ジュール・グフビル 再び
開かれた先の部屋の光景に、私たちはしばし呆然として、自分の目を疑いました。
「……誰もいない?」
シュロスが呟いた通り、そこは先程出ていったときとどこも変わらない、いつも通りの更衣室で、明かりはついていましたけれど、部屋のどこにも人影が見当たりません。
「もしかして、シュロスが魔法に失敗したとか?」
リアはそう言っていますが、自身でも本心からそう思ってはいないのか、声に迷いが感じられます。
「惑わされてはいけません。自分の魔法に自信を持ってください、シュロス。すぐに―—」
私が感知するための結界を展開しようとしたところで、私たちの背後から扉と鍵の締まる音が聞こえてきました。
「やはり、ああ言っておけば無駄に正義感を振りかざしていい気になっているお前たちの事だ、必ず来ると思っていたぞ」
「ジュール・グフビル……!」
振り返った先には、以前よりもさらにお太りになられた、最早とても運動科目の教師が務まるとは思えない体形のジュール・グフビル元教諭が、脂ぎったそのお顔に薄気味の悪い笑みを浮かべていらっしゃいました。
「ああ、単価が安くてどこも買い取ってくれないから出荷されそこなったのね、この野豚。可哀想に。でも、可食部の9割が脂肪じゃ誰も食べたくないものね」
「シュロス、それ、野豚じゃないよ。それに人間の顔じゃないんだから、見た目で判断しないで、まずはお話を聞いてあげなきゃ」
「リア、言い間違えてる」
こんな状況だというのにも関わらず、皆のんきなものです。目の前でお顔を薔薇のように、は言い過ぎでしょうか、とにかく真っ赤にされたジュール・グフビル元教諭はかなり頭に来ていらっしゃる様子です。
「ああ、ごめんなさい。てっきり服を着て歩く新種の豚だと思ってしまったから、捕まえて組合に提出するだけにしてあげようと思っていたのだけれど、そういう事なら仕方ないわね。提出じゃなくて先生方に突き出さないと」
頭から湯気が出そうなほどにお顔を歪められていたジュール元教諭でしたけれど、どうやら調子を取り戻されたようで、ニタァと唇と眉を歪められました。
「うわっ、キモ。夢に出てきそう」
思わず本音が口を出てしまったのでしょうか、リアが顔を青くして一歩後ずさります。
「先生に向かって何て口のきき方だ。教育がなっていない証拠だな。やはり、私が抜けてからこの学院はまともな教育を受けさせてはいないようだな。……これは私がしっかり教育してあげなくてはいけない」
「ロッテ」
「分かってるわよ」
ジュール元教諭が腕を振り下ろしたのを見て、私とロッテは即座に障壁を展開、さらに結界によって私たち4人を囲いました。
その直後、頭上に突如現れた金網の檻が落ちてきて、私たちを閉じ込めました。
「こんな物が何だって言うのかしら」
檻を壊そうとシュロスが放った、正確には放ったように見えた魔法は、何の変化も起こさずにまるで空間に吸い込まれてしまったかのように掻き消えました。
「シュロス、この檻の材質ですが、おそらく魔力を吸収するものです」
「何それ? 聞いたこともないわね」
市場でも見たことがないので、おそらくは希少なものか、恐ろしく高価なものだとは思うのですけれど。
以前一度だけ、エノーフ地区へ実習に出掛けた際に見かけたことがあります。モルタンと名乗っていた男の屋敷で使われていた枷と似たような、もしくは同じ材質なのでしょう。
とりあえず、魔法が主体の私たちにとっては厄介なものであることには変わりがありません。
「その中ならばちょこまかと動き回ることも出来まいて」
ジュール元教諭は、実に楽しそうな、罠にかかった獲物をいたぶるような、少しでも気の弱い者なら吐き気を催してしまうような笑顔を浮かべて、ゆっくりとこちらへ近づいてきます。
魔法が使えない状況で明らかに恐怖しているシュロス達を背中に庇うと、大丈夫ですと言い聞かせて私は前へと進み出ます。
「とりあえず、あなた方の目的をお教えいただけますか、ジュール・グフビル」
毅然とした態度で、怯えなどおくびにも出さずに、真正面から、真っ直ぐに彼を見つめます。
「俺はこの学院の先生だぞ。敬意を持たないか」
どの口がおっしゃるのでしょう。まったくご立派な神経をなさっていらっしゃいます。
「先生とは生徒の先を生きて、私たちが道を進む手助けをしてくださっている存在の事です。ある人は憧れを抱き、別の人は尊敬を持ち、皆に慕われる方の事です」
それにあなたは今現在罷免されていらっしゃるのですから、先生ですらありません。
私はこれ見よがしにため息をついてみせます。
「それに引き換え、あなたはどうでしょう? 自身の欲望に従ってあのような事件を起こしたにも関わらず、全く反省もせず、する気もなかったのでしょうからあの場だけのポーズということですね、同じような過ちを繰り返す。そんなあなたのどこに尊敬を抱き、敬意を払えばよろしいのでしょうか?」
後ろからシュロス達の視線を感じていますけれど、私は構わず続けます。
「こんな風に元教え子を監禁し、恐怖させ、皆がお祭りで楽しんでいる最中に悪事を企てる。ご自身のなさっていることを省みて、それでもまだ先程と同じ台詞を紡ぐことが出来るのでしょうか?」
「黙れ」
「図星を差されて怒るなんて、本格的に頭をやられていらっしゃいますね。いっそ、このまま異常者のふりでもなさっていれば、もしかしたら減刑されるかもしれませんよ?」
私は絶対に許したりはしませんけれど。
「黙れ!」
「あなたに命令される謂われはありません。私が従うのは私の心と私の大切な方達だけです」
全身から湯気が出ているようなジュール元教諭が一番近くにあったロッカーを掴んでこちらに投げ飛ばしてきます。
「ご自分で檻を落としておいてそれですか。呆れますね」
当然のごとく、檻を破壊できるはずも、金網を通過できるはずもなく、ロッカーは大きな音を立てて床に転がり落ちます。
「ハァハァ……」
大きく肩で息をしていらっしゃったジュール元教諭は、大声をあげて高笑いをなさいます。今のロッカーの音から誰も駆けつけては来ないことを考えても、おそらくは防音、遮音の結界を展開していらっしゃるのでしょう。
「まあいい。何と言おうがお前たちはすでに捕らえられた籠の中の小鳥よ。精々、綺麗な声で鳴いて俺を楽しませることだな。そうすれば、もしかしたら無事に帰ることが出来るかもなあ」
それから、何を思われたのか、ぷるぷると全身を震わされて、私に指を突き付けなされます。
「気に入らないんだよ、その眼が! まだ何か出来ると諦めていない光を宿している! この、絶対的に私が有利な状況で! 今のお前は容姿だけが取り柄のちっぽけな一学生に過ぎないんだよ!」
大きく金網が揺れ、ジュール元教諭の手のひらから血が滴り落ちます。ここで、あなたにも赤い血が流れていらしたのですね、と告げたなら、どうなることでしょうか。
「おっといけない。つい壊してしまうところだった。まあいい。今からとくと味わわせてやる。いかに自分が無力でちっぽけな存在なのかをな」
ジュール元教諭の手が金網の檻の出入り口にかけられます。