は単なる善行で自分を助けたわけではなかった。

「せっかく新入りが手に入ったんだ。いやでもそういうのは失いたくない」

 いきなり少年はマイナの両肩に手を置いて、間近に。

「もう君は元には戻れない。だから、僕らの中に、入ってくれるよな?」

 マイナは、彼らの元に案内された。少年――エザキ・トシノリと名乗った――の言う通り、彼らは皆、元奴隷だった。そしてある者はみずから逃げ出し、ある者はなかば連れ出されるようにその笠下に加わったのだ。

「君は、どこから来たんだ?」

 夜遅く、丘の上にかがり火が二つ置かれ、人間がそのまわりに集まっている。

 逃亡奴隷たちのリーダーは、多くの部下を左右にひかえて、地面に立っていた。どこか、マイナと顔つきが似ていた。

 マイナは彼の前にひざまずいて、緊張した表情で次にどうなるかをうかがった。

「ツルガから……」

 誰もがマイナの人となりを見極めようとしている。

「どういうわけで、逃げてきた?」

 エザキからは、リーダーには決して口をつぐむな、と言われていた。何しろ自分たちの出自がそうなのだから。奴隷であったことに再び返るような人間は、受け入れられない。

「私はもともと、ニーガタのツバメという、小さな村に住んでいた」

 自分は最初から生まれも下賤な人間だった、とマイナはこの時思わずにはいられなかった。

「でも、奴隷を売りさばく商人が私の村を襲って、むりやり兄と引き離されてしまった。生き別れたまま、どうなったかさっぱりわからない」

 それから彼女は自分がツルガでどんな目にあったかを細かに話した。マイナにとって、そこはあらゆる腐敗が跋扈する魔窟であり、裕福な人が貧しい人をしいたげる理不尽な世界。

「私は数年間を『物』として過ごした。私には力がなかったから、『物』であることに我慢するしかなかった。でも、とうとうそのままでは済まされない事態がやってきた。

 主人がある時乱心して、私の体に手を出そうとしたの」

 これを話すこと自体、はなはだしい屈辱であったのだが。

「私は力を尽くしてそいつの元から逃げ出した。逃げて、逃げて……。ようやく、ここにまでたどり着いた」

 それまでの数年間が一瞬でよみがえり、消えていった。

「じゃああんたに訊く。故郷に帰りたいと思うか?」

 ふざけるな、と心で言った。過ぎ去った世界にすがって、一体何の迷いとなるのだ。

「それはない。私は昔起きたことになんて思いかえさない。誰がそんなことを望んでするもんか」

「今の私に必要なのはこれから生きる糧だ。実際に命を繋いでいくための、力だよ」 なぜあの時のことを語らねばならなかったのか、という憤懣にかられながら。

「なら、やはり生きたいんだな。いつ殺されてもおかしくないこの世界で」

「もちろん」 それ以外の選択肢は選べなかったし、実際なかった。もしこれを拒否すれば、――すなわち奴隷の境遇に甘んじれば――この命がなぜあるのか。

「いや、気にいったよ。あんたみたいにそんなに乗り気で加わろうなんて魂胆の奴は初めて見た」

 初めて、リーダーの顔にほころび。確かに、自分に対して何かを察したようだ、とマイナは感じていた。

「俺の名はオバタ・ゲンイチ。この盗賊団をもう五年も前からやっている」


 彼女は五年の間を、元奴隷によってなる盗賊団の一員として生きた。時には村や町に行って日雇いの仕事することもあれば、いかにも豊かそうな商人を襲撃して金品を奪い取ることもあった。だが一般の人間を襲うことはなかった。機会があれば解放された奴隷や無頼の徒を呼びこんで仲間にすることもあった。彼らの住処は幸いにも特定されることはなく、五年ほどが過ぎていった。マイナはこの過酷な生活の中で、心身ともに鍛えられていった。

 オバタはある時、彼女に言った。みんなが寝静まり、誰も目を覚ましていない時のことだ。

「あんたに頼みごとがある。もし僕があやうい状態に陥ったら、あんたが指揮をとってほしい」

 最初こそは驚いた顔で。

「――それはどうして?」

「確かにお前より強い奴はいるにはいるが、この集団を統率できるだけの力があるのはそうそういない。お前は何かを思い出すような顔で、何より人をおだてるのも上手だからな」

 一体その言葉にオバタが何をこめていたのかは分からない。

 だが、その夜、久々に生き別れた兄のことを思いめぐらし、寝床で一人涙した。

 私の兄さんはどこにいるのだろう。もう死んでいるかどうかも分からない。

 死んだら、会えるんだろうか?

 まさか、とその希望を打ち消す。

 もし死んでしまったら、死んだ人に遇えるとは思えない。

 むしろ、薄暗い洞窟のようなところに一人で放り出されるのだ。たとえ他の人に出会ったとしても、深い闇のせいで誰にもわからない。あの頃に生きていた人々に再会したとしても、そのことを知ることはできないのだ。

 だから、できることなら――この世で。


 商人の隊列がすっかり乱れている。エザキが彼らの真横から、鋭いナイフをきらめかせて奇襲したためだ。

 商人は馬に荷車を引かせていたが、馬は突然の事態にうろたえたようにいなないている。

「マイナ!」

 エザキが彼女に。

「分かった」

 マイナは他の仲間からたたきこまれた技を使って石つぶてを投げる。その狙いの先にはセラミック製の鎧を着た武装した男がいる。

 商人についていた護衛兵――旅には危険がつきものだからだ――は、それを脳天に食らって倒れこむ。

 もう一人が、剣をぬいてマイナに走り寄った。その手前で刃を彼女の頭上に上げた時、まさにその瞬間、奇声を放ってくずおれた。

「してやった」 仲間の一人、モリイ・グントがその背後にナイフを投げつけていたからだ。

 商人は青ざめていたが、突然馬が激しく身を上下させたので、態勢を崩し草むらの上に落馬した。

「さて、どうしたものか」

 オバタが首筋に剣を向けておどす。他の盗賊の面々もその場へと。

「ひっ! ど、どうか命だけは……!」

「そこまではせんよ、騒ぎは拡げたくないからな。ここは人の目につきやすいところでもある」

「差し出します! 持ってるもの全部……」

 オバタは荷車を切り離すと、指で合図し、エザキやマイナ、他の逃亡奴隷たちにその荷物を別の馬につなげさせ、自分は終止商人を拘束していた。

「よし、それでいい! さすが身ぐるみはぎとるのは気の毒だからな。命まで取られない分、幸運だと思え」

 マイナはあのフクオカ人の元に束縛されていた頃とは全く違う世界で、開放感を感じていた。まさにこの時、裕福な人間から略奪する時ほど彼女の感覚が刺激されることはなかった。

 だが、ある疑念が突然彼女を襲った。これは、本当に自分が望んでいることなのかと。

 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。こいつから奪うことばかり考えておけばいい。こんな邪魔な思考に操られている暇なんか……。


 住処に帰ろうとする頃には、もう空は藍色に染まり、闇がその根元ですくっていた。

「今日は大きな収穫だったな!」 たいまつを片手に、オバタが楽しげに叫ぶ。

「ところでエザキ、今回かすめとったのには何がある?」

「ライオンの毛皮もあったし、ブルーギルもあった」

「ライオンか! 実にいい!」

「服も作れるからね」 マイナがそこに口を添える。動揺は見せなかった。

「ああ、ライオンの服なんてソーリや貴族くらいしか持ってないからな。……今、何か言ったか?」

 ある一人が、彼に対して何かをつぶやいたのだ。

「今、馬蹄の音が聞こえなかったか?」

 それに何かを感じ、

「お前ら、口を閉じろ」 すぐさま指示を出すオバタ。

 その音はだんだんこちらに向かって大きくなっていった。明らかに、穏やかな雰囲気ではなかった。

「フクイ兵だ!」

 誰かが小声で言う。

「よし、みんな散らばれ。僕がおとりになる」

 たいまつをぐっとにぎりしめたまま、オバタが彼らの間から前に出る。

 無茶な――と一瞬思いはしたが、この緊迫した場面で言葉を出せば位置を知らせてしまう。マイナは黙って彼から離れた。

 たいまつに照らされて、誰かの正体が分かった。

 馬に乗ってやって来る者たちがいる。その背中に矢をのぞかせて。

「陰からあいつを狙うぞ」

 グントが仲間たちに言った。

 マイナは石を地面から取って、これを奴に投げつけようとした。

 オバタは、たいまつを地面に投げ捨てると、駆け足で馬と距離を取り、遠くから応戦しようとする。

 騎馬に対して一対一では分が悪い。まして相手の状態が分かりにくい、というのもある。マイナとその仲間は必死で打撃の機会をうかがおうとした。

 だが相手が、藍色に染まった空を背に、闇に包まれた姿ながらも、矢をつがえる動きをはっきりと彼らは捕えた。

 その時、ゲンイチの太腿に矢が刺さった。

「くっ」

 誰も、何も言わなかった。だがすんでのところで叫んでしまいそうだった。数年間苦楽を共にした人間の名を。

 騎馬兵が状況を確認しようとして立ちどまった隙をついて、マイナは兵に石を投げつけていた。馬のひるんだ鳴き声とともに落馬し、グントが首をかききる。

「オバタ!」

 エザキとマイナが駆け寄る。どうやら、深手を負ったらしくその声は弱弱しい。

「血が止まらない」

「待て、僕が止める」

 服の先端を引き裂こうとすると、低い声で制止。

「やめろエザキ、これは運命だ」

「こんな時に何を――」 マイナは信じられない思いだった。

「それより、さっきの奴はどうなった?」

「もうグントがやった」

「そうか。親の名前を聞けずじまいに、死ぬか……」

「何、弱音をついているの」

 マイナが誰にも聞こえないような小声でどなる。

 ああ、こんな目に遇うのはもう分かってたはずなのに。

「こうなるのは分かってた。こんな身の上として生きてきたんだから」

 こんなこと、願ってたはずはないのに。けど、こうなるのを前からさけようとはしなかった。

「おい、大丈夫かお前!?」 グントや他の面々も集まってきた。明らかに、何が起こっているか理解できていない調子だった。

 騒ぎが始まった。オバタに対して誰が、誰に対してオバタが話しているのか分からない状態になる。

「静かにして!」

 それを収めたのはマイナの叫びだった。それは深い意味ではなかった――が、この今際にさいして、ある欲望がわいてきたのだ。

「ねえ、言いたいことがある」

「……なんだ?」

 このことを、なぜ今さら告げるのだと、恥ずかしさがあったけれど。

「初めて会った時、私は、……あんたが私を懐かしそうな目で察てると思った。もしかしたら、とは思った。でも、結局、何の関係もなかったんだね」

 しばらくして、ざわつく周囲。

「おい、マイナ……」

 だが、オバタは笑いも怒りもせず、ただ淡い語り口でこう返した。

「いや、むしろお前は僕の妹に似てると思ったよ」

 迫りくる時を前に、言い忘れたことをそれとなく示す感じで。

「女は本当は中に入れたくなかったんだが、さすがに顔のせいで情が移ってな……」

 しかしオバタは場の状況をよく知っており、それ以上自分のことを語ることはなかった。仲間たちの緊張した表情を無言で見回し、どこか安堵したような顔になって、息を引き取った。

 オバタのなきがらを地面に埋葬するにあたって、盗賊の間で言い争いが起こった。

「早く埋める場所を探さないとだめだ」

「簡単に見つかる場所じゃだめだ。暴かれて辱められてはならない」

 墓をつくるなど富裕層のすることだった。

 中にはこんなことを言うものもいた。

「マイナの奴、よくあんなことを言ってのけたものだ」

「カツマタ、やめろ」

 エザキがたしなめようとする。

「俺はあの時数年間、リーダーに仕えたことの思いを告げようとしたんだ。今までリーダーにお礼の言葉をいってやれなかったからな。それなのにあの女――」

 カツマタが言い終わる前に誰かの声。

「いや、私はここにいる」

「何だって――」

 誰もが、その時憮然とした。

 低い声で、少女の声がしたのである。

 見ると、すっかり小さくなった灯りの元に、マイナが彼らの前に姿を。

 オバタの服を着て、つけひげをしていた。

「……マイナ」

「マイナは僕の身をかばって死んだ」 場違いなほどに冷静な声だった。

「これからも僕が指揮を執る。」

 さほど似ているわけではなかった。彼女の変装はお世辞に言っても粗末なもので、オバタの顔の微妙なつくりをほとんど反映できていなかった。

 カツマタは最初、怒りを起こそうとした。だが、マイナが明らかに本気であり、その態度を翻そうともしないのを見ると、最初の気分は後退し、かえってこの状況を受け流そうという感情になった。

「いや、あんたがそのまま生きてくれていて良かった。もしあの女が自分がリーダーだなんて出しゃばったら、俺たちが分裂しかねない」


 マコトはその日も蛮族の征討に費やしていた。

 というのは、トヤマ人の一派であるミズハシ族がジンズー川を越えて多くの部族を服属させ、さらにイシカワに侵入しようと図った。

 この危機をいち早く察知した族は事態をフクイにうったえたため、単に辺境を守るだけでなく部族間の秩序を保つ役目も負っているイシイは軍を率いて現地に赴くこととなった。

 ミズハシ族は馬を持たず、基本的に徒歩で行動する。やっかいなのは、一部の人間が『杖』という弾丸を放つ武器を持っていることで、これに対抗できるものがないフクイ軍は大いに苦しめられた。

 しかし、その『杖』が雨天では用をなさなくなるのを知り、フクイ人は時しも豪雨が降った次の日を狙って、撤兵を始めていたミズハシ族に奇襲を仕掛け大いに撃破した。

「お前は、もう私がいなくても大丈夫だろう」

 ヤレルは、戦場からの帰途で、――ちょうどカナザワの遺跡を通りかかっていた――マコトに語りかけた。

「それはどういうわけでございますか」

「お前はもうはたちを過ぎたし、自分の城を持っていい年齢だ。私はこれ以上は生きられそうにない。生きて行けたにしてもこの体は何の役にも立つまい」

「そんな弱音を――」

「いや、これは私からの願いなのだ。お主は今までよく私の分身のように尽くしてくれた。実は、ソーリにお主を推薦する手紙を送っていてな。ソーリの方からもお返事が来ておる」

 マコトはその時、わずかながら黙っていた。

 そして、面食らった表情でこう返す。

「そ、それは身に余る光栄です。私にはとても――」

 自分が望むのに関わらず、

「このような辺境の貧しい土地にとめおかれては宝の持ち腐れであろうからな。せめてお主には我が家の誇り栄達してほしいのだ」

「ですが、このように申されましても」

 マコトがどうしてもうけがおうとしないので、

「オーサカがいつ攻めてくるか分からぬ。その時中央に優れた人材がいなくては国家の存亡に関わる。危機において役に立つ者はその意思に関わらず高く任用されるべきだ。まして国家の僕としてつかえるなおさらな」

 それでようやくマコトも納得した。

 国家に仕える自分が、なぜつまらないエゴを振り回しているのだろう。そのような自由は自分にはないはずだ。なにしろ、もともとは奴隷として買われた身なのだから。

 今はもう一般の将兵と何も変わらないとはいえ、最初から人間に仕えるということを忠実に守り通してきた。それを、なぜ怖れ多いといって破棄してしまうのか。今までの指針だったのに。

 逃亡奴隷。自分は、彼らとは違う。サカキ・マコト、お前は、犬だ。


 それから間もない頃。

 マイナは、自分のやっていることが本当に望み通りのことなのかどうか、という疑問を抱えてはいたが、このことを仲間に打ち明けることはなかった。

 もしかしたら、自分からそれを明かすかもわからない、と思いながら。

 だが、しばらくは驚くほど落ち着いた日々があった。マイナは山の中で、このぼんやりとした、しかしすぐそこに迫ってきそうな悩みをどこかに追いやってしまいそうなくらいの時間を過ごすことができたはずだった。

 だが、それは唐突に。

 グントが家の中に走ってきた。

「大変だ」

 その時、マイナは壁にかけられた竿に服を干しているところだった。

「どうした?」

 居合わせたエザキも振り向いてグントを見る。

 グントは顔の側面から冷や汗を垂らしている。

「奴らが……この住処を突き止めてきやがった!」

 マイナとその郎党は、見晴らしのいいがけまでかけていった。

 見下ろすと、タカシマのハコダテ山を登っていく幾多の騎兵がいる。

「あの野郎ども……」

 エザキが矢をつがえようとする。

「待て、エザキ」 マイナが低い声で静止する。

「なぜだ、オバタ?」

 マイナはこの時、男のような顔つきをしていた。かなりオバタのものに近い顔を。

「我々の居場所が分かったとしても、この山の地形を完全に把握しているわけではあるまい。まだ作戦を立てるだけの余裕はある」

 グントはマイナが事に動じないのを見て、さすがかつてのリーダーの真似をやって見せる奴だ、と感心する。

「じゃあ、俺はいざ逃げ出せるように裏門を開けておく。家畜も出しておくよ」

「ああ、頼む」

 マイナは、だが、全く冷静というわけではなかった。他にまた別の感情が、心にわいてきたからである。

 何かが来ているような予感がする――。自分が久しく想像したことのない、何かが。

 グントはしばらくマイナの顔から目を離していなかった。やけに困惑し、今までになかったことを目の当たりにしているような顔を。

 

 逃亡奴隷は運が悪い。

 悪い主人に仕え、悪い待遇を受け、それゆえに逃亡し、世間を悪いことで騒がせている。

 そのような悪者は結局、自分自身にとって悪い処断を受けることで終わる。

「進め!」

 サカキ・マコトとその手下は坂を駆け上った。

「逆賊のオバタ・グントはこの先に潜んでいるぞ」

 かつてニーガタから人さらいの手で連れ去られたのが全ての始まりだった。

 一時も離れたことのない妹と別離の苦しみに遭い、市場で何日も『物』として引き出されていた。

 もはやどうなるかなど考えもつかず、死ぬことが唯一の解決法であるとさえ思いめぐらせていた。

 だが、そこに一人の人間が通りかかり、自分の運命は変わった。

 人生にもう一つの意味を与えられたのだ。全身を国家のためにささげる『駒』として――

 ふと、うめき声が聞こえて、一人の兵士が落馬する。

 その首には、一つの矢が。

「そこの下郎、止まれ!」

 叫び声がした方には、切り立った足場の上、ある男が矢をつがえたままで立っている。

「貴様、名前は何と申す」

「エザキ・トシノリ」

 エザキは、マコトの顔をまっすぐにらみつけている。

「僕はもともとサンジョーで部族長の長男として生まれた。自分の属する部族をいつか治めるものとして物心がつきかけた時、奴隷商人があらわれて全ては台無しになった」

「サンジョー? そうか、私の故郷と遠くないな」

 わずかに変わるエザキの目つき。

「……お前も奴隷出身なのか?」

「そうだ。だが貴様のように後から変節した奴隷とは違う!」

 かけ声を上げると馬を素早く駆けあがらせる。

 エザキはそれに応じて、風の速さで横に走り、剣をひらめかせてマコトをさえぎる。

 何回か刃のぶつかる音が響き、火花が二人の脇に飛び散ったが、ふとマコトの振り下ろした剣がエザキの胸に食いこんだ。

 血がわずかにしたたり、宿主を失った彼の体は地面に崩れる。

「愚か者が……」


「エザキがやられた! もう堡塁を突破されてる!」 グントがマイナの横にかけよって。

「もう奴らがそんなところに……!?」

 マイナは危機を間近に、動揺を隠せない。

 刻一刻と移り変わる状況になんら太刀打ちできぬことに対し、カツマタがいらだつ。

「だめだ、オバタ! もうぐずぐずしている暇はない! 裏から逃げる手はずを……」

「先ほど、奴らの声が聞こえたな?」

 不安げな声でマイナがつぶやいた。明らかに、ただの恐怖ではない。

「フクイ兵の声に決まっている。それが一体――」

 いや、そんなはずはない。マイナは思いこんだ。

「ああ、これは私の錯覚だ。なんの意味もない」

 もしここで負ければ、自分たちは命を落とす。そうなれば、もう何もかもが終わりだ。

 まだ、何も終わらせたくはない。

「もう昔のあの日々は、どこにもない」

 あの不思議な幻惑に、だまされてはならない。

「カツマタ! グント!」

 逃げるのも一つの手だろう。だが、オーサカに行ってもフクオカにまで行っても、どうせ安息の地などありはしない。

「今から我々も打って出る。ここで死ぬか生きるかを決めようじゃないか」

 そう言うと、もう言い直すことはできなかった。

 カツマタはマイナが完全に決意したものとなし、答えて言うに、

「じゃあ、やはり闘うんだな。逃げるのはなしか」

「やむをえん。これ以上敵に侵入を許してしまった以上逃げたとしても追撃されるのは目に見えている。家畜はもう出してしまったか」

「いや、まだ全部は……」

「あれの尻尾にわらを結ぶつけて、火をつけろ。そうすれば最後の抵抗にもなる」

 グントはまた手下たちの元に行って、行動を変えるように命じた。

 カツマタは槍を携行して他の盗賊のあとについていった。


「あの男……!」

 後方にいた騎兵を指揮官だと見て、グントは歯ぎしりした。

 すでに彼の手下の数人が、歩兵と激しい戦闘を交わしている。まだ勝敗はついていない。

 しかし、やはりフクイ軍の方にやや優勢であることはいなめない。こちらが烏合の衆であるのに対し、彼らはたび重なる反乱の鎮定で鍛え抜かれていたからだ。

 それを大きく動かすできごとが起こった。

 さきほど尻尾にくくりつけられた火に恐懼して、牛たちが騒擾の中につっこんでいったのである。その剛健な体によって吹き飛ばされ、踏み倒される者が群れの中に次々と。

 グントには最初から、味方を巻き添えにさせないつもりはなかった。多少の犠牲は覚悟の上だった。

「味な真似を」と舌打ちするマコト。このような荒々しい戦い方はいかにも下賤な者らしい。

「いかがなさいますか?」

「後退しろ。今なら奴らの方もこちらの状態など分からぬはずだ」

 林がうっそうと生えている脇の方にマコトは身を寄せた。牛は人間に襲いかかった後で突然闘争心を燃やし始めたらしく、まだ賊と兵とかまわず蹂躙し続けている。

「見ろ、あの牛どもはどうやら自分の置かれている状況に戸惑っているらしい。正面から進んではとても手に負えん奴だ」

 人と獣の声があわさって、異様な叫びがあたりを圧している。

「探せば秘密の道があるはずだ。今ならあいつらもこっちの勢いを調べることはできん」

 マコトは牛に襲われている軍勢には目もくれず、他の方向へ馬を走らせた。一方、マイナとその数人の部下は、山のもう少し上方、小屋や畑などが集まっている、砦の中心部にまだこもっている。

「牛を捨てごまに使うとは……」

 カツマタは納得のできない顔だった。もし敵を撃退できたとしても、牛がなくては畑をひけず、肉もとれない。

 しかしそれより重要なことがある。

「敵は本当にこれだけなのか?」

 グントに向き直って問う。

「俺は知らん。奴らに訊け」といって、はるかな敵勢を指さす。

「だがあいつらはこちらの総勢を知っているに違いない。もうこの場所が分かってしまった以上もう逃げ場はない……運命が決まってしまったようなもんだ」

 グントはうつむき加減でそう続ける。

「運命が決まっただと?」

 何に対してか分からないが、マイナはふと腹が立った。

「まだ……何も決まってない。まだ何も」

 やれやれ、リーダーがそんなにうろたえてどうするんだ、とグントは失望を隠せない。

 違う、これは今目の前のありさまに対するあせりではないのだ。

「先ほどのことだが、オバタ。いやマイナ」

 すぐにマイナは直前の表情を隠す。 「どうした?」

「お前は奴らがやってきたと知った時、やけに変な顔をしていたな。まるで会いたくない人間に会ったというような」

 グントは冗談を言っている様子ではなかった。それどころか、知らされねばならないと主張している顔で。

「単なる危機におびえているという風じゃなかった。明らかに何かを隠している。長年付き添ってきたからわかるんだ」

「そのことに、今何の関係がある?」

 マイナはあくまで首領としての態度を崩すまいと。

「いや、関係のあることだ。お前は俺たちの主人で、俺たちはお前の僕。たがいに秘密があってはならない。だが、お前は今俺の質問に答えていない」

 マイナは実際、それをいうべきかどうか迷っていた。

 すでにとある直感が、マイナの心の中にずっと置かれているのである。

 だが言葉に出せば、あまりに根拠のないことだと思った。信じてもらえるはずもないのである。

「こうしている内に奴らがこの山を落としつつあるのだぞ」

「そうだ、俺たちはまさに脅威の内にある。奴らが今、いる。それともその奴らに何かを感じ取っているのか?」

 マイナはおのずから腰の剣に手が伸びていった。

「あんたには確か生き別れの兄がいたそうだが、そのことを久々に思い出しでもしたか?」

 でなければ、苦境に立たされたなら、純粋に、対策に悩んでいる表情でいるはずなのに。

「まさか……」

「聴け、賊徒ども!」

 二人の背後、切り立った山の上に騎兵の姿があった。

「貴様らは主人からの約束を破った者として罰ははなはだ重い。改心するなら今の内であろう」

「何を言う、あの野郎!」

 グントは激高してののしった。

 馬上の男は剣を抜き放つと掛け声を放ち、一気に下へ駆け下りる。

 マイナは背を向けて家の中へと走っていった。

「待て、マイナ!」

 不意に、グントの口がそう言われた。彼はマイナを追って走り、家の中へ足を進める。

 そのまま、騎兵が見ている前で。

「奴らめ、何をふざける」

 マコトも馬を降りると、敵を討ちとるために、また。

「マイナ、後ろからやって来る!」

 グントはマイナの背中に向かって叫んだ。

「部屋の一つに隠れるぞ」

 マイナはやはり、答えるそぶりはない。

 中は意外と広く、いくつもの仕切りで分けられている。彼らが逃げ込んだのは、ベッドや机、床いっぱいに敷かれたむしろの他には何もない寝室。

「よし入れた!」 マイナはグントとその空間に足を踏み入れるや、かんぬきをかけて壁の方に身を寄せた。

「こっちはたった二人だ。あっちは何人いると思う!?」

 グントはなかば怒った口調でマイナに向かう。

「そんなことは知るものか」 マイナの声がいよいよいきりたってきた直後、

「貴様らがそこにいるのは分かっているぞ!」

 荒々しく叩く音、おどす声。

「……に――」

「窓は……だめだ、小さい」

 グントは窓に腕を通し、その大きさを測ってから、壁に短剣を突きさしたり、体当たりしてみた。

「こうなったのもあんたのせいだぞ、マイナ。おい、お前――」

 彼女は、扉に向かって目を見開いていた。

「今の声は……」

「もし今すぐ降らねば、貴様らは死罪を免れ得ぬぞ」

 マイナの表情は、恐怖ではない。

 すると、いきなりむしろを引きちぎってその顔を隠した。

「臆病者が! もし出てこねば、家ごと火あぶりにするぞ」

「ええい、言わせてくれる」 ついにグントはかんぬきを上げて、外へ躍り出た。

 すでに目の前に指揮官級の男の他、数人の兵士がいたが、これらに向かってグントは短剣を振り回して一人に手傷を負わせた。

 指揮官級の男はすぐさま身を後ろに跳ねさせて斬撃を回避した。その目の前にかばうようにあらわれる兵士。目にも留まらぬ動きでその首をかき切る。

 だが、男は横からグントの脇腹に痛烈な蹴りを入れていた。雷に打たれたようにグントは倒れこみ、続く脇への打撃で身の尺ほど吹き飛ばされる。

「さあ、もう抵抗する奴はいないな」

 マコトは周囲を見回してから、敵がいないのを確認し、部屋へ足を泳がせる。

「反乱奴隷の主謀オバタ・ゲンイチは貴様か?」

 マイナは顔を覆ってうずくまり、答えない。

「顔を上げろ。これは命令だ」

 だが、やはり何もすまいとたかをくくっているよう。

「聞けんか、この下衆」

 むりやりマコトはマイナを立ち上がらせて、そのむしろを引き外した。

 直後に、マコトはマイナにだかれていた。彼女は、哭いていた。

「……兄さん」

 自分が何をされているのか、理解しかねた。

「何だと?」

 むせぶような声を続けて、マイナは両腕でマコトの体を離さなかった。

 そして、マコトはそれをただ受け止めるばかりだった。

「おいお頭!」

 戻ってきたカツマタが、いきなり大声をあげる。

「そいつから離れろ! フクイ兵だぞ!!」

 だが、二人とも、そこから動こうとしない。

「お前、なのか……!?」

 マコトは、様々な感情のあまりそれを顔で表現することさえ難しかった。

 今、自分がかつて死んだとばかり思っていた人間に今、体で接している。

 言葉で表現するには、あまりに単純な出来事、だというのに。

 カツマタは二人を怪訝にながめてから、ようやく言った。

「いや……一体、何が起こっている……!?」


 グントが痛そうに体をたらしながら、部下の一人に腕を抱えられていた。

「兄さんは、これまで何をしてきたの?」

 興奮いまだ冷めやらぬマイナは、自分がもし違う人間を相手にしていたらどうしようかと迷いながら、そう訊いた。

「お前とは、真逆の人生だよ」

 マコトは皮肉めいた口調で答える。

「お前はずっとこんなところで盗賊稼業をやっていたのか?」 そっけない表情だった。大して懐かしむ感情はないらしい。

「いや、私は最初下女として使われた……」

 兄に対してどういう言葉を使えばいいのだろう。こんな身になってしまった自分を、どのように思っているのだろうか。

「下女? 宮廷のか?」

「いや、商人の……」 遠慮するようにつらをそむける。

 いきなり変な笑顔をマコト。

「商人? ほう、なら色々といやなこともあったかもしれん」

「こいつ、言いやがったな!」 彼のおかしげな表情にカツマタが激高したので、グントが渾身でその腕をおさえる必要があった。

 だが、マイナは悪い気はしなかった。少なくとも、兄の反応に対して腹を立てていたわけではない。

 自分と兄の話し方が、かなり違っていることにマイナは気づいた。兄は、フクイ人より流ちょうなフクイ語を話していたのである。

「でも、ある時とうとうたえかねて、逃げた」

 自分もフクイ人の調教により、そういう風に話していた時期が確かにあった。だが盗賊になってからは、仲間に同郷の人間がいたことで、再び気兼ねなくニーガタ語を使うように戻っていたのである。

「そして、時々は山を下って不埒なまねをしていた、というわけか。それゆえ我々は人々を脅威から守るためにここにやってきた」

 マイナには、マコトの様子が素なのか芝居なのか、知りかねた。

「お前がオバタ・ゲンイチか?」

「ちょ、ちょっと待って」

 マイナはあせった。

「まだ、訊きたいことは山ほどあるの。 一体、兄さんはどうしていたの?」

「先に俺の質問に答えろ。お前が、この山のボスか?」

 マコトは、温情のない顔で問い詰める。

「もしそうなら、貴様は今すぐ処断せねばならん」

「どうして、どうしてそんなひどい!」

 背後から足踏みと剣の音。

「兄さんはいつから、そんな人になったの!」 マイナの心は、なかば絶望だった。

 今となっては、あの年月はごく短い間のことのようだった。その時間が、今や二人をここまで分けてしまったのである。

「いいか、よく聴け。俺はこれまで戦いの中で過ごしてきた。死にそうな目に何度も遇ってきた。裏切られたことだって数回じゃない! 口だけで従順を装いながら刃物を隠し持っている人間は何度も目にした。多くの人間がそうだった! 今さらお前を信じられるか? もう十年も見ていなかったというのに」

「で、でも!」

 その場にたちすくむマイナ。

 マコトはなお殺気を放出していた。

「まだ、こうして一緒にいられるだけでも、私は……」

 その後に続く言葉を予想することさえ、マコトには虫唾が走る。

 俺は全くうれしくなどはない。なぜ、この山にいすくっていたのが他でもないこの女なのか。

 俺とかつては関わりのあった、この女に。

「兄さんが生きてたって、全然予想もしてなくて……」

 マコトはとりあえず命じた。

「お前ら、剣をおさめろ」 兵士がそうすると盗賊たちの身もほころんだ。

 マコトはカツマタたちに言う、

「お前らもなのか? 主人から逃げてきた奴隷は」

 カツマタがだまってうなずく。

「上から支配される生活に、嫌気がさしたからか?」

 彼らをさげすむ気配はなかった。むしろ、同じ階層の人間として付き合うしたしみが。

「俺の場合、買ってくれた家の旦那が、生活が苦しくなったせいでまた売りに出されるはめになった。その時に、監視の目を逃れてここにやってきたわけさ」

 グントが自分の身の上を明かした。

「また売りに出された? 俺の場合はそんなことはなかったぞ」

 急にニーガタのなまりが出てきたので、グントは目を見張った。

「もう知っているはずだ。この女と同じように俺も元は奴隷だった。同じ日に、別々の人間に捕まえられ、引き離された。だが、その後があまりに違ったようだな」

 グントはその時まで、二人が抱き合っていたことも構わず、フクイ人であるとばかり思っていたのである。

「俺はよくある、商人だったり富豪だったりの家に買われたんじゃない。俺の身を買ってくれたのは国を力によって守る、戦士の家だ」

「戦士の家?」

 カツマタがいかにも面白くなさそうな顔をしている。

「貴様、自分をさらった国の奴らの手下として生きているのか?」

 彼以外の盗賊にとっても、それは屈辱以外の何物でしかなかった。

「お前らには分かるまいよ、俺が国家の忠僕として尽くす心意気など」 カツマタには全く分からない心情で、自慢げに。

「知るか、そんなもの」

 マイナはやはりそうか、と考え込まずにはいられない。

 ここにいるのは、かつての兄ではなかった。兄であったとしても、自分が知っていたとはかけ離れている。

「マイナ。お前は俺をまだ慕っているのか?」

 息を微かにもらして、マイナを顔を見上げる。

 案の定、見慣れた兄の顔はそこになかった。長く戦いに明け暮れたフクイ軍の将兵サカキ・マコトだった。彼の表情は確かにかつての兄に似通っている部分はあった。だが、マイナが知らない内に全く別の何かがその裏面に入りこんでしまったらしい。

 いつの間にか、彼はまた先ほどの厳しい目に戻りつつあった。過去のことをしのんでいる暇などない、と言わんばかりに。

「やはり、答えたくないらしいな」

 そんなに時間が過ぎていたとは知らなかった。

「当然だ、俺たちは完全に道を違えてしまったのだから」

 と告げて、顔を背ける。

 さっさと言葉を継げ、と暗に命じているようだった。一体、これから私に何をさせようというのか。

「……兄さんは、そんな生き方で、本当に満足なの?」

「何だと?」

 マコトはひかえめに目をマイナへ。

「国のために尽くして、命をなげうとうとする……そんな生き方で、幸せ?」

 自分が幼い頃は、そんな生き方があるなんて聞いたこともなかったのに。

 もし、あの時人さらいに出会わなければ、こんな目に遇うこともなかったのだろうか?

「俺は今、幸せだぞ」 マコトには何の他意もない。

「俺は最初から刀を振るう身分の人間に買われたんだ。そこらへんの金持ちや豪農とは違ってな。金が商人に渡され、主人の持ち物になってからはずっと武器の扱い方、体術、戦術といったものを教えられて、実際に戦場に出て闘うこともあった。おかげで俺はたくさんの勲功を立てて、とうとうソーリに推挙されるという光栄まで浴した。でなきゃ、お前らのようないやしい生き方しかできなかったはずだからな」

 逃亡した奴隷とは、なんという汚名ではないか。彼は、確信していた。

「マイナ、どうだ、うらやましかろう?」

「私は、そうは思わない」

 そのマコトの考え方を、彼女は打ち消した。

「では理由を教えてみろ。俺を納得させるだけの名分があるのなら」

「ずっと私の人生には、自由がなかった。誰かに支配されて、誰かの命令に服するしかない、そんな人生だった」

「だがその後はどうだ? お前は表むき自由を手にしたのではなかったのか?」

『表むき』にストレスを置いて、マコトは問う。

「違う。私は今も、自由じゃない」

 強く首を横に。

「確かに下賤な人間としての生き方だったけれど、それでも自由があった、なんて言えない。こんな生活をしていること自体、他に選択の余地がないことを示してる。私には、好きな生き方をする自由なんてなかった」

「自由とは好き勝手に生きることだろう? お前はこんなところで数年も気ままな生活をしてきたわけだ。お前は自由に生きることができて幸せじゃなかったのか?」

「違う!」

 もう、それを理解することもないのか。

「そんな暮らしは私が好きで望んだことじゃない。私にもし自由があれば、故郷のあの村に戻って静かに暮らしたい。でも、この世界には自由がない。下に降ればいつも兵士が監視の目を光らせているし、ここにいると生活に必要なものさえ手に入らない。だから今まで、好き放題することしかできなかった。好き放題させられていたんだよ」

 マコトは冷やかな目つきをしていた。マイナの悩みなど、くだらないと一蹴するかに。

「では、最初から逃げなければよかった。好きに生きて人に迷惑をかけるのが嫌なら、不便であっても束縛を受け入れたほうがよかったはずだ。その束縛が後に自分にとって意義のある物だと分かり、それが必要なものだと思いさえすれば、悩み苦しむこともない」

「でもそれは、兄さんのことでしょ?」

 彼女はうつむき加減に言葉をつむぐ。

「誰かの下に屈して生きることなんてしたくない。でもこんな、普通の人間が忌み嫌うような生き方も本当はしたくない。いっそのこと、誰もいない世界に放たれればよかったのに」

 しばらくこの会話に、口をさしはさむものはなかった。だが、誰もが何も思っていなかったわけではない。

 グントはマイナがしりごみする様子など見たくなかった。自分のかりそめとはいえ主人の、弱弱しい姿など。

「マイナ。俺は自由にあこがれている」

 マコトとマイナを同時に見やりながら彼は言った。

「だがその自由はどこまで追い求めても手に入りはしない。確かに、こんな薄汚ない山の中に閉じ込められ、フクイ人には狙われるし、できることといえば略奪と下手な商いだ。とてもこんな生活、続けられるものじゃない」

 マコトはマイナに対するよりいっそう冷徹な目でグントを見ていた。

「最初、俺はこんな山の中の暮らしを自由じゃない、と思ってた。だが、ずっとここで生きてきてなんとなく気づいたことがある。本当は、自由はどこか遠い所にあるもんじゃない。今ここにあるものなんだって」

 マイナが少しずつ目先を泳がせ始める。

「よく分からないが、それを考えてみたらこのくそみたいな生活が急に性に合っているように思えてきたんだ。もう、自分はここでしか生きれないって。この世界こそが俺の持ち物で、その中では俺は完全に自由なんじゃないかってさ」

「グント……」 マイナの中の何かが音を立てて崩れそうになった。

「つまり、罪のない人間を苦しめて、それが自分にふさわしい生き方とでも?」

「いや、どうせみんな、誰かを苦しめて、それを仕方がないと考えてるさ」

 それまで黙っていたカツマタが重い口調で応える。

「グント、俺も同じだ。俺は今まで自分が悪い人間だと承知していた。これはたまたまの不幸で、仕方がないと感じていた。だがやはり、どんな人間もそうなのかもしれん。

 人間は悪い存在で、それを離れることなんてできない」

「つまり貴様ら、何が言いたい」

 自分は、したいことをしていない。

 したいことを、自分はすることができない。

 けど、それでもしたいことを追い求めることに意味があるのか。

 もうマコトには『したいこと』なんてないように見える。今やっていることが、現に望ましいことだとみなしている。

 今、グントは自分がいる世界の中で、自分は自由なのだと言った。

 カツマタは、人は悪いことから離れることができないと言っている。

 一体、どういうことだ。マイナは思い悩む。

 ……いや、そうだ。兄さんは、今、自分がしてきたことを自慢している。

 だが、それが多くの人間を苦難に追いやった人生であることは疑いない。

 自分でさえ、そうだった。

 そういう生き方しかできなかった。

 自分がやむをえず行っていることが、グントの言う通り、あってしかるべきことであるなら。同時に、誰かにとって、悪いことでもあるなら。

 二人の言葉を聴いて、マイナは結論を出した。

「三人とも、聴いてほしい」

 理解してもらえる必要などなかった。

「私たちはたくさんの人間を傷つけてきた。生きていくうえで、それは避けられない。けれど、誰だってそういう風にして生きている。人間は、誰もが罪深いし、愚かしい。でも、その罪をはっきり理解して、ずっとそれを背負って、その運命をまさに受け取るべきものとして、耐え忍んで受け入れる。結局、それしか道はないらしいみたい。私たちには」

「隊長どの!」

 兵士が少し耐えかねたように大声を上げる。

「この者達はただの賊徒に過ぎません。こやつらのたわごとに載せられてはなりませぬ。奴らの計略に違いありませぬぞ、今にも――」

「おい、落ち着け」 手のひらをつきだしてマコトは制止した。

 それからマイナの顔をわずかににらみつけて答える。

「……貴様の言うことは、わけがわからん」

 マイナは怖気づくことなく、兄の顔を視返した。すでにそれは、見たことのない別人の顔だった。

「だが、貴様らによく言っておく。今すぐ、この山から出ていけ。そして、二度とフクイに姿を現すな」


 マイナたちは西へ向かった。もはや居場所を知られてしまった以上、フクイにとどまることはできない。

 細い山道を進みながら、マイナは馬上で昔のことを思いかえしていた。

 かつての兄がどのような人間であったのか、今となっては思い出す由もない。

 考えてみれば、兄のことをよく思い出すことはあっても、どういう性格の持ち主であったのか、どんなことをしてくれたのか、ということにはまるで関心がなかった。

 どのような変化が彼にあったのか、知る由もない。ただ、自分が知っていた彼との隔たりはもはや埋め合わせられぬほどのものだった、とひしひしと感じていた。

 もう少し、色々なことを訊いておけばよかった、後悔はする。それができたらよかったのに、と。

 いや、もしかしたら、そんなことは不可能だったかもしれない。過去の兄をそこに投影して、ないものねだりをするなんて、やはりできそうになかった。

 兄が自分を見逃してくれたのは、明らかに温情ではなかった。

 気づくと、彼らの前には稲畑にかこまれた小さな集落が姿を現していた。畑に囲まれていくつかの小屋があり、そこで数人が寄り集まっている。

 ここまで来ると、

「すまぬが、ここは何と言う名前だ?」

 カツマタをそこに送り、質問させた。

「父祖からは代々、マイズルと呼んでおります」

「マイズルといえば、もうタカシマから五十キロメートルも離れている」

 カツマタはちょうど都合がいいと思った。

「もうここまで来れば奴らも追ってこられないはずだ。もうこれ以上逃げる力もないからな」

 グントはマイナの方まで戻ってこのことを報告した。マイナは、

「新しい地に我らはついたのだ。マイズルとは我らにとって古い名前でしかない」

 と言った。

 ずいぶん故郷から離れてしまった。本当は、戻りたい気分がないわけではない。

 けれど、自分は結局自由ではないのだ。少なくとも、欲望をそのまま満たすことができない、という点では。

 ――ならむしろ、与えられた条件の中で自由に生きようではないか。

 そうすれば、自由を無理に求めて苦しむこともない。

「むしろ我々には、よりふさわしい名前があるはずだ」

「では何と呼ぶ?」

 マイナの返答は簡明だった。

「ここは我々がトキハナタレタ場所だ。だからトキハナの場所と呼ぼう」

 ……彼女がそう名付けた地は、その後長らく人々の記憶に残ることとなる。


「隊長どの、あれでよかったのですか!?」

 先ほど声を張り上げていた兵士が再びたてついてきた。

「奴らを野に放てば、また禍を世にもたらすことになりますぞ!」

「怒るなユウイチ……」

 サカキはマイナに、情をかけたわけではない。

 もはやマイナは理解し難い存在だった。彼女はどこまでも自由をのぞみ、そのために苦しんでいる。

 自由だと? くだらない。いっそ、縛られた身を受け入れてしまいさえすれば、そんなものに惑わされずに済むのに。

 彼女は、現に自由に生きていたではないか。その上にさらに自由を求めるというのか。なんと身勝手な妹になっていたことだ。

 ……しかし、二人の部下が言っていたな。

「この世界の中で、自分は自由だ」「人間は悪い身から離れることなどできない」

 つまり、奴らは自身の悪さを自覚している。こんな世界にしか生きられない、と確信している。

 その宿命を、あの女は受け入れたというのか? 口先だけだというのに。

 だが、俺は違う。俺には、自由なんて必要ない。ただ天から下される掟だけ。

 どんな人間にも悪い所はあるにしても、俺はその悪い所を埋め合わせるために努力しているはずだ。人間のために、社会のために――

「奴らのことはどう報告するおつもりですか!?」

 ユウイチの口調はいよいよ激怒しかねなかった。うっかり思考の波にはまりこみ、周囲を見失っていた。

「逃げた、と報告しておけ。我らを恐れてオーサカに下っていったとな。あれほどの烏合の衆を見逃したところで大した脅威にはなるまい」


 誰にもおびやかされない世界に、マイナたちはおそらく自由に生きたに違いない。

 奴隷として売り飛ばされ、その後逃げ出して盗賊となり、自分の命を狙いにやって来た敵に見逃されたという数奇な人生を送った女性の心境はどんなものであったろうか。

 その後彼女がどうなったかは、史料に記載がない。だが彼女の兄についてはその後もさまざまな業績を手掛けたことが分かっている。とはいえ、それについて詳しく語るのはまた別の時である。

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