夜のお花見
「この花は、日のいずる方の国ではサクラと呼ばれているらしいわ」
姉様が庭に植えられているサクラの木の下に敷いたシートの上で、小さな器に花見酒を注ぎながら解説してくれる。
夜の庭で月の光と魔法に照らされたサクラは綺麗な薄いピンク色の花を咲かせている。
柔らかい春の夜風に吹かれて、サクラの花びらが一枚一枚、ヒラヒラと舞い落ちる様はとても優雅で美しく、僕は思わずため息を漏らした。
「遠い昔に遥か遠方から運ばれてきて、そのうちの一つがこの土地にも植えられていたのですって」
本当かどうかは定かではないけれど、僕たちのご先祖様、何代も前のコーストリナ国王様がその美しさを大層気に入られたらしく、サクラの木を敷地の中にも植えるようにいわれたのだとか。
宙を可憐に舞い踊るピンクや白のサクラの花びらを眺めていると、そのうちの一枚が僕の持っていた器に降りてきて波紋をつくる。一口含むと、夜だというのに体の奥からじんわりと暖かくなってくる。
僕は息を吐いて、頭上に咲くサクラの花を見上げる。
ちなみに、お酒は本当に小さな器に入れられて子供たちにも一杯だけ振舞われたのだが、ほとんどの子供たちは舐めるくらいであまり飲まなかった。どうやら口には合わなかったらしい。
子供たちには一緒に用意されていたお菓子の方がお気に召した様子だった。
姉様は騎士の人たちや、メイドさん、料理人の方、お城で働いているほとんどの方に声をかけたらしいのだが、お団子とお酒だけ提供されて、参加自体は見送られたということだった。
「大勢の方が楽しいと思ったのだけれど」
姉様は少し残念そうにつぶやいた。
「家族の邪魔をしてはいけないと思われたんじゃないかな」
僕はサクラの木に面したテラスの方を見上げる。そこには父様と母様がいて、アルヴァン様やカレン様と語らい合っているはずだった。
姉様が僕の隣まで歩いてきて、足を崩してシートの上に座る。
「まあ、静かなのもいいわよね」
「そうだね」
僕は両手を後ろにつくと、身体を反らして真上のサクラを見上げた。
「ルグリオ様ぁ」
ふと、左腕に重みを感じたため、そちらを見ると、赤く染まった顔をしたルーナが僕にしな垂れかかってきていた。
「ル、ルーナ?」
思わず、変な声が出てしまった。
ルーナは真っ赤な顔をしていて、目は明らかに焦点が定まっておらず、かわいいしゃっくりをしていたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「どうしたんれすかぁルグリオ様ぁ」
語尾も怪しく呂律も回っていないルーナがぎゅっと僕の腕にしがみついてくる。
「ルーナ、まさかお酒を」
まさかとは思いつつも姉様の顔をみたが、姉様は首を振った。
「私じゃないわよ」
否定してくれてほっとしたが、安心していられる状況じゃない。ルーナはまだ10歳だし、一杯だけならまだしも、こんなになるまで飲んでいるのはまずい。いや、もしかしたら、一杯だけでこうなっているのかもしれない。
僕はアルヴァン様やカレン様がいるだろうと思われるテラスを素早く見上げる。
まずい。何がまずいのかわからないが、とにかくこの状態のルーナを他の人の前に出すのは非常によろしくない結果を招きそうだ。
そんな僕の焦りを、酔っていると思われるルーナが気にしてくれるはずもない。
「なんらかルグリオ様が遠いぃれすぅ」
「わっ」
いつの間にやら正面に回っていたルーナに押し倒されて、お腹の上に乗っかられる。
ルーナはとても軽いので体力的には問題ないのだが、体勢的には非常にまずい。
「これで近くなりましたあふふふ」
そのまま覆いかぶさるように倒れ込まれて、ルーナの細い両腕が僕の首に回されて、ルーナの良い匂いが、なんていうと変態的だが、鼻をくすぐる。
いけない。これはまずい。今はまだ焦りが勝っているが、理性が負けるのも時間の問題に思われる。
「姉様」
ルーナを押し返そうとしたら泣き出しそうな顔をされたので、僕は割と必死な思いで姉様に助けを求める。情けないとか、そんなことを言っている場合ではなかった。
「私は何も見ていないから続けてどうぞ」
「姉様、以前と言っていることがまるで違います」
「私は面白そうなことの味方よ」
せめて今は僕の味方でいて欲しかった。
しかし、姉様は姉様だった。
「アルヴァン様とカレン様も呼んできましょう」
そして鬼畜だった。
「あらあら、ルーナったら大胆ねえ」
姉様に連れてこられたカレン様の第一声はそれだった。
「カレン様。見ているだけでなく助けてくださいませんか」
幸せそうに頭を押し付けてくるルーナを、嬉しくないことはないのだけれど、むしろ嬉しいのだけれど、僕はどうすることもできずにされるがままになっていた。
「大丈夫。父には私からしかと伝えておこう」
「アルヴァン様、面白がられていないで手伝っていただけませんか」
「るぐりおさま」
「はい」
さらに呂律が回らなくなった様子のルーナが顔を近づける。まだ近づける余地があったことに驚きだ。
「わたしがここにいるのに、どーしてにーさまやねーさまとばかりはなしてりゅんでしゅか」
噛み噛みの言葉遣いは非常に可愛らしいのだが、そんなことに気を取られる隙さえ与えてはくれなかった。
「きいちぇりゅのでしゅうか」
「はい。聞いております」
「むー。りゅぎゅりょさーわーしーすぅ」
話し疲れたのか、ルーナはそのまま僕の胸の上で眠ってしまった。
可愛らしい寝息が聞こえ、規則正しく背中が上下している。
「これは明日の朝、ルーナの顔を見るのが楽しみね」
「そうだね」
僕がお姫様抱っこでルーナを抱え上げると、背中からそんな会話が聞こえた。
「あ、あのルグリオ様」
翌朝、当然のごとく全く眠れなかった僕が早朝に鍛錬でもしようかと思って部屋から出ると、部屋のすぐ前でルーナが待っていた。
「ど、どうしたの、ルーナ」
昨夜のこともあり、つい言葉がつっかえてしまう。
「昨夜の花見の事なのですが」
ごくり、と唾を飲み込む。
「セレン様のお話を聞いていた辺りから記憶がなくて。それになんだか頭も痛いのです」
何かまた呪いでしょうか、と聞かれ僕は答えに困ってしまった。まさか、本当のことを教えようものなら、ルーナは羞恥心で蒸発してしまうだろう。
「それは困ったね。とりあえず、母様とお医者様のところへ行ってみようか」
結局僕はそれしか告げることができなかった。