それは巨大な軟体生物
夏とはいえ、夜中はやはり冷え込みます。念のために水着を着こんでからパーカーを羽織り、風を起こして船を進めます。
「ここまで出れば大丈夫でしょうか」
浜の明かりがギリギリ視認できるほどの位置まで出ると、舟を進めるのを止め、その場に停止しました。
幸いなことに、皆舟には強かったようで、船酔いを起こしているようなことはありませんでした。
しばらく待っていると、月の光を反射した海面が波経つように遠くの方から押し寄せてきました。
「まさかあれのことじゃないよね」
やや残念そうな面持ちのメルが言う通り、確かに現れた魚たちは、数こそ多いものでしたが、とても舟を沈められるような強さ、大きさには見えません。腕を噛み切るのがせいぜいだろうという程度です。
「夜食になるかな」
私たちを襲うために海面から飛び出してきた魚に一匹ずつ魔法を当てて仕留めてはいるのですが、群れにはまだ数千とも思われる魚が蠢いています。
「メル、私が彼らを一旦囲うので、その中でまとめて捕らえましょう」
「わかった」
私は海面から徐々に結界を広げていき、魚群を全て納めるまでに広げきるとメルに合図を飛ばします。
メルの魔法で結界内に捕らえた魚を全て感電させると、そのまま引き上げて、4匹を残して全て収納します。
「夜食だね」
魚を焼くのをメルに任せて、私は船室の中に入っているアーシャとシズクを呼びに行きました。
何度か見張りを交代しつつ、沖へ沖へと進みながら、幾度か同じような魚群に襲われて、まさか本当にこの小魚たちの群れの事なのかと思い始めた時に、それは唐突にやってきました。
「ここまで魔力が感じられるなんて」
おかげで位置は掴みやすいのですが、大きさも分かってしまいます。口に手を当てたまま固まってしまったメルの肩を揺さぶります。
「メル、しっかりしてください。来ますよ」
「あ、ごめん、ルーナ」
メルがそういった瞬間、物凄い衝撃が船体を大きく揺らしました。おそらく、結界で防御していなければ真っ二つに破壊されていたことでしょう。
船が沈んでこないことを不思議に思ったらしく、二度目の衝撃が私たちを襲いました。
「大丈夫っ」
衝撃に驚いたアーシャとシズクが船室から飛び出してきました。
「ええ、今のところは何とか持ちこたえられています」
突然の衝撃に備えて船体下部に結界を集中させていたため水しぶきを防ぐことが出来ずびしょ濡れだった私とメルは、アーシャたちと結界の運用係を交代すると、身体をタオルで拭いて、私は私たちを守る結界を展開しました。
それにしても、この相手の力はすさまじく、結界を張っているのにも関わらず衝撃を和らげるだけで、舟が揺らされるのを防ぐことが出来ていません。
「いい加減に姿を見せてくださると助かるのですが」
私たちの願いが通じたのか、それとも攻撃を加えても沈んでくる様子のない舟に焦れたのか、月の光を反射してきらきらと光る海面に巨大な影が現れました。
「ようやくお出ましね」
結界で覆われているすぐ外に、巨大な、とても巨大な白い触手が二本、その姿を見せました。先端の方には無数の吸盤がついています。
「食べごたえのありそうなイカだね」
続けて全身を海上に出したイカに対する最初の感想はそんなメルのものでした。私とアーシャとシズクは、しばしその巨大さに目を奪われていました。
乗っている舟の3倍以上はあるだろう夜の闇の中でもぴかぴかと光っているその巨体、本能のレベルで嫌悪を感じる異常なほどに長くて太くて大きい触手。
「あなたがここ一帯の漁師の方々を襲っている犯人ですか」
返事が来ないことは分かっていましたが、ある意味予想通りの返答が帰ってきました。そう、触手を鞭のようにしならせて舟に向かって叩きつけてくるという形で。
振り下ろされる角度、速度を計算して、その一面に障壁を多重に展開します。こちらに対して攻撃が通じず、怒ったらしいイカは、持てる触手を全てつかって、乱舞するようにこちらに向けて撃ちつけてきます。
「こっちは任せて」
反対からアーシャの声が聞こえてきたので、逆の側面はアーシャとシズクに任せることにして、私とメルは正面に集中しました。
幾度か触手を振るわれて慣れてきたところで、メルに合図を送ります。
「メル、こちらを任せていいですか。その間にあれの本体を倒します」
「大丈夫だと思うけど、なるべく早く片づけてね」
「一瞬で仕留めます」
集中する時間さえ稼ぐことが出来れば、あの巨体に攻撃を当てることは容易なはずです。こちらを、人間を餌と、弱者とみなしているのか、私たちにとっては幸いなことに逃げるような素振りも見せてはいません。
「今から一瞬、結界を解くので、よろしくお願いします」
「分かってる」
「任せて」
メルとアーシャとシズクが頷くのを確認した私は、巨大イカへと向き直り、結界を解除します。
「時間をかけるわけにはいきませんので、一瞬で勝負をつけさせていただきます」
そして今度はイカの全体を覆う結界を展開、衝撃が一瞬消えます。そして、それをイカに破られる前に、最も早い魔法、稲妻を撃ち込みます。
結界のおかげで無駄に海洋の他の生物に被害を出すことなく、イカは一瞬ののちには感電して動かなくなっていました。
「触っても大丈夫でしょうか」
ぬるぬるとした感触に戸惑いつつも、その巨大なイカを収納して、私たちは白く染まりはじめた空に背を向けて戻りました。