危険思想 「機械化」
初めに
私の思想は、現代社会の利己主義な政治家や資本家の地位を脅かしかねないだろう。
たとえ彼らの権力で私が非難されようとも、世論から非難されようとも、私は喜んで思想犯となろう。
「機械化」
世の中は非常に便利になりました。
ありとあらゆるものがオートマチック化され、人間の自発性が薄れつつあります。
料理、移動、手工業、会話・・・
それは本当に行動だけでしょうか?
私は人間の思考こそオートマチック化されていると考えます。
世論によって思想は操作され、個人というものを失いつつあります。
それは言ってしまえば、人間が機械化されているのではないでしょうか?
流行りなんてものは人間のデザイン変更のようなものです。
これには大きく同調というものが関わってきます。
同調は諸個人の責任を分散させ、あわよくば他人に押し付けることも可能です。
確かに同調は精神的に楽なのです。責任という枷が軽くなり、負担が減るのですから。
しかし、同調は大きな力を持ちます。それは人間の倫理さえも壊しかねません。
同調は責任が軽くなるようで、力を持つという大きな責任が付きまといます。
それを自覚せず、いつの間にか戻れないところまで来てしまうこともあるのです。
他人に便乗することは質素と思えますが、実は責任逃れしているだけなのです。
また、責任逃れというのは非常に利己主義的な行動であります。
責任を果たさず、自己の利益を喪失することを嫌悪することになるのですから。
言わば、間接的利己主義になるわけです。
しかし利益(私産)を持つこともまた責任が生まれます。
人間は責任を持たなければならない生き物なのです。
死もまた同じであります。
人間は生まれたとき死という責任を持たなければなりません。
科学が発展し死の確率というものが激減しました。
それは人間の死の自覚を遠ざけるものでもあります。
しかし、いくら科学が発展しようとも死はどこにでも存在します。
死は必ず来るものでありますが、向かってくるのではなく受け入れるものなのです。
人間は生きているうちに、責任を受け入れることができるようにならなければなりません。
人間は集団に埋没することを止め責任を受け入れたとき、思考の自発性が戻り個人主義が生まれるのです。
人間は機械化され思考をも統一し平等になるのではなく、個人が個人を認め合い尊重することで平等になるのです。
と、ここまではドイツの実存哲学者ハイデガーの思想をつづったまでです。
しかし、教科書にも載る哲学者がこの思想を提唱したのは第二次世界大戦よりも前になります。
結局、権力者たちは利己の実現のため戦争を起こしてしまいました。
ここにはまた、別の利己主義が関係するのです。
自らの財力や権力で他人を攻撃したり、従わせたりする。
これは保守的な間接的利己主義に対して、追求的な直接的利己主義になるのです。
効率的な利潤の追求のため、科学を発展させ上下関係をも作り出しました。
これは資本主義ともいえるでしょう。
しかし資本主義は、権力者の私腹が肥えるばかりです。
利潤追求の自由競争は結局、利己的行動につながるのです。
これもまたフランスの社会主義者サン‐シモンの思想であります。
しかし人口の増えすぎた現代、資本主義の撤廃はそう簡単にはいかないでしょう。
社会主義の実現は非常に難しい問題であるのですから。
現代において、私たちが抱える問題。
その原因は21世紀より前に多くの哲学者たちが語っているのに、一向に修復されません。
それは間接的利己主義者たちと直接的利己主義者たちによって妨害されているのでしょう。
人間は利己に従い、自然から一方的に利益を搾取し発展してきました。
そして資本主義によって利己主義はより傲慢に、頑強なものになっています。
私たち人類はもう戻れないところまで来てしまっているのでしょうか?
世論に流されず、自らの良識で社会を見つめてみて下さい。
量産的な機械にならず、自己を主張してみて下さい。
今私たちに必要なのは、諸個人が自身の責任を自覚し受け入れることなのですから。
いつか全人類がお互いを尊重しあい、本当の意味で平等が成立する日が来るのを望みます。
しかし今の世論からしたら、私は洗脳された機械の不良品に過ぎないのかもしれません。